歴史ぱびりよん > 長編歴史小説 > カリブ海のドン・キホーテ > 著者による作品解説 > カリブ海のドン・キホーテ 設定資料集
①執筆動機
②歴史小説の正しい書き方
③カストロ批判についての反駁
④未発表原稿(書籍編集上、カットした部分)
⑤「明白なる宿命」について
①執筆動機
(1)ミサイル危機;
私は、長編小説のメインテーマを決める上で、「歴史上極めて重要なのに、なぜか世間でほとんど知られていない出来事」を選ぶようにしている。
こういった出来事の代表格が、1962年10月の「キューバ・ミサイル危機」だ。なにしろ、地球人類が絶滅寸前になった事件なのだから、その重要性は最大級である。それなのに、圧倒的多数の日本人は、この事件についてほとんど無知である。
なにしろ、日本にはキューバ危機について書かれた良質の資料がほとんどない。たまに見かけても、映画、ドキュメンタリー、書籍全てが、アメリカ視点に偏って真実を歪めたものばかりだ。こういった「アメリカ視点への偏向」こそが今の日本が抱える大きな問題点なので、改善する必要がある。誰も挑まないなら仕方がないので、この私がやるしかない。それで、「キューバ危機」小説の構想を練り始めたのである。
構想を練り始めてから気づいたのだが、「キューバ危機」は非常に複雑な要因が絡まって起きた事件なので、この事件単独で小説化するのは困難だ。この事件の序章とも言える「ピッグス湾事件」、さらには「カストロ政権の誕生」にまで踏み込まなければ、歴史の真実を描写することは不可能だと分かった。
そこで、「キューバ危機」のみならず、カストロ政権を主人公とした大長編を執筆する構想が生まれたのである。
(2)コマンダンテ;
そこで、まずは中心人物であるフィデル・カストロの個性について調べ始めた。主人公となるであろう彼のことをある程度好きになれなければ、良質の作品は書けないであろうから。
まずは、オリバー・ストーン監督のドキュメンタリー映画「コマンダンテ」を、DVDを購入して繰り返し見た。これは、アメリカ国内で上映が禁止されたという、いわく付きの作品である。どれだけヤバい内容なのだろうかと思って覚悟して見たのだが、何の事はない。ストーン監督とカストロが、和やかに談笑しているだけの映画だった。
これがどうしてアメリカ国内で上映禁止かというと、おそらくは「談笑」こそが問題なのである。アメリカ政府はアメリカ国民に対して、フィデル・カストロを「悪魔」として紹介している。だから、ユーモアに溢れる謙虚なカストロの姿を、国民に見られたくないのである。
アメリカに限らず日本も同じことなのだが、国民は「民主主義」という言葉に踊らされて不用意に安心してしまう傾向がある。自分たちの政府は、選挙によって自分たちが選んでいるのだから、国民の不利になるようなことをするはずがないし、嘘を語るはずがない。仮に誤りや嘘があったとしても、「言論の自由」が保証されているのだから、民間のマスメディアらが修正してくれるはずだ 、と無意識のうちに信じ切っている。しかしながら、そこに油断がある。特権階級となった政府要人は必ずしも国民のために働かないし、サラリーマン集団と化したマスコミは、提灯記事しか書かなくなる。そのうち、油断しきった国民全体が、既得権益を持つ権力集団に洗脳支配されることが有り得る。アドルフ・ヒトラーが、民主主義の中から誕生したことを忘れてはならない。
まさに、こういった油断こそが「民主主義」の盲点なので、新作小説の中に警鐘を鳴らすテーマを付け加えるのも面白いと感じた。
さて、フィデル・カストロである。
予想以上に面白い人物だと感じた。
映画「コマンダンテ」で見るこの人物の奇妙な人懐っこさや謙虚さやユーモアは、どうやら自分自身に対する強烈な自信から生まれているようだ。本物の自信家でなければ、こういう振る舞いは出来ない。だけど 、決して無謀な振る舞いはせず、常に周囲に気を配り、計算と思慮を張り巡らせた上で行動を起こすタイプにも見える。これは、ある意味で私の性格に似ているので、急速に親近感を覚えた。
ただし、大きく異なる点がある。私は、自分よりも強い敵とは絶対に戦わない。相手が強いと思ったら、すぐに逃げてしまう。その点が、カストロとは異なる。カストロは、何しろアメリカと50年も戦っているのだ。絶対にアメリカを倒すことは出来ないと分かっているはずなのに。
私の中に、「ドン・キホーテ」という言葉が浮かんだのは、この瞬間である。
もちろんカストロは、権謀術策を弄して勝算を高められるドン・キホーテであるのだろうけど、私は権謀術策を得意とする独裁者を魅力的に描く技術を、前作「アタチュルクあるいは灰色の狼」で会得している。だから、挑戦する価値はあるし、きっと良いものが書けるだろうと考えたのだった。
「コマンダンテ」の他にも多くのドキュメンタリーDVDを見たのだが、カストロほど毀誉褒貶の激しい人物は本当に珍しい。彼のことを尊敬する人と軽蔑する人、愛する人と憎む人のギャップの大きさは、非常に興味深い。どうやら、カストロは想像以上の大人物なのかもしれない。多くの人が 、彼の本質を掴めず誤解ばかりしている(ように思える)のは、カストロの人物があまりにも大きいため、凡人には容易に理解できないのであろう。「群盲、象を撫でる」というわけである。
このような人物を描くことは、自分にとって本当にやりがいのある大事業となるだろうと感じて興奮した。
(3)闇の子供たち;
2008年にポーランドを旅行したとき、旅先で読んだのが「闇の子供たち」(梁石日著)だ。この本は、アウシュビッツ博物館の見学以上に、私をネガティブな気分にさせた。読んだ方は分かると思うけど、タイの幼い子供たちが、カネのために売春させられたり、殺されて臓器を取られたりする話だ。物語自体はフィクションだけど、事実に基づいて書かれている。そして物語の結論は、「アメリカ型グローバリズムが進むことで、全世界で貧富格差が拡大した結果、こんな悲惨な事件が日常的に起こるようになった。だけど、仕方がないのだ」というもの。
私は、この「仕方がない」という諦めのメッセージに反発した。自他ともに認める子供好き(ロリコンとも言うが)としては、とても黙っていられない。そこで、自分なりに「反グローバリズム」の大きな小説を書きたいと思ったのである。そして自分の作品の中では、「諦め」ではなく「希望」を輝かせたいと願った。
(4)アタチュルクの反省;
前作「アタチュルクあるいは灰色の狼」は、私の初出版作品だが、それなりの評判を取った。それでも、著者的にはいろいろと不満や反省点があるので、それを改善した新作を書きたいと思った。
最大の不満は、「アタチュルク」の執筆意図(テーマ)が、読者に伝わりにくかった点である。実は、あの本は「小泉改革」を批判する目的で書かれたのだ。 すなわち、「官製の構造改革など、末期のオスマン帝国がやったのと同様の欺瞞に過ぎない。本当の改革は、無名の市井の苦労人から起きるのだ。小泉は(作品内の)エンヴェルに過ぎないし、アメリカは(作品内の)イギリスと同程度の存在なのだ。そして、ケマル・パシャはまだ出て来ていない。日本国民よ、目を覚ませ」と言いたかったのだ。作中で、しきりに「どこかの東洋の島国は・・・」などと書いたのは、風刺小説としてのニュアンスを読者に伝えるためである。
だけど、なぜか失敗したようだ。
どうやら、「20世紀初頭の中東」に舞台を置いたのが不味かったのだ。「20世紀初頭の中東」と「現代の日本」をリンクさせて、温故知新に役立てようなどと考える人は、想像以上に少数派なのだろう。
そう考えたので、日本人にもっと馴染みのある「現代のアメリカ世界」をテーマにして、もっと分かり易く壮大な現代風刺小説を書こうと志したのである。
ただし、作品内の「日本批判」の部分は、出版時に大幅に削っている。「本が分厚くなりすぎる」と出版社に警告を受けたためでもあるが、物語の本筋である「キューバvsアメリカ」に直接関係ないと思えたからである。
削除された部分に興味がある方は、このWEBの④未発表原稿を読んでみてください。
(5)相対的な物の見方;
常々思うことだが、21世紀の世界で最も必要とされるのは、多角的かつ相対的な物の見方だと思う。
なぜなら現代世界は、情報技術の進歩によって急激に緊密になったため、様々な異文化のごった煮の様相を呈している。そして、経済活動も文化活動も、異文化との係り合いを抜きにしては行い得なくなっている。すなわち、広い視野と心で、異文化に多面的に接することが、ますます大切になっている。
その点では、日本民族は非常な優位にあるはずである。なぜなら日本人は、民族宗教によって視野を狭められ心を狭くすることが少ないからである。また、過去の恨みについてあまり拘らない文化(水に流す)の持ち主だし、もともと異文化に対して変な差別意識を持たない国民性だからである。
ところが、現実はそうではない。日本人は、むしろこの狭い島国に閉じこもり、ますます世界に目を向けなくなっているように思える。マスコミ報道などを見ても、つまらない芸能ネタや政治家のスキャンダルばかりで、世界のことはほとんど報じられることがない。
せっかく、異文化と異文化を平和的に結び付ける触媒となれる民族なのに、なんともったいないことか。
私が、執拗なまでに海外をテーマにした小説を書く理由は、こういった状況に一石を投じたいからである。
今回の「カリブ海のドン・キホーテ」は、日本とは縁のない「第三世界」が主人公である。いわゆる「南北格差」の南側の人物の視点から、この世界はどのように映るのか?アメリカや日本は、どのような存在に映るのか?
私はこの作品内で、ひたすらアメリカの悪口を書いているが、これは必ずしも著者本人の意思ではない。私は、そんなにアメリカが嫌いなわけではない。ただ、この小説の主人公の立場に立った場合、アメリカや日本は後進国から搾取を行う邪悪な存在に過ぎないのだから、そのように書かれなければならないのだ。
ちなみに、この小説の執筆中、私のユニセフへの寄付金額は、従来の2倍になった。自分の文章の重さに、打ちひしがれた結果である。自分が、人生の中で最も幸福だったのは1980年代だった。しかしその幸福が、後進国への非道な搾取によって成り立っていたことに改めて気づき、慄然とした。せめてもの罪滅ぼしとして、国際機関への寄付を増やしたのである。
この小説の執筆は、私にとって本当に深い勉強になった。この世界のことが、より一層、理解できるようになった。願わくば、読者の皆さんにも、同じ経験を共有していただきたいと思う。
②歴史小説の正しい書き方
私がいろいろな知人に質問されることは、「会計士のくせに、どうして歴史小説なんか書くの?まったくの畑違いなのに」。
「畑違い」というのは誤解である。会計士の仕事と歴史の研究は、基本的にまったく同程度に科学的であり、まったく同程度の思索力が必要とされる。両者は矛盾するどころか、相互に密接に関連しているのである。
会計の仕事と歴史研究が共に追求するのは、「相対的真実」である。すなわち、ある特定の見方に偏った一つの絶対的な真実を見出すのではなく、様々な角度から 照らし出された妥協的な真実を見出して行くのだ。具体的には、様々な利害関係者の考えやニーズ全てを勘考した上で、これらの要素全体を満足させられるような終着点を模索していく。こういった思考様式が、会計と歴史は驚くほどに共通しているのである。したがって私は、自分の独特の歴史分析手法を、「会計士の仕事の中で会得した」と言いきってしまえる。
そんな私が、歴史を描く上で最も大切にしているのが「相対的真実」だ。この真実には(1)関連する全ての状況を矛盾なく説明でき、(2)比較的単純であること、この2条件が必要とされる。
さて、ある一つの歴史的事件の「真実」を考察するに当たって、私はこの2条件を満たすまで、様々な文献資料や映像資料を集めて相互にぶつけ合い、生じた矛盾点について考察する。ある程度の考察が終わって矛盾が解決できたと思ったら、さらにマクロ的な観点に立ち、その時点での自分の結論を、時系列や地域を異にする類似の事件とぶつけて見る。あるいは、歴史の連続性が無理なく確保できるかどうか検討して見る。そこで新たな矛盾が発見された場合、最初の分析が間違っていた可能性があるので、原点に立ち返って修正する。
この作業を、半永久的に繰り返すのである。この作業は、小説の執筆終了まで繰り返されるので、初校と最終校の記述内容がまったく異なることも有り得る。
この作業を進める上で最も大切なのは、「先入観を持たないこと」あるいは「捨てること」である。先入観が、後の分析調査で矛盾まみれになった場合、その先入観が根本的に間違っていたと見なして、全て捨て去る勇気が必要なのだ。
ところが、世の歴史学者や歴史作家は、この作業が出来ない人が圧倒的に多い。ほとんどの人が、己の先入観を押し通すために歴史解釈を歪め、あるいは矛盾点を「無かったこと」にして本を書いている。
たとえば、趙雲子龍(三国志の武将)を「ハンサムで生涯独身だった」と描く小説や漫画が多いようだが、これはまさに「先入観によって歴史を歪めている」好例である。こういうことを書く人は、『正史三国志』の中に趙雲の容姿に関して全く説明が無いこと(『正史』は、容姿端麗の人物については、必ずそのことを明記してある本である)や、彼に2人の男の子がいたことを「無かったこと」にしているのだ。
また、「上杉の義」について書く人は、「上杉謙信が常に大義名分を掲げて戦争していた」ことを根拠に挙げているのだが、この時代の戦国大名が基本的に「大義名分」を基にして行動しており、謙信だけが特別では無かったという史実を無視している。また、上杉家があまり占領地域を広げなかったことに注目して、「謙信は義の武将だから領土欲が無かったのだ」と主張する人も 多いようだが、そういう人は、謙信が占領地域の維持確保に失敗したり、あるいは人心掌握にしくじって在地豪族のみならず部下にまで次々に離反されたという史実を「無かったこと」にしているのである。つまり、実際には上杉謙信の弱点や失敗だった事柄について、「正義だったから、そうなった」などと意味不明で間違った 解釈がなされているわけで、これでは「温故知新」によって歴史から教訓を学ぶことなど出来はしないだろう。
こういった例を挙げるとキリがないのだが、いずれも「先入観」で真実を歪めているわけである。
ただし、議論のこのタイミングで私に反論して来る人もいる。すなわち、「歴史なんか、どうせ過去の遺物なんだから、真面目に真実とか考えても意味ないじゃん!楽しければ、それでいいじゃん!」。
そういう人には、「だったら、『ガンダム』とか『One Piece』を見ればいいじゃん!」と、言い返してあげよう。エンターテイメントを純粋に楽しむのなら、それで十分である。何も、わざわざ歴史を歪める必要はない。
歴史とは、過去の人類の行動記録であり、様々な成功事例や失敗事例の宝庫である。すなわち、歴史の真実を追求すれば、時代の趨勢や未来への道筋も見えて来るし、この社会や人間の本質も見えて来る。 仕事で成功する確率が格段に増すし、人生の中で大きな失敗をしなくなる。すなわち歴史の真実は、個々人のみならず国家、いや人類が、正しく豊かな未来を歩むために必要不可欠な、最高のテキストなのである。このような素晴らしいテキストを幼稚なエンターテイメントや金儲けで穢すことには、私は猛反対である。
ある作家が、「自力で魅力的なキャラクターを創造できないものだから、歴史上の人物を都合良く歪めて借りて来る」というのは、知性の堕落であると同時に、自分が無能であることを満天下に証明しているような行為であろう。どうして、それを恥ずかしいと思わないのか、そっちの方が不思議である。金儲けさえ出来れば、後のことはどうでも良いのだろうか?
ともあれ私の作品は、形の上では「小説」という体裁を取ってはいるけれど、先入観や偏見を完全に撤廃し、歴史の真実を真摯に洗い出した結果の産物なので、どうか安心して読んでください。
そして、「カリブ海のドン・キホーテ」は、現時点での私の最高傑作です。
③カストロ批判への反駁
さて、②で述べた技法を用いて様々な資料を洗い出した結果、どうやらカストロに対する批判の多くは「根拠のない悪口」であることが分かった。逆に考えるなら、政敵が「根拠のない悪口」でしかカストロを攻撃出来ないのだとすれば、 フィデル・カストロは実際にはとても良い人なのではないだろうか?(笑)
しかし「根拠のない悪口」を言いふらす主体が、アメリカ合衆国の要人だったりするから話が面倒になる。アメリカの情報発信力はなにしろ強力であるから、世界(特に大多数の日本人)はアメリカに騙されてしまい、カストロが実際にどういう人物なのか、ほとんど何も知らないでいるのである。
こういったカストロ批判のほとんどは、②で述べたような「先入観」に流されて真実を歪めている。第一の先入観は、「カストロは残忍で凶暴な人物である」。第二の先入観は、「カストロは嫉妬深くて権勢欲の権化のような人物である」。こういった先入観に基づいて全ての事柄の説明を付けようとするから、あらゆる議論が矛盾まみれで説得力の無いものとなる。しかし、多くの人はこんな幼稚な議論に簡単に騙されてしまっているようだ。だからここでは、これらの議論がいかに無意味で矛盾まみれなのか暴露してみせよう。
まずは、「カストロが残忍で凶暴な人物である」のかどうか?
そう主張する論者は、カストロが幼いころから傲慢で、いつもリーダーになりたがったことを指摘する。また、彼の母親が広大な農地の中で、時報代わりに猟銃を撃っていたことなどを指摘する。しかし、元気いっぱいで野趣あふれる活動的な少年が、賢く合理的な行動を取る母親のもとで育ったことが、「残忍で凶暴」であることの証明になるのだろうか?
また、自分が調べたところ、カストロが実際に行った残忍で凶暴な行いは、革命戦争直後の戦犯大量処刑のみである。確かにこのとき、即席裁判で前政権の将兵550名が銃殺されている。しかしながら、終戦後の戦犯の処刑は当たり前の行為であり、日本人だって「東京裁判」などで大量に殺された過去がある。また、前政権のバティスタ軍が20,000人規模の軍隊だったことを考えるなら、550名(全体の2%)の処刑数はそれほど多いと言えるだろうか?虐殺と言えるだろうか?
100歩譲って、この処刑が犯罪行為だとしよう。しかし、この処刑を提案し指導したのは、カストロではなく盟友チェ・ゲバラであった。ゲバラは、グアテマラのアルベンス政権が、前政権の軍隊のクーデターによって転覆させられた現場に居合わせた経験から、こういった処刑が政治的に必要だと強く主張し、カストロはその意見に流されたのである。
チェ・ゲバラは、若くして格好良く死んだので妙に美化されているが、実際には極めて厳格で教条的なイデオロギストで、正しい思想のためには人命を軽視するような人物であった。もしも彼がキューバの国家元首になっていたなら、カンボジアのポル・ポトのような行いをしていたかもしれない。映画「革命戦士ゲバラ」(リチャード・フライシャー監督)は、ゲバラのこういった側面をある程度正確に表現していると思われる(これは、基本的には史実無視の娯楽映画だが)。
いずれにせよ、戦犯の大量処刑は、カストロが残忍で凶暴な人物だという証明には成りえないのである。もしかすると、チェ・ゲバラの残酷さの証明にはなるのかもしれないが。
次に、「カストロは嫉妬深い権勢欲の権化」であるのかどうか?
こう主張する論者は、チェ・ゲバラの横死(1967年)とアルナルド・オチョア将軍の処刑(1989年)を例に挙げるのが通例だ。すなわち、チェ・ゲバラは、彼の才能に嫉妬したカストロによってキューバを追い出され、その結果、ボリビアの僻地で殺されたのだという。つまり、カストロは「敵の手を借りて邪魔なゲバラを処刑した」というのだ。また、オチョア将軍は清廉で無実だったのに、その才能に嫉妬したカストロによって処刑されたという。
いずれも、その主張を冷静に読むと、まったくの無根拠であることが分かる。
まず、チェ・ゲバラはキューバを追い出されたわけではない。彼がボリビアで、自分の意思でキューバ兵を率いてキューバの支援の下で戦ったことは「客観的な事実」である。この「事実」を、先入観で歪めてはならない。
また、ゲバラが敵に捕らえられる寸前まで勝利を信じて戦っていたことは、彼自身が書いた日記を読めば明らかである。それに、彼が捕虜となって裁判にもかけられず唐突に処刑されたのは、あくまでも「結果論」である。これをカストロの策略だというのは、「後ろ向きの予言(鈴木眞哉さんの造語)」でしかない。結果から帰納法で邪推するなら、どんな可能性だって有り得ることになるわけだが、実際に歴史の中を生きた人間は、数多くの不確実性によって翻弄されており、どんなに頭の良い人であっても「運や偶然」を正確に測定することは出来ない。カストロもゲバラ自身も、ボリビアの戦いがあのような結果に終わるとは予想していなかっただろう。だから、この事件を「カストロによるゲバラの処刑」と考えるのはナンセンスである。
また、「カストロがボリビアに援軍を派遣しなかった」ことからカストロの悪意を邪推する論者もいるが、この主張はまったくお話にならない。世界地図を一目見れば、キューバがボリビアに援軍を送ることが地勢的に不可能だったことは、気の利いた小学生でさえ気づくことだろう。そんなことに気づかないような大人は、まさに「先入観」で目が曇っているのである。
私見では、カストロとゲバラの関係は、「三国志」の劉備と関羽の関係に非常に近かっただろうと思う。すなわち、「形の上では君臣でも、情の上では兄弟」という関係だ。だからカストロ(劉備)は、友情ゆえにゲバラ(関羽)の危険な独断専行を許してしまったのだし、その感情的な甘さが災いして、ゲバラ(関羽)は敵地で非業の最期を遂げることになったのだ。「カストロがゲバラを敵の手を借りて処刑した」と主張する人は、ぜひ、「劉備が関羽の才能に嫉妬して敵の手を借りて処刑した」とも主張してもらいたいものだ。
オチョア将軍の処刑については、もっとナンセンスな主張がなされている。
アルナルド・オチョア将軍は、麻薬取引に携わった罪で処刑されたのだが(1989年)、これは全くの冤罪であるという。実際には、麻薬に手を染めていたのはカストロだったのだが、彼は国際世論の非難をかわすために、わざと才能あふれる立派な軍人のオチョアに全ての責任を押し付けて、責任回避を図ると同時に政敵を排除したのだという。ここでも、キーワードは「嫉妬」である。カストロは、昔からオチョアの才能に嫉妬して憎んでいたので、麻薬事件を口実にして彼を消したというのだ。
しかしながら、この主張はまさに、先入観で歴史を歪める好例だと思われる。第一に、オチョアが人格高潔だったという証拠は存在しない。それどころか彼は、上司であるカストロ兄弟をバカにしたりからかったりする傲慢な性格だったことが、さまざまな記録から明らかになっている。そんな人物なのだから、実際に違法行為を行った可能性は非常に高いように思われる。第二に、カストロがオチョアに嫉妬していたという証拠は一つもない。
それ以上に考慮すべき問題は、この当時、ソ連でゴルバチョフがペレストロイカを開始したことから、キューバ国内で現政権に対する不安が漲っていたことである。これに関連してカストロが大幅な軍縮を開始したことから、軍部の中で不満が高まりつつあったことである。オチョア将軍が、こういった不満分子の核になることは十分に考えられることであり、実際にその兆候があった。つまりオチョアは、麻薬取引だけが理由で処刑されたわけではないのである。すなわちカストロは、クーデターの芽を先んじて摘んだのであるから、彼の「犯罪性」や「非道徳」を指摘するのは、この極めて重大な政治事件の中ではナンセンスである。
そもそも、「カストロが嫉妬深い人物だ」という主張自体に全く説得力が感じられない。なぜなら、その証拠はどこにも無いからである。
「嫉妬」という感情は、自分と他人を比較することから生まれる。すなわち、「社会的地位や年収の多寡」「容姿の良否」「運動能力や勉強の成績の良否」「魅力的な異性からの視線」などを考慮して、自分が明らかに他者より劣っていると感じたときに生ずる感情である。
フィデル・カストロは金持ちの家に生まれ、幼少時代から勉学にスポーツに優れ、政治家としても思想家としても革命戦士としても、圧倒的に卓越した存在であった。おまけに容姿にも優れ、女にモテる。
・・・このような人物が、いったい誰に嫉妬するというのか?(笑)
それ以前の段階の議論になるが、「圧倒的な自信家」というのは、そもそも嫉妬の感情を持たないものだ。なぜなら、本物の自信家は「自分の存在そのもの」に誇りを感じている ので、あえて自分の能力を他人のそれと比較する必要が無いからである。自分と他者を比較しないのだから、そもそも「嫉妬」の感情が起こるはずがない。私自身がそういう人間なのだから、その点については自信を持って断言できる。私は、誰かに嫉妬を感じたことがない。そして、フィデル・カストロは、明らかにそういう種類の人間である。
逆説的な言い方ではあるが、「年収の多寡」などで自尊心を満たす類の人間は、実際には自分の本質に誇りを持てない哀れな存在なのではないだろうか?すなわち、自分の「本質」に自信が持てないものだから、「年収」や「地位」といった目に見える概念に縋りついて、そこに自尊心の根拠を求めなければならないのである。
ともあれ、「カストロは嫉妬深い」と考えている人たちは、単なる先入観で「独裁者は嫉妬深くて猜疑心が強いはずだ」と思い込んで話しているのだから、真面目に彼らの話を聞くのは時間の無駄である。あるいは、そういう論者自身が、年がら年中誰かに嫉妬しているような小さな人間なので、「極悪人である(はずの)」カストロもきっとそうだろうと思いたいのかもしれない。
ただし、「カストロは権勢欲が強い」という主張には、それなりに合理的な根拠がある。彼は、幼少時代から常に自分がトップでなければ気が済まない傲慢なところがあったし、実際に50年近くもキューバ共和国のトップだった。しかし、考慮すべき問題は、この世界には「生まれながらのリーダー」という概念が有り得ることである。カストロは、本人の意思の強弱にかかわらず、周囲の人々が担ぎあげたいと思うような圧倒的な人格の持ち主であった。この事実については、カストロに負けないほどの自信家であったチェ・ゲバラでさえ素直に認めている。また、カストロが「自分がリーダーで有り続けたいために、周囲の邪魔者を全て排除した」という客観的な証拠は一つもない(前述のとおり)。つまりこの人は、リーダーになるべくして生まれついた人であり、そのことを彼の「悪徳」と無理やり結びつけて考える必要はないのである。
他にも数え上げるとキリがないのだが、カストロ批判の多くは、みんなこんな感じの先入観と偏見に彩られている。そして、日本で出版されている書籍の多くが、こういった偏見に満ちていることに留意すべきであろう。
逆に言えば、ヨーロッパや中南米で書かれたカストロ論は、比較的客観的で公平なものが多い。また、意外なことに、カストロ本人の自伝やインタビューもかなり信頼できる。矛盾点や非常識な点が、ほとんど見つからないからである。
もちろん、カストロや彼のシンパが、私には絶対に見破れないような高度な嘘をついている可能性はある。だが、その場合は仕方がない。素直に騙されるしかないだろう。そして、騙されたままで本を書くしかない。著作が、執筆者の知性を上回ることは絶対に有り得ないのだから。
④未発表原稿(書籍編集上、カットした部分)
(1)湾岸戦争;
初校では、「ソ連崩壊」の第8節として書かれたもの。カストロとキューバにあまり関係ないのでカットした。
そんな時、中東で大事件が起こった。
1990年8月、イラク軍が突如として隣国クウェートに侵攻し占領した。この事件を口実にして、アメリカ軍を中心とした多国籍軍がイラクに進撃したのは、1991年1月17日。
「湾岸戦争」の勃発である。
1ヶ月あまりの戦闘の後、イラク軍100万は壊滅し、10万人のイラク人の死屍累々の彼方でクウェートは解放された。フセイン政権は、早期に休戦に応じることで延命に成功したのだが、この戦争の結果、イラクの軍事力は大幅に減衰させられたのである。
この戦争の大義名分は、明らかに多国籍軍の側にあったし、国連もイラク攻撃を支持した。
しかし、多国籍軍の主力を構成したアメリカの真の狙いは、クウェートの救援ではなく、イラク潰しだったのである。
イラクのサダム・フセイン大統領は、「イラン・イラク戦争」の過程で蓄えた強大な軍事力をイスラエルに差し向けようと考えていた。この男が、イランとの戦争を口実にして、アメリカやソ連の軍需産業と繋がって自軍の増強を図ったのは、将来のイスラエル攻撃に備えるための深慮遠謀なのだった。
しかし、「明白なる宿命」を奉じる勢力の中核であるユダヤ財閥は、当然ながら同胞たちの住むイスラエルを守りたかった。だから彼らは、フセインの意図に気づいた時点で、イラクの抹殺ないし弱体化を決意していたのである。
つまり「湾岸戦争」の勃発は、イラクがアメリカの口車に乗せられて、クウェートを領有できると思い込んだ勇み足が原因であった。フセイン大統領は、「明白なる宿命」が仕掛けた罠に嵌ったのである。敵に最初の一発を撃たせてから、それを理由に戦争を仕掛けるのは、「米西戦争」以来のアメリカのお家芸なのだった。
それにしても、アメリカという国は、自分がグレナダやニカラグアやパナマを侵略した時は、国際世論の非難に全く耳を貸さなかった。それなのに、イラクがクウェートに同じことをした時は、真っ先に非難の声を上げて率先して攻撃を加えたのである。もちろん、侵略それ自体は良くないことだが、実に身勝手なダブルスタンダードである。結局は、自国の石油利権とイスラエル保護のためだったと糾弾されても仕方がない。
だからフィデル・カストロは、この戦争には最初から反対だった。彼は「国連安全保障理事会の一員として、湾岸戦争を止めることが出来なかったのは残念だった」と物憂げに述べたのである。
そして、アラブ世界のアメリカに対する憎しみは、この戦争をきっかけに止め処なく拡大して行く。秘密結社「アルカイダ」を率いるオサマ・ビン・ラディンは、この時にアメリカへの徹底的な聖戦を決意したのであった。
(2)カストロの日本初訪問;
問題の(?)日本批判の第一弾。「ネオ・リベラリズムとの戦い」の第3節として書かれたもの。本筋と関係ないし、話がくどくなりすぎるのでカットした。
その日本を、フィデル・カストロが初めて訪れたのは、1995年11月である。
母国への観光誘致や投資勧誘のために世界中を忙しく飛び回るカストロは、ベトナムを訪問した帰りに、「飛行機への給油」と称して成田へ立ち寄ったのだ。もちろん、そこには政治的な意図があった。彼は、日本に「社会主義政権」が誕生したと聞きつけて、興味を抱いたのである。
カストロに押し掛けられた日本政府は、熱湯で手を洗うかのような狼狽を見せた。アメリカに怒られるのが怖かったのだ。だから、歓迎式典などは一切行わず、「不慮の事故」のような形を装って、とりあえず東京のホテルを手配したのである。
それにしても、日本はこれまで、ニカラグアのソモサ将軍をはじめ、民衆を残酷に虐待する中南米の独裁者たちを国賓として大歓迎して来た。その理由は、ソモサらがアメリカに可愛がられていたからである。それに対して、第三世界の英雄であるカストロに対しては、裏口からコソコソと迎え入れるようなことをした。この事実だけで、戦後日本が、実質的にアメリカの属国に過ぎないことが良く分かるのだ。
そして、カストロと会見した社会党の村山富市首相は、同じ社会主義者であるにも関わらず、キューバの一党独裁制や閉鎖的な体質について、非礼にも賓客を頭ごなしに難詰したのであった。
もっとも、それは村山自身の意思ではなかった。首相は外務大臣の言いなりであり、外務大臣は霞が関の事務次官の言いなりであり、その事務次官はアメリカ国務省の言いなりであった。つまり、この国の総理大臣は、単なる傀儡に過ぎないのだった。
聡明なカストロは、たちまちこういった状況を理解した。それでも、村山の難詰に対して、キューバの特殊な思想や国情を説明し理解を求めようとした。同じ社会主義者として、何か共有できる価値があるだろうと信じたからだ。
しかし村山は、難しい話になるとソワソワし、腕時計を気にするようになり、ついには急用と称して会見を打ち切ったのである。考えてみたら、カストロと村山とでは人間の格が違いすぎるから、まともな議論が出来るはずもなかったのだ。
カストロは失望した。そんな彼は、宿泊先のホテルのロビーで民間のマスコミのインタヴューにいくつか答え、「次回は、ヒロシマを見に来たい」と言い残し、それから自動車で成田空港に向かったのである。
村山政権は、そもそも社会主義政権では無かった。確かに国会議席の第一党は社会党が占めていたけれど、これは第二党である自民党の力を借りなければ何もできない政党だった。そもそも日本の政治は、実質的に霞が関の中央官僚とその背後にいるアメリカ政府が動かしているのだから、国会の議席をどこの政党がどれだけ牛耳ろうとも、大勢に影響はないのだった。
それでも村山富市は、日本の首相としては優秀な方であった。彼は、短時間の会見ではあったけれど、「最後の革命家」カストロの持つ威厳に深い感銘を受けていた。そこで、キューバ政府から申し入れられた国際ボランティア用の義捐金1000万ドルの拠出に応じる決断を下したのである。これを知ったアメリカ政府は日本政府を叱ったのだが、村山は動じなかった。
「わしは、国際ボランティアに応じただけじゃ。いったい何が悪いと言うのじゃ?」
そう嘯く村山は、社会主義者としての、いや、日本人としての矜持をわずかながらも見せつけた。この事実は、我々を安堵させる。
しかし、アメリカの実質的な属国である日本は、ネオ・リベラリズムの猛威に対して最も脆弱な先進国の一つであった。だから、帰りの飛行機の中で、カストロは日本国民の未来を憂慮した。
彼が初めて体験した日本政府は、とても世界第二位の経済大国を統べるものとは思えないお粗末さだった。それでも大丈夫なのは、この国の政府が実質的にアメリカの傀儡だからであろう。難しいことは、すべてアメリカが代わりに考えてくれるのだろう。
「奴隷の快楽という言葉もある」カストロは考える。「奴隷が、ご主人の言うなりになって、ただご主人の顔だけを見て生きる人生は安楽だ。外の世界のことを何も知らなくても、ご主人の顔だけ見て、尾を振ってさえいれば食事にあり付けるのだから。そんな生活なら、心は疲れないし頭も使わないで済む。冷戦時代までの日本は、確かにそれで上手くやって来た。実際、日本人の物質的な生活水準は、キューバよりも遥かに豊かに見える。しかし、この国は、これからいったい、どうするつもりだろう?ネオ・リベラリズムの猛威に、どうやって対抗するつもりなのだろう?」
カストロは、キューバに住む多くの日系人を想起した。彼らは、みんな非常に優秀だった。シエラでのゲリラ戦に何人も参加してくれたし、その後の農業改革でも、率先して模範を見せてくれた。だからカストロは、日系人の勤勉さと創意工夫の才能の豊かさを尊敬していたのである。だから本国の日本人も、当然そうあるべきだと思った。
「いつまでも、アメリカの奴隷でいるなんて、もったいないことだ」
彼は、ベンジャミン・フランクリンの言葉を、この民族に贈りたかった。
「一時の安全を欲しようとして自由を捨てる者は、結局、その両方を得られない」
(3)エリアン少年事件;
「ネオ・リベラリズムの戦い」第6節の中で書かれたもの。主題である「同時多発テロ」とあまり関連しないことに気付いたのでカットした。
カストロが、一般アメリカ人の善意の豊かさを心から痛感したのは、「エリアン少年事件」である。1999年11月、母親に連れられて小舟でアメリカに亡命しようとした8歳のエリアン・ゴンサレス少年は、途中で海難事故にあって孤児となったものの、奇跡的に波間から救出され、フロリダ州に住む親戚のもとに引き取られた。しかし、キューバには少年の亡き母親の前夫、すなわち少年の実父が住んでいて、「母親を失った以上は、自分が息子を引き取りたい」と言い出したのである。そして、エリアン少年自身もそれを強く望み、「パパに会いたい」と泣くのだった。
それを知ったカストロは、キューバ国家を挙げて「少年連れ戻しキャンペーン」を行った。この行動は、単なる慈悲心によるものではなく、政治的な目的も隠されていた。カストロは、社会民主主義化によって所得格差が開きつつあるキューバ国民を一致団結させるために、定期的にこういった全国運動を行う必要があったのだ。
それを知るアメリカ政府は、このキャンペーンを無視する意向だったのだが、事情を知ったアメリカ一般世論の8割が、「子供は、実の親の元で育つべきだ!」と強硬に政府に主張したため、やむなく2000年6月に少年をキューバに送還したのであった。
「ネオ・リベラリズムの下でも、アメリカ国民は優しい心を無くしていなかった!」
カストロは、少年の帰還よりも、むしろ一般アメリカ人の善意を感じられたことが嬉しかった。だから、「同時多発テロ」で無辜のアメリカ市民が大量に殺傷されたことが悲しかったのだし、そのような卑劣な攻撃を仕掛けたアルカイダを憎んだのである。
(4)アメリカ文化人の来訪;
「ネオ・リベラリズムとの戦い」第9節の冒頭に書かれたもの。冗長だと思ってカットした。
1990年代後半から、キューバ映画「苺とチョコレート」、「永遠のハバナ」、そしてキューバ音楽をテーマにしたライ・クーダー監督の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」が大ヒットしたことで、キューバ文化への興味が世界的に高まった。
そのため、アメリカ合衆国の知識人や文化人も、特別ビザを用いて頻繁にキューバを訪れるようになった。そんな彼らは、事前に抱いていた悪意に染められたイメージを裏切られて一驚し、この国の優しさに大きなカルチャーショックを受けたのである。
社会派の映画監督オリバー・ストーンは、カストロに突撃インタヴューを敢行し、その印象をドキュメンタリー映画「コマンダンテ」に纏めた(2003年)。しかし、この映画はアメリカ国内では上映されていない。この国の権力集団は、この映画の中から溢れ出すカストロの豊かな人間性と優しさが、一般のアメリカ国民に伝わるのが怖かったのであろう。
そして、同じく社会派のマイケル・ムーア監督は、キューバの高水準でありながら無料の医療制度の優しさに感激し、この印象を元に、アメリカの酷薄で暴利な医療保険制度を糾弾する映画「シッコ」を撮った(2007年)。この映画に対しても、アメリカ政府の妨害工作があったのだが、ムーア監督はフィルムをカナダに隠すなどの奇策を用いて、ようやっと上映に漕ぎ付けたのである。自由と民主主義を旗印にするアメリカは、実は、このような形での言論統制を行う国家でもあった。自国民を愚民状態にするほうが、権力集団にとって都合が良いからである。
(5)カストロの広島訪問、アレイダ・ゲバラの来日;
「一粒のトウモロコシ」第2節として書かれたもの。本筋の流れとあまり関係ないのでカットした。個人的には、かなり重要な部分だと思うので、削ったことに多少の後悔がある。
フィデル・カストロの二度目の来日は、2003年3月であった。ベトナムと中国を訪問した帰りに立ち寄ったのである。
念願のヒロシマをようやく訪れた彼は、厳粛な面持ちで記念碑に頭を垂れて花束を捧げ、記念館で署名を行い、そして壁に飾られていたゲバラの写真と対面した。
チェ・ゲバラがここを訪れたのは1959年の夏だったから、早くも44年の歳月が経過したことになる。「こんなところで、また君に会えるなんてな」カストロは、旧友の写真に懐かしそうに微笑みかけるのだった。
そんな彼は、原爆の衝撃的な写真や資料から深い印象を受けた。
「なるほど、ここはもっと早くに訪れる場所だった。チェが、あれほど熱心にヒロシマについて語った理由が今日分かったぞ。訪れて本当に良かった」
アメリカ帝国主義に対する怒りを新たにしたカストロは、その後の演説や論文の中で、ヒロシマの話題を多く出すようになる。
このとき、カストロを官邸に迎えた小泉純一郎首相は、北朝鮮からの拉致被害者送還の口利きを賓客に頼もうとした。小泉は、北朝鮮とキューバは「同じ社会主義国」だから話を通しやすいと考えたのだ。しかし、キューバは北朝鮮と何の関係もなかったし、カストロは世襲独裁者である金正日を嫌っていたのである。つまり、日本政府の外交音痴と国際情勢への無知ぶりは、日を追うごとに酷くなっているのだった。
そもそも、キューバには日本を助ける義理など有りはしないのだ。キューバが本当に苦しかった1990年代初頭、度重なるカストロの外交努力にもかかわらず、日本はこの国にほとんど手を差し伸べてくれなかった。もともとキューバのことに興味が無かったせいもあるが、宗主国アメリカを怒らせることが何よりも怖かったからである。
むしろ、お隣の中国の方が、アンゴラ内戦での過去の凄惨な因縁を越えて、純粋な義侠心でこの島国を助けてくれた。中国から借款で提供された100万台の自転車をはじめ、大量の医薬品や東洋医学の技術や気功術によって、どれだけ多くのキューバ人が助けられたか分からないほどだ。
カストロは、こういった状況をまったく考慮せずに幼児のように無邪気に頼みごとをしてくる小泉首相を、薄気味悪く感じた。しかし優しいカストロは、自分勝手な変人宰相の話を、辛抱強く、聞くだけ聞いてあげたのである。
キューバに帰国したカストロは、ゲバラ未亡人アレイダや遺児たちを官邸に招いて、ヒロシマの印象を語り聞かせた。みんなでコーヒーを飲みながら、原爆記念館の写真を回して眺めて感想を言い合う。
美しく老いたアレイダ・マルチは、学校の先生や国会議員を歴任した後、長男カミーロとともに「チェ・ゲバラ研究センター」の所長を務めていた。長女アレイダは小児科医に、それ以外の子供たちも医者や弁護士になっている。
そして子供たちは、父の遺志を受け継ぎ、積極的に国際ボランティアに参加することで、世界中の弱い人や貧しい人のために働いているのだった。そんな彼らは、父が最後に遺した手紙の中にある、「弱い人や不幸な人の心を、いつでも感じられる人になってください」という言葉を、片時も忘れることが無かった。
さて、フィデルの土産話をじっと聞いていた老アレイダは、持参してきたカバンから古びた絵葉書を取り出した。それは、亡き夫が44年前にヒロシマから送ってくれたものだった。
「あのときは、新婚だったわ。フィデルはチェに、あたしを同行させるよう言ってくれたけど、あの人は聞かなかった。そういう人だった」老アレイダは、目を輝かせながら語る。
「それにしても、どうして日本人はアメリカに従順なのだろうか?私が会った日本人は皆、アメリカ帝国主義の残虐な暴力に他ならない原爆投下をタブー扱い、あるいは事故だったかのように装っているのだよ」
「それは、亡き夫も不思議がっていたわ。きっと日本人は心が優しいのよ」
「それは優しさとは言わない。弱さと言うのだ。真の優しさとは、間違ったことに対して断固としてノーを言い続けることだ」
「フィデル、まさにあなたの生き様のようにね。だけど人は、なかなか強くなれない。真の優しさを身に纏えないのよ」
41歳の長女アレイダは、母から受け取ったヒロシマの絵葉書をじっと読んでいたのだが、やがて顔を上げて言った。「パパは、『平和のために戦うためには、必ずここを訪れるべき』って書いているのね」
「アレイディータ、行ってみたまえ」カストロは笑顔で励ました。「日本人は親切だし、チェのことを敬愛しているから、きっと君を歓迎するよ」
「おじさん、そうするわ」大柄なゲバラの長女は、父親によく似た笑顔で頷いた。
キューバ人の多くは、古くから日本文化に親しんでいる。特に、テレビドラマの「おしん」や映画「座頭市」は大人気で、黒澤映画や宮崎アニメも多くのキューバ人に喜ばれていた。この国では、ほとんど無料でテレビ番組や映画が提供されているので、一般国民が異文化に接する機会が容易に得られるのである。だから、アレイダも昔から日本に興味を持っていた。
日本のNPO法人の招請を受ける形で、アレイダ・ゲバラが来日したのは、2008年5月のことである。「どこを訪れたいですか?」と尋ねられて、真っ先に「ヒロシマ」と答えたアレイダは、やはりチェ・ゲバラの子なのだった。そして、原爆記念碑に花束を捧げ、記念館で被災者たちの写真を見て落涙し、ノート1ページにも及ぶ記帳を行った彼女は、父の名を辱めない娘であった。
アレイダは、カストロと違って日本各地で歓迎された。日本の政治家に、ゲバラファンが多かったためである。しかし奇妙なことに、インタヴューなどで彼女にカストロの悪口を言わせようとする者が多かった。アレイダは、訳が分からず首をかしげたのだが、実は日本の知識人の中には、「ゲバラはカストロに裏切られて殺された」と信じている者が多かったのである。そんな彼らは、アレイダが内心でカストロを憎んでいるだろうと思い込んでいて、それで彼女に「本音」を言わせたいと考えたわけだ。
しかし実際には、アレイダはカストロを実の父親のように慕っていて、「世界で一番優しい人」だと思っていた。なにしろフィデルは、彼女たち遺族が最も辛い時期に、常に近くに寄り添って慰め励ましてくれた人だ。そして彼女の結婚式では、忙しい中、時間を裂いて証人になってくれた人だ。だから、アレイダにとっての父親は、むしろフィデル・カストロなのであって、実父ゲバラは幼い日々の淡い思い出にしか過ぎないのだった。
そもそも、「カストロがゲバラを裏切った」というのは、アメリカ発の無根拠なプロパガンダなのである。そんな幼稚な嘘に騙される日本人の知的水準は、しょせんはその程度だということだろうか。
アレイダは、日本各地で講演会を行い、キューバ型医療の優しさと素晴らしさを熱心に語った。また、トイレのウォシュレットを初体験して、その便利さと気持ちよさに感激した。
しかし、こんなにも物質的に豊かで先進的な日本なのに、自殺者が年に3万人もいて、その大半が老人と子供だと聞いて暗澹とした気分になった。どうにもならない病苦に苦しむ老人ならともかく、物心ついて間もない子供が人生に夢を持てずに自殺するなど、キューバ社会ではとても考えられないことである。また、家族内での殺人が多いことにも驚愕した。老人や子供を大切にしない社会など、家族が愛し合えない社会など、どんなに物質的に豊かであっても、地獄と同じなのではないだろうか?
「やはり、キューバが最高だわ。キューバよりも素晴らしい国は他に存在しない」
結局、アレイダにとっての日本滞在は、母国の素晴らしさを再認識する旅であった。
飛行機から降りてハバナの熱い空気に触れたとき、彼女は心からの幸せを感じるのだった。
他にも、あちこち細かく削っています。
いつか、「完全版」を出せる日が来るのだろうか?(笑)
⑤「明白なる宿命」について
「明白なる宿命」について、少し書く。
「カリブ海のドン・キホーテ」の真の主人公は、カストロではなくて「明白なる宿命」という名のイデオロギーだと言ってよい。実はカストロもゲバラも、この重厚長大な作品の中では、一介の「狂言回し」にしか過ぎないのである。
「明白なる宿命」は、大多数の日本人にとっては馴染みのない言葉であろう。だが、これは秘密でも謎でも何でもなくて、アメリカの知識人ならみんな知っている概念である。
日本語の書籍でも、「アメリカ史」の専門書を読めば必ず出て来る。ただし、訳語はバラバラで、「自明なる運命」とか「明らかなる宿命」とか書かれている。これらは、Manifest Destinyの翻訳なのだが、訳語が統一されていないということは、この重要概念が日本では一般化されていないことの証明でもある。しかも、専門書によっては「19世紀に流行した考え方」などと過去形で語られているものもあり、基本的に実像よりも小さいものだと考えられているようだ。
自分があえて「明白なる宿命」という、他の専門書には出てこない訳語を発明(?)して使ったのは、「この訳語を日本語でのこれからのスタンダードにしてやるぜ!」という野心の産物だったりする(笑)。
日本では、アメリカの行動原理の説明について「ユダヤ陰謀説」や「フリーメーソン陰謀説」あるいは「産軍複合体陰謀説」が有名だ。でも私は、これらの説は舌足らずであり、「群盲象をなでる」状態だと感じた。むしろ、これらを総合的に包む「宗教感情」こそが本質なのであるから、それを「明白なる宿命」という新しい言葉で代替させたかったのだ。
でも、そんなことを言い出した人は、おそらく私が初めてなので、執筆を始めた当初は非常に不安だった。
そのうち、池上彰さんの「そうだったのか!アメリカ」を読んだところ、Manifest destinyという言葉こそ使っていないが、アメリカの行動原理を「カルバン派プロテスタントの宗教感情だ」とはっきりと書いてくれていたので、非常に勇気づけられた。あの池上さんが自信満々に言うのだから、大丈夫だろうと。
なお、フィデル・カストロやチェ・ゲバラは、この概念を「アメリカ帝国主義」と呼んでいる。これはすなわち、アメリカの行動原理のことなので、彼らはCIAといった下部組織ではなく、アメリカの行動原理そのものと対決していたことが分かる。ただし、彼らはManifest destinyという言葉は使っていないので、それで私の本の中でも、彼らに直接的に「明白なる宿命」という言葉を言わせていない。
ともあれ、アメリカが大国となり覇権国家であり続けるのは、こういった「意思」があってのことだ。中国も、「中華思想」という類似のイデオロギーを持っているので、だからこそ覇権国家になろうとしている。
日本は、戦争に負けて以来、良くも悪くもそういった「意志」を喪失してしまった。個々人でも同じことが言えるのだが、強くなりたいという意志を持たない主体が、強くなれるわけがない。だから結局のところ、日本はアメリカと中国の後塵を拝して属国化する他に、行き延びる道は無いのだろう。だから、あまりアメリカ様や中国様を怒らせない方が良いと思うのだが。
それが嫌なら、婦女子のようにグダグダ言わずに、強くなるべきだ。カストロやゲバラを見習って、革命を起こすべきだ。その気力が無いのなら、「負け犬の遠吠え」のようなことは止めて、静かに小さく卑屈に生きた方が賢いのだろう。