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4.顕家、最後の忠誠

延元二年四月下旬、肥後菊池の寺尾野城では、菊池一族の面々が、一通の書状を前に難しい顔をしていた。その書状は、一見なんの変哲もなく思われたが、一族の面々が沈思するには相応の理由があった。なんと、足利尊氏の直筆なのである。

「尊氏は、菊池一族が節を捨てて味方についてくれるなら、幕府政治のもとで肥後の守護を任せると言って来ておる。どう思うか」そう言うと、武重は万座を眺め渡した。

「信用できませんな」九郎武敏が答えた。「現在の肥後守護は、大友氏泰です。最初から尊氏に忠誠を尽くし、未だに何の科もない彼から領土を取り上げ、憎き敵である我らにそれを譲るなど、とても考えられません。きっと罠でしょうよ」

「うむ、奴ら、犬塚原で負けたものだから、懐柔に移ったのですな」城隆顕も口を出した。「これは、奴らの力が衰えた証拠。敵の手に乗るなど論外ですぞ」

「そうじゃ、そうじゃ」

「逆賊の戯言など、聞く耳あらぬわ」

万座の興奮を見て、武重も頷いた。

「おいも同感だ。尊氏は、聖人君子のような顔をして、とんでもない偽善者だからな。去年の十月など、幕府政治を諦めることを条件に、比叡山の帝に和睦を申し込んでおきながら、現実はどうじゃ。帝を幽閉し、おいを牢にぶち込んだ。あのような二枚舌の言うことなど、絶対に信用できぬ」

こうして、衆議は一決した。武重は尊氏の使いを追い返すと、再び戦備を整え、南へ向けて出陣した。標的は、 合志幸 隆 ( ごうしゆきたか)の守る 竹迫城 ( たけばじょう ) である。ここを落とせば、肥後国内で菊池氏の背後を狙える敵はいなくなるのだ。

竹迫城は包囲され、苦戦に陥った。合志幸隆は、博多の一色範氏に援軍を要請したが、犬塚原の打撃から立ち直れない一色軍は、佐竹重義の手勢を派遣するのが精一杯であった。その佐竹勢も、筑後で迎撃に向かった菊池武豊に蹴散らされ、博多に逃げ帰る始末。

それでも合志勢は必死に抵抗し、攻城戦は長延いた。幸隆は、別動隊を動かして菊池軍の背後を襲わせ、菊池方の砦を奪ったこともあった。だが、援軍の来ない籠城には、いつかは破局が訪れる。九月に入って、合志幸隆は休戦を申し込んだ。菊池武重とて合志一族を滅ぼし尽くすつもりは無く、長引く戦に疲れていたので、この申し出を受けることにしたのである。こうして背後を確保した菊池軍は、次の目標に邁進した。港湾の確保である。

武重が心待ちにする懐良親王は、九州の主要港が全て敵手にあるため、未だに忽那島を出ることができなかった。早く親王を菊池に迎えるためには、海岸線の確保が不可欠なのである。

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京では、菊池武重の活動に業を煮やした足利尊氏が、重大な決意に迫られていた。将軍邸に少弐頼尚を呼ぶと、九州に帰って菊池氏を討伐することを命じたのである。

「貴君を、肥後守護に任命する。大友氏泰に代わり、筑紫を安定させてくれい」

「わかりました」静かに頭を下げた頼尚は、約三年振りの故郷の山河を思い浮かべて心を躍らせた。京の生活も楽しかったが、やはり故郷が一番である。しかも、肥後守護のお土産まで付くのだからこたえられない。

だが、足利尊氏の心中は暗かった。尊氏が頼尚を長期にわたって拘束したのには理由がある。尊氏は大陸との交易を重視しており、貿易の窓口となる博多港は、なんとしても足利一族で確保しておきたかった。そのために、一門の一色範氏を博多に派遣したのである。しかし、北九州に伝統的な勢力を持つ少弐氏は邪魔になる可能性が高い。その可能性を排除するため、尊氏は少弐氏惣領の頼尚と、その主力部隊を九州から引き離したのだ。

「範氏の勢力は、まだ固まったとは言えない。ここで少弐を帰すことが、裏目とならねば良いが・・・」尊氏は、頼尚が退出した後も、九州の将来が心配でならなかった。

だが、足利尊氏の悩みは九州情勢のみではなかった。越前の新田義貞は、杣山で息を吹き返し、幕府方の越前守護である斯波高経を悩ませていた。さらに、奥州の北畠顕家も八月上旬には 霊山 ( りょうざん ) 城を進発し、二万の大軍とともに西上の途についたのである。このままでは、花の京は義貞と顕家の挟み撃ちを受けてしまう情勢であった・・・・。

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実は、顕家の出陣はかなり無理をした結果であった。奥州でも足利方の勢いは強く、この年の正月には本拠の多賀城を奪われ、霊山に移転を余儀なくされていたのだ。しかし、吉野から頻繁に届けられる出陣要請の綸旨に、ついに顕家は決意した。

「よしっ、行くぞ。行けるところまで行くぞっ」

結城 ( ゆうき ) 宗広 ( むねひろ ) 、 南部 ( なんぶ ) 師行 ( もろゆき ) 、 伊達 ( だて ) 行朝 ( ゆきとも ) らの武将たち、そして義良親王とともに、まだ二十歳の北畠顕家は、西の空を強く睨んだ。

八月下旬に白河の関を越えた奥州軍は、各地で幕府方の熾烈な抵抗を排除し、十二月には利根川に達した。川を挟んで迎え撃つのは、足利一族の奥州管領・ 斯波 ( しば ) 家長 ( いえなが ) 。同月上旬の決戦は、しかし奥州軍の勝利に終わった。勢いに乗る顕家は、鎌倉に突入。守将の足利千寿王(尊氏の子)は三浦半島に逃れ、斯波家長は戦死した。鎌倉の正月を彩ったのは、奥州軍の凱歌であった・・・。

全力を挙げて、更に西へと進む顕家軍の元に、南朝方の援軍が次々に駆けつけた。信濃の宗良親王、上野の新田 義興 ( よしおき ) (義貞の次男)、伊豆の北条時行。この時行は、中先代の乱で尊氏に敗れた後に、先祖ゆかりの地・伊豆に潜伏していたのだが、先頃、後醍醐天皇の勅免を受け、南朝軍として戦うことになったのだ。

東海道を驀進する奥州軍は、延元三年(1338)正月下旬に、美濃に達していた。

この勢いに、京の朝廷は熱湯で手を洗うような狼狽を見せた。慌てた尊氏は、 高師冬 ( こうもろふゆ ) を筆頭に、佐々木道誉、土岐頼遠、細川頼春らを急派した。だが、一月二十八日、美濃青野原の戦いは奥州軍の大勝利に終わった。続く黒地川の戦いでも、顕家は高師泰率いる大軍を打ち破った。まさに無敵の奥州軍。京童は恐怖のどん底に陥った。

密かに京落ちの手配をする尊氏。だが、その必要は無かった。休息もとらずに冬の東海道を走りとおし、数度の激戦をくぐり抜いた奥州軍には、もはや京に突入する余力は残っていなかったのだ。近江には入らず、逆方向の伊勢に向かったのである。謎の転進、と史家は言う。だが、顕家としては、南朝勢力の強い南畿で鋭気を養いたかったのだろう。

こうして、京は直接の危機から救われた。だが、二月には北陸からも南朝勝利の知らせが届いた。新田義貞が斯波高経との決戦に勝利し、越前国府(武生市)を落としたというのだ。

高経は命からがら足羽城に逃れ、勢いに乗る義貞が落とした城は、七十余に及んだという。もはや越前は義貞の掌中にあった。

かくして、京は南北から有力な南朝軍団に狙われる情勢となったのである。

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少弐頼尚が、一族の主力とともに本拠大宰府に帰着したのは、建武四年(北朝年号)の十二月、北畠顕家軍が鎌倉に突入した頃であった。

嫡子の 氏 ( うじ ) 鶴丸 ( つるまる ) や一人娘の 翠 ( みどり ) に迎えられた頼尚は、 暦応 ( りゃくおう ) 元年(北朝年号・1338)の正月を家族とともに過ごした。家老の饗庭弾正や、成人した甥たちとも親睦を深め、熾烈な合戦へ向けての鋭気を養ったのである。

「父様、抱っこして」

「はっははは、どうだ高いだろう」

八つになったばかりの翠と戯れて、久しぶりの家庭人の憩いを楽しんだ頼尚は、しかし南方の大敵の存在を忘れたわけでは無かった。少弐対菊池。宿命の対決が迫っていた。

一月下旬、大広間に一族宗徒を集めた頼尚は、家老に戦況を説明させた。

「肥後の味方は、城門を堅く閉じて逼塞しております。豊後の大友氏泰は、再起した兄・貞順と交戦中で、肥後にまで手が回りません。ここ筑前でも、秋月や原田といった宮方が暴れております。薩摩の島津どのも、伊集院や谷山といった足元の宮方討伐におおわらわ。とても、援軍は望めますまい」

「日向はどうじゃ。 畠山 ( はたけやま ) 義顕 ( よしあき ) どのがおるはずじゃが」

「義顕どのは、伊東 祐広 ( すけひろ ) や肝付 兼重 ( かねしげ ) といった賊軍との戦いに苦戦中だそうです」

「ふうむ、それで、肝心かなめの一色範氏どのはどうしておるのか」

「一色どのは、松浦や龍造寺といった肥前の豪族を手なづけるのに精一杯で、肥後に出兵する力は、当分持てないでしょう」

「なんじゃそりゃ。結局、我が少弐勢が単独でやるしかないのかよ」

「御意」

さすがに呆れた頼尚だが、すぐに気を取り直すと出陣の準備にかかった。嫡男の氏鶴丸を元服させて 直資 ( ただすけ ) と名乗らせると、彼に指揮させて筑前国内の掃討戦から始めた。

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少弐頼尚の帰国は、肥後菊池に衝撃を与えた。これまでの菊池軍の勝利は、九州の民心に疎い一色範氏の拙策に原因があったのだが、北九州の主である少弐氏の充実は、味方の優勢を撥ね返すに充分である。

「ばってん」菊池武重は、正月の軍議で万座を見回した。「阿蘇惟澄どのの報告によると、あの前阿蘇大宮司・惟時どのが京から脱出し、無事に筑紫に入ったそうだ。これで、味方の勢力も充実するぞ」

「おお、それは正月からめでたいの」

「惟時どのの声望が加われば、少弐など恐れるに足らぬわ」

みんな大喜びであったが、武重の心には気掛かりがあった。彼が京で敵の虜囚となっていた時に少弐頼尚から聞いたあの一言。『阿蘇惟時は、既に尊氏に帰順している』、との一言。いや、あれはおいを動揺させるための頼尚の狂言だ。そう信じたい武重は、しかし冷や汗を禁じ得なかった。

そんな武重の心配を他所に、無事に阿蘇に帰還した阿蘇惟時は、養子の惟澄と涙の対面を済ませると、敵方の阿蘇大宮司である坂梨孫熊丸に対する共同戦線を張った。所詮は阿蘇一族の傍系にしか過ぎない孫熊丸は、惟時と惟澄の連合軍に抗するすべもなく、各地で敗走していった。

この二月には、さらなる朗報が届いた。少弐一族の 武藤 ( むとう ) 資時 ( すけとき ) が、頼尚に反旗を翻し、肥後に逃亡して来たのである。資時はどうやら、畿内の戦況などを勘案し、南朝方につくのが得策だと判断したようだ。

「よしっ、出陣だ。少弐を叩くぞっ」武重の号令一下、菊池軍は北上を開始した。筑後の黒木、星野一族とも手を結び、武藤資時とともに星野氏の居城である石垣城に入る。

「菊池武重、手並みを拝見するぞ」少弐頼尚も全力で出撃した。ついに武重と頼尚は戦場で対峙したのだ。少弐軍六千、菊池軍三千。

三月三日、数に勝る少弐軍は石垣城を猛攻した。さしもの武重も、戦況不利を感得し、いったん肥後に後退することにした。

「ははは、やはり菊池は少弐の敵ではない。一気に潰してくれようぞ」勢いに乗って肥後に侵入した少弐軍は、しかし四月の 飽田 ( あきた ) の戦いで敗れ去った。やはり、民心を得ている地元での戦には菊池方に長がある。やむなく大宰府に兵を戻す頼尚であった。

このときは両軍とも死傷はそれほど多くなく、小手調べとも言える戦いであった。

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だが、菊池武重と少弐頼尚が一進一退の互角の戦いを演じている頃、畿内では北畠顕家軍の破局が迫っていた。

正月に、美濃から伊勢へ転進した奥州軍は、いったん奈良に入って陣容を整えると、攻め寄せた 桃井 ( もものい ) 直常 ( ただつね ) (足利一族)の軍と般若坂で激戦した。しかし、奈良で略奪の快楽に溺れた奥州軍には、かつての覇気は残っておらず、無残な敗北を喫した。顕家は河内に逃れ、義良親王は父(後醍醐天皇)の待つ吉野に入った。

だが、これしきで挫ける顕家ではなかった。楠木正行の援護のもとで敗兵を再編成した彼は、三月に入って天王寺付近で 細川 ( ほそかわ ) 顕 ( あき ) 氏 ( うじ ) (足利一族で和泉守護)を打ち破った。この情勢に、顕家の弟・ 顕信 ( あきのぶ ) は別動隊を率いて男山を占領し、京を脅かした。

三月下旬、顕家は摂津や和泉に出兵し、敵の大軍の前に勇敢に戦い続けた。だが、無尽蔵とも思える幕府方の増援に、五月に入るころには、さしもの奥州軍の力も限界に達しようとしていた。

密かに死を覚悟した顕家は、後醍醐帝のために何を残すことが出来るか自問した。

「そうだ、私が奥州から見て感じたことや畿内に戻って感じたことを、ありのままに書き記そう。主上(帝)に何か、わずかでも感じてもらえたら・・・」

彼は夜を徹して、二十箇条にも及ぶ意見書を記した。その内容は、建武の新政破綻の原因として、天皇独裁の行き過ぎや公家たちの虚栄を弾劾し、また、軍事的低迷の打開策として地方自治の強化を提言している。これまでの宮方の敗北は、現地の実情を知らぬ天皇の一方的な命令のために、各軍の行動が大きく制約されてしまったことに原因がある。また、地方の武将に、恩賞を与える完全な権限がないために、その威信が低く、兵が集まりにくかったことにも原因がある。足利幕府を打倒できるような強力な地方軍を育成するためには、現地の軍司令官に、あらゆる権限を委譲する措置が必要とされよう・・・。

まだ二十一歳の顕家の意見には、未熟な部分もあるけれど、逆にその純粋で真摯な精神は、見事に問題の本質を抉ってもいた。

顕家の最期は、意見書執筆のわずか七日後であった。堺浦を臨む、和泉の石津の戦いで、高師直率いる圧倒的な大軍の前に、その若き命を散らしたのであった。延元三年五月二十二日のことであった・・・。

だが、顕家の意見書は、後醍醐天皇の頑迷さを開いた。天皇はこの後、地方豪族たちに多くの自治権を委ねることにしたのである。その結果、地方の南朝軍は大幅に強化されることになる。顕家は、死してその魂を南朝再建に捧げたのだ・・・。