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電撃戦は、第一次大戦の戦訓を生かした革命的な攻撃方法である。
従来の戦闘は、機関銃や大型砲といった強力な防衛兵器の発明によって、拠点に立てこもる防衛側が圧倒的に有利だった。この状況を打破するため、イギリス軍が大戦末期に発明し投入した攻撃兵器が、戦車である。無限軌道のキャタピラを履き、鋼鉄に覆われた武装した鉄の塊は、前線のドイツ兵を大いに恐れさせたのであった。しかし、この時の戦車は故障が多く、台数も少なかったため、戦局を変える決め手にはならなかった。
戦後、イギリスの軍事評論家リデル・ハートは、大量の戦車を陣頭に立てて敵陣を突破する「機動戦」理論を提唱したが、戦車発明国であるはずのイギリスは、この議論に冷淡であった。彼らは先の大戦の勝因を、拠点防御と経済封鎖に帰していたので、過去の成功体験に埋没し、新技術の研究に熱意を示す必要を感じなかったのである。
そのため、ハートの議論に注目したのは、むしろ敗戦国のドイツだった。参謀本部のハインツ・グデーリアン将軍は、戦車による「機動部隊」を育成しようと考えた。そして、彼の夢を受け入れ実践させた人物こそ、ヒトラーなのであった。
ヒトラーは、先の大戦での実体験から、戦車の威力を高く評価していた。彼は、もともと自動車好きであったので、専門家の技術的な話題にも容易に入って行けた。また、彼は、政治的には保守主義者だったが、技術に関する知識と理解は、他国の要人たちの群を抜いて優れていた。彼の先見性は、ドイツ参謀本部の平均的な軍人よりも進んでいたといって良い。
また、ヒトラーは航空機の進歩と発展にも着目していた。政権獲得後すぐに航空省を発足させ、腹心ナンバーワンのゲーリングを長官に任命したことからも明らかだが、総統は、近代戦の死命を決するのが航空兵力であることを十分に理解していた。
そして、総統の判断の正しさは、ポーランドの原野で証明された。先の大戦型のエリート軍隊を有するこの国家は、一ヶ月と支えきれずにドイツの「電撃戦」の軍門に降ったのである。
「電撃戦」は、航空機と戦車が一体となり、敵の固定陣地を打ち破る戦法であるが、最も重視するのは攻撃力ではなく、そのスピードであった。「兵は神速を尊ぶ」とは、紀元前の孫子の言葉であるが、この原則は万古普遍である。なぜなら、戦争の勝利とは、敵の弱点を味方の優位で衝くことによって決定されるからである。スピードのある軍隊は、敵の弱点を見抜き、重点的にそこを衝くことができるのだ。そして、航空機と戦車は、歩兵の集団よりも高速度で行動できる。戦車部隊は、時速40キロで進撃するが、歩兵部隊は4キロでしか移動できない。この十倍の速度差は、決定的である。
意外に思うかもしれないが、ポーランド軍も戦車部隊を持っていた。しかし彼らは、この高速部隊を攻撃用ではなく、都市防衛のための砲台として使用したのである。これでは宝の持ち腐れであるが、英仏も実状は似たようなものだった。英仏軍の戦車は、厚い装甲と強力な火器を装備していたが、燃費が悪く動きが鈍重で、とても高速で作戦できる代物ではなかった。彼らは、戦車を歩兵援護用の砲台として使っていたのである。
これに対して、ドイツ軍の戦車は、薄い装甲と貧弱な火器しか持たないが、燃費が良く、高速で移動できる特徴を持っていた。また、全車が無線を標準装備していたので、統一的な作戦行動を行えたのである。
そして、英仏軍は、そのことの意味を、やがて身を持って味わう事になる。
さて、ヒトラーが「電撃戦」を重視した理由は、他にもある。
彼は、民衆の経済生活に負担をかけないように戦争を遂行する必要があった。総統なりの優しさと言うこともできるが、彼は先の大戦の経験から、銃後の国民感情を重視していた。すなわち、先の大戦でのドイツの敗因は、国民を経済的に苦しませ、「背後からの一突き」を招いたことにある。だから戦争に勝つためには、その原因である国民の困窮を起こしてはならないと考えたのだ。
その点でも、短期決戦を志向する「電撃戦」は、長期戦による経済負担を避ける上で理想的な戦法と言えるのだ。
「いわば、貧者の戦略だ」ヒトラーは、腹心のロンメル大佐にウインクして見せた。
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「電撃戦」は、航空機による先制攻撃を皮切りとするので、数日間の好天を必要とする。しかし、ヨーロッパの冬は曇り空が多く、ドイツ軍は容易に作戦を起こせる状態でなかった。また、英仏軍は、準備不十分である上、陣地防御こそ最良の戦略だと信じていたので、こちらから仕掛けようとは思っていなかった。
そのため、独仏国境は11月を迎えても静穏なままであり、ほとんど一発の銃声も聞かれなかった。両軍の兵士たちは、互いの陣地を訪れて煙草の交換をしたり記念写真を撮ったりしながら、自分たちの置かれた状況を「奇妙な戦争」ないし「いかさま戦争」と呼んで不思議がる有様だった。
しかし、水面下では様々な動きがあった。
ドイツ国内の反ヒトラーグループは、軍の一部を中心に民間にも及び、堅く結束していた。彼らは、ドイツが破局に陥る前にクーデターを起こし、ヒトラーを倒そうと考えていたのだが、なにしろ大多数の国民の総統支持は未だに強固である上、ポーランドでの鮮やかな勝利もあって、決起のタイミングは容易に掴めなかった。そのため、彼らは軍の機密情報を密かに英仏に流すことで、自分たちの良心をかろうじて満足させていたのである。
むしろ、英雄的な行動を見せたのは、グループに無関係の一人の民間人であった。元共産党員の機械工ゲオルグ・エルザーは、時限爆弾を小脇に、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーに向かった。11月8日の講演会は、10時に始まり2時間は続くはずだった。そしてエルザーは、起爆時間を11時20分にセットし、前夜のうちにそれを、演台の脇の柱に埋め込んだのである。
その日、独裁者は上機嫌で満席の群衆の前に立ち、歓呼を浴びながらイギリスに対する悪口雑言を開陳した。いつものおなじみの講演会風景。しかし、いつもと違ったのは、饒舌な総統が一時間で話しやめ、11時少し過ぎに演台を後にしたことである。ベルリンが曇天のため、帰路の足を飛行機から汽車に変えたための早退であった。しかし、この日の曇り空は人類の歴史を変えた事になる。11時20分、轟音とともに因縁の酒場の演台は吹き飛び、近くにいた7名が死に、63名が負傷したのである。負傷者の中には、エヴァ・ブラウンの父フリッツの名もあった。
ヒトラーがその知らせを受けたのは、汽車で移動中のニュールンベルク駅での事だった。情報収集のために下車したゲッベルスは、顔面蒼白にして戻り、総統に驚愕の事実を伝えたのである。
「これは、神の摂理だ」口元を引き締めたヒトラーは、厳かに語った。「神は、この私に生きろと言ってくれている。神の恩寵と正義は、この私の側にあるのだ・・この小汚い陰謀は、イギリス野郎の仕業に違いない。ヨゼフ、犯人の逮捕を急ぐのだ」
エルザーは、逃げ切れなかった。彼はスイス国境で逮捕され、ゲシュタポ長官ヒムラーじきじきの拷問を受けたが、1943年に処刑されるまで、単独犯だと言い張り信念を貫き通したのである。
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そのころ、西部戦線で硬直する三国を後目に、スターリンの率いるソ連は、積極的に動いていた。ベルサイユ条約で奪われた失地を回復するため、フィンランドに領土割譲を要求したのだ。ヒトラーと同じやり口である。しかし、フィンランドが屈しなかったため、11月30日、戦争が始まった。「冬戦争」である。
ソ連赤軍は、数に物を言わせて突撃したのだが、要塞地帯に陣取るフィンランド軍は果敢に迎え撃ち、ソ連軍に大量の出血を強いた。スターリンによって有能な将官を根こそぎ粛正されたソ連軍は、著しく弱体化していたのである。しかし、ソ連軍は自殺的な突撃を続けた。なぜなら彼らの背後には、スターリン直属の特務部隊NKVDが控えており、退却する友軍を容赦なく射殺したので、ソ連軍は、無謀と知りつつ前に進み続けるしかなかったのである。
ベルリンでは、ヒトラーが複雑な表情で北の空を見つめた。同盟軍であるスターリンの失地回復政策は、独ソ不可侵条約で承認済みである。しかし、ソ連はいずれ打倒すべき仇敵でもある。東の大国の勢力伸張は、ドイツにとって危険だ。もっとも、ソ連軍の弱さという安心材料もある。
「ロシア人は、戦争のやり方を知らぬ。一時的にその領土が広がっても、恐れるに足らぬ。すぐに取り戻せるだろう」
不敵に笑うドイツの独裁者の姿が、そこにあった。
ソ連のフィンランド侵略は、英仏同盟軍にも大きな影響を与えた。特に反共思想の根強いイギリス国内には、フィンランドに援軍を送ってソ連と戦おうとする機運が盛り上がった。ドイツ一国すら持て余しているのにソ連まで敵にしようとは、驚くべき無邪気さである。だが、民主主義国家とはそうしたものかもしれない。
「だが、これは使える」
新任の海軍相チャーチルは、葉巻をくゆらせた。彼は積極果敢な主戦論者だったので、硬直した戦線に一石を投じる機会を待っていたのである。そして、北欧情勢の急変は、彼にチャンスを与えた。彼は閣議で提案した。
「フィンランドを救援するという名目で、ノルウェイとスウェーデンに軍隊を送り込み、両国を占領下に置くのです。ドイツは、鉄鉱石のほとんどをこの両国から輸入しているので、この作戦が成功すれば、ドイツの戦争経済は破綻するでしょう」
チェンバレン首相をはじめ、閣僚たちはみな賛成した。北欧の中立国が相手なら怖くないし、経済封鎖の戦略は、先の大戦の戦訓にも適うからである。
しかし、民主主義国家の欠点は、意志決定と実行に時間がかかりすぎる点にある。ようやく作戦が開始されたのは1940年4月のことであり、そのころには、肝心のフィンランドはソ連に領土(カレリア地方)を割譲して停戦しており、しかも作戦の情報は、全てドイツに筒ぬけとなっていた。
そして4月8日、夕闇の霧を抜け、ノルウェイの5つの主要港に姿を見せたのは、意外なことにドイツ海軍であった。彼らは、呆然とするノルウェイ人たちの目の前で大量の兵士を揚陸させた。時を同じくしてドイツ陸軍はデンマークに乱入し、国王を捕虜にして降伏させた。そして、デンマークの飛行場から飛び立った無数のドイツ空軍機から、ノルウェイの諸都市に向けて白い花がばらまかれた。落下傘部隊である。
「しまったっ」チャーチルは紅潮した頬を震わせた。「先を越されたか」
英仏連合軍は、ちょうどこの翌日にノルウェイに上陸する予定であったので、英仏海軍の大多数は、輸送船護衛のためイギリス近海で待機しており、バルト海方面は手薄となっていた。その一瞬の隙を敵に衝かれたのである。
「まだ遅くない」チャーチルは拳を振り上げた。「叩きのめしてやるっ」
イギリス海軍はノルウェイ沖に殺到し、逃げ遅れたドイツ艦艇を片っ端から撃沈し、たちまち制海権を奪還した。
ドイツ海軍は、正面対決ではイギリス軍の敵ではなかった。無理もない。主力艦の数は、ドイツ13に対してイギリス107、潜水艦の数は、ドイツ27に対してイギリス135の大差だったからである。これは、ヒトラーの対英宥和策に原因がある。ヒトラーはイギリスを安心させるため、海軍力を意図的に弱めてきたのである。それが、ここで窮地を招いた。ノルウェイに上陸したドイツ兵は、退路を奪われ、完全に袋の鼠となったのである。そして、海軍に守られた強力な英仏陸軍は、続々とオーロラに彩られたフィヨルドに上陸を開始した。
「もう駄目だ」ヒトラーは、髪をかきむしった。「作戦は失敗だ。全軍撤退させるのだ」
しかし、総司令部統帥局長ヨードル中将が進み出て、総統を励ました。
「ノルウェイに上陸した山岳師団は、猛訓練を積んだ精鋭です。軟弱な英仏軍に遅れはとりません。必ず勝ちます。総統、どうか落ち着いてください」
「だが、ナルビク港で孤立した第3山岳師団は、オーストリア出身者だ。それを率いるのは、私の友人のディートルだ。彼らを見殺しにはできぬ。輸送機を使って撤退させるのだ」
「総統」ヨードルは、机を叩いて一喝した。「どんな場合でも、最高司令官は冷静さを保たなければなりません。それが分からないのですか」
ヒトラーは、夢からさめた思いで中将を見た。
「じゃあ、どうすれば良い」
「死守です。死守命令を出すのです。天候さえ回復すれば、空軍が戦局をひっくり返すでしょう」
「・・分かった」ヒトラーは、子供のように頷いた。
そして、ヨードルの見込みは正しかった。ノルウェイのドイツ軍は、港湾を棄てて山岳に立てこもり、英仏軍の攻撃を耐えしのいだ。やがて、ノルウェイとデンマークの全飛行場を確保するミルヒ大将のドイツ空軍は、晴天を待って一斉に出撃し、孤立した陸軍に空中から補給を与え、兵力を増強させた。のみならず、英仏軍の補給物資を片端から空襲で焼き払い、彼らの戦意を喪失させたのである。そのため、陸戦ではドイツ軍の連戦連勝が続いた。
「ここまでだ」英仏軍首脳は暗い顔を見合わせ、4月27日、亡命を希望するハーコン国王一家を伴い、ノルウェイからの退却を開始したのである。
「ありがとう、ヨードル」ヒトラーは、有能なブレーンの肩を優しく叩いた。「全て、君のおかげだよ」
これ以後、「死守」と「空軍」は、ヒトラーにとって金科玉条のキーワードとなる。
残されたノルウェイは、親独派政治家クヴィスリングの統治するドイツの傀儡国家となった。その結果、ドイツへの鉄鉱石供給体制は万全となり、ドイツ海軍は大西洋への重要な進出路を確保したのである。
ノルウェイの闘いは、近代戦においては、制海権より制空権が優位にあることを決定づける重要な戦いであった。
「後一歩だったのに・・」撤退に反対したただ一人の政治家であるチャーチルは、己の武運のつたなさに歯ぎしりする思いだった。しかし、悪いことばかりではない。5月10日、北欧の敗北の責任をとってチェンバレン内閣は倒壊。国王ジョージ6世が推した後継者は、闘志溢れる海軍相だったのである。
「今度は、必ず勝つぞ」チャーチル新首相は、その双眼を熱くたぎらせた。
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北欧での大敗に意気消沈する英仏連合軍は、より大きな試練にさらされた。5月10日金曜日、独仏国境においてドイツ軍の総攻撃が開始されたのである。「黄色作戦」の開幕である。
その日の未明、一斉に飛び立ったドイツ軍機2千は、オランダ、ベルギー、フランス三国の70カ所の飛行場を空襲した。同時に、パラシュートやグライダーを使った空挺部隊の大軍が、オランダとベルギーの戦略要地に舞い降りたのである。
オランダ、ベルギー、そしてルクセンブルク、いわゆるベネルクス三国は、中立の表明こそしていたが、英仏と密接に連絡を取り合い協力関係にあったから、早くからドイツの攻撃を予想して待ち受けていた。
オランダは、水が多いその国柄を生かして、堤防を決壊させてドイツ戦車を押し流す作戦を立てていたのだが、空からの攻撃には無防備であった。空挺部隊に主要な橋や堤防を占領され、その抵抗力はたちまち奪われた。
ベルギーは、難攻不落を誇るエバン・エマール要塞を、グライダー部隊によって半日で陥とされ、たちまち戦意を喪失してしまった。この要塞は、地上から来る敵には無敵だったが、真上の敵に対しては無力だったのである。
先の大戦では有効だった連合軍の防御技術は、空から攻め寄せるドイツの新戦法の前に一蹴されたのだ。
続いて、ドイツ陸軍の進撃が開始された。ボック大将のB軍集団は、東からベルギー領に侵入し、ベルギー軍を蹴散らしながら西へ西へと繰り出した。その進軍コースは、第一次大戦の時と全く同じである。
「予想通りだ」フランス軍総司令官モーリス・ガムラン大将は、上品な口ひげを震わせた。「迎え撃つぞ。D作戦の始動だ」
ベルギーとの国境に待機していた英仏連合軍は、全力で東へ突き進んだ。第一次大戦型の塹壕戦を予想した彼らは、ベルギー領内を主戦場としてドイツ軍と対決しようと考えていたのである。
ここで両軍の勢力を比較してみる。陸軍は、連合軍144個師団に対してドイツ軍は136個師団。その保有する戦車数は、連合軍2650輌に対して、ドイツ軍2570輌。空軍の保有する航空機数は、連合軍2800機に対して、ドイツ軍2900機であった。空軍以外は、圧倒的にドイツ軍不利である。
そのため、ガムラン大将には十分な勝算があった。ベルギー領内に押し出した友軍は、えり抜きの精鋭部隊である。必ずドイツの狂信者どもを駆逐してくれるだろう。
しかし、これはドイツ軍の罠だった。ベルギーに侵入したB軍集団は、囮だったのである。
ルントシュテット大将の率いる主力部隊(A軍集団)は、遙か南方のルクセンブルク国境にあった。戦車とトラックによって高度に車輌化されたこの部隊は、英仏軍の東進を聞くと、ただちに行動を開始した。ガソリンエンジンを震わせた機械の群は、ルクセンブルク北部のアルデンヌの森を走破し、5月12日にはミューズ川に達した。ここを越えれば、もはや遮る物は何もない。そして、ミューズ川の防備は著しく手薄であった。
5月15日、レイノー首相は、パリからロンドンの首相官邸に電話を入れた。
「こちらチャーチルです。首相、どうかなさいましたか」
「・・敗戦です。我々は敗れました」
「な、なんですって・・こんなに早くに?」
「すさまじい数の戦車と装甲車の大軍が、セダンを突破したのです。彼らは、時速40キロの速度でフランス領内を突き進んでいます。抑止しようとした予備軍は、敵のあまりの速さに対応できず、戦闘体型を取る前に撃破されてしまいました。つまり、ドイツ軍の進撃を止める手段はもう無いのです。今や彼らは、ドーバー海峡に向かっています。海峡到達は、もはや時間の問題でしょう・・」
「そ、それでは、ベルギー領内にいる我が主力は・・」
「後方を切り取られ、完全に包囲されました。袋の鼠です」
チャーチルは、受話器を取り落とした。
ドイツ軍の新戦術「電撃戦」は、わずか5日にして大国フランスの死命を決したのである。
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フランスを即死させた攻撃、いわゆるアルデンヌ攻勢は、立案者の名をとってマンシュタイン計画と呼ばれている。エーリヒ・フォン・マンシュタインは、おそらく第二次世界大戦で最も有能な将軍である。しかし、その革新的な才能は、保守主義者の多いドイツ参謀本部では容易に受け入れられなかった。
参謀本部は当初、フランス攻撃を伝統的なシュリーフェン計画で行おうとしていた。すなわち、先の大戦同様、ベルギー領内を横断し、北東からフランスに攻め入ろうというのである。その根拠は、地勢が平坦で大軍が行軍しやすい事にある。ドイツ民族は、古代ローマ時代以来、常にそのルートで西へと進出して来た。いわば、歴史と伝統の戦術なのである。
しかし、この事は英仏軍も先刻承知している。彼らは精鋭部隊で待ち伏せするだろう。それでは、先の大戦の二の舞になるだけだ。マンシュタインは、こう主張して独創的な計画を開陳した。すなわち、シュリーフェン計画を行う部隊を囮にして敵を誘き寄せ、主力はその南方アルデンヌを突破して敵の背後に回り込むというのである。
しかし、この意見は物笑いの種となった。頭の固い参謀本部の主流たちは、ろくに調べもせずに、アルデンヌの森を車輌通行不能と決めつけていたのである。
なおも自説を主張するマンシュタインは、煙たがられ閑職に追いやられた。しかし、彼は幸運だった。転属する将校は、総統と会食をする機会が一度だけ与えられる。つまり彼は、総統に直訴できたのである。
「すばらしい」ヒトラーは、テーブルを叩いて立ち上がった。「私も、参謀本部の考え方は間違っていると思っていたのだ。電撃戦の効果は、奇襲によって最大となる。そのためには、君の言うやり方しかない」
ヒトラーは、軍事には素人だったが、政治や外交と同様に、事の本質を見抜く、優れた洞察力の持ち主なのであった。
そして、最高司令官であるヒトラーがマンシュタイン計画を支持したので、頑固な参謀本部も、この時は渋々折れた。
ドイツ参謀本部は、ナポレオン戦争時代のプロイセン参謀本部を起源とする。ナポレオンのフランス軍に国土を蹂躙されたプロイセンは、臥薪嘗胆の合い言葉のもと有能な人材を吸収し、世界一のスタッフ組織を創り上げたのである。しかし、貴族出身者によって構成され、エリート意識に固まったこの組織は、しばしば斬新な発想を拒否したり、高級貴族以外の人材を軽侮する傾向があった。
そのため彼らは、平民出身で伍長あがりの総統を、内心で軽蔑していた。彼らが今回総統の言うなりになって計画を変更した理由は、彼らの偵察機がベルギーに不時着し、シュリーフェン計画書が敵に奪われるという大失態が起きたからである。
参謀本部と総統の対立は、後に深刻な事態を引き起こすことになる。
だが、それは後の話。
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「走れ、走れ、急げ、急げ」
ドイツ機動部隊の生みの親ハインツ・グデーリアン大将は、司令車の中で叫び続けた。彼は今や、突破部隊の急先鋒第19戦車軍団長であった。そして彼は、電撃戦の命が速さにあることを熟知していた。彼の部隊は、不安に駆られた参謀本部の停止命令を無視し、敗走するフランス部隊を追い抜いて突進した。燃料が切れたら沿道のガソリンスタンドから補給し、食料が尽きたら畑のジャガイモを引っこ抜いた。
これまで、戦闘らしい戦闘はほとんど無かった。ミューズ川とセダンの街では激しい抵抗を受けたが、敵は訓練不足の二流部隊であった上、味方の急降下爆撃機が的確な攻撃を加えてくれたお陰で、思いの外容易に突破できた。その後に遭遇する敵は皆、爆撃機の鳴らすサイレンの音を聞いたり、戦車の姿を見ただけで、一目散に逃げ散る体たらくだった。
そして、5月20日、グデーリアンの視界から陸地は消えた。ここはアプビルの街。眼前に広がるのは、青い大海原だ。
「急げば、あと2日早く到達できたなあ」
グデーリアンは、参謀に笑顔を向けた。
ドイツ機動部隊は、作戦開始後わずか10日で大西洋に達したのである。英仏軍主力は、ベルギーとフランス北東部からなる狭隘な地帯に閉じこめられてしまったのだ。
この思わぬ事態に、英仏軍首脳は為すすべがなかった。それどころか、状況の把握すら満足に行えなかったのである。無理もない。フランス軍の組織は官僚化し硬直化しており、例えば陸軍と空軍の指揮命令系統は完全に独立し、相互の連絡は皆無だった。総司令官ガムランの大本営はパリ郊外のヴァンセンヌにあったが、その基地は中世の古城であり、無線はおろか電話線すらひいていなかったので、情報を収集してから意志決定を前線に伝えるまで、伝令兵を用いて最低48時間かかったと言われる。先の大戦のような塹壕戦なら、それでも間に合ったかもしれない。しかし、これで電撃戦に対抗するのは不可能だった。伝令兵が5往復する間に、ドイツ軍主力は大西洋を眺めていたのだから。
一方のドイツ軍といえば、主力部隊は高度に機械化され、全車両に無線機が装備されていたので、指揮官は部隊のどの位置からでも的確で迅速な指示を行えた。第7戦車師団長ロンメル少将などは、自ら先頭の戦車の上で指揮を執るので有名だった。
また、最高司令官ヒトラーは、自らライン河畔に戦闘指揮所を設置し、下級兵士と同じ野戦食を口にしながら、変化する戦局をじっと見据え、的確な意志決定を与えていたのであるから、この迅速な戦果はむしろ当然であったかもしれない。
ヒトラーは、このライン河畔ミュンスターライヘルの戦闘指揮所が気に入った。美しい樹木に覆われた森林地帯で、小川のせせらぎと小鳥の囀りが途絶えることがない。
「戦争が終わったら、みんなで毎年ここに来ようね」
秘書たちに笑顔で語りかける総統の双眼は、勝利の確信で輝いていた。
英仏軍は、5月23日、包囲網を突破しようと南北から反撃したのだが、ロンメル将軍がこれを阻止した。もはや英仏軍主力に残された道は、ダンケルク港から海へと逃れることだけである。
しかし、ヒトラーはこれを追わなかった。ゲーリングの空軍に処置を任せ、陸軍の主力はパリ攻略に向かわせたのだ。彼は、空軍の力を過信しすぎていたし、窮鼠の反撃で戦車部隊が損害を受けることを恐れたのである。ここに、「ダンケルクの奇跡」が完成する。見逃してもらった30万人の英仏軍は、激しい爆撃をものともせず、5月30日から6月4日にかけて、イギリス海軍の輸送船や民間の漁船や観光船に乗って、からくも対岸のイギリス本島に脱出したのであった。
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しかし、フランスの運命は窮まっていた。6月5日、勝ち誇るドイツ軍は一斉にパリ方面に向けて進撃を開始したのだ。「赤色作戦」の始動である。主戦力を失ったフランス軍は、南へと逃げることしかできなかった。
そして6月10日、イタリアがフランスに宣戦布告を行った。ヒトラーの要請を断って中立に徹していたムソリーニは、ドイツ圧勝の状況を見て気が変わり、戦利品のおこぼれに預かろうとしたのである。しかしイタリア軍は弱かった。地中海沿いに繰り出された彼らの攻撃は、フランス軍によってことごとく撃退されたのである。ムソリーニの威信は地に落ちた。
だが、イタリア統帥の焦燥にお構いなく、6月14日、エッフェル塔にナチスの鉤十字が翻った。無防備都市宣言をしたパリに、ドイツ軍が入城を開始したのである。
南方の諸都市を転々とするフランス政府は、当初はアフリカの植民地に首都を移して徹底抗戦しようと考えた。しかし、相談相手のイギリスとアメリカの反応が思わしくなかったため、レイノー内閣は倒壊し、これに代わったペタン内閣は、ドイツに停戦交渉を持ちかけたのである。
だが、フランス政府は、この交渉に期待を持っていなかった。過酷な条件を突きつけられるに違いないと考えていたからである。先の大戦で、フランスはドイツに天文学的な賠償金を課し、その債務不履行を口実にルール工業地帯を軍事占領し、略奪の限りを尽くした。彼らは、今やその報復を覚悟したのである。
しかし、ヒトラーの提示した停戦条件は、驚くばかりに寛容だった。彼は、フランス北部の軍事占領と占領軍への物資の供給を要求し、先の大戦で奪われたアルザス、ロレーヌ地方のドイツへの回復を要求したが、フランスの残存兵力(特に無傷の海軍)や、海外植民地は従来通りとした。また、フランス国家を中立国(いわゆるヴィシーフランス政権)として存続させ、賠償金も要求しなかった。また、ヒトラーは、ドイツ軍の略奪行為を厳しく禁止したため、フランス政府も国民も大いに安堵したのである。
ヒトラーがフランスに寛容だった理由は、彼がこの国を植民地にするプランを持っていなかったからである。イギリスの屈服後は、従属的な同盟国として位置づける予定であったのだ。
こうして6月22日、フランスは武器を棄て降伏した。
「そうか、やったか」知らせを受けたヒトラーは、手を打ちならし、足を踏みならして喜んだ。「やった、やったぞ。信じられない。やったんだ。良くやった」
パリ郊外のコンピエーニュは、第一次世界大戦における休戦協定の場所であった。
そして今、ヒトラーは因縁のこの地を、休戦協定の場所に選んだのである。午後3時15分、自動車で到着したヒトラーは、副総統ヘス、航空相ゲーリング、海軍総司令レーダー、国防軍総司令長官カイテル、外相リッベントロップを引き連れて交渉の場に臨んだ。
「第一次大戦勃発の25年後、英仏両国はまたもや理不尽な戦争をドイツに挑み、今ここに敗北し崩壊したのである・・」
カイテル大将の読み上げる声明文を聞きながら、ヒトラーは、戦場で送った青春の日々を思い返していた。愛犬を抱きしめながら塹壕の中でネズミの干し肉を食った時代。そんな悲劇は、もう二度と起こらない。あのときの怨みは、今ここに晴らされたのである。ドイツの若者たちは、泥水をすするあの4年間から、永久に解放されたのだ。
今でも夢のようだが、欧州最強といわれたフランス軍は、戦闘開始後わずか6週間で壊滅したのである。そして、参謀本部を説得し、必勝の作戦を承認し敷衍したのは、ヒトラー総統その人だったのだ。
「やはり私は、軍事においても天才なのだ・・」
ヒトラーの自信は、今やとめどなく膨張していた。
言うまでもないが、ドイツ国民もこの勝利に熱狂した。最初が不安であっただけに、その反動で喜びも数倍だった。彼らは今や、ヒトラーの天才を信じ、ドイツ第三帝国の無敵を疑わなかったのである。
また、将軍たちの喜びもひとしおだった。ルントシュテット、ボック、レーダー、ミルヒといった殊勲者21人は、論功行賞の結果、元帥への昇進が決定されたのである。ドイツにおける元帥は、終身職であり、給与面はもちろん様々な恩典を得られる最高職であるから、ドイツ軍人の憧れの的であった。だが先の大戦では、足かけ4年の激闘を通して、元帥になれたのはわずか5人に過ぎない。今回の総統の気前の良さは、呆れるほどである。その卓越した人心掌握術を思い観るべきであろう。
だが、将軍たちは確かに、それにふさわしい活躍を見せてくれた。
既に、オランダとベルギーは5月中にドイツに降伏しており、両国の国王はイギリスに亡命している。
欧州で残る敵は、今やイギリスただ一人なのであった。