歴史ぱびりよん

農奴制とコサック

ロマノフ家のその後を見る前に、ロシア史の特色と言える農奴制とコサックについて考えてみましょう。

まずは農奴制について。

農奴というのは、ロシア単独の概念ではなく、程度の差はあれ、全世界のあらゆる地域の歴史の中に必ず一度は存在した概念だと思われます。ただ、ロシアはこの悪しき制度を、19世紀になるまで続けていたというのが特徴的ですね。

農奴制がなぜ必要になるのかと言えば、結局は税金の問題です。前近代的な国家は、国内産業が農業しかないので、税金を農民から搾り取るしかありません。そして、前近代的な国家は慢性的に戦争をやりたがるし、権力者が無制限に贅沢をするので、どうしても重税体質になります。必然的に、農民の双肩に過重な税金が覆い被さるわけですが、耐え切れなくなると、彼らは一揆を起こすか逃散します。ロシアの農民は、かなりの頻度で逃散しました。

しかし、権力者からすると、逃散は税収が減ることを意味するので不都合なのです。そこで、農民を土地に縛り付けることでこれを防ごうとします。逃散した農民は、見つけ次第元の土地に強制送還されるか処罰を受けることになりました。これが、農奴制です。農民は、特定の土地に縛り付けられて、土地所有者(貴族など)の私有財産になったのです。

農奴制自体は、定義の取り方にも依るのでしょうけど、どこの世界にも一時は普遍的に見られた社会現象です。しかし他の地域では、歴史の進展とともに商工業や金融、貿易などの諸産業が発展して行き、為政者はそこから税金を取る方向へとシフトして行きました。その結果、農民の税負担は次第に減っていき、必然的に農奴制も無くなりました。

しかしながら、ロシアはこれまでの記述からも窺えるように、かなりの後進国だったので、19世紀になっても主な課税対象が農民のみという異常な経済社会で、なかなか農奴制を卒業出来なかったのです。こうした後進的な社会構造の後遺症が、現在のロシア人の一般的な気質にまで尾を引いているように思えます。

次に、コサックについて。

これは、農奴の問題とも密接に関連します。農地を捨てて逃散したロシアの農民が、公権力の追及を逃れてどこに向かうかと言えば、追及の手が及ばないコサックの領地である場合がほとんどでした。

コサック(あるいはカザーク)の起源については、諸説あってはっきりしないのですが、ウクライナを中心とした草原ステップに割拠していた武装集団です。日本史で言えば、平安時代に関東一円に割拠していた武士団がそれに似たイメージでしょうか。そんな彼らは、狩猟や交易、略奪などで生計を立てていました。

もともと草原ステップ地帯は、スキタイやポロヴェッツに代表される遊牧騎馬民族の棲家でした。彼らは一つの国家に組み込まれることを嫌い、部族ごとに割拠する傾向がありました。モンゴルに支配されるようになってからもそれは変わらず、もともと寛容で緩かったモンゴル諸王朝は、そういった分派勢力の存在を容認していたのです。

モンゴルが衰退して、ロシアやポーランドが勢力を強めてからも、コサックは長い間その存在を許されていました。彼らは、有能な騎馬戦士集団として傭兵になってくれたし、何よりも、当時の世界最強国家だったオスマン帝国(トルコ)との間の軍事的緩衝勢力となってくれたからです。ロシアもポーランドも、トルコと直接国境を隣接させるのが怖かったのです。

しかしながら、ロシアやポーランドからの逃散農民を吸収しやすい立ち位置にあったコサックは、しばしば勢力を強め、これら2国に歯向かうことも有りました。また、逃散農民の中には、逃散集団ごと遊牧民の生活様式に同化して、そのままコサックになるものも多かったのです。

ドン河コサックの首領ステンカ・ラージンの大規模な反乱(1670~71年)は、ロシア政府を震撼させました。ラージン自身は今でもロシア国民に愛されて、絵画の題材になったり民謡の主人公になっていたりします。日本史で言えば、平将門に似ている人物ですね。民衆を庇って戦った英雄は、敗北したとしても、あるいは敗北したからこそ、いつの時代でもどこの世界でも、多くの人々から愛され続けるのです。

一方、ほぼ同時期に起きたポーランドに対するザポロジェ・コサックの大反乱は、ロシアにウクライナへの介入の口実を与え、アレクセイ帝による大拡張の踏み台となりました。反乱軍の総大将だったボグダン・フメリニツキーは、アレクセイ帝に忠誠の誓いを立てる代わりに自治権を獲得します。

これが、ロシアによるウクライナ併合の歴史的な根拠となっているのですが、逆にウクライナ側から見れば、ウクライナの独立をロシアに承認させた根拠になっています。歴史の解釈というのは、常に恣意的なものなのですね。

そもそもフメリニツキーは、ウクライナ民族の独立ではなくて、自分の個人的な縄張りや部族の利権を、ロシアに認めさせただけという気がします。近世以前の世界では、国家とか国民という概念自体が存在しないか極めて未熟だったので、現代人の価値観や常識をそのまま当てはめようとしても無意味だと思うのですが。

いずれにせよ、ポーランド王国の決定的衰退を招いた17世紀の「大洪水」と呼ばれる軍事的大敗北は、コサックの反乱がきっかけとなって起きたのでした。

以上のように、農奴とコサックの問題は、ロシア史を語るうえで欠かせない大きなファクターなのです。