歴史ぱびりよん

第三話 古代王朝

nintokuryou

伝・仁徳天皇陵

1、『記紀』と神話の世界
 
 現存する日本国内最古の歴史書は、『古事記』である。実は、これ以前にも歴史書はあったのだが、内戦や思想統制によって焚書となって残っていないのである。そういう意味で、『古事記』と、その後に成立した『日本書紀』(両者を纏めて『記紀』と呼ぶ)を、政治的プロパガンダの書物として信頼しない学者も多い。
 
 ただ、誤解を恐れずに言わせて貰えば、歴史書(特に、国が編纂した正史)というのは、もともと政治的プロパガンダのために作られるのである。例えば中国の正史は、新王朝が前王朝を滅ぼした際に、新王朝が自己正当化のために作るものなのである。それを真似して作った『記紀』も、正史である以上、政治的なバイアスが罹っているのは、むしろ当然のことである。だから、それを承知の上で読めば、むしろ当時の状況の裏の裏まで読み取ることができるのだ。
 
 『記紀』を通読してまず感じるのは、この書物の最大の目的が、天皇家の「万世一系」を強調することにあるという点である。
 
 『記紀』は共に、神話の世界から説き起こしている。イザナミ、イザナギ、アマテラス、スサノオといった神々が降臨し、日本を形造ったという内容である。これは、キリスト教のアダムとイブの創世神話にも良く似ているが、神々の人間臭さや多様性は、むしろギリシャ、ローマ、インド神話の世界に近い。これは、神々を身近な親しみやすい存在と考える多神教に共通の特徴なのであろう。
 
 そして、天皇家というのは、この神々の子孫ということになっている。具体的には、九州は日向(宮崎県)にいた豪族が畿内に軍事侵攻し、ここを征服した結果成立したのが、いわゆる大和王朝だというのだ。この豪族が、いわゆる神武天皇である。彼は、アマテラスの直系の子孫ということになっている。そして日本の天皇家は、この神武天皇の血筋が途切れなく続いていることになっている。これが、いわゆる「万世一系」の伝説なのである。
 
 だが、『記紀』の記述は裏づけが取れない。神武天皇の事跡については、海外の史料には全く見えないし、遺跡の発掘もない。また、彼は九州南部出身の豪族であるにもかかわらず、彼の子孫が九州の豪族たちと慢性的な戦争状態にあったという事実は、実に不可思議に思われる。
 
 ともあれ、天皇家発祥の経緯を巡る歴史は、依然として謎に包まれている。『記紀』の記述を、全面的に信用することができないからである。なにしろ、『記紀』には、あの有名な邪馬台国の記述が存在していないのである。

 
2、邪馬台国の謎
 
 古代史の中でも、最もポピュラーな話題は、邪馬台国と女王卑弥呼の伝説だろう。これらは、遺跡の発掘が無いために、その所在地すら分からないミステリアスな存在なのである。この謎の王国に関する記述は、3世紀に成立した中国の正史『三国志』魏志東夷伝倭人項(いわゆる魏志倭人伝)の中にある。ところが、この書物にしか記述がないため裏づけも傍証も取れないので、王国の存在自体を否定する学説もある。実は、『三国志』の筆者である陳寿は、邪馬台国に関する記述が「また聞き」であって、その内容に信憑性がないことを本文の中で独白しているのでる。それゆえ、陳寿の記述を精読して王国の所在地を探すという作業は、おそらく徒労に終るに違いない。
 
 ただ、『三国志』の記述には、参考になる点が多い。例えば、日本にはいくつもの王国が群雄割拠していて、互いに争いを繰り広げていたこと。祈祷士(シャーマン)のような女性が王位に就くと、国が纏まり安いこと。これらの記述は、前後の状況を勘案すると、3世紀の日本の政治状況を、ある程度正確に伝えていると思われる。
 
 3世紀の日本は、豪族間の熾烈な闘争に晒されていた。これは、おそらく寒冷期の到来によって、国内が慢性的な食糧不足に陥ったからであろう。事実、縄文時代末期から人口の大激減が起きている。弥生時代における稲作の普及によって、ようやく人口が増加に転じたのである。そして、3世紀の「倭国大乱」は、この過程における政治再編成を意味していたのではないだろうか。
 
 稲作の普及は、特定の土地に定住する人々を生む。自然に、その中で階級格差が生まれ、政治的な秩序が出来上がる。これが、王国の事始めである。佐賀県の吉野ケ里遺跡などを見ると、この時代の環濠集落の様相が良く分かる。周囲に堀を穿ち、四方に物見櫓を立て並べ、厳重な防備を施した集落の有様は、物騒なこの時代の世相を良く表している。稲作の推進によって食糧不足を解消していく過程で、他の集落や飢えた狩猟民たちとの戦争が日常的に起きたに違いないのだ。やがて弱肉強食の淘汰が進み、生き残った集落はその規模と統治範囲を広げていった。
 
 卑弥呼の治める邪馬台国は、この過程で登場した王国であっただろう。いまだ天下統一には程遠く、周囲にはいくつもの敵対国があった。苦戦にさらされた女王は、政治的威信を高め、また経済的な実利を得るために、中国に使者を遣わして朝貢を行なった。そのために、この王国と女王の名が、中国の正史に登場する運びとなったというわけだ。
 
 それゆえ、邪馬台国の国力と、この王国が果たした歴史的役割を過大評価するべきではない。中国人にとって邪馬台国は、玄界灘を超えてはるばる朝貢に来た健気な蛮族に過ぎないから、中国の威信を強調するために、邪馬台国の国力と距離を誇大に記述している可能性も捨てきれないからである。

 
 実際の邪馬台国は、日本列島に何十も何百もあった一地方勢力に過ぎなかったのかもしれない。歴史の中で一瞬だけ輝き、そのまま人々の記憶から忘れられた儚い存在だったのかもしれない。それゆえに、『記紀』の記述から除外されているのだろう。
 
 ただ、注意すべきは邪馬台国の統治機構である。アニミズムに基づくシャーマンが、鬼道(占い)を用いて人々を支配したというのだ。統治者=祭祀者という仕組みは、原始のケルト民族やゲルマン民族に良く似ている。ケルトやゲルマンは、キリスト教やローマ法の浸透によってそうした統治法から次第に離れていったが、日本ではそれがそのまま残りつづけた。これが、天皇制の淵源だと考えられる。
 
 次に、天皇制の成立について見ていこう。

 
3、大和王朝と古墳文化
 
 『記紀』の記述を鵜呑みに出来ない以上、最初に日本を統一した王権を特定する作業は容易ではない。ただ、最初の統一王朝の都が大和(奈良県)に置かれたことは首肯できるので、この文中でも、これを大和王朝と呼称することにする。
 
 大和王朝は、しかし中央集権国家ではなかったようである。なぜなら、その領域内の地方ごとの文化や風俗が、異なるまま残されているからである。例えば、祭器である銅鐸は出雲地方でのみ出土される。王の墳墓である古墳も、地方ごとにその形状や規模を異にしている。これらは大和の様式に変化していく場合もあるが、その変化は極めてゆっくりであるから、平和的な文化交流の結果の出来事としか思えない。つまり、大和王朝は、複数の王国が連立する形で成立した、一種の連邦国家だったと考えられる。
 
 発掘調査や『記紀』の記述を頼りに見ていくと、最初は大和と出雲の二大王朝が連立し、次第に周辺の諸王朝が連帯していった(出雲王朝は、戦争に敗れて大和王朝と連立した可能性が高い~「国譲りの神話」)。関東地方と九州北部は、その後で時間をかけて吸収していき、最後まで敵対したのが南九州(熊襲)と東北(蝦夷)という図式になるだろう。
 
 ヤマトタケルの神話は、九州と関東を平定する英雄物語である。これは、大和王権の伸張の様相を今に伝えたものであろう。ただ、ヤマトタケルが、大軍を率いた司令官として描かれていない点に注意すべきである。これは、大和王朝の進出が、比較的平和的に行なわれたことを表しているのかもしれない。
 
 大和王朝は緩い連邦制国家だったので、各地に有力な豪族や王が割拠していた。彼らが、おそらくは自らの威信を高めるために築いた墳墓が、「古墳」である。この「古墳」には、規模や形状など様々な種類がある。
 
 筆者は、中学生のころに「考古学研究部」に所属して、近所の古墳の計量作業に勤しんでいたのだが、神奈川県北部の古墳は、小高い山の中腹に横穴を穿ち、その中に玄室を設けるという造りであった。つまり、自然の山々をそのまま墳墓に見立てていたのである。
 
 より実力のある王や豪族は、大勢の人夫を動員して山を造り、その中に玄室を設けるというやり方を取った。このやり方だと、墳墓の形を自由にアレンジできる。こうして、いわゆる円墳、方墳、前方後円墳などが姿を現す。大阪にある仁徳天皇陵(と呼ばれている墓)は、世界最大の面積を誇る前方後円墳である。
 
 ただ、古墳というのは、日本のオリジナルではない。中国にも朝鮮半島にもあるから、大陸や半島から渡来してきたものである可能性が高い。鍵穴のような形の前方後円墳は、日本のオリジナルであるが、しかしこれは、大陸や半島にある円墳と方墳をくっつけ合わせたものであるから、完全なオリジナル作品ではないのである。この辺に、日本人の国民性が良く出ている。基礎研究の能力は低いが、応用研究に抜群の実力を発揮する国民性は、昔からのものだったのだ。
 
 猫も杓子も古墳を造る時代が長く続いたが、そのトレンドは6世紀に終わりを告げる。仏教伝来に基づく大寺院の建造が、古墳の代わりになったからである。
 
 現在、「○×天皇陵」というのが全国にゴマンとあるが、その殆どが発掘調査未了である。従って、本当は誰が埋葬されているのか分からない。天皇陵の名前は、宮内庁が独断と偏見で適当に付けているのである。こうした独断と偏見を投げ捨てて曇りない眼で発掘調査を進めれば、通説を覆す意外な結果が見えてくるかもしれない。

 
4、継体天皇と王権の正体
 
 『記紀』によれば、神の子孫である天皇家は万世一系である。しかし、本当にそうだろうか。曇りない眼で史料を見れば、天皇家はしばしば代替わりしていた可能性が高い。例えば、継体天皇の即位の経緯は、非常に興味深い。
 
 『日本書記』によれば、天皇家の子孫が途絶えたとき、重臣会議が開かれた。重臣の一人の大伴金村が、北陸にいる皇子の名を出したので、それに決まった。この皇子が、後の継体天皇である。皇子は、北陸で金村を出迎えたとき、椅子に座っていたという。
 
 このエピソードが奇妙なのは、第一に、金村が指名するまで誰も継体の存在に思い当たらなかったという点である。第二に、継体が、北方騎馬民族の風習である椅子を用いていたという点である。
 
 この事件を解釈するなら、天皇位はもともと、有力豪族の合議で決定されていた。選出元は、おそらく大和政権か出雲政権のいずれかの王家だったのだろう。どちらかの王家が途絶えたら、もう片方の王家から天皇を選出するシステムだったのではあるまいか。たまたま両方の血統が絶えたので、天皇家は断絶の危機を迎えた。そこで大伴金村が提案したのは、従来は天皇選出元でなかった北陸王朝から天皇を迎えようということだったのだ。これはコロンブスの卵と言うべき提案であったが、その後の金村の立身出世を見るに、彼はもともと北陸王朝の関係者だったのかもしれない。北陸の継体が椅子に座っていたというのは、北陸王朝がもともと、渤海方面から日本海を越えて移住した民族の末裔だったと解釈すれば納得できる。
 
 大和王朝は、各地方の王国が結合した連邦国家であった。その最高指導者の選出を、各国が選挙のような形で実施していたというのは、それほど突飛な想像でもあるまい。
 
 これには、歴史上の事例がある。中世ヨーロッパにおいて、神聖ローマ帝国の皇帝は、帝国を構成する王国の選挙によって選ばれていた。候補者の血統が途絶えた場合は、局外の王家から皇帝を迎え入れることがあり、その選出を巡って王国間で戦争が起きることもあった。こうした事情で、神聖ローマ皇帝の権威は弱かった。皇帝は、自らの威信を高めるためにローマ法王の宗教的な権威を利用しようとし、両者の間でしばしば政治的な摩擦も起きたのである。その点、日本の天皇は、神道の大祭主を兼ねていたから、宗教的権威の確保と維持に困ることは無かっただろう。
 
 納得できない読者も多いだろうから、駄目押しをしよう。
 
 古代史の謎の一つに、遷都の多さが挙げられる。天皇が変わるたびに、都が移転するのである。これは、世界史的にも珍しいことだ。井沢元彦氏は、「穢れ」という概念で説明しているが、おそらくそればかりではあるまい。遷都は、おそらく天皇の出身地の荘園になされるのである。選挙によって選ばれた天皇(あるいは、天皇を擁立する豪族)が、自分の勢力基盤がある土地を首都にしたのだ。そのため、代替わりするごとに首都が移転していったのだろう。これは、神聖ローマ帝国にも事例があって、皇帝の血統が変わるたびに首都が移転した時期がある。
 
 さて、こうして選挙で選ばれた天皇の地位は、どうだったのだろうか。
 
 筆者は、天皇には大きな権力は与えられなかったと想像する。実際の政治は、各王国代表の合議によって運営されていたと考える。国家の最高責任者に実権が与えられないという「日本型統治システム」は、古代から機能していたと考えるのが合理的であろう。
 
 中世ヨーロッパで言えば、天皇は、宗教的権威を発するローマ法王のような存在であり、そして、実権を握っていた政治家の代表である物部氏や蘇我氏や大伴氏が、欧州各国の国王のような存在だったのだろう。

 
5、神功皇后と朝鮮半島
 
 以上を前提に、朝鮮半島との関係を見ていこう。
 
 古代日本は、朝鮮半島と密接な関係を持っていた。
 
 古代の朝鮮半島は、いくつもの王家が分立し、互いに抗争状態にあった。これらの国家は、言語も宗教観も人種も異にしていた可能性がある。
 
 日本は、朝鮮半島西岸の百済(くだら)と、南岸の任那(みまな)と友好関係にあったため、これらの国と連合して新羅(しんら)や高句麗(こうくり)といった敵対勢力と抗争していたらしい。
 
 朝鮮半島北部で発見された「好太王碑文」によると、高句麗の好太王の軍勢が、この地で日本軍と決戦し勝利したらしい。古代の日本人は、半島の北部にまで攻め込んでいたのである。
 
『記紀』の記述は、しかし曖昧であり、「好大王碑文」に照応する史料は無い。曖昧な史料の中で印象的なのは、いわゆる神功皇后の「三韓征伐」である。
 
 神功皇后は、仲哀天皇の后であった。九州の豪族が反乱を起こしたので、夫に従軍して北九州に上陸したところ、神の託言が降りた。それによれば、九州は後まわしにして先に朝鮮を攻めるべきだというのだ。仲哀天皇は、その託言に逆らったために頓死した。残された皇后は、身重の体に鞭を打って、軍勢を率いて朝鮮半島に侵攻した。すると、予期せぬ襲来に恐れおののいた朝鮮の国々は争って降伏し、貢物を差し出したのである。
 
 『日本書記』のこの記述は、明治以降、政府によって朝鮮半島の領有を正当化するプロパガンダに利用された。しかし近年の学説では、神功皇后の実在すら否定される傾向にある。
 
 それでも、この記述は当時の国際関係の一端を現しているように思われる。すなわち、「九州よりも先に朝鮮を攻めるべき」と言う神託は、朝鮮半島の政治情勢が、九州のそれに大きな影響を及ぼしていた事を意味する。また、大和王朝にとっては、九州よりも朝鮮のほうが政治的な重要性が高かったことを示唆しているのではあるまいか。
 
 ここに、大和王朝と朝鮮半島の関係が浮かび上がる。大和王朝を実効支配した人々は、おそらく百済や任那の王族の子孫であったのだろう。彼らは、九州や東北の事よりも、故郷である半島情勢が大切だった。それゆえに、九州や東北を放置してでも、半島に軍勢を送り込んだのであろう。
 
 これについては、やはりヨーロッパに類似の事例がある。中世のイギリスは、百年戦争で大敗を喫するまで、毎年のようにフランスに軍勢を送っていた。イギリス王家が、陸続きのスコットランドやウエールズを放置してまで、遮二無二フランスを攻めたのはどうしてか。それは、フランス北部のノルマンディー地方が、イギリス王家の発祥の地だったからである。彼らは、故郷を何が何でも保持するため、フランス王家と戦いつづけたのである。古代日本も、この事例と同じ状況に置かれていたのではあるまいか。
 
 客観的に見て、大和王朝は、九州よりも朝鮮半島に政治的利害を多く有していた。恐らく、九州の熊襲は、実質的な独立国家として大和王権と対立していたのであろう。そして、半島からの渡来人を中心に構成されていた大和王朝首脳部は、九州よりも、故郷である半島の政治情勢に関心を抱いていたのに違いない。そして、熊襲は、しばしば朝鮮の国々と同盟を結んで、大和政権と干戈を交えていたのであろう。これは、スコットランドがしばしばフランスと同盟して、イギリスを苦しめたのに似ている。
 
 熊襲を滅ぼして九州を鎮撫平定したのは、おそらく崇神天皇(を擁する王国連合)と思われる。『古事記』によれば、彼の派遣した四将軍が、西は九州全域、東は福島県までを軍事的に制圧したとの記述がある。こうして九州を領域に組み込んだ大和王朝は、背後の安全を確保しつつ、いよいよ半島への干渉を強めていくのである。

 
6、蘇我氏政権の謎
 
 7世紀に大陸から仏教が伝来すると、大和王朝を二つに割る宗教戦争が勃発する。あくまでも神道を信奉する物部氏が、仏教を信じる蘇我氏と戦ったのだ。その結果、蘇我氏が勝利して、仏教は広く国に受け入れられることとなった。また、最大のライバルを打倒した蘇我氏は、大和王朝の実権を独占する地位につく。
 
 独裁は、必ずしも悪いことばかりではない。国を挙げてのプロジェクトは、独裁体制下で初めて可能なことが多いからである。蘇我馬子とその親族である聖徳太子は、天皇家の政治的権威を高めると共に、冠位十二階や十七条憲法を定め、日本を中国風の法治国家へと大改造したのである。
 
 そのための武器として、仏教は有用であった。すなわち、日本神道は、神と人の間の序列について何も述べていないので、中央集権的統治を肯定する根拠にはなり得ない。それに対して仏教は、釈迦という絶対存在を前に、人々の劣後的な地位を明確にしているから、天皇を中心とした中央集権国家を樹立するための法的根拠にしやすいのである。
 
 『日本書紀』によれば、この政治改革の立役者は聖徳太子ということになっている。太子は、中国の隋王朝に使者を派遣し(遣隋使)、大陸の進んだ文化や技術を導入し、同時に「日出るところの天子、日沈む国の天子に挨拶す」という文言の国書を皇帝に送って、国威を大いに高めた偉人ということになっている。しかし、『書記』の描写には信用できない部分が多く、鵜呑みにはできない。
 
 聖徳太子については、分からないことが多すぎる。第一に、本名が分からない。厩戸皇子というのは、幼名ないし渾名であろう。そもそも、厩(うまや)で生まれたという伝説が眉唾だ。どう考えても、イエス・キリストの伝承を換骨奪胎したとしか思えない。また、生まれてすぐに言葉を話したとか、同時に数十人の言葉を聞き分けたというのも、釈迦の伝説のパクりであろう。つまり、東西の偉人の事跡で固められた作り物の伝記になっているのだ。聖徳太子の実在性を疑う専門家もいるが、それも無理からぬことである。何らかの政策的意図で、太子の功績を誇張したとしか思えない。おそらく、『書記』の執筆者(中臣鎌足の子孫である藤原不比等)が、蘇我馬子の功績を貶めるため、皇位に付けぬまま死んだ悲運の太子に、全ての功績を押し付けたのではないだろうか。
 
 なお蘇我氏は、政争の末に聖徳太子の子孫を皆殺しにし、また崇俊天皇を暗殺し、天皇の外交特権を独占し、また巨大な墳墓を作らせるなどの横暴が目立ったという。しかし、これは、それほど異常なことでは無かった可能性がある。先にも述べたが、天皇位は万世一系ではなく、有力な王家の中から回り持ちで選出されるものであるから、独裁権力を握る蘇我氏が皇位を挿げ替えても、また自らが即位しても、大和王朝のルール違反ではなかった可能性がある。
 
 筆者は、もしかすると蘇我氏は、既に天皇位に就いていたのかもしれないと想像している。山背大兄王や崇俊天皇の粛清も、「蘇我天皇」として彼らの反乱を鎮圧したのに過ぎない可能性がある。『書記』で蘇我入鹿を権臣だったように書いているのは、そう書かないと万世一系の神話が成立しなくなるからではないだろうか。
 
 ということは、大化の改新の意味付けも変わってくる。あれは、権臣征伐ではなく、単なる宮廷クーデターだったのではないだろうか。

 
7、大化の改新
 
 蘇我氏の栄光は、わずか一日で崩れ去る。
 
 中大兄皇子と中臣鎌足が、宮廷で蘇我入鹿を刺殺し、その父・蝦夷を攻め滅ぼしたのだ。これが、いわゆる大化の改新である(645年)。実権を握った中大兄皇子らは、戸籍調査などを断行して日本を中国風の法治国家に大改造した。
 
 『日本書紀』を読む上で注意しなければならないのは、これは、大化の改新を起こした側が、プロパガンダ(自己正当化)のために著した書物だという点である。それゆえに、大化の改新に関する記述は、頭から疑ってかかる必要がある。
 
 例えば、大化の改新の効果は、日本を中央集権の法治国家に進化させたことだとされるが、これは大きな誤りである。日本は、それ以前から法治国家への改造が進んでおり、中大兄皇子らは、その成果に便乗したに過ぎない。また、この革命は民衆の評判が頗る悪く、反乱が恒常化したとの記録もある。
 
 考えてみれば、『書記』に登場する蘇我氏の実力者は、みんな酷い名前である。馬子だとか入鹿だとか蝦夷だとか。恐らく、これらは本名ではあるまい。彼らの死後に、中大兄らが、わざと汚い名前を贈って冒涜したのであろう。当時の日本人は、「言霊(ことだま)」を強く信じていたから、犯罪者に汚い名前を与える習慣があったのだ。政敵を貶め、蔑称のみ記述する『日本書紀』。この書物の執筆目的が、それだけで推察できるというものだ。
 
 おそらく、大化の改新は、単なる宮廷クーデターであり、しかも中大兄皇子は、暴力を使う以外に皇位を望めないような低い地位の人物だった可能性が高い。そのために、革命成功後もなかなか即位することができず、また、彼の重臣の子孫は、『日本書紀』を書いて自己正当化のプロパガンダを行なう羽目に追いやられたというわけだ。
 
 政治的に窮地に立った中大兄皇子は、おそらくは己の威信を高めるために、無茶な外交戦略を強行した。すなわち、唐と新羅の連合軍に攻め立てられる半島の同盟国、百済を助けるため、全国力を総動員して、大軍を派兵したのである。しかし、唐と新羅は、日の出の勢いの超大国である。これに正面からぶつかった日本軍は白村口の戦いで壊滅的大敗を喫し(663年)、百済と任那は新羅に統一平定されたのである。
 
 ここに日本は、建国以来最大の危機を迎えた。唐と新羅の連合軍が攻めてくる可能性は、極めて高かった。天智天皇となった中大兄皇子は、百済からの亡命者を大量に受け入れ、北九州沿岸に朝鮮式の城塞をいくつも築かせた。これが、今でも博多郊外に残る水城や大野城である。
 
 結果的に、大陸からの侵攻は起こらなかった。唐と新羅が仲たがいして、抗争状態に入ったからである。まさに結果オーライ。しかし、天智天皇の政治的威信は地に落ちた。これが、次なる戦乱を招くことになる。

 
8、平城京の時代
 
 天智天皇が近江宮で没すると、その子の大友皇子と弟の大海人皇子の間で政権争いが起こる。これが「壬申の乱」である(672年)。この戦いは、呆気なく大海人皇子の勝利に終わり、彼は即位して天武天皇となった。
 
 天武天皇は、従来から謎の多い人物である。彼を天智の弟とする『書記』の記述は、あまり当てにならない。『書記』は、万世一系を強調するために書かれているからである。天武と天智は、血縁関係の無い(あるいは薄い)ライバル同士だった可能性がある。それゆえに、天武は自分の娘を人質として差し出し、また、自ら出家して吉野に隠棲する羽目に追いやられたのだろう。血を分けた兄弟なら、ここまで極端なことにはなるまい。他にやりようがあるはずだ。
 
 天武は、天智の生前は恭順を装い、その死後になって牙を剥いた。ということは、これも宮廷クーデターである。天皇家の血筋は、またもや動いたことになる。
 
 天武天皇は、中央集権化を一気に推し進め、中国の政体をモデルにして律令国家としての日本を完成させた。外交的には、新羅や唐との和睦に漕ぎつけた。また、内政面では富本銭という本邦初の通貨を流通させた。名君と呼ばねばなるまい。
 
 天武天皇の没後、都は藤原京から平城京に移された。いわゆる奈良時代の開幕である。なお、このころからようやく、天皇が代替わりするたびに遷都するという習慣は無くなった。壬申の乱以降、天皇の血統が一本化されたからであろう。天武の子孫が絶えた後は、血縁関係にある(とされる)天智の子孫が平和的に後を継いだからである。
 
 ただ、平城京では宮廷内抗争が相次いだため、専制君主としての天皇の権威は揺らぎ、藤原氏(中臣鎌足の子孫)に代表される有力貴族の台頭を許すことになった。聖武天皇による東大寺や国分寺の建立は、国威高揚の目的のみならず、天皇に寄生する貴族達の利権伸張の目的が隠されていた。また、称徳天皇と怪僧・道鏡のスキャンダルも、その根底には藤原氏と橘氏(道鏡の出身氏族)の覇権闘争が見え隠れする。また、全国で凶作と疫病が流行した。奈良時代は、和歌に謡われるような美しい時代ではなかったのだ。
 
 それでも、『万葉集』のような優れた詩集が成立したことは特筆すべきであろう。天皇から農民まで、あらゆる階層の人々の暮らしが読み込まれているこの詩集は、世界に誇れる一大文化事業であった。当時の日本人が、いかに「言霊」を大切にしていたか良く分かる。

 
9、公地公民の崩壊
 
 さて、中央集権国家としての日本は、発足後、まもなく行き詰まった。その原因は、新田開発を国家事業として行なわなかったことにある。こういった事業を民間人にやらせる場合、例えば新たな開墾地を開墾者に与えるといった特典を設けなければ、誰もやる気を出さない。そして、政府はそうしたのである(墾田永世私財法)。これは、公地公民制の例外となった。
 
 公地公民制というのは、全ての土地が政府のものという制度であり、農本主義の中央集権国家を維持運営するために不可欠な大前提である。この制度の下では、全国民は政府から土地を借りてそこに住まわせてもらっているということになる。税金は、すなわち地代の支払いなのだ。
 
 ところが、奈良政府は私有地の存在を認めてしまったのである。日本人の欠点は、原則を墨守する事を嫌うという点である。例外を安易に認める行為は、やがて原則自体を覆すこととなる。そんな道理が分からない愚かな為政者が多すぎるというわけだ。
 
 当初は例外的存在であった私有地は、たちまち爆発的に広がり、やがて貴族や寺社もそれに便乗し始めた。彼らの私有地こそ「荘園」である。彼らは、国有地に別荘を造り、その周囲の田地を別荘用地として占拠し、税吏の介入を拒むことを始めたのである。これを最初に始めたのは、貴族ナンバーワンである藤原氏であった。上に立つ者は、こういう事をしてはいけない。権力者がやる事は、下々の者たちも見習うし、一度認めた例外は、やがて恒常化するからである。
 
 貴族のみならず、僧侶たちも荘園を領有するようになったため、国有地が激減し、国には租税収入すら満足に入らなくなってしまった。