歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 世界史関係 著者の好みに偏っております。 > 概説 トルコ史 > 第六章 復活のトルコ共和国
30.奇跡の英雄ケマル・パシャ~帝政から共和制へ
31.トルコ革命~世界史上最大の偉業
32.アラビアのロレンスと中東問題
33.祖国に平和を、世界に平和を
34.100年の恩返し
35.トルコのEU加盟問題
36.これからの世界、これからのトルコ
30.奇跡の英雄ケマル・パシャ~帝政から共和制へ
奇跡の英雄について語りましょう。
ムスタファ・ケマル・パシャについて書かれた最も良質の日本語資料は、三浦伸昭の小説「アタチュルクあるいは灰色の狼」です。って、俺の本じゃん(笑)。このwebでも全文読めるので、興味があれば、そちらをどうぞ。
客観的に見て、ケマル・パシャは世界史上で最高の英雄の一人です。それなのに、彼のことを知っている日本人は異常に少ない。彼の事績どころか、名前すら知らない人が日本国民の99%でしょう。どうしてかと言えば、やはり「白人優位主義」の影響でしょうね。ケマル・パシャは、ヨーロッパ世界では非常に評判が悪く、ほとんど悪口ばかり言われます。あるいは、意図的に無視されます。なぜなら彼は、トルコ全土を領有しようとしたヨーロッパの野望を、完膚なきまでに打ち砕いたからです。それに激怒したヨーロッパの「白人様」の悪意を、純朴で単純な日本の自称・知識人が真に受けると、ケマルは「評価に値しない低レベルのダメな人」ということになって、日本に伝わってしまうのです。
だけど、いい加減、「白人様」の言いなりになるのは止めたらどうでしょうか?「白人様」が常に正しいわけではないことに、日本人は気付くべきです。
さて、ムスタファ・ケマルは、1881年にバルカン半島のサロニカ(現ギリシャ領)の庶民の家に生まれました。オスマン帝国は階級差別が存在しない国だったので、庶民出身であっても成績優秀だったケマル少年は、士官学校でエリートコースに乗ります。
この時期のオスマン帝国で特筆すべきなのは、エリートに対して徹底的な西欧型教育を行っていたことです。前述の通り、老帝国は「西欧化の構造改革」を強く志向していました。大宰相ミドハト・パシャが憲法を発布したり、スルタン・アブドルハミト2世が強権政治をやったり、「青年トルコ党」が革命をやったのも、方法論が違うだけで、全てこの一点を目指していました。そうした志向を反映して、この国は、将来が嘱望される優秀な若者たちに西欧型のエリート教育を行っていたのです。考えてみれば、「青年トルコ人」の登場こそが、その最初の教育成果だったと言えるでしょう。
我らがムスタファ・ケマルも、こういった潮流の中にいました。そして、後に祖国のためにケマルとともに命を捨てて戦った仲間たちが、彼と同年配の若者だったのは決して偶然ではありません。最晩年のオスマン帝国は、息絶える寸前になっていても、愛国心に溢れる優秀な若者たちの大量育成に成功していたのです。この事実こそが、トルコ人国家とトルコ民族を救います。
今の日本も、せめて「教育」だけでもマトモなら、前途に少しは希望が持てるんですけどねえ。現状では、21世紀の日本こそ「絶望」の二文字しか出てきませんわな。
さて、早熟なケマル少年は、祖国の西欧化を妨害するのは「オスマン帝国の存在そのもの」だと気付きます。そこで、早くから政治結社に参加して革命運動を展開するのですが、「赤いスルタン」アブドルハミト2世に見つかって逮捕されてしまいました。本来なら、ここで殺されてもおかしくなかったのですが、学校の先生や大勢の知人友人が庇ってくれたので助かりました。チンギス・ハーンやナポレオンやカストロにも、似たような逸話がありますが、英雄とは人徳と強運の持ち主なのです。
スルタンに憎まれたためにエリートコースから外れたケマルは、それでもめげずに「青年トルコ党」に接近して党員になります。しかしながら、エンヴェルら幹部連中と政見がまったく合わないため、下級構成員に貶められました。そのため、伊土戦争でもバルカン戦争でも第一次大戦でも、ケマルは最も危険な最前線での不利な戦場指揮を強いられています。
おそらく、この時期のケマルは腐っていたでしょうけど、これこそが彼とトルコ人の大幸運でした。なぜなら、彼が「政治の中枢とは無縁」のままに「豊富な実戦指揮経験」を養い、そして「どんな逆境にも折れない精神力」を身につけたからです。また、軍才に優れた彼は、しばしば圧倒的に優勢な敵を打ち負かし、内外に勇名を馳せました。1915年の「ガリポリの戦い」がその好例です。
現行政権に深く失望し、断末魔の危機に陥ったトルコ人が真に必要としたのは、そのような一匹オオカミ型の強いリーダーだったのです。
しかもケマルは、皇太子時代のメフメット6世の侍従武官を務めた時期があり、エンヴェル・パシャとも既知の間柄だったため、中央政界の枢機に通じていました。そんな彼は、スルタンが保身のために、第一次大戦で荒廃した祖国を西欧列強とギリシャに売り渡そうとしていることに気付きます。
1919年5月、帝都イスタンブールを飛び出したケマルは、小アジア東部で士官学校時代の友人たちや「青年トルコ党」の残党を結集して、占領軍への抵抗運動を始めました。「大国民議会」の樹立です。
この運動を潰すために、英仏伊ギリシャ、アルメニア、クルド人のみならず、スルタンまでもが討伐軍を差し向けてきます。周囲360度からの猛攻です。
危機に立ったケマルは、驚天動地の奇策で乗り切りました。すなわち、ロシア(ソ連)との同盟です。ケマルは、オスマン帝国の不倶戴天の仇敵・ロシアと手を組んだ時点で、すでにオスマン帝国そのものを見放していたのかもしれませんね。そして、ロシアからの援助を受けて、ケマルは足並みのそろわない侵略者たち(分割後のオスマン領の取り分を巡って、互いにいがみ合っていた)を、卓抜な作戦で分断して各個撃破しました。そして、ギリシャとの最終決戦に勝利します(1922年8月)。
こうして、ケマル率いる「大国民議会」は、相次ぐ勝利の結果、西欧列強がトルコに押し付けようとしていた「セーブル条約(トルコを分割解体して植民地にする内容)」を撤回させ、祖国を強固な独立国として維持することに成功したのです。まさに、奇跡のような大成功でした。
こうして、絶大な国民的人気を得たケマルが、売国奴のスルタン・メフメット6世を廃位し追放したのは1922年11月。続いてカリフ制を廃止し、オスマン家の皇族全員を国外追放したのが1924年3月。
これが、600年も続いたオスマン帝国の呆気ない滅亡でした。
ムスタファ・ケマルを大統領とする「トルコ共和国」が発足したのは、これに先立つ1923年10月29日。しかし、ケマルの真の偉大さが発揮されるのは、この時からでした。
嵐のような「トルコ革命」の開幕です。
31.トルコ革命~世界史上最大の偉業
ムスタファ・ケマル大統領は、57歳で病死するまでの15年間で、トルコの抜本的構造改革に着手し、ほぼ完全な成功を収めます。オスマン帝国が、数百年かけてついに出来なかったことを、わずか15年でやり遂げてしまったのです。その偉業は、世界史上でも他に類例を見ないものでした。
日本人が自慢する明治維新など、トルコ革命に比べたらゴミみたいなもんです。坂本龍馬なんぞ、ケマル・パシャに比べたら鼻クソみたいなもんです!
などと、自虐的に言う必要はないですけどね。なぜなら、ケマル大統領が目標とし、かつ心の支えにしたのは、明治天皇と明治維新だったからです。つまり、トルコ革命の方が明治維新より成果は巨大だったけれど、その道標となったという点で明治維新は偉大だったのです。
今日のトルコ人が親日的な理由は、敬愛する初代大統領が「日本を尊敬していた」という事実も大きいのだろうと思います。
では、ケマルの成功の理由について分析して行きます。
そもそもオスマン帝国の構造改革は、どうしてこれまで上手く行かなかったのか?
それは、①多民族の雑居ビル国家だったから。②イスラム教を中心にした宗教国家だったから。③諸外国といつも戦争していたから、です。ケマルは、この3つの問題点を、天才的な手法で解決したのです。
まず、①について。
これまで述べて来たように、西欧とロシアの近代化は「国民」の創設から始まりました。これに対して、多民族から成る雑居ビル国家だったオスマン帝国は、「国民」概念を成立させることが出来ず、そのために近代化に着手できない状況でした。
そこでケマルは、祖国を「トルコ民族の国」へと大改造したのです。具体的には、アラブ人やギリシャ人やアルメニア人らの生活領域をトルコから切り離し、祖国の領土範囲を「トルコ人の居住地域」に限定しました。そして、国内に住む異民族に、なるべく外国に出て行ってもらったのです。
もっとも、20世紀初頭の相次ぐ敗戦によって、オスマン帝国の異民族居住地の多くはとっくの昔に外国に奪われるか独立していたので、ケマルはその状況を現実的に活用しただけなのですが。
ともあれケマルは、祖国を「トルコ民族の国」と定義づけることで、一体的な纏まりのある近代的な国民国家を樹立したということです。
ただし、自分の国を海外に持てなかった異民族は、その後もトルコ国内に居続けたので、民族問題が全て解決されたわけではありません。特に、最大の異民族であるクルド人との軋轢は、今でもトルコが抱える大きな問題の一つです。
次に②について。
オスマン帝国は、冷酷王セリム1世のエジプト征服以来、カリフ(イスラム教の教祖)を世襲する国でした。これは、常にイスラム教を最優先に考えて行動する足かせを嵌められたことを意味します。具体的には、聖典「コーラン(クルアーン)」と近代化が対立した場合、常に前者を優先して、後者を諦めなければならないのです。
つまり、トルコが近代化を図るためには、この足かせを外すことが必須でした。ところが、カリフを代々世襲するオスマン家には、それは絶対に不可能でした。だからこそ、オスマン帝国の構造改革は最終的に失敗していたのです。
ケマル大統領が、無慈悲とも思える態度でスルタン制とカリフ制を廃止し、オスマン家の人々を国外追放したのは、祖国をイスラム教の足かせから自由にしたかったからなのです。
ただし、ケマルは宗教を否定したわけではありません。宗教と近代化のプライオリティーを変更し、両者が対立した場合に、後者を優先するようにしただけです。すなわち「政教分離(世俗主義)」をやったのです。だからこそ、トルコ国民の90%以上が、今日でも熱心なイスラム教徒のままでいます。
最後に③について。
オスマン帝国が構造改革に失敗していたのは、外国と年がら年中戦争して、人口減と財政難に陥っていたからでもあります。
そこでケマルは、「完全平和主義」を打ち出しました。巧妙なことに、彼は独立戦争で西欧列強とギリシャをコテンパンに叩き潰し、新生トルコの強さをさんざんに見せつけた後で、これを言い出したのです。諸外国は「ケマルのトルコ」の強さを骨身に染みて思い知らされていたので、トルコの平和路線をむしろ大歓迎しました。こうしてトルコ共和国に恒久的な平和がもたらされ、構造改革に特化できる環境が作られたのです。
さて、以上の成功を土台にして、ケマル大統領は大胆な構造改革を実施していきます。首都をイスタンブールからアンカラに遷し、憲法に基づく議会制民主主義を実施し、近代的な民法と税制を整備し、太陽暦の導入、民間企業の育成と工業化、農地の拡大、鉄道網の整備、普通教育の敷衍、ラテン文字の普及、男女の平等化、労働者の待遇改善などなど、内政面での成功がたくさんありすぎて、具体的に挙げていったら目が回るほどです。
外交面でも、西欧列強と粘り強く交渉して、オスマン帝国を数百年にわたって苦しめた「不平等条約(カピトレーション)」の完全撤廃に成功しました。
これらの成果を、わずか15年で達成したのです。
こうした結果、トルコ国民の生活は劇的に改善され、奇跡的な向上を遂げました。私が「世界史上最大の偉業」と呼びたくなる理由が分かるでしょう?
もっとも、ケマルは保守的な抵抗勢力を押さえ込むために、そのカリスマ性を武器にして、しばしば独裁者のように振舞っています。それでも彼は、私利私欲に走ることなく、敵対者を虐殺するようなこともなく、その権力を祖国の平和な発展のために100%注力しました。つまり彼は、「祖国を平和な民主主義国家に改良するために、独裁権力を行使した政治家」なのです。だから、現代のトルコ人で、ケマルを「独裁者だった」と考える人はほとんどいません(白人様は、「悪い独裁者だった」とか悪口を言うけどね)。
全人生を祖国の復興のために捧げつくしたケマルには、妻子もいませんでした(白人様は、ホモだったからとか、EDだったからとか、DVだったからとか悪口を言うけどね)。財産もほとんど有りませんでした(白人様は否定するけどね)。
過度の飲酒と過労がたたって、執務中に倒れたのは1938年11月10日。臨終の報を聞いた全国民が、実の父親を失ったかのように慟哭の声を張り上げたと言われます。
ムスタファ・ケマルは、その死の数年前に、アタチュルクという名を議会から贈られています。アタチュルクとは、「トルコの父」という意味です。彼は、その名に少しも恥じない人生を生き抜いたのでした。
今日でも、トルコ国内のあらゆる場所に「アタチュルク」の名を冠した施設があります。トルコ共和国の紙幣の絵柄は、全て「アタチュルク」の顔です。
私の文章を読まれた方はきっと、「なるほど、そうなっても当然の人物だったのだな」と納得されることでしょう。
それに引き替え、今の日本の政治家は!
32.アラビアのロレンスと中東問題
閑話休題して、第一次世界大戦の話に戻ります。
いわゆる「中東問題」は、実はこの時に始まったのでした。
第一次大戦に際して、イギリスは敵国オスマン帝国を倒すために、様々な策略を巡らしました。①ヨーロッパ列強による、終戦後のオスマン領の分割を定めた「サイクス・ピコ協定」。②ユダヤ人財閥から資金を得る目的で、終戦後のパレスチナ(オスマン領)にユダヤ人国家を樹立する約束をしてユダヤ人の歓心を買った「バルフォア宣言」。③そして、アラブ人をオスマン帝国から離反させる目的で、終戦後の中東にアラブ人の国家を樹立する約束をした「フサイン・マクマホン書簡」。
これらの条約は、互いを否定しあう矛盾したものでした。特に②と③は、パレスチナにユダヤ人国家とアラブ人国家を並立させることを意味します。これが領土争いの原因となり、今日まで続く収拾不能な国際問題になってしまいました。
そもそも中東やアフリカ北部は、21世紀の今日でも政治的に不安定な地域です。中東戦争、イラク戦争、クルド人問題、ハマス、ヒスボラ、そしてスーダンでの大虐殺、エジプトやリビアでの流血の革命騒ぎ。これらの問題は、ヨーロッパの「白人様」が、オスマン帝国を分割解体する過程で、恣意的に領土分割を行った結果生じたのです。
前述のとおり、オスマン帝国は多民族による雑居ビル国家でした。異民族と異文化に非常に寛容で、それだからこそ様々な民族や部族や宗教の平和的な共存が可能だったのです。これは、トルコ人の偉大な知恵だったと言って差し支えないでしょう。その知恵を、武力と謀略で無慈悲に踏みにじったのが「白人様」です。その結果、非常に多くの紛争が起こり、非常に多くの人々が不幸になってしまいました。
日本人は、この事実を知ってなお、「白人様」を崇拝するのでしょうか?
さて、③の仕事で大活躍したイギリス人が、有名な「アラビアのロレンス」です。外交使としてアラビア半島に潜入したトーマス・エドワード・ロレンスは、メッカの地方名士(アーヤーン)だったフサインと手を組んで、彼の長男ファイサルとともにオスマン帝国軍と戦いました。
アラブ人のリーダーだったフサインは、イギリスに唆されて(フサイン・マクマホン書簡)オスマン帝国を裏切ったのです。前述のように、オスマン帝国の地方名士を寝返らせるのはヨーロッパ列強の得意技で、この時も同じことが行われたというわけです。
ただし、映画や本で語られるロレンスの勇ましい活躍は、「白人優位主義」の影響で著しく誇張されているようです。映画「アラビアのロレンス」を見るだけで、そのことは納得できます。アラブ人は、まるで無知蒙昧な原始人だし、トルコ人は「ホモで残虐(笑)」に描かれているでしょう?あれは、真面目に見てはならないギャグ映画だと思うのですが、なんと「アカデミー賞作品」なんですよね。日本人は、みんなこういうのに騙されているのです。
終戦後、フサインが欲しかった豊かなアラブの土地は、全てイギリスやフランスの植民地になりました。フサインも、「白人様」によって騙されたのです。ただし、彼の子孫が建てた国は今でも中東に残っています。それが、ヨルダン王国です。小さくて不毛の土地ですが、いちおうイギリスは約束を守ったつもりなのでしょうね。
ところが、映画「アラビアのロレンス」では、フサインがパレスチナやシリアといった一等地に国を持てなかった理由は、「アラブ人が無知蒙昧な野蛮人だったから」と描かれていますよね。
やれやれ・・・。
ともあれ、「アラビアのロレンス」の活躍は、こういった隠微な国際的謀略の観点から見直されるべきものです。
33.祖国に平和を、世界に平和を
さて、偉大な英雄ケマル・アタチュルクの死後まもなく、トルコは、いや全世界は大激動に見舞われます。第二次世界大戦(1939-45年)の勃発です。
ナチスドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、先の大戦と同様に、トルコを仲間に引き入れようとしました。英仏植民地のみならず、ロシア(ソ連)とも国境を接するトルコ共和国は、ナチスの世界戦略の中で圧倒的な重要性を持っていたからです。
しかし、アタチュルクの側近であったイスメット・イノニュ第2代大統領は、断固として祖国に中立を守らせました。先代の口癖であった「祖国に平和を、世界に平和を」のスローガンを決して忘れませんでした。彼は、エンヴェルのような愚か者では無かったのです。結局トルコは、最後まで一発の銃弾も撃たずにこの大激動を乗り切りました。
ところが戦後、新たな大激動が訪れます。米ソ冷戦です。
トルコはアメリカと同盟を組み、NATOの一員としてソ連と向き合いました。精強無比なトルコ軍の存在は、ソ連に中東への進出を断念させるのに十分でした。また、トルコ軍は朝鮮戦争にも出陣して大活躍しました。
ソ連勢力が、ユーラシア大陸の一角に閉塞したままに冷戦を敗北したのは(1989年)、トルコ軍の存在と活躍が大きかったのです。
たとえば、「キューバ危機(1962年)」勃発の原因は、ソ連がトルコの核ミサイルに非常に大きな脅威を感じ、対抗策として同盟国キューバに核ミサイルを置いたことにありました。これはつまり、ソ連は常にトルコの脅威を意識し続けたということです。
トルコは、冷戦の最前線に立って、第三次大戦を阻止するという重責を全うしたのでした。「世界に平和を、祖国に平和を」のスローガンを全うしたのでした。
しかしながら、トルコ軍の強さには副作用もありました。冷戦時代のトルコでは、軍部の発言力が非常に強くなり、「故アタチュルクの遺志を守る!」という口実で政治に介入し、しばしばクーデターを起こして政府を転覆させているのです(1960年、1980年)。またトルコ軍は、ギリシャとの民族問題に苦しむキプロス島に突如として派兵し、トルコ系が多く住む北半分を占拠して傀儡国家を築いたりしています(1974年)。なんだか、昭和初期の日本軍の行き方を彷彿とさせますね。
もっとも、軍部が暴走するのは国内経済にも原因があって、冷戦時代のトルコは、強大な軍を維持する必要から慢性的な財政難でした。また、これを解決するために無茶な通貨政策を行った結果、酷いインフレになりました。こういった経済的な困難が、民衆の不満を通じて軍部に栄養を与えていたとも言えるのです。
また、アタチュルク以後のトルコは、アタチュルクが唱えた「世俗主義(ヨーロッパ主義)」と復古的な「イスラム主義(中東・アジア主義)」の鬩ぎ合いの連続でした。こういった思想対立が、様々な政治的・文化的問題を引き起こしているのです。ただし、この二面性こそがトルコのユニークな個性であり、発展の起爆剤になっているとも言えます。
ノーベル賞作家オルハン・パムクの諸作品は、世俗主義とイスラム主義の思想対立を軸にしているものが多くて興味深いです。予備知識の乏しい日本人には、ちょっと内容が難しいかもしれませんが。
34.100年の恩返し
多くの日本人が、トルコから深い恩を受けたことを忘れているようです。
「イラン・イラク戦争」の最中の1985年3月、イランに攻め込んだイラクのフセイン大統領は、敵の首都テヘランへの爆撃を開始しました。続いて彼は、無差別攻撃を宣言します。3月19日夜以降、テヘラン上空を飛ぶ全ての飛行機を、国籍にかかわらず無差別に撃墜するというのです。
テヘランに駐在していた世界中の人々が、大慌てで逃げて行きました。しかし、取り残されてしまったのが、200名を越える商社マンなどの在留日本人です。
この当時、自衛隊は海外派遣が認められておらず、日本政府は何も出来ませんでした。頼みの綱の日本航空は、「間に合わない可能性が高い」という理由で飛行機を出しませんでした。労働組合が、従業員を危険にさらすことに頑固に反対したという事情もあるようです。山崎豊子さんの小説で好意的に書かれている「国民航空」(笑)の労働組合の実態は、こういうものでした。この保守的な体質こそが、最近のJAL破たんの原因の一つでもあります。
つまり、約200人の在留邦人は見捨てられたのです。このままでは、イラク軍の空襲で皆殺しにされてしまうというのに。
その時、万難を排して救援機を飛ばしてくれたのがトルコです。在イラン・トルコ大使ビルレル氏は、日本の外務省から救援の依頼を受けた時にこう応えました。「ぜひ、エルトルールル号の恩返しをさせてください。トルコ国民は皆、私と同じ気持ちでいます」。そう言われた日本の大使は、何の事だか分からずポカンとしたそうです。
トルコ人は、100年以上も前の「エルトルールル号事件」をまだ覚えていたのです。そして、恩返しをする機会を待っていてくれたのです。
夕焼けの中、イラク軍のミサイルの雨を搔い潜ってテヘラン空港に降り立った2機のトルコ航空機は、フセインの告げたタイムリミット20時半ギリギリのタイミングで、215名の在留邦人全員を乗せてイスタンブールへと飛び立ちました。彼らは命を賭けて、縁もゆかりもない日本人を救出してくれたのです。
この時に命が助かった日本人の多くは、1999年のトルコ大地震に際して、義損金を集めたりボランティアに参加したりと恩返しに努めたそうです。
しかし、他の日本人はどうでしょうか?「エルトルールル号事件」のことも忘れていたこの民族は、「テヘラン救出事件」をいつまで覚えていられるでしょうか?
日本人の美質の一つは「水に流す」ことです。良いことも悪いことも、すぐに忘れてしまうのです。だけど、それも善し悪しでして、国際親善の歴史は決して忘れてはならないと思うのです。いつかまた、恩返しをする機会が来るまで、「テヘラン救出事件」はいつまでも日本人全員の記憶に留めておくべきでしょう。トルコ人が、そうだったように。
なお、秋月達郎さんの小説「海の翼」は、この事件を題材にした小説です。トルコの首都の名前を間違えていたりするけど(誤植かな?)、参考になると思います。
35.トルコのEU加盟問題
トルコは、EUがまだECと呼ばれていた時代から、ヨーロッパ連合への加盟を模索していました。トルコ軍は早くからNATOの主力だったし、トルコのサッカーチームもヨーロッパリーグに所属しているのだから、EUになったって特に違和感が無いように見えます。
しかしながら、これが一筋縄ではいかないのです。
そもそも、トルコはヨーロッパなのか?面積で言えば、わずか10%しかヨーロッパに掛っていません。また、EUは基本的に「キリスト教の同好会」なので、イスラム教徒がほとんどを占めるトルコとは別世界です。
それ以上に問題なのが、歴史の中で積み重なった恨みや差別意識です。EUの中でも、かつてオスマン帝国と激しく争ったギリシャやオーストリアが、トルコのEU加盟に強硬に反対しているのがその顕れです。日本が、しばしば歴史の問題で中国や韓国と揉めるのと同じことですね。
そういうわけでトルコが、EUから 加入の条件として課される経済目標値や人権向上要求(死刑制度廃止など)を無事にクリアしても、また新たな高いハードルを押し付けられることの連続です。また、EUが声高にトルコを非難する「キプロス問題」や「クルド人問題」ですが、これらの民族問題を生みだしたのは、もともとヨーロッパだというのに、彼らはそのことには頬かむりです。
結局のところ、ヨーロッパ人はトルコに仲間になって欲しくないのでしょう。それが本音なのでしょう。
こういったヨーロッパの態度を見て、一般のトルコ人の中に「イスラム主義」が強まっています。むしろヨーロッパと距離を置いて、中東・アジア世界に回帰しようというのです。
実際、リーマンショック以来のEUの没落ぶりを見ていると、「トルコは、無理にヨーロッパになる必要無いじゃん」と思ってしまいます。
また、トルコはそのユニークな多面的個性を生かし、アラブともイスラエルともヨーロッパともロシアともイランとも仲良くしています。アメリカでさえ、トルコ抜きには中東を語ることができません。だったらトルコ共和国は、どの陣営に属さない「ハブ国家」として生きて行った方が良いのではないでしょうか?その方が、世界平和のためになるかもしれません。
それでも、「ヨーロッパになりたい」というトルコの為政者の強い思いは、オスマン帝国後期からアタチュルクにかけての歴史的な悲願でもあります。すなわち、トルコのEU加盟問題は、「アタチュルク主義」の貫徹か脱却かという、国家の根幹にかかわる大きな問題を孕んでいるのでした。
多くの専門家は「トルコは、後10年でEUに加盟できるだろう」と言っています。だけど、本当にそうでしょうか?また、それで本当に良いのでしょうか?
今の私には、答えが出せない難問です。
36.これからの世界、これからのトルコ
足早にトルコの歴史を語って来ましたが、纏めに入ります。
今日の世界は、数百年に一度とも思える歴史的大変動期にあります。アメリカやヨーロッパといった「白人様」の大国が衰退し没落し、その反面でBric’sやVistaと言われる後発国が急激な台頭を見せています。ちなみに、トルコはVistaの中の「t」です。
もはや、アメリカやヨーロッパが世界の大番長を張っていた時代は終わりました。これからは、非常に多くの強国が合従連衡して相争う多極化の時代です。
新しい世界では、食料や天然ガスなどの資源競争が頻発するのはもちろん、インターネットの急激な普及にともなう情報戦争になるでしょう。ウィキリークスの問題しかり、中東を揺るがす革命騒ぎしかり。このような世界では、柔軟な心で広い文化を受け入れて、偏りなく情報を処理する者が優位に立つでしょう。
トルコは、それが出来る国の一つです。
これまで述べて来たように、トルコは「万民平等の理想」を高らかに掲げ、自由で豊かで多面的な文化を築いてきました。ヨーロッパでもなくアジアでもなくアラブでもない。だけど、その全ての良い面を併せ持っている。そういった重層的な個性が尊重される時代が来たのです。
そう考えるなら、近年のトルコの急速な経済成長は、決して偶然の産物ではありません。
また、下剋上を身上とする遊牧文化のトルコは、人材登用をフレキシブルに行えます。だからこそ、現在のギュレ大統領やエルドアン首相のような、世界最高峰の優秀な人物をトップに立てて国運を伸ばすことが出来るのです。これは、日本も見習うべきだと思います。
私は、日本人にもトルコと同じように頑張れる潜在的可能性があると思っています。だけど、今の日本人は自分に自信が無さ過ぎます。だから、出来るはずのことが出来ないのです。
また、日本人は内向きに過ぎます。「歴史通」を気取る人も、実は、司馬遼太郎の愛読者とかNHK大河ドラマの愛好家でしかありません。あんなのは、本当の歴史ではなくて、単なる娯楽でしょう。
新潟県の「柏崎トルコ文化村」に建っていたケマル・アタチュルクの銅像が、廃園後に長いこと雨ざらしになっていたことは、トルコ国民を大いに悲しませました。この銅像は最近になってようやく、「エルトルールル号」に縁のある和歌山県串本村に引き取られたのですが、この一件は日本人の歴史意識やトルコへの意識の低さの象徴だと思います。
これからの日本人は、娯楽に偏った自国の歴史や「白人様」の顔色ばかりではなく、全世界を広い視野で深く見ていかなければなりません。新しい時代を迎えた新しい世界の中で、強く賢く生きていくためには、それ以外の選択肢は有り得ないのです。
この小論が、そのための一助になれば幸いです。