歴史ぱびりよん

4.大内軍九州進攻

ここで、視点を南九州に移す。

南九州は、長らく日向の畠山氏と薩摩の島津氏との争奪の場となっていた。畠山氏が征西府によって追放された後も、九州の覇権が征西府方にある以上、島津氏といえども我が世の春を謳歌するわけにはいかなかった。日向に進駐していた島津軍は菊池武光によって蹴ちらされたあげくに肥後の相良氏の侵略を受けた。また、島津氏膝元の薩摩、大隅でも征西府に気脈を通じる土豪が蠢動し、その勢力は非常に不安定であった。

このような状況にも負けず、必死に一族を引っ張って来た島津の惣領は、 道懽 ( どうかん ) 入道 貞久 ( さだひさ ) であった。だが、彼の命は貞治二年(1363)七月に尽きようとしていた。

死の直前、貞久は信頼する二人の息子、 師久 ( もろひさ ) と 氏 久 ( うじひさ ) を呼び寄せた。

「師久、お前に薩摩守護職を与える。氏久、お前に大隅守護職を与える。・・・なぜ、父が亡き後の家督を二つに分割するのか分かるか。・・・九州の未来が読めないからじゃ。幕府が勝つか、それとも征西府が勝つのか分からぬからじゃよ。お前たちは、臨機応変に南北両朝で立ち回り、たとえ兄弟のいずれかが滅んだとしても、島津の家だけは存続できるようにするのだ。・・・・よいな。これが父の遺言ぞ」

神妙に頭を下げた二人の息子を誇らしげに見た病床の貞久は、そのまま眠るように息を引き取った。その享年は、なんと九十五歳であった。これは、いうまでもなく現代でも珍しい長寿である。この時代に、いかなる方法でこのような長寿を達成したのか不思議であるが、彼のこの生への執着こそが、嵐の中の島津一族を守り抜いた原動力に違いない。

だが、貞久の遺言によって領国が二つに分割されたことは、島津一族の武力をさらに弱める結果となる。

同じころ、豊後大友一族でも、家督の交代劇があった。

高崎山の開城以来、惣領の大友氏時は、家を危機に陥れた責任を一族の者たちに問われ続け、精神的に追い詰められていた。

貞治三年(1364)二月、大友氏時は引退、剃髪した。跡を継いだのは、南朝寄りの大友一族によって盛り立てられた嫡男の 氏継 ( うじつぐ ) であった。だが、北朝寄りの大友一族は氏継の弟の 親世 ( ちかよ ) を擁立し、惣領の氏継と政治的に対立した。そしてこの対立は、なんと室町時代末期まで続く運命にある。

このように大友、島津両家の家督相続は、征西府の力と室町幕府の力とを両天秤にかけ、両者甲乙つけ難く思われたので、南北両党に分かれる形で行われたのである。かつて九州を牛耳っていた九州御三家の威信も、これでは形無しである。

さて、大宰府の懐良親王は、大友氏継、島津師久、同氏久に家督就任の祝賀の辞を送り、彼らにより一層の協力を要請した。九州の王者としての貫録を見せたのである。

「これで、大友と島津は、しばらくおとなしくなるであろうな」

懐良親王が、自宅の庭で池の魚を眺めながら語りかけると、

「御意」

その横に佇む菊池武光が、にこやかに微笑んだ。彼は、近ごろ上機嫌であった。嫡男の武政に、最初の男の子が産まれて間もないからである。

「そういえば」親王は、最も信頼する武将に目を向けた。「かわいい初孫の名前は決まっ                                       たのか、武光」

「ええ、おいが、 賀々丸 ( かかまる ) と名付けました。なかなか威勢の良い赤ん坊でしてな。きっと強い男に育ちますぞ。いまから、その将来が楽しみですわい」武光は、嬉しそうに胸を張った。

「賀々丸か、良い名前じゃな。いずれは、我が子武良を助けて九州の原野を駆け回る事になろうか」

「案外と、京都の大通りを我が物顔で闊歩するやも知れませんぞ」

二人は、互いの逞しい顔を見交わして大笑した。

やがて、真顔に戻った親王は、武光の肩を抱いてささやきかけた。

「仮に我が手で京を回復できた暁には、わしは必ず次の天皇として即位することとなろう。そのときは、お前たち一族も都に住むのだ。余は、公家一統などという時代遅れの思想には拘らぬ。そして余は、武光、きっとお前を征夷大将軍に任命する。お前に、全国の武家を束ねてもらうぞ」

「もったいないお言葉」武光は、胸を打たれてうつむいた。「夢の実現を信じます」

「そうとも、そして夢は必ず実現させるものだ」親王は、その唇をきつく結んだ。

     ※                 ※

その翌日、政庁に豊前の新田 義基 ( よしもと ) が現れた。義基は、馬ヶ岳を根拠地とする新田一族の末裔である。彼は、重大な情報を大宰府にもたらした。

「長門の厚東義武とその一族が、大内氏に本領を追われ、赤間関(下関)を越えて豊前に逃げて来ました。彼らは大内弘世との対抗上、征西府に帰参したいと言っております。いかがいたしましょうか」

五条親子や菊池一族、それに少弐頼澄らは、全員一致で厚東氏支持を主張した。

「余も同感じゃ」親王は言った。「これは、二股膏薬の大内に鉄槌を食わせるまたとない機会ぞ。義基、厚東一族を 門司 ( もじ ) あたりに匿ってやるがよい。大内を釣り出すための餌にするのだ」

かくして征西府軍は、予想される大内勢の進攻に備え、ただちに軍備を整えた。

「そうか、征西府は厚東の味方をするつもりか」

知らせを受けた大内弘世は、口ひげをひねって呟いた。

「なあに、菊池武光とて鬼神ではあるまい。ここで奴と一戦して勝利を収めれば、わしは時代の寵児となれるし、幕府から莫大な恩賞を貰えることは必定よ。その上、猪口才な厚東に止めを刺せるとあらば、事は一石二鳥よ。よしっ、決めた、出陣じゃ。門司を攻めるぞ」

弘世は強気であった。かつて叔父の長弘に反旗を翻して以来の全戦全勝の自信が、彼にこの決断をさせたに違いない。確かに大内軍は強力であった。高麗との密貿易によって密かに稼ぎためた富によって、その軍勢の武装度は日本でも有数の高水準を保持していたのである。

周防在住の鎮西探題、斯波氏経は、大内勢出陣の報に大いに意を強くした。これは、九州で一敗地にまみれた彼にとって、征西府打倒につながる最後の機会であった。

さて、多数の軍船を押し立てて関門海峡を渡った大内軍の総数は一万強。兵士たちの真新しい豪奢な鎧は、折からの陽光を浴びてきらきらと輝いていた。

大内軍の豊前上陸の報に接した征西府首脳は、ただちに迎撃の軍勢を派遣することを決めた。その総大将は、菊池藤五郎武勝である。総勢は一万。もちろん、その兄武光も一軍を率いてその後に続く。武光は、重要な戦の指揮を、将来が楽しみな若者に積極的に任せ、彼らに経験を積ませることにしていたのだ。

四月上旬、厚東義武の立て籠もる門司城は、圧倒的な大内勢に包囲された。

「義武の首を打てば、長門の支配は完成する。わしは、名実ともに長門の守護になれるのだ」弘世は、小高い丘の上に設けた本陣から有利な戦況を眺めてほくそ笑んだ。

大内勢は、襲来が予想される菊池勢に備え、南方に警戒線を張り巡らせていた。敵が現れたなら、ただちに精強な主力部隊をもって迎え撃つ作戦であった。

ところが・・・・・

「お屋形さま、海賊どもの攻撃ですっ。味方の水軍は、不意打ちされて苦戦中」

夜明け前の心地よい眠りから小姓の注進によって叩き起こされた弘世は、思わず飛び出した幔幕の前で立ち尽くした。眼下の関門海峡が真っ赤な炎に包まれているではないか。

「しまった、海からの敵襲には備えていなかったわ」弘世は臍をかんだ。

この大胆な夜襲を敢行したのは、菊池武光の指示を受けた松浦水軍であった。大内水軍は、倭寇として戦い慣れた松浦党の敵ではなかった。大内水軍がこの一夜に受けた損害は、なんと全軍の四分の一にも及んだのである。

菊池武勝軍が門司南方に出現したのは、その翌日であった。船を焼かれて帰途に不安を持つ大内勢は、衰えた士気で、しかも敵方の門司城を背後に抱える不利な態勢でこれに対峙しなければならなかったのである。

「大内がどんなに精強であろうとも、我らの千本槍の伝統の前には赤子も同然ぞ。者共、手柄を立てるなら今だ。恩賞は思いのままぞ。しっかり働けい」

藤五郎武勝の訓示を前に、征西府軍の戦意は燃え上がった。

四月二十日の陽光とともに、合戦の幕は切って落とされた。両軍とも必死の激闘は、当初は互角のうちに推移した。しかし、援軍到着を知った厚東勢が城門を開いて突撃し、大内軍の背後を撹乱したために、ついに決着がついた。

大内の大軍は壊乱し、自慢の木綿の旗さしものや、上漆の鎧、黄金造りの馬具を捨てて逃走した。我先にと残り少ない船に飛び乗り、対岸の長門に向けて漕ぎ出す。逃げ遅れた者は、全て武勝の捕虜となった。

「追い討ちじゃ、大内めが二度と九州の土を踏めないようにしてやれ」

武勝勢の精鋭は、駆けつけた松浦水軍の軍船に飛び乗ると、大内軍を追って赤間関に上陸した。敵の微弱な抵抗を排除すると、武勝は付近の村々や港湾を焼き払い、武威を大いに誇示した上で、門司に引き上げたのである。地理に不案内な長門で、深入りしすぎる危険を避けたのはさすがであった。

この戦いの結果、大内弘世の威信は失墜した。当然であろう。精強のはずの軍勢は菊池軍に追いまくられ無様に逃げ惑い、あげくの果てには領土の長門まで敵に蹂躙されたのだから。武勝が深追いせずに引き上げてくれたのが唯一の救いであった。

「これは参った」無事に本拠地に逃げ帰った弘世は、周防山口の居館で頭を抱えた。「菊池武光ならともかく、武勝などという無名の武将にここまで手ひどく叩かれるとは思わなんだ。まさに恐るべきは菊池勢の強さよ。・・・おっと、感心している場合ではない。朝廷と幕府の不興をさまし、せっかく手に入れた三国の守護の地位を保持する手立てを講じなければならぬ。菊池一族への復讐は、その後だ」

密貿易によって巨万の財産を持つ大内氏にとって、この程度の損害の回復は容易なことであった。しかも、弘世はただちに上洛し、朝廷と幕府の有力者に巨額の賄賂をばら蒔いたため、その敗戦の責任を問われずに済むどころか、却って声望を高めたのである。

その一方で、大内軍の完敗に大きな打撃を受けたのは、山口に居住していた九州探題斯波氏経であった。大内弘世の活躍に唯一の希望をつないでいた彼は、もはや征西府に立ち向かう手段が尽きたことを知った。

「もはやここまで。無念じゃが、探題を辞任する」

斯波氏経は、息子の松王丸や、少弐頼尚と冬資親子、それに畠山直顕らとともに京に上って行った。幕府三人目の鎮西探題も、ついにその目的を達成できずに終わったのである。

          ※                 ※

菊池武勝の大活躍は、大宰府を大いに沸き立たせた。後詰めの武光の助力を必要とせず、独力で精強の大内軍を打ち破った彼の功績は、称賛に値するものであった。そして、菊池一族の若手武将の成長は、これから困難な上洛戦に乗り出そうという征西府首脳にとって明るい材料に違いなかった。

「これで、おいも安心して隠居できますわい」

菊池武光は、戦勝を祝う祝宴で上機嫌であった。酔った赤ら顔がくしゃくしゃである。

「まだ早いぞ、武光。その言葉は、賀々丸が一人前になってから言うんだな」懐良親王は、半ば真顔で窘めた。

「ははは、 冗談 ( てんごう ) にござる。京の土を踏むまでは、まだまだ隠居はできませぬ」

「ふふふ、まるで頼元(五条)と同じようなことを言うのだな」

「長く顔を合わせていると、人柄も似てくるそうですからな」

「それが本当なら、目の前の男のせいで、わしの品性も落ちてくるのだろうか」

「宮将軍っ」

「怒るな、冗談よ」

「やれやれ、お人が悪い。それは誰の影響ですかなあ」

「お前の妹に決まっているだろう」

大笑する二人を尻目に、噂の早苗は、武勝を囲む聴衆に混じって兄の武勇伝に聞き入っていた。彼女は、幼いころ一番仲のよかった兄の活躍がとても誇らしかったのである。

早苗は、ふと宴席の大勢の人々の顔を見渡した。やはり翠は来ていない。

早苗は、翠が近ごろふさぎこんでいる理由を知っていた。大内、山名の両氏の離反によって、夫・直冬の消息が完全に絶えてしまったからなのだ。もはや、生死する定かでないという。

「直冬さまも、罪なお人だわ。素敵な奥方があれほど心配しているのに便り一つ寄越さないなんて」早苗は、直冬に会う機会があったら、その横面を張り倒してやりたい衝動にかられるのだった。

             ※                 ※

ところで、征西府軍の連戦連勝は、各地の豪族の心を大きく動かした。伊予(愛媛県)の 河野通朝 ( こうのみちとも ) も、心を動かされた一人である。

河野一族は、大化の改新以前からの伝統を持つ伊予の大豪族である。彼らは、南北朝内乱において、最初期からの武家方として足利尊氏のために懸命に働いた。特に、湊川合戦で楠木正成隊を壊滅させた功績は特筆ものである。ところが近年、細川頼之が四国東部に急速に勢力を延ばして来たことは、四国の霸者を夢見る河野氏の利益に明らかに反していた。そこで河野通朝は、征西府に味方することによって細川氏打倒を目論んだのである。

河野氏の密使を迎えた大宰府にとって、これは吉報であった。密かに四国遠征計画を進めていた征西府首脳にとって、これは正に渡りに船であったからである。

「さっそく、四国に派兵しましょう。一気に四国を掌握する又とない機会ですぞ」

この菊池武光の建議に反対するものは、一人もいなかった。

征西府の遠征計画は、かなり周到であった。既に賀名生に連絡し、後村上天皇の皇子の派遣を要請している。これは、四国に皇族を送り込むことによって、現地豪族の結集を図ろうという戦略に基づくものである。

後村上天皇はこの計画に賛同し、さっそく皇子の中から 良成 ( よしなり ) 親王を大宰府に派遣することに決した。これが、後に後征西将軍宮と呼ばれる人物である。

ところが、細川頼之の行動力は、征西府の予想をはるかに上回った。貞治三年(1364)九月、頼之率いる大軍が、突如として河野通朝の本拠地・世田山城に襲い掛かったのである。

「しまった、寝返りが露見したのか」油断していた通朝は、不十分な兵力で苦しい籠城戦を戦う羽目に追いやられた。

抜群の情報網を各地に有する細川頼之は、たちまち通朝の二心を見抜いたのである。ただ、その物証が掴めなかったので、河野氏が、先年の細川清氏との戦において頼之に味方しなかったことを口実にして攻め寄せたのであった。

世田山城がついに陥落したのは、あわてた征西府が援軍を派遣しようとした矢先であった。十一月初旬、河野通朝は壮烈に戦った末に自決した。その父の通盛も、悲憤のあまり日を置かずして病死し、通朝の遺児の 通堯 ( みちたか ) が残った一族を率いて健闘したものの、もはや態勢の挽回は不可能だった。ここに、名門河野一族は壊滅したのである。

「おそるべし、細川頼之・・・」菊池武光は、四国遠征の重要な足掛かりを失って衝撃を受けた。頼之は、卓抜な戦略で征西府を九州に封じ込めようとしている。

「ばってん、おいは負けぬ。必ず京に並び鷹羽を翻して見せるぞ」

武光は、東の空を強く睨んで唇を噛み締めた。