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1.西部の塹壕戦
2.東部の機動戦
3.ロシアの脱落
4.シベリア出兵と日本の戦争
1.西部の塹壕戦
もっとも、第一次世界大戦が短期戦に終わるだろうと思い込んでいたのは、ドイツだけでは有りませんでした。程度の差はあれ、他の参戦国も、みんなそう思い込んでいました。
1914年の8月に戦争が始まった時、ほとんどの参加兵士たちは、「クリスマスまでに家に帰れるだろう」と信じていました。兵士だけでなく、国家の指導者層も、そんな気分でいました。
その理由は、それ以前のヨーロッパの戦争が、すべて短期決戦で蹴りがついていたからです。たとえば、「普墺戦争」や「普仏戦争」は数か月で終わっています。こうした前例を見た国の指導者層や国民が、「短期の戦いなら、兵士の損耗も財政への悪影響も、たいしたことないさ」と安直に考えて、それで戦争に踏み切ったという心理的側面は見逃せません。また、若者たちの中には、「騎士道物語」のノリで、「かっこいいから」という理由だけで従軍した者が数多くいました。
しかし、実際に起きたことは、彼らの想像を完全に超えていました。
「普墺戦争」や「普仏戦争」が短期に終わった理由は、ビスマルクのドイツ軍が鉄道網を駆使した機動戦を展開することで、想定外の速度での襲撃に混乱した敵主力を、易々と包囲殲滅出来たからです。しかし、この貴重な戦訓は後世に伝えられて、ドイツの仮想敵国によって学習されました。つまり、「同じ手には二度と引っかからない」状況が生まれたわけです。案の定、フランスは鉄道網を駆使した防衛線を構築し、「シュリーフェン計画」を挫折させました。
それに加えて、ここ数十年で防衛用の兵器が著しく発達しました。機関銃や大砲の性能が驚異的に向上したために、たとえば「一丁の機関銃で数百人の歩兵の突撃を阻止できる」状況があちこちに生まれたのです。すなわち、従来は有効だった攻撃側の強襲作戦が、ことごとく無効化される戦場になったのです。
この戦訓は、実は「日露戦争(1904~1905)」で既に明らかになっていました。有名な「旅順要塞の戦い」において、突撃を仕掛ける日本の大軍が少数のロシア守備隊に翻弄される様子は、ヨーロッパの観戦武官たちもその場で見ていたはずです。しかし、ヨーロッパ人の将校は、ロシア人と日本人を「前近代国家」だと思ってバカにしていたので、そこから教訓を引き出すことを怠ったようです。
こうして、第一次大戦の戦場のあちこちで「旅順要塞」のような戦局が出現しました。深い塹壕や堅固な要塞の中で機関銃を構えて待ち受ける防御側に向かって、大砲の支援を受けながら突撃する歩兵の大軍。その結果は、攻撃側の死屍累々。
特に、戦場正面が比較的狭く、武器や資材が豊富な西部戦線(ベルギーとフランス)がそんな状況になりました。やがて、この戦線での同盟国(ドイツ軍)と連合国は、互いに塹壕を構えてその中に立て籠もって睨み合う形勢になりました。攻撃を仕掛けた方が、必ず負けるからです。だったら、とりあえずは両軍とも守りに入るしかありません。
しかし、睨み合ってばかりでは、戦争は終わりません。両陣営とも、長引く戦争で経済が著しく疲弊して行きます。早く相手を負かさなければ、国家が内側から崩壊してしまう。
そこで開発された新兵器が、「毒ガス」と「戦車」です。
「毒ガス」は、砲弾の中に致死性のガスを入れて、着弾と同時に周囲に撒き散らす兵器です。最初のうちは、塹壕の防御側にパニックを巻き起こしましたが、ガスマスクを事前に用意することで、ある程度は無効化できました。ちなみに、ヒトラーは、ドイツ軍の前線兵士としてイペリット・ガス弾の攻撃を受けて、入院している最中に終戦の報を受けたことで知られています。
「戦車」は、ご存知の通りの兵器です。イギリス軍での開発時の暗号名「水槽(Tank)」が、そのまま英語の固有名詞になってしまったという可哀想な兵器。だけど、「敵の機関銃弾を弾き返しながら、塹壕を軽々と乗り越えられる兵器」という点では、毒ガスよりもよっぽど強力で頼りになりました。ただし、第一次大戦では、数が少なかった上に機械的な故障が多く、その潜在的実力を十分に発揮できませんでした。したがって、戦車の戦略的な破壊力の凄まじさは、第二次大戦になって初めて明らかになります。
また、飛行機や潜水艦が、兵器として大々的に活躍したのもこの戦争からです。
いずれにせよ、「西部戦線」は、両軍が塹壕を挟んで睨み合いを続け、先に大攻勢を仕掛けた側が大損害を出して撃退されることの繰り返しでした。
やがてドイツ軍は、この方面での勝利を諦めて、その視線を東に移すようになります。
2.東部の機動戦
東部戦線は、西部と違う様相を示しました。戦線が常に流動するような、激しい機動戦になりました。その理由は、この方面の主役であるはずのロシア軍とオーストリア軍が、どちらも体力不足だったことにあります。西欧列強のように、堅固な塹壕を構築し、あるいは強力な防御兵器を駆使することが出来なかったのです。
ロシア軍は、ドイツ軍との戦いでは「タンネンベルクの戦い」で大敗を喫しましたが、オーストリア軍との戦いでは、むしろ圧倒的優勢でした。ガリシア地方(ハンガリー東部)に対する「ブルシロフ攻勢」(1916年6月)では、オーストリア軍に再起不能の大ダメージを与えています。この時にロシア側の主力となったのが、オーストリアから脱走してきたスラヴ系民族を中心に編成された「チェコ・スロヴァキア軍団」。これは、オーストリア宮廷にとって完全に想定外のことだったでしょうね。
またロシア軍は、南部のコーカサス地方では、オスマン軍の大攻勢(サムカムシュ作戦)を撃退し、むしろ反撃してオスマン領に攻め込んでいました。
しかしながら、前近代的な戦争経済体制の脆弱さが足を引っ張ります。具体的には、武器弾薬や軍装や食料の供給が追い付かないのです。ロシア兵の中には、軍靴が支給されないため裸足で戦っていた者も多かったと言います。こういった補給兵站の問題は、敵地深くに攻め入れば攻め入るほど顕在化して行きました。おまけに、予期せぬ長期戦です。財政面での疲弊が日増しに募り、ロシアの民衆生活が急激に悪化しました。
こうして、体力が尽きてへたり込んだロシア軍に、破局が訪れます。
ドイツ軍が戦略方針を変更して、先に東部戦線から片づけようと考えたのです。
1915年5月の「ゴルリッツ攻勢」で、ロシア軍は壊滅状態になりました。同年8月にはポーランドを完全に放棄して東に逃れます。すなわち「大崩壊」です。
ドイツ軍は、セルビアに対する攻撃も開始しました。隣接するブルガリア(「第2次バルカン戦争」を通じて、セルビアを憎んでいた)を唆して挙兵させ、セルビアを挟み撃ちにしたのです。
セルビアは、これまでにオーストリアの攻撃を3度も跳ね返すほど粘り強かったのですが(っていうか、オーストリア弱すぎだろう!)、このドイツとブルガリアの挟み撃ちには耐えきれず、国王と政府はアルバニアに亡命。ここに、セルビア全土が同盟国に占領されて、第一次大戦勃発の原因となった国は戦争から脱落したのです(1915年10月)。
味方を失って焦る連合国でしたが、やがて、ルーマニアを説得して味方に付けることに成功します(1916年8月)。ルーマニアはオーストリアに対して領土的野心を持っていたので、オーストリアの予想外の弱さを見て勝ち馬に乗ろうとしたのです。イタリアと同じ発想ですね。しかし、タイミングが悪すぎました。ドイツ軍が東部戦線で攻勢を強めているそのタイミングで挙兵したものだから、駆けつけたドイツ軍によって、あっという間に秒殺されました。ルーマニアは、もうちょっと空気を読んで行動すれば良かったのに(苦笑)。
こうして、東部戦線で全ての同盟国を失ったロシアは、ドイツ軍の猛攻撃の前に、ついに国家そのものが瓦解します。
1917年3月、「ロシア革命」の勃発です。
3.ロシアの脱落
長引く戦争によって経済が疲弊し、しかもドイツ軍の総攻撃によって崩壊状態になったロシアで、ついに群衆の暴発が起こります。これが「ロシア革命」です。
皇帝ニコライ2世は退位し(後に処刑)、共和主義的な新政体が生まれます。しかし、新政府がなおもドイツとの戦争を継続しようとしたため、それに不満を持つ勢力を中心にして「第二革命」が勃発しました。これが、レーニン率いるボルシェビキ党による社会主義革命と呼ばれる事件です。
「フランス革命」もそうでしたが、この手の暴力革命によって成立した新政権は、前政権よりも遥かに凶暴になる傾向にあります。その理由は、その国の民衆はもちろん、そもそも新政権を起こした人たちに政治の経験が乏しいので、どうしたら上手に統治できるのか分からないのです。そこで、混乱を鎮めるために、前政権よりも悪質な暴力を使わざるを得ないのです。しかもロシアは、強力なドイツ軍による侵攻をモロに受けている最中だから、事態が血なまぐさくなるのが当然です。
それでも、レーニン政権はドイツとの講和を模索します。こうして成立した「ブレスト=リトフスク条約」(1918年3月)は、ドイツにひたすら謝罪する形の講和だったので、ロシア領のかなりの部分がドイツに割譲されることになりました。
これに焦ったのが、連合国です。このままでは、東部戦線のドイツ軍が大挙して西部戦線に移動するから、敵の戦力が倍増してしまう。そこでイギリスとフランスは、アメリカや日本と語らって、シベリア方面に軍を送り、ボリシェビキ政権とそれと連なるドイツ軍を同地に拘束しようと画策します。これが、「シベリア出兵」です。西欧列強は、それと同時に、ロシア国内の反レーニン勢力(白軍)を支援することで、ロシアを再び連合国に引き戻すよう画策します。
しかし、これらの政策は、ロシア全土を悲惨な内戦状態に陥れ、ロシア人とロシア政府の心に、西側世界に対する深い恨みと猜疑心を残しました。しかも結局、ドイツ軍を東部に拘束することは出来ませんでした。
そして、この時にロシアが抱いた外国に対する負の感情は、第二次大戦と冷戦時代を通して生き残り、今日の世界にも大きな悪影響を及ぼしています。プーチン政権のあの態度は、この時代にまで遡って考察しないと理解できないものです。
4.シベリア出兵と日本の戦争
実は、このロシア内戦において、もっともアグレッシブに行動したのが日本でした。
日本は第一次大戦に参戦してみたものの、極東のドイツ植民地軍があまりにも弱かったので、わずか数か月で戦闘の決着が付いてしまいました。
その後、海軍は、連合国の商船護衛のためにはるばる地中海にまで出張したりしましたが、陸軍はやることが無い。そんなところにロシア内戦が勃発したものだから、陸軍は大喜びです。アメリカと取り交わした「兵員7千名が上限で、ウラジオストック以西には進軍しない」という約束を破って、なんと7万人もシベリア鉄道広域に送り込み、イルクーツクまで占領したのです。もちろん、ロシアの東半分を征服支配するためです。アメリカが激怒したのは、言うまでもありません。
第一次大戦の混乱に際しては、陸軍だけでなく政治家も官僚も大喜びでした。なにしろ、ヨーロッパ全土が政治経済の両面で大混乱なので、やりたい放題です。ロシアのみならず、中国にも激しく進出し、「対華21箇条」なる内政干渉通達を中華民国政府に押し付けたり、あるいは親日的な軍閥に資金援助を重ねたり、あからさまな侵略行動を繰り返しました。
それに乗っかったのが財閥で、政治家や官僚に寄生してかなり悪どい儲け方をしました。なにしろヨーロッパ企業が麻痺状態なので、彼らのシェアを奪い放題です。それに加えて、長引く戦争によって全世界規模で大幅な供給不足が生じたこともラッキーでした。「成金」という言葉が流行したのも、このころです。これは将棋にたとえて、貧乏な会社が突然金持ちに成る(歩が金になる)状況から来た言葉です。
さて、日本軍は、ロシア内戦がレーニン政権の勝利で終結した後も、シベリアに駐留し続けました。アメリカをはじめとする諸外国からの撤退要請も受け付けません。それどころか、日本政府の指示も無視しました。
実は日本陸軍は、この時に気づいたのです。「概説・太平洋戦争」でも述べたことですが、日本軍は内閣ではなく、天皇に直属する存在なので、政府の命令を無視しても良いのです。首相の命令に対して、「統帥権干犯!」と応えるだけで、勝手に暴走出来ちゃうのです。この魔力を、陸軍に身を持って思い知らせたのが、第一次大戦時のシベリア出兵だったわけです。
そこでレーニン政権は、日本の大軍を国土から追い出すために術策を用いました。まず、「極東共和国」というダミー国家をロシア東部に設立し、これが日本の傀儡政権であるように偽装します。これを見た日本軍が、油断してシベリアから出て行った後に、これを吸収合併したのです。この過程で、レーニンやスターリンのみならず、多くのロシア人が日本を激しく恨みました。
ロシア人だけではありません。日本にバカにされた上で食い物にされた中国、利権を食い荒らされたアメリカやヨーロッパ諸国、みんな日本に不信感を抱いて恨みました。
ところが日本軍は、そんなことも知らず、「暴走」の美酒を味わって楽しみました。機会があれば、また暴走する気まんまんでした。
実は、大日本帝国が昭和になってから袋叩きにあって滅亡したのは、第一次大戦に直接的な原因があったのです。
なぜか、誰も指摘しないみたいですけどね。