一色範氏の大軍が動き出したと聞いて、菊池武重は不敵に笑みを浮かべた。
「ふふん、こちらから出て行く手間が省けたわい。目にもの見せてくれるぞ」
菊池方は、しばらく相手にならず、敵を奔命に疲れさせる作戦をとった。菊池氏の善政を慕う肥後の住民が、密かに敵の動きを報告してくれるので、一色軍の肥後侵入は、かえって思う壷だったからである。
「お屋形、故・楠木どのの仕置き(情報戦略)をやりましょうぞ」城隆顕が進み出た。彼の千早城での貴重な体験が、今こそ役立つ時が来たのである。
一方、肥後まで無血で侵入できた一色軍は、狐につままれた思いだった。
「菊池相手だと、いつもは筑後あたりで一合戦あるはずだが、どうなってるのだ」
「武重は、意外と弟の武敏よりも腰抜けなのかもな」
兵士たちは首をかしげたが、いずれにせよ進路が開けているのは望ましいことである。
気味悪く思いながら前進を続ける一色軍に、やがて少岱、川尻、詫麻氏ら肥後北部の豪族が駆けつけて来た。
「大将軍、風の噂では、菊池武重めは肥後南部の 益城 ( ましき ) あたりに逃げたようですぞ」 少岱光信 ( しょうだいみつのぶ ) がもたらした情報である。
「そうか、菊池武重め。帰国そうそうで準備不足というわけだな。これは思ったよりも楽な戦になりそうだぞ」総大将の一色範氏は、本陣でご満悦であった。
「いや、兄上、どうも眉唾です」範氏の弟・頼行が言った。「あの勇猛な菊池勢が、一戦も交えずに逃げ出すことがありましょうや。罠かも知れません。しばらく様子を見ましょう」
「なあに、菊池党がどんな小細工を企もうが、こちらは五千の大軍だ。びくともするものではない」範氏は、えらの張った逞しい顔を震わせて笑った。
かくして、一色軍は肥後国府(熊本市)に入ると、東へと進路をとり、益城郡へと向かった。敵の本拠地、菊池郡を背後にした形での進軍である。
二月二十日、初めて先鋒隊が敵の姿を視認した。
「大将軍、 甲佐嶽 ( こうさだけ ) に賊徒の旗が翻っております。旗印は『違い鷹羽』。阿蘇惟澄の手勢と思われます。その数、約五百」
伝令の報告に、範氏の頬はゆるんだ。
「やれやれ、やっと敵に会えたと思ったら阿蘇惟澄か。・・・それにしても、菊池武重は何処にいるのだろう・・・。まあよい、先ずは惟澄を血祭りにあげてやれ」
大友氏泰勢を先頭に、一色軍は甲佐嶽に攻め掛かった。しかし頑強な陣地に拠る阿蘇勢の抵抗は激しく、寄せ手は攻めあぐんだ。もっとも、約一週間の攻防の後、阿蘇勢は夜の闇に紛れてかき消すように退去してしまったのである。
「我が軍の勝利ぞ」足利の旗を立ち並べた甲佐嶽で、一色範氏は凱歌の音頭をとった。「次は、武重と惟澄の首を見るぞっ」
やがて、密偵が新たな情報をもたらした。
「菊池武敏ですっ。矢部に菊池武敏勢が現れましたっ」
「なにっ、武敏が出たか。これを待っていたぞ」膝を叩いて喜んだ範氏は、全軍を甲佐の北東の矢部に向けた。「それにしても、この期に及んで姿を見せないとは、武重の挙兵というのは嘘ではないのか・・・」
矢部に到達した一色軍は、しかし辺りの静けさに驚愕した。軍勢の姿など、どこにも見当たらないではないか。範氏は偵察隊の郎党を詰問したが、彼らとて付近の農民から情報を仕入れるわけだから、農民に誤報をばら蒔かれては責任のとりようもないのである。
このような目的の不明確な軍事行動が、兵士の士気を阻害するのは当然であろう。いつしか軍規は弛緩し、出発当時の緊張感は失われていた。
「氏泰、お主は肥後の守護であろう。それなのに、地理にも民心にも不案内なのはどういうわけじゃ」当たり散らす範氏の見幕に、氏泰も腹を立てた。
「建武の始めから、おいの肥後守護は名目だけです。恥ずかしながら、肥後はかなり前から菊池の領土。おいに何を期待できましょうや。そんなことより、幻の敵を追い回して体力を消耗するのは阿呆らしい。一気に菊池城を襲うのはどうでしょう。奴らをおびき出すのです」
「うまくないな。奴らは、城を捨てることなど何とも思っていない敵だぞ。そんなことでおびき出されるはずもないわ。考えてみると、実に嫌な奴らだわい。姿を隠されるとつかみ所がない。ここは、しばらく様子を見るのが最善の策じゃ」
こうして、一色軍は肥後国府を中心に、一カ月近くも見えない敵の姿を捜し求めた。次第に食糧は乏しくなり、兵士たちの緊張の糸も切れかかっていった。
「よし、今が好機ぞ」
九州山脈の隠し砦から状況分析をしていた武重は、さしもの一色軍も烏合の衆となりつつあることを知った。肥後国司である彼は、一族以外の小土豪にも命令権を有するので、三千の兵力は集められる。覇気に乏しい五千の兵が相手なら、勝ち目は強い。
武重とともに出撃するのは、弟の武澄、武豊、武敏、武光、家老の城隆顕、 大城 ( おおき ) 藤次 ( ふじつぐ ) 、そして阿蘇惟澄である。寺尾野の留守を預かるのは、木野武茂であった。
四月十五日、一気に打って出た菊池軍は、益城で敵の偵察隊を粉砕すると、 豊秋 ( とよあき ) の犬塚原に陣をひいた。そして、情報戦略で味方の数を過少に広めさせたのである。
「ついに出て来たな、菊池武重。待ったかいがあったというもの。なに、兵力はわずか二千か。まさしく好餌よ。ようし、今度こそ決戦だっ、勝利だ」一色範氏は手を打って喜び、全軍をまとめると犬塚原に向かって軍を進めたのである。
合戦の太陽は、四月十九日に昇った。
夏草が生い茂る犬塚原の平原に、馬蹄の音が響き渡る。合わせて一万を越える人馬の群れが、正々堂々の戦端を開いたのは、太陽が南の空にかかる時分であった。
菊池武重は、六郎武澄と八郎武豊を中核とする二千の兵力とともに正面から押した。対する一色軍は、大友氏泰を前衛、佐竹重義を右翼、今川助時を左翼に配し、五千の大軍でまっしぐらに攻め寄せた。
菊池勢は、かねての作戦に従って千本槍隊を後衛に置き、決戦兵力を温存したため、午前中の戦闘は一色軍が有利であった。菊池軍はじりじりと押され、潰走は間もなくと思われるほどであった。
「よしっ、その調子だ。前のように山中に逃がすでないぞ。一気に追い討てっ」華麗な鎧兜に身を包んだ一色範氏の采配にも力が入る。
しかし、敵兵力の実数を過小評価し、視界内の兵が敵の総数であると信じる一色軍は、その側面や後方に回りこもうとする、遠方の怪しい軍勢に注意を払おうとしなかった。かくして、太陽が西の空に傾き始める頃、形勢は完全に逆転した。菊池方の別動隊が、四方八方から斬り込んできたのである。
「我こそは阿蘇惟澄なるぞっ」
「我は菊池掃部助武敏なり、尋常に勝負せよ」
「菊池十郎武光、推参っ」
「城隆顕、見参つかまつるっ」
一色軍の側面と後方に忽然と現れた軍勢が、一斉に攻撃を開始したのだ。四方を敵に囲まれて浮足立つ一色軍。そんな彼らに止めを刺したのは、やはり千本槍隊だった。正面から突如として繰り出した、 城武顕 ( じょうたけあき ) 率いる槍隊の前に、ついに疲労した五千の大軍の統制は崩壊したのである。
「畜生っ、謀られたか」我先にと逃げて行く不甲斐ない味方の姿に、本陣で蒼白となって立ち尽くす範氏。その彼の元に、弟の頼行の使者が駆けつけた。
「大将軍、もはやこれまでです。こ、国府にまでお退りくだされっ。ご舎弟の軍勢が 殿軍 ( しんがり ) を引き受けます」
呼吸の荒い使者の言伝に、範氏は我に返って頷いた。
「うむ、ここは一旦、兵を退いて時節を待とう。無念だがしかたあるまい」
だが、満を持していた菊池軍の追撃は猛烈であった。敗走する一色軍は、もはや軍隊の形を止めていなかった。
「我こそは一色頼行なりっ。命のいらない者は、この弓受けてみよ」
自ら敗軍の殿軍を引き受けた頼行は、国府へと続く道上に陣取り、自慢の強弓を引き絞り、追いすがる菊池の騎馬武者を次々に射落とした。
「良き敵なりっ、勝負だ。頼行っ」一騎の若武者が木陰から飛び出し、弓を引き絞った。その眼光は、爛々と頼行を貫く。
「死ぬ前に、名を名乗るがよい」頼行は、冷静に矢を弓につがえた。
「我こそは、菊池十郎武光なり」
矢が放たれたのは、両者とも同時。どちらも寸前のところで第一矢をかわし、太刀を抜いてぶつかった。その周囲でも、郎党同士が熾烈な白兵戦を展開する。
組み合ったまま馬から転落した頼行と武光。やがて、頼行の体が武光を組み敷いた。
「若い命を無駄にしたな」
勝利を確信して太刀で首を掻こうとする頼行の動作に、一瞬だけ隙が生まれた。組み敷かれた目ざとい若者は、それを見逃さなかった。
武光は、密かに腰元に忍ばせていた小刀を引き抜くや、一閃、頼行の喉笛に投げ付けた。 物言わずに崩れ落ちた頼行の体の下から這い出し、ほっと一息つく武光であった。
一方、一色範氏が肥後国府に着いたとき、身辺を守るのはわずか数十名の郎党のみだった。
「くそう、こんな、こんな馬鹿なっ。京の将軍にどの面さげて報告できるというのだ。そ、それよりも、大友はっ、佐竹はっ、少岱はっ、それに弟はどうしたっ」体中についた泥を郎党に拭わせながら、一色範氏は左右に問うた。
「そ、それが」泥まみれの鎧を纏った一人の郎党が、目を伏せた。
「どうした、はっきり言え」
「ご舎弟様は、頼行さまは、菊池武重の追い討ちを受けて、討ち死にされましてござります・・・・」
「な、なんだと。そんなっ」
呆然と頭を抱えてうずくまる範氏の体は、小刻みに震えていた・・・。
その翌日、失意の範氏は、陸路を菊池軍に封鎖されたために、やむなく川尻の港から小船で博多に漕ぎ出した。大友氏泰は九州山脈から豊後に帰り、その他の豪族も、ほうほうのていで本拠に逃げ散った。
犬塚原の戦いは、こうして菊池方の大勝利に終わったのである。
「みんなよく頑張ったな」凱歌が醒めやらぬ戦場で、菊池武重は部将や郎党たちを労って回った。一色頼行の首をとった十郎の肩を強く叩き、陽動作戦を指揮した阿蘇惟澄の手を握り、情報戦略を主催した城隆顕の背を撫でた。
この戦の結果、九州の南朝方の結束は大幅に強化され中立豪族も続々と馳せ参じた。
※ ※
一色範氏の無残な敗北の知らせは、京の足利幕府を震撼とさせた。
「困ったことになった。やっと北陸を平定したと思ったのもつかの間、奥州では北畠顕家卿が不穏な動きをしている。その上、筑紫では菊池肥後守が暴れ回ると来たか。我が幕府は、実に前途多難であるな」
腕を組んで沈思している壮年は、将軍・足利尊氏であった。
「やはり、直義どのの申したとおり、肥後守は京で処刑するべきだったのでは・・」
口を出したのは、尊氏の執事・ 高師 ( こうもろ ) 直 ( なお ) であった。彼は、今では尊氏の執務代行者として絶大な実権を握っている。
「過ぎたことをとやかく言ってもしかたない。よしっ、わしが肥後守に親書を書いて、味方につくように説得してみよう」尊氏は口ひげをひねってつぶやいた。
ところで、初期の足利幕府は、二頭体制をその特質としていた。主として軍事を将軍・足利尊氏が担当し、政務をその弟・直義が担当する。なにしろ、南朝軍と戦いながら幕府機構を整備しなければならないのだから、この措置は妥当であったろう。
畿内の民衆は、尊氏を将軍、直義を副将軍と呼んだ。
副将軍・直義の活躍は見事であり、鎌倉幕府の機構を参考としながらも、今では、ほぼ完全な幕府組織を仕上げていた。
一方、軍事面での成果も順調であった。 高師 ( こうもろ ) 泰 ( やす ) を総大将とする敦賀の金ヶ崎城攻撃軍は、先月の三月六日、ついに同城を陥落させたのである。二カ月以上の兵糧攻めの結果、城内は飢餓地獄と化しており、 得能 ( とくのう ) 道綱 ( みちつな ) などは死馬の肉を食らって最後の奮戦を見せたという。
城側の総大将・新田義貞は、陥落の数日前に弟の 脇屋 ( わきや ) 義助 ( よしすけ ) や 洞院 ( とういん ) 実世 ( さねよ ) 卿らとともに敵の背後を襲うために城から抜け出しており、無事であった。だが、留守に残した義貞の長男・義顕を筆頭に、得能道綱らの武将は残らず討ち死にし、尊良親王も切腹して果てた。天皇恒良は捕虜となり、京で直義に毒殺されてしまう。失意の義貞らは、味方の 瓜生 ( うりう ) 一族の持ち城である 杣山 ( そまやま ) 城に入り、わずかな軍勢で逼塞している始末であった。
だが、吉野の後醍醐天皇は未だに強気であった。わずかな廷臣と桜並木に囲まれて、次なる作戦を固めるのであった。