筆者が、15世紀のプラハ大学生たちの眼を通して物語ろうとしているのは、ヨーロッパの中世が、近世へと変貌していく過程である。チェコは、その胎動の場所として、歴史的に大きな激動に見舞われた。筆者は、これからその激動について語ろうとしている。
その前に、チェコという言葉について説明したい。
この物語に登場するチェコは、今日のチェコ共和国が統べる領土に等しい。そして、チェコ人という言葉も、今日のチェコ共和国の領土に住む人という意味に等しい。
チェコという呼称は、西スラヴ民族のチェヒ族から来た言葉だと思われる。チェコ人は、チェヒ族の末裔であるという自意識をもって、自らをチェコ人と呼ぶのである。
この民族は、チェコ領の北西部をチェコ地方、南東部をモラヴァ地方と呼んでいる。
しかし、外国人は、チェコ地方をボヘミア、モラヴァ地方をモラビアと呼んでいた。これは、日本のことをジャパンと呼ぶようなものである。
15世紀初頭の当時、この地域を統治するのは、チェコ王国(外国人による呼称はボヘミア王国)であった。ただ、チェコ(ボヘミア)という名であっても、この王国の領土は今日のチェコ共和国よりも広かった。モラビア(モラビア辺境伯領)はもちろん,シレジア(ポーランド南西部)やラウジッツ(ドイツ南東部)に対しても、チェコ王の王権は及んでいたからである。多くの人々は、この国を、畏敬を込めて「チェコ(ボヘミア)王冠諸邦」と呼んでいた。
さて、この物語の発端当時のチェコ王は、西方から招請されたルクセンブルク王朝のヴァーツラフ4世であったが、多くのチェコ人は、彼を「外国から雇った」と考えていたため、その王権は極めて脆弱であった。また、チェコ王国を構成する人種も、中心となるチェコ人の他、ドイツ人やユダヤ人も多かったので、その政情は一枚岩では無かったのである。
ただ、この国は、古くから東西の文化の交差点となっていたためか、国民の向学心がたいへんに高かった。彼らは学問や芸術に勤しみ、こうして育った進取の気風は、ヨーロッパの既成秩序に対する大きな反動を形作っていく。
そして、この運動の中心となるものこそ、プラハ大学なのであった。ヨーロッパの近世は、この大学をスタートラインにしていたと言っても過言ではない。
この章では、そんな大学のある日の姿に、目を移してみよう。
ペトルは、朝寝した。
「いっけねえ」
慌てて寝台から飛び出すと、手早く着替えて階下に走った。
階下の卓上には、豆のスープと蒸しパンが揃えてある。奥の間から顔を出した家主の夫人は、呆れた目で寄宿生を見た。
「学校はいいのかい」
「今日は、大講堂で討論会です。間に合います」
大慌てでパンとスープを平らげると、脱兎のごとく飛び出した。
ぺトルの寄宿先は、旧市街広場に面した貴族の別荘であった。そこから大講堂カロリヌムまでは、走れば3分もかからない。
中世の大学は、議論を通じて智恵を深めることを重視した。プラハ大学では、全学部合同の公開討論会を年頭に行なうほか、一ヶ月ごとの学部討論会を活発に行なっていた。
さて、自由学芸部のこの日のテーマは、「地球は丸いか」であった。自由学芸とは、哲学のことなのだが、自然科学に属するテーマを扱うことも多かったのである。
かろうじて間に合ったぺトルは、イジーの隣の席に腰を落ち着けた。
「遅かったな」イジーは、横目で言った。
「寝過ごしたよ。昨晩は、こそ泥相手に大奮闘だったからね」
「ぺトル、こそ泥の噂は聞いたか?」
「・・・いいや」
「旧市街の金持ちども、今朝になって盗品が無事に帰ってきて、大喜びだったそうな。・・・あいつ、ドイツ人の大泥棒トチェンプロッツだったらしいぜ」
「ええっ」ぺトルは、思わず声を張り上げた。「そんな風には見えなかった」
「被害にあった家に、ガチョウの羽が3つ置いてあったらしいぞ。これは、件の大泥棒の符牒だろ」
トチェンプロッツは、中欧では伝説的な大泥棒だ。ウイーン、チェスケー・ブデヨビツェを荒らして、いよいよプラハに到達したというわけか。このキザな泥棒は、盗みに入った家に、必ず茶色いガチョウの羽を3つ置いて行くという悪癖があった。そんな悪党を、昨晩、虜にしたというのに・・。
「逃がさなきゃよかったな。お化け退治より、よっぽど意味があった」ぺトルは、ため息をついた。
「そうでもないぜ」イジーは、どこ吹く風だ。「特権にあぐらをかいた金持ち連中には、ああいう汚れた存在による制裁が必要なのだ。少しは身にしみるだろう。逃がしたのは正解というものさ」
「そんなもんかなあ」ぺトルは、ときどき、この頓狂な友人の発想に付いていけなくなる。
教壇を見やると、遅れて入ってきた講師が、前列の生徒たちと歓談していた。プラハ大学のモットーは、学生に自由な思想を抱かせ、それを育てることにある。そしてイジーは、新入生だというのに、すでにこのモットーに忠実に生きているのだ。ぺトルは、この快活な友を羨ましく思った。
「おめえら、うるさいぞ」その時、隣の席から濁声があがった。ホンザという名の、肩幅の広い質朴な学生だった。まだ若いくせに、頭頂が薄くなっている。「勉強する気が無いのなら、この会堂から出て行け」
「ふん、地球が丸いかどうかなんて、私語をしながらでも学べるさ」イジーは言い返した。
「また、大言壮語を吐きやがって。自分たちの世界の成り立ちを学ぶことが、『真実』の第一歩だと分からぬか」ホンザは、しかし笑顔を浮かべている。彼は、友人と議論を戦わすのが好きなのである。
「地球の丸さを知りたければ、東に向かって歩けばいい。本当に丸いのなら、聖地エルサレムを行き過ぎて歩き続けても、プラハに帰ってこられるはずだ。こんなところで議論を交わしていても無駄なことだ」イジーは、人差し指を、ホンザの顔前で左右にくゆらせた。「カトリック教会の肥えた坊主どもは、『聖書にそう書いてないから、地球は丸くない』などと、バカを言って威張ってやがる。いつか、その鼻をあかしてやりたいもんだな」
「ならば、俺たちでやって見るか。その世界一周巡礼旅行をよ」
「面白い。でも、その前に、やるべきことがあるだろう」
イジーは、表情を変えた。
「明後日だってさ」
「何が」ホンザとペトルは、同時に言った。
「フス先生が、いつもの礼拝堂で講演するそうだ。贖罪状の件に違いない」
プラハ大学に、この自由闊達な空気を植えたのは、先の総長である神学者ヤン・フスだった。この先生は、教職を退いた今でも、学生たちの尊敬の的であった。
「大丈夫なのか」ぺトルは、頬杖ついた。「プラハ大司教たちが妨害するんじゃないのか」
「国王、いや王妃さまが守ってくれるさ。フス先生は、チェコから一歩出れば異端者だが、国内では、王家の庇護のもとで講演や著作が普通に行なえるはずだ。先生に逆らうことは、王家に対する反逆と同じだから、大司教もそこまでは踏み切れまい」
「でも、贖罪状の問題は半端じゃないぞ・・・本当に大丈夫なのか」ホンザも心配そうだ。
イジーは、目を伏せた。「だから、もしもの時は俺たちが先生を守るのだ」
「なるほど・・・そういうことか」ホンザとペトルは、強くうなずいた。「よっしゃ、一丁、気合入れて頑張ろうぜ」
「後ろの諸君、少しウルさいですよ」教壇から叱正の声が飛び、3人の学生は舌を出して頭を掻いた。
当時のプラハは、教会改革運動の中心地であった。
この当時、中世欧州の社会思想を席巻してきたローマカトリック教会は、組織の肥大化に伴う硬直化、そして封建領主化に伴う世俗化によって、神の教えを民衆に伝えるという本来の目的を見失いつつあった。
聖職者の資格(聖職禄)は、土地の領有権などといった経済的利益に直結することで、神聖な職務資格どころか、単なる権益と化していた。そのため、聖務を怠り、地代の取立てに励んだり、情婦を囲ったり、娼家を経営したりする生臭坊主の姿が、数多く見られたのである。
特にチェコではこの傾向が強く、領土全体の3分の1以上が聖職者の所有物だったと言われている。この国では、巨額の地代を負担させられる農民はもちろん、権益を脅かされる封建貴族たちも、清貧であるべき聖職者が幅を利かすこうした世相に強い不満を抱いていたのである。
また、カトリックの総本山であるローマ教皇庁も、この頃は軍事力で近隣諸国を攻撃するなど、一般の封建領主と変わらぬ行動を見せ始めていた。それだけではない。教皇の地位を巡って日常的に内紛が起こり、それに付け込んだ世俗勢力の介入によって、教皇庁が分裂するという事態に見舞われていた。この結果、フランス南部のアヴィニヨンとイタリアのローマとピサに、3箇所もの教皇庁が並び立ったのである。いわゆる教会大分裂(シスマ)である。
この未曾有の大混乱を前にして、信心深い人々の心は大いに揺れた。
しかし、ローマカトリックの教義では、人々は教会を信じ、教会に縋ることで、初めて神の御元に辿り着けることになっている。つまり、教会の権威は、唯一無比の絶対だったのである。その教会が腐敗し、堕落したとしても、それを表立って批判する勇気を持てる庶民は少なかった。
ところが、大学を中心に、神学とそれに連なる哲学が発展してくると、状況は大きく変わる。14世紀末、イングランド・オックスフォード大学のジョン・ウイクリフは、『理性』を重視する立場から教会批判を行なった。すなわち、本当の教会は、人々の心が織り成すものであるから、なにも世俗化したカトリック教会に頼る必要は無い。理性さえ磨きつづければ、いつでも誰にでも天国の門が開かれているというのである。
この考え方とウイクリフの著作は各地に伝播し、欧州各国の大学で活発な議論が戦われた。
プラハ大学でも、年頭の公開討論会で、毎年のように活発な論戦が行なわれた。
この大学では、出身地の民族別に部会が編成されていた。チェコ人部会は、指導者のスタニスラフの影響でウイクリフの支持に回ったが、ドイツ人部会は伝統的な教会擁護に傾いていた。そのため、チェコ人とドイツ人の激しい論戦が、数年にわたって続いたのだ。だが、その状況は、所詮は象牙の塔の遊びであって、社会を動かす力には成り得なかった。
この状況を大きく変えたのが、大学総長だったヤン・フスである。
彼は、ベツレヘム礼拝堂の説教師という地位を利用して、ここに3千人を超える庶民を集め、平易な分かりやすい口調で教会批判を展開したのである。ここに、ウイクリフの教説は大衆化し、フスの教えに触れた人々は、本来の使命を忘れて高利貸しや地主を営なみ、庶民から呵責無い取立てを行なう僧侶たちへの反感を募らせていったのである。
プラハ大司教は、フスの行動に恐怖を感じて再三にわたって教皇庁に誣告を行ない、危機感を募らせた教皇庁は、フスを破門し、異端者の烙印を押した。しかし、ボヘミア国王と大貴族たちがフスを擁護したため、フスへの『聖務禁止令』は実効を持たなかった。国王と貴族たちは、プラハ市民に絶大な支持者を持つフスを敵にしたくなかったのである。
フスは、この剣呑な情勢を見て、しばらく舌鋒を緩めていたのだが、やがて看過できぬ情勢が到来した。
彼を憤激させたのは、贖罪状の問題であった。贖罪状とは、教会が発行するお札である。これを買えば、全ての罪が許されて天国に行けるという内容だから、純朴な庶民は買わざるを得ない。しかし、こうして得られた資金が何に使われるのかというと、戦争の軍資金なのである。教皇庁は、傭兵を雇ってナポリ王と戦争するために、この贖罪状を発行したのであった。「殺すなかれ」という神の教えに背く行為を、教皇庁自らが率先しているわけだ。
激怒したフスは、より厳しく教会勢力と対決する決意を固めたのである。
時に、1412年9月のことであった。
ベツレヘム礼拝堂は、旧市街の南西部に置かれた施設である。ここは、ウイクリフの教説を最初にチェコにもたらした修道士ヤン・ミリーチらが築いた、庶民のための簡素な造りの教会だ。この日曜日は、噂を聞きつけた群衆が朝からひしめきあって、大変な盛況であった。
その多くは、新市街の労働者である。彼らは、フスの口から紡がれるチェコ語の説話を、何よりも楽しみにしている人々であった。左官のハシクやヴィリームの姿も見える。遅参して席に座れなかった人々は、石造りの壁際に蟻集して、その耳目を演壇に向けていた。
貴賓席には、チェコ土俗の礼服を纏った貴族たちの姿もあった。彼らは、美しく着飾った妻たちや子供たちと共に、演壇に立つ小柄な黒衣の人物を興味深げに見つめていた。
演壇に立つヤン・フスは、年のころ40半ば。細めた両目に宿る、柔和な優しさが印象的な人物であった。ひときわ小柄な体躯からは、何か、不思議な力が立ち込めている。
「先生・・・」
「お変わりないなあ」
演壇にほど近い壁際に立つ自由学芸部の学生たちの中で、イジーとぺトルは笑顔で囁きを交わした。そして、油断ない目で周囲を眺めた。怪しげな人物は見当たらない。
「今日は、平和に行きそうだな」
「いや、油断できんぞ。・・・おっ、ぺトル、入り口を見ろ。今、入ってきたあいつ、見覚えあるだろう」
そこには、庶民たちの人いきれに混じって、印象的な蓬髪の姿があった。黒いマントの下に薄い皮鎧だ。目立たないようにしているが、その隻眼からは不思議な精気が溢れている。
「あの黒い眼帯は」
「間違いない。こないだ、新市街の南門で見た盗賊騎士の首領だぜ」
「何しに来たんだろう」
「分からん。何しろ、よそ者。要注意だな」
そのとき、フスの深みのある優しい声が礼拝堂に響いた。
「神の子イエスに、幸いあれかし」
聴衆は、一斉に唱和した。
「いついつまでも!」
これは、チェコの農村部に伝わる庶民的な挨拶である。農村出身のフスは、この挨拶で講話を始めるのが常だった。
フスは、卓上に置かれた分厚い聖書を持ち上げたが、少し思案してから、それをまた元に戻した。
「マタイ伝はよしにして、神の子イエスのお話をしましょう」
説教師の優しい声は、礼拝堂の穏やかな空気の中に染み渡って行く。
ぺトルが、視線に気づいて首を回すと、礼拝堂の入り口近くの壁際に、酒場娘マリエの笑顔があった。彼女は、太鼓腹の父親と小柄な母親に挟まれて、小さな弟の肩を抱きながら、ペトルに微笑みかけるのだった。
その隣では、学生仲間のホンザが、屈強な二人の友を連れ、胸を昂然と張って屹立していた。入口付近を見張るのが、彼らの役目だったのだ。よしよし、手はずどおりだぞ。
「イエスが、山上で人々に説かれたのは愛でした」フスは、愛という言葉に力を入れた。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい・・・。他者に対する無償の慈しみこそが、神の喜びとなり、人々を神の国へと誘うのです」
フスの主題は、イエスの愛についての講話だった。そして、イエスの愛がいかに深く大きかったか、そして、無償の愛が人間らしく生きるために、いかに大切なものなのか。そして清らかな愛こそが、いかにこの世の真実を映し出すものなのか、穏やかに語り続けたのである。
「しかるに」フスの声は、凛々と響いた。その眼光は、さっきまでの優しさが嘘のように険しく尖る。「今の教会の在り方は、愛を忘れているとしか思えません。神の御心に背いているのです。彼らは、憎しみと悲しみを創造しているのです」
会堂を埋め尽くす貧しい人々は、大きなため息をついた。清貧であるべき聖職者たちが、教会の権威を武器にして大土地所有者となり、小作人から暴利な地代(レント)を貪り取り、奢侈で乱れきった生活を送っている実情は、もはや周知の事実だったのである。
「また、この世界にただ1人であるはずのローマ教皇は、フランスとイタリアにまたがって、同時に3人も即位しています。皇位継承争いの道具に各国の国王を用いたため、いまや大分裂に陥っているのです。なんという愚かしさよ。神は、お嘆きになられているでしょう。このような汚れた教皇庁が、神の声を私たちに伝えてくれるというのでしょうか。そんな訳はありません。彼らにふさわしいのは神罰なのです。なぜなら」
フスが高く掲げた右手の先には、教皇庁が発行した贖罪状の写しが翻っていた。
「彼らは、このような紙切れを用いて喜捨を取り、敬虔な信者たちからなけなしの財産を巻き上げ、イタリアで戦争を始めようとしているからです。教皇庁は、民を苦しめるだけでなく、殺人を犯そうとしているのです。『汝、殺すなかれ』。この福音に背いているのです。そんな彼らは、もはや神の恩寵を受ける資格がありません。彼らがミサで耳にするのは、きっと悪魔の声なのでしょう」
説教師の激烈な口調は、並み居る聴衆の心を強く打った。
「こうなったら、もはや腐敗した教会など要りません。みなさん一人一人が、自分自身で考えて心の中の真実を見つめるのです。もはや教会など要りません。本当の神の声は、真実を求める一人一人の胸に届くのです。真実を磨いてください。愛を育ててください。そして、自分自身の愛に照らして、真実を生きてください」
フスは、贖罪状を頭上に高く掲げると、これを両手で二つに破り捨てた。
聴衆は、大歓声で師に報いた。
そのときである。いつの間にか演壇に接近していた大柄な2人の男が、振り上げた棒を抱え、壇上のフスに向かって駆け出したのである。
「あっ」ぺトルとイジーは、同時に叫び、自分たちも壇に向かって駆け出した。あれは、教会側の回し者に違いない。
しかし、次の瞬間に若者たちが見たのは、意外な光景だった。
棒を振り上げて壇上に迫った2人の暴漢は、その背後からすかさず飛び掛った屈強な男たちに押さえ込まれ、礼拝堂の床に打ち倒されたのである。
唖然として立ち止まった2人の学生の横を、後ろから蓬髪の大男が走り抜けた。彼は、暴漢を押さえ込む5人の猛者に労いの言葉をかけ、床でうめく狼藉者たちの前に立ちはだかった。
「誰の手のものかは問わぬ。お前たちに命令を下した者に伝えよ。フス師は、このヤン・ジシュカが守るとな」
蓬髪の渋みのある鋭い声は会堂に響き渡り、ジシュカという名を聞いた暴漢の1人は、その目に恐怖を浮かべた。
壇上のフスは、それと対照的に、蓬髪隻眼の大男に優しい視線を投げると、再び群衆に向き直って講話を再開したのである。
イジーは、意外そうな素振りで大きく肩を竦めた。
「あの片目の大男、味方だったのか」
「ジシュカ・・・」ぺトルは、思案げにうなずいた。「有名なチェコ人傭兵隊長だ。ポーランドから帰ってきたのか。・・・そうか、あの黒い眼帯を見たときに気づくべきだった」
「なんだ、ぺトル、知っていたのか」
「・・・彼は、南ボヘミア地方の貴族の間では有名だったからね。若いころの内戦で、大貴族のロジュンベルクと対立して所領を追われたんだが、国外に移ってからメキメキと武名を馳せた。トロツノフのヤン・ジシュカ隊長は、風の噂では、いまだに戦で負けたことがないらしい。グルンヴァルトの戦い(1410)で、ポーランド軍がドイツ騎士団に勝利できたのも、ジシュカ隊長の活躍のお陰だそうだ」
「すごいじゃないか」イジーは、満面の笑みを浮かべた。「そんな人が先生の味方だなんて、こんなに心強いことはない。なあ、後で挨拶に行こうよ」
その間、暴漢2人組は、ジシュカの部下たちに小突かれながら、礼拝堂から連れ去られていった。おそらく、戸外で袋叩きにされるのだろう。そして、そのすぐ後から、入り口付近にいたホンザたちが、彼らに続いて礼拝堂を出て行った。
「ホンザたち、講演の途中だというのに、何しに行ったんだろう」と、ペトル。
「もちろん、リンチの見学だろう」イジーは、冷笑気味に答えた。「あいつ、血の気が多いからな。ジシュカの手下と一緒に、リンチを始めるつもりかもしれねえな」
「暴力は良くないよ。とはいえ、土産話がちょっぴり楽しみだな」
「まったくだ・・・」肩を竦めたイジーは、本心ではリンチに参加したかったように見える。
ともあれ、フスの講演は大盛況のうちに幕を閉じ、人々は愛と真実について深く考えながら家路についたのである。学校や書物の乏しいこの時代、優れた説教師の講話は、人々の生活を豊かにする大きな憩いであった。
イジーとぺトルは、礼拝堂に残ってジシュカの姿を探した。挨拶ついでに、勇名高い傭兵隊長の人となりを知っておきたい。
目指す隻眼の大男は、直立していた壁際で、多くの人々に囲まれて祝福されていた。
「先生を助けていただき、ありがとうございます」感謝の気持ちを込めて語る少女は、マリエだった。「ついては、プラハのおいしいビールをごちそうします。今夜、ウ・クリムにいらしてください。新市街の川沿いです。すぐに分かりますよ」
群衆の歓呼の声には無表情だったジシュカも、さすがにビールという言葉に破顔した。
「うわー、マリエのやつ、うまくやっているなあ」イジーは大笑した。
「本当にお客を増やしちゃったじゃん。お前にはもったいないなあ、あの娘は」
「これ、神聖な礼拝堂で、そのような俗事を口にするでない」
「あははは、教会の司祭の真似か、それは」
笑いながら壇上を見やると、みんなの尊敬の的であるフスは、大学の教授たちに囲まれて談笑していた。上品で暖かい笑みを浮かべる教授たちの中には、フスの師であるズノイモのスタニスラフや、フスの愛弟子であるイエロニームやヤコウベクの姿があった。
「ジシュカ隊長も先生も、忙しそうだ」二人の若者が、寂しいような嬉しいような吐息をついたそのとき、偶然こちらを見つけたフスが、輝く目で見つめてきた。
「先生」短く叫んだ二人は、満面の笑顔とともに恩師に駆け寄った。
「君たちは、自由学芸部の」
「ベロウンのイジーです」「ヘルチツェのぺトルです」
「元気そうだね」師は、力強くも暖かい声で応えてくれた。
「ありがとうございます」「先生もお元気そうで」
「なんとかやっている」師は、優しくうなずいた。「この礼拝堂は久しぶりだけど、少しも変わっていないので、ほっとしたよ」
「変わらなければ困ります」イジーが、憤然と言った。
「あはは、君こそ相変わらずだ」フスは苦笑した。「良いところは、変える必要などない。ここは、本当に良い人たちが集う良い場所じゃないか」
フスと2人の学生の対話を遠巻きにしていた教授たちは、やがてその輪を解き始めた。
「ヤン、それでは後でな」白い髭を生やしたスタニスラフが、フスに手を振って壇上から降りていったのだが、その表情はやや憂いを帯びていた。それを見送るフスも、一瞬、複雑な表情を浮かべた。
「スタニスラフ先生は」フスは、物問いたげな学生たちに向き直った。「ローマを訪れたばかりなのだ。あちらは、相当に険悪らしい」
「険悪・・・なんですか」ぺトルは、意味の分からぬままに頬を引き締めた。
フスは、そんな若者の気負いを感じて微笑んだ。
そのときである。屋外から、数人の労務者が駆け込んできた。
「た、たいへんです。旧市街庁舎の前で縛り首が」
「なんだって」壇上の人々は、飛び上がった。
ぺトルは、礼拝堂を襲った2人の狼藉者がジシュカたちによってリンチにあったのだろうと思った。しかし、旧市街広場に駆けつけた彼の前に広がっていたのは、意外な光景であった。
広場の中央に据えられた木製の処刑台の上に吊るされていたのは、まだ若い3人の学生なのだった。その中に、学友の姿があった。
「ホ、ホンザ。あれはホンザじゃないか」ぺトルの後ろでイジーは叫んだ。
「いったい、どうしてこんなことに」ペトルは呆然とした。
周囲に群がる野次馬たちに尋ねたところ、あの学生たちは、暴漢どもがジシュカの部下に殴られてボロボロになって放免されるのを見届けた後で、大司教館に乗り込み、贖罪状の販売を強く非難して暴れたのだという。そこを、駆けつけた国王の衛兵たちに捕縛され、間髪入れずに見せしめにされたというのだ。
「な、なんてことだ」
「神よ、彼らの魂を救いたまえ」
フスとイエロニームは、胸の前で十字をきった。その傍らでは、ジシュカとその部下たちが、怒りを含んだ視線で台上の学生たちを見つめている。
性急な正義感に突き動かされたに違いない哀れな3人は、事切れて間もないのか、ロープに首から吊られて伸びきった足の先を、ひくひくと痙攣させていた。
「国王め、ついに俺たちを裏切ったな」イジーは歯軋りした。
政治犯の処刑は、国王に決定権があったから、国王ヴァーツラフは、教会荒らしの知らせを受けて、すぐに処刑の許可を出したのに違いない。
「国王は国王で立場があるのだろうさ」いつの間にか、痩せのトマーシュが横に立っていた。この医学生は、無鉄砲な学生たちの死を、自らへの戒めと考えて冷静に受け止めていた。
「そんな立場なんて糞くらえだ」イジーは、医者の卵の耳元で怒鳴った。「ホンザたちは、神のために正義と真実を貫こうとしたんだ。そんな彼らに、あのような形の理不尽な死は、決して認められるべきじゃない」
「そ、そんなにムキになるこたあ無いだろう」
友人たちの激しい口論を耳にしつつ、ペトルが群衆の中から視線をさ迷わせると、フスとイエロニームは肩を震わせながら、ジシュカたちとともに広場を去っていくところであった。
ぺトルは、再びその厳しい視線を処刑台に向けた。
「真実を貫くためには、犠牲が必要。・・・そういうことなのだろうか」
彼は、イエスの非業の最期に思いを寄せた。イエスの死は、人々の心に、戒律に代わる愛という名の新たな真実を産みつけた。それならば、あの学生たちの死は、今度はどのような真実を生み出すのだろうか。こればかりは、どんなに考えても分からなかった。いや、今のペトルには、まだ答えが出せない難問であった。
沈思する彼の横では、市庁舎の壁に据え付けられたばかりのカラクリ天文大時計が、無情に時を刻んでいるのだった。