南北朝時代の九州から、海外へと目を転じてみよう。
十四世紀の東アジアは、戦乱の大地であった。
その有り様は、あたかも日本を吹き荒れる南北朝の戦の種子が風に乗り、海を隔てた大陸にも伝播したかのようであった。
広大な中国大陸では、モンゴル族の元帝国が、華南に割拠した漢民族の軍閥たちによって、次第に北へ北へと追い詰められていた。同時に、朝鮮半島では高麗王朝が、東の海から来た脅威によって、その存立を脅かされていたのである。高麗の人々は、この海の悪魔を「 倭寇 ( わこう ) 」と呼んだ。
そして今まさに、ここ 金州 ( きんしゅう ) の沿岸は倭寇の攻撃にさらされていた。武装した日本の海賊たちは、容赦無く人家を焼き払い倉庫を破壊して行く。財貨宝石を余さず奪い、命乞いをする民は 被虜人 ( ひりょにん ) (捕虜)として船に連れ去るのだ。
「よし、今日のところはここまでだ。高麗の戦船が来る前にずらかれっ」
頭に白い布を巻き付けた頭領が、右手を高々と上げて叫んだ。その薄汚れた顔を見ると、まだ二十代の若者である。その頬は、町の炎と薄暮の朝日を浴びて、真っ赤に輝いていた。
倭寇たちは実によく訓練されていた。隊伍を整えるとまっすぐに海岸へと走り、待機していた小船に飛び乗ると、次々に沖に停泊している戦船へと漕ぎ出していく。さすがに、南北朝の戦乱を生き抜いた猛者たちである。その動きには一切の無駄がない。
彼らの母船たる戦船の船尾に翻るは、日本全国の武士の守り神たる、八幡大菩薩の旗。その横にきらめくのは、肥前松浦党の波多一族の旗。そう、これは音に聞こえた波多水軍なのであった。
今や恐るべき船団は、楔形の隊形を造り、その故国へと針路を向けていた。その総数は 関船 ( せきぶね ) 百艚を優に越えているだろうか。
その時である。
「頭領、物見船からの信号です。右舷に高麗水軍が迫っているとのことっ」
船橋に屹立する先程の若き司令官の元に、あわてて駆け寄った見張りからもたらされた報告である。
「ふむ、奴らにしては到着が早すぎるな。さては、事前にこの近海に待機していたのだな・・。まあよい、狼煙を挙げよ。目にもの見せてやる。全艦面舵いっぱい」
一斉に進路を変更した波多水軍は、やがて姿を現した高麗艦隊に向かってまっしぐらに突っ込んだ。高麗艦隊の総数は、波多水軍とほぼ同数であった。火矢が飛び交い、 銅鑼 ( どら ) の音が鳴り響く中、激しい白兵戦が展開される。
愛する祖国を蹂躙された怒りに燃える高麗水軍の抵抗は激しかった。しかし、その抵抗も長くは続かない。波多水軍の挙げた狼煙を見て続々と駆けつけて来た日本の増援艦隊が、高麗水軍の側面を巧みに衝いたからである。こうなっては勝ち目はない。高麗水軍は、半刻ほどの抵抗も空しく、涙を呑んで撤退して行ったのである。
「勝ちどきじゃっ」倭寇たちの雄叫びが轟いた。跡に残されたのは、炎上した沈船の残骸と、海面を漂う無数の戦死者の遺体であった。
※ ※
その翌日、対馬の港において、波多を始め、松浦、忽那、村上、 祝 ( ほふり ) といった海賊船団の姿を望見することができた。ここ対馬や壱岐、それに五島列島といった島々は、倭寇にとって恰好の中継基地なのであった。
対馬を治める宗一族は、少弐氏に味方して征西府と敵対している。しかし、この小さな島に莫大な富をもたらしてくれる倭寇の存在は、たとえ彼らに征西府の息がかかっているとしても、宗氏にとって好ましいことであった。それゆえに、彼らはむしろ積極的に倭寇の活動を擁護していたのである。
「 波多 ( はた ) 勇 ( いさむ ) どの、今回も上首尾でしたな」居館の一室で、主の宗経茂が、差し向かいに座る、例の波多水軍の若頭領に話しかけた。
「いや、これも宗どのの支援があればこそ」勇と呼ばれた日焼けした頭領は、相手の目をしっかりと見据えて答えた。
「いやあ、命を張って臨んでいる貴殿らにそう言われると気恥ずかしいですわ。それよりも、勇どのに、耳寄りな情報がありますぞ」
「はて、なんでしょうか」
「大陸で、また戦があったそうな。江州の 陳友諒 ( ちんゆうりょう ) と 集慶 ( しゅうけい ) (南京)の 朱元璋 ( しゅげんしょう ) が戦い、朱元璋が圧勝したらしい」
「やはり、朱元璋の優位は動きませんか」
「・・・やがて、華南を平定した朱元璋と、中原の蒙古が争うのでしょうな。そして、その戦いの勝者が、御身ら海賊軍の新たな敵となるでしょうな」
宗経茂と波多勇は、緊張の面持ちを見交わした。これまでは、中国大陸の群雄割拠に付け込んで、好き勝手に暴れることができた。だが、中国が統一されるような事態になれば、これまでのようにうまくは行くまい・・・。
だが、波多勇は、己の後ろ盾が、日に日に勢力を拡張させている事実を知っていた。
「ところで、本土の・・大宰府の様子はどうですか」勇は頬の緊張を緩めて言った。
「うん、征西府は正式に大宰府を本拠地と定めたそうな。この春には、菊池の家族たちを大宰府に迎えるつもりらしい」少弐方の経茂は、面白くなさそうに答えた。
「そうですか、征西府の優位は絶対ということでござるな。これでますます働き甲斐がありますわい」勇は、話相手の渋面に構わずに、にっこりと微笑んだ。
※ ※
この当時、懐良親王を擁する征西府は、倭寇活動を政治的に支援し、その見返りとして倭寇から戦利品の一部を流してもらうことで、強力な軍事力を維持していたのである。
その征西府は、菊池武光の圧倒的な戦闘力を基礎に、正平十七年(1362)の春には、全九州に亙ってその地位を確立していた。少弐氏の残党を始め、反旗を翻す武家方の豪族たちは次々に打ち破られ、九州武家方の最後の拠点である豊後高崎山城へと落ちて行った。
そして、懐良親王は、大宰府にあって公正で堅実な政治を行った。その見事さは特に恩賞沙汰において発揮され、多くの征西府方の豪族たちが満足の吐息を漏らしたのである。
恩賞沙汰をこれほど円滑に進めることができた理由は、あれほど征西府を引っ張って来た菊池一族が、案外と無欲で、他の豪族と同程度の荘園しか要求しなかったことに帰する。思えば、後醍醐天皇や当時の武士たちが懐良親王や菊池氏のようであれば、この恐ろしい南北朝内乱も避けられたかもしれないのだったが・・・。
さて、桜の花が満開のころ、安全が確保された大宰府に向かって、肥後菊池から征西府要人たちの家族がやって来た。その中で沿道の民衆が最も関心を払ったのは、やはり懐良親王夫人・菊池早苗であった。五歳になった愛児の 武 ( たけ ) 良 ( よし ) をともなう早苗は、兵士たちに護衛された簡素な輿の中から、民衆たちに笑顔をふりまいた。
「あれが、宮将軍の奥方かあ」
「ちょっと、ごっつか感じばい」
「ばってん、優しそうじゃど」
大宰府付近の人々はとりわけ好奇の目を向けたが、その群衆の中に、目深に笠を被る清楚な女性の姿があった。その気品溢れるいで立ちは、明らかに庶民とは一線を画していた。
「早苗ちゃん、すっかり素敵になったわね」低くつぶやいたその女性は、誰あらん、足利直冬夫人・少弐 翠 ( みどり ) なのであった。
翠は、豊後に逃れた父の頼尚や長兄の冬資と別れ、征西府に降伏した弟の 頼澄 ( よりずみ ) に引き取られて大宰府で暮らしていたのである。安芸にいると思われる夫の直冬が帰るまでは、決して大宰府を離れない決意なのであった・・・。
その大宰府では、懐良親王や五条親子、それに菊池兄弟たちが、はるばる肥後からやって来た家族を暖かく出迎えた。菊池武光の母の桃子は、出迎えの愛児に肩を抱かれ、泣き上戸の本領を発揮して、これでいつ死んでも思い残すことはないと、うれし涙の雨を降らせた。懐良親王は、いつも心にかけていた妻と息子を両手で強く抱き締めた。その他の人々も、家族との久しぶりの交歓に喜びを新たにしたことは言うまでもない。
だが少弐頼澄は、屋敷に帰って来た姉の沈痛な表情に心を悩ました。
「どうなされた、姉上」
「何も聞かないで」
頭を左右に強く振ると、翠は自分に与えられた居室に引きこもってしまった。彼女は寂しかったのだ。早苗の幸せに比べて、どうして自分はこんなに不幸なのだろうか。家は没落し、夫はいつまでも帰って来ない。神仏は、なんと不公平なことか。
筑前の民心に明るい少弐頼澄は、今では征西府によって 大宰 ( だざい ) 少弐兼執行 ( しょうにけんしっこう ) に任命され、北九州の政治実務の第一線で活躍しており、その生活ぶりは比較的豊かであった。だが、今の翠に本当に必要なのは、生活よりも愛の豊かさ。そして翠は豊かではなかった。
その翌日、部屋に閉じこもったきりの翠のもとに、大宰府政庁から使者がやって来た。宮将軍が、お呼びとのことである。
「こんなうちに、何の用だろう」
翠は首をかしげたが、宮将軍からの呼び出しを無視する訳にはいかない。急いで外行きの小袖に着替えると、数名の従者に守られて政庁への道をたどったのである。
もとは少弐氏代々の居館同然だった大宰府政庁は、今では征西府の統治拠点として全九州を睥睨している。ここは、懐良親王と彼を補佐する五条頼元らが発行した令旨に基づき、菊池武光や少弐頼澄、そして阿蘇惟澄らが具体的な統治を行う政治機構なのである。その課題は土地訴訟問題の解決であったり、軍勢催促であったりしたが、近ごろの重要な問題は、新たに征西府に帰参してきた豪族と、元からの征西府方豪族の間の利害調整であった。昔から征西府を支えてくれた豪族には報いねばならないが、新附の豪族の歓心を買うことも疎かには出来ない。だが、両者ともに納得してくれるような利害調整は、なかなか難しいのだ。
そんな慌ただしい政庁に到着した翠は、出迎えの役人によって奥まった一室に案内されたが、住み慣れた彼女にとっては、床柱のツヤも畳の香りも、何もかも懐かしいものばかりだった。
「あのころは、夫と二人して幸せだったのに」感慨にふける翠は、ほっと重いため息をついた。
その時、そんな彼女の右の襖が開き、一人の品の良い女性が静々と入って来た。その女性の容貌を一目見て、翠の双眸は大きく開かれた。
「さ、早苗・・・早苗さん」
「お久しぶりね、翠さん」
そこにあったのは、征西将軍宮夫人の早苗の姿であった。
差し向かいに座った二人の女は、複雑な表情で互いの目を見つめ合った。
二人が初めて出会ったのは、実に二十年近く前の阿蘇の山中であった。あのころの翠は、北九州一の雄族、少弐氏の姫としてときめいていた。それに対して、早苗は没落しつつある山間の土豪の娘に過ぎなかったのだ。しかし、二十年の歳月は二人の運命を逆転させた。今では、翠が没落豪族の末裔であり、早苗は世の栄華を一身に浴びてときめいているのだった。少弐と菊池。運命の糸で結ばれた両家の姫は、常にお互いの存在を意識して育って来た。二十年振りの対面が、まさかこんな形になるとは夢にも思わなかったが。
「翠さん、あなたをここに呼び出したのは、うちの一存なの。・・・大宰府に来る途中、沿道に立っているあなたを見かけたような気がして。それで、ちょっと会いたくなって」早苗は、上目使いに切り出した。
「うちのような女のことを覚えてくれていたなんて、光栄ですわ」翠は、しかし硬い表情と姿勢を崩さなかった。「今のうちは、昔のような華やかな女ではないわ。夫に捨てられた惨めな女です。笑いたければ存分に笑ってください」
「笑うだなんて」早苗は悲しげな目をした。「うちは、そんなつもりであなたを呼んだのではなかとよ。・・・直冬様とは、ぜんぜん連絡が取れないの?」
「・・・近ごろはさっぱり・・・」翠はうつむいた。
「うちに任せて。きっと直冬様の消息を掴んでみせる。夫(懐良)や兄(菊池武光)は、そのうち中国筋の大内様や山名様と力を合わせて京に攻め入るはずなの。その時に、きっと直冬様のことも分かると思うの。そしたらきっと、大宰府に帰ってくるようにお願いできると思うわ」
「どうして」翠は、感極まって引きつった声を上げた。「どうして、うちに優しくしてくれるの?」
「だって、子供のころ阿蘇で約束したでしょう。二人一緒に幸せになるぞって。それに、うちは翠さんの辛い顔なんて見たくないもの」
「ありがとう、とても、とても嬉しいわ」顔を上げた翠の心は、情けをかけられたことへの悔しさよりも、早苗の純粋な優しさへの感謝で埋め尽くされていた。
「いいのよ。・・・これからも、機会を見つけて会いましょうね。いろいろと相談に乗って欲しいこともあるし」早苗は身を乗り出して、翠の手を取った。
「ええ、喜んで」翠は、久しぶりに心から微笑んだ。また夫と暮らせる日が来る予感が、その頑なな心を輝かせたのだ。
だが、幸せな気持ちで屋敷に帰った翠の元に、闇に紛れて一人の黒装束の男が忍んで来たのは、その日の夜のことだった。
「私は、豊後高崎山におられる兄上さま(少弐冬資)の使いです。翠さまをお迎えに参りました」黒装束の男は、翠の部屋の軒先に跪き、低い声で語った。「高崎山では、大宰府に対する総攻撃の手筈が整えられています。いずれ、ここも火の海となりましょう。そうなる前に、せめて女子の翠さまだけでも脱出なさってください。父上様(少弐頼尚)も兄上さまも、翠さまの到着を首を長くして待っておられますぞ」
「遠路ごくろうだけれど、うちはここを動きません」翠は、憮然と答えた。
「なぜです、ここは危険なのですぞ」仰天する黒装束。
「うちは、夫に約束しました。夫が帰るまで、何年でも大宰府で待つと。だから、ここを動くわけには行きません。悪いけど、兄上様にはそうお伝えください」
翠の堅く結んだ唇には、何があっても決意を変えない強さがあふれていた。それを一瞥した黒装束は、静かに一礼して、そのまま庭の暗闇の中に姿を消したのであった。
「そう、兄上は、まだ大宰府を諦めていなかったのね」翠は、なぜか胸をなでおろしていた。きっと、野望を失った我が一族など、彼女には想像できなかったからだろう。
今まさに少弐と菊池の、最後の決戦のときが迫りつつあったのである。