歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 日本史関係 通説や学説とは異なる切り口です。 > 概説 太平洋戦争 > 第十六話 サイパン失陥
さて、マリアナ沖海戦で敗れた日本は、サイパン島の放棄を決定しました。でも、その事を現地に連絡しなかったので、サイパンの守備隊は、来もしない援軍を待ちながら必死に戦ったのです。
サイパン島は、無敵の要塞のはずでした。少なくとも、陸軍の首脳部は東条首相にそう報告したのです。サイパンが決戦場になることは、随分前から分かっていましたから、当然厳重な要塞化がなされているだろうと、東条も信じたようです。彼は、天皇に、「サイパンは絶対に落ちません」と断言しちゃったのです。
ところが、サイパン島の防備は、実際にはスカスカだったのです。サイパン防備用の資材は、全てニューギニアやらラバウルやら、戦略的重要性の乏しいところに回されてしまっていたのでした。・・・軍隊のキャリアは、その旨を正直に報告するのが恥ずかしいので、首相に嘘をついたのでしょうね。日本の軍隊というのは、話にならないくらい戦略的視野が狭かったのです!
ところで、いわゆる南洋諸島は、もともとドイツの植民地でした。日本は、第一次大戦のときに連合国側で参戦して、南洋諸島のドイツ軍を打ち破ってここを占領したのです。国連も、この地を日本の委任統治領として認めてくれました。マリアナ諸島には、沖縄から多くの民間人が移住して主にサトウキビの栽培などを行ないました。のどかで、平和な島だったのです。
意外なことに、マリアナ諸島に日本軍が進出したのは、太平洋開戦の1年前でした。それまでは、民間人しかいなかったのです。もともと海軍は、日本近海での決戦しか想定していなかったので、この辺りを基地化する思想が無かったのです。こうして、南の島々は、圧倒的なアメリカ軍の前に阿鼻叫喚の地獄と化したのでした。
私が非常に憤りを感じるのは、日本の軍隊に「民間人を保護する」という思想が無かったことです。サイパンでは、数万人の民間人が戦闘に巻き込まれ、その多くが、島の北端の岬から次々に飛び降り自殺しました。その理由は、「アメリカ軍の捕虜になったら皆殺しになる」というデマが流れたからです。サイパンの民間人は、日本軍から何の保護も受けられず、正しい情報すら提供されなかったのです。状況が分からぬ彼らは、危険な戦場の中を途方にくれながら彷徨い、尊い命を無くしていったのです。
そして、この悲劇は、沖縄でも繰り返されます。
民間人の命を守る方法は、いくらでもあったはずです。例えば、アメリカの陣地に軍使を派遣して、「どこそこの地帯に民間人を疎開させるから、ここは攻撃しないでくれ。我が軍が敗れたときは、国際法を重んじて保護してあげてくれ」と言うだけで良かったはずです。ところが、日本軍は、こういう工夫を少しもしませんでした。
日本の軍隊は、「国や民間人を保護する」という本来の目的を、完全に見失っていたのです。何のために存在しているの?自分たちの省益を保護するためです。小室直樹や堺屋太一は、この状況を「機能的組織の共同体化」と呼んでいます。こういう現象は、現代の組織の中でも至る所に見られますが、実に危険なことだと思います。
サイパンの日本軍3万は、バンザイ突撃を敢行して玉砕しました。どうして降伏しなかったのか?それは、『戦陣訓』という通達によって、降伏を禁止されていたからです。日本社会のユニークなところは、通達が法令以上の拘束力を発揮する点です。通達というのは、本来はお役所内部での回覧情報にしか過ぎません。それが民間にも拘束力を発揮する理由は、政治の実権を握っているのがお役所だからです。通達に逆らっても、法的には何の罰則もありません。しかし、お役所の陰湿なイジメ(これ本当の事ですよ!)によって、営業妨害されたりするのです。だから、みんな法令よりも通達を遵守するのです。日本の有価証券報告書が非常に読みづらい理由は、通達によって記述内容ががんじがらめに縛られているからです。日本の軍隊が、銃弾が尽きた後も日本刀を振りかざして敵の機関銃に突撃する理由は、通達で降伏を禁じられていたからです。
どうしてこんな非情な通達が出たのか?恐らくは、キャリアがノンキャリアの事を信頼していなかったからだと思います。降伏を禁じなければ、みんな進んで降参しちゃうと思ったのでしょう。つまり、自分達の戦争目的にやましさを感じていたのかもしれません。国民に、嘘の戦果を垂れ流しつづけたのも、同じ文脈で説明できます。日本の戦争指導者は、国民や一般兵を説得して奮起させる努力をまったくしませんでした。奮起させる自信が無かったのでしょうね。だから、嘘をつくか通達で縛るかしたのでしょう。でも、こんなやり方で、総力戦を勝ち抜けるわけがないのです。
第二次大戦の主要交戦国で、国民や一般兵の力を信じなかったのは、日本だけです。そして、国民や一般兵が、もっとも非情な運命に叩き落されたのも、日本でした。
日本の国民生活は、もはや破綻に瀕していました。当時の日本は米の輸入国だったので、米が食べられなくなった国民は、サツマイモと豆で命を繋いでいたのです。それに加えて、マリアナ諸島を基地にしたアメリカ軍が、超重爆B29を繰り出して大空襲を開始したのです。
ドイツは、実は随分とマシでした。なぜなら、ナチス政権が、「国民の保護」を最優先したからです。ドイツ空軍の大部分は、1944年初頭から、ほとんど全てがドイツ本土に引き上げてしまいました。国民を空襲から護るためです。また、国内の至る所に巨大な高射砲台を立て並べ、レーダーを用いた効果的な射撃で、連合軍の爆撃機を大量に撃破したのです。
私は、ウイーンで、当時の高射砲台を実見しました。当時のまま、4基も残っていて、街の景観を大いに損ねていましたね。ウイーン市は、これを破壊したくて仕方がないのですが、高性能爆薬すら効かない頑丈さなのでどうしようもないらしいです。これも、ナチスが国民を必死に守ろうとした証拠の一つかもしれませんね。なお、ドイツ国民のエンゲル係数は、終戦近くまで、戦前とほとんど変わらなかったそうです。つまり、ドイツ人は、日本国民より随分と幸せだったのです。
日本国民が飢餓に陥った理由は、アメリカの潜水艦作戦の他にもあります。それは、日本の軍隊が、「石油の代わりにする」という名目で、農村から有機肥料を全て奪い取ってしまったことです。日本の農産物収穫量は1944年、1945年と2年連続でワースト記録を更新したのです。国民を飢え死にさせようとは、驚くほどに立派な軍隊ですな。日本の軍人キャリアは、実はアメリカに買収されていたのでは?
こんな状態になりながら、日本の軍隊は戦争を止めようとしませんでした。サイパン失陥の責任をとって東条英機が退陣した後、陸軍出身の小磯国昭が首相になりました。この人は、状況判断が下手糞で、失言ばかりしていた人です。そういう人がトップの方が、お役人にとっては仕事がやりやすくてラッキーなのです。
さて、アメリカ軍は、次の目標をフィリッピンにしようか台湾にしようか迷いました。もちろんマッカーサーが強弁して、フィリッピンにしちゃったのですが。
とりあえず、空母17隻のアメリカ機動部隊は、沖縄や台湾の日本の飛行場を空襲して回りました。フィリッピン侵攻の土台固めのためです。まったく彼らは、やる事が堅いですなあ。
日本海軍は、「好機到来」とばかりに夜間爆撃機を繰り出してアメリカ艦隊に猛攻を加えました。400機以上を失って得られた成果は、なんと「敵空母の全滅」という大戦果!大本営発表は、鳴り物入りの大騒ぎ。
でも、完全なデマでした。アメリカ軍は、補助艦艇が何隻か損傷を受けただけで、主力艦はまったくの無傷だったのです。実戦経験のない日本のヒヨッコパイロットたちは、味方機の撃墜された炎を見て「敵空母1隻轟沈」などと報告を送り、海軍首脳部がバカみたいにそれを真に受けたというわけです。・・・いわゆる「台湾沖航空戦」の顛末でした。
日本軍は、色めきたちました。「好機到来!残敵掃討!」などと叫んで積極的な姿勢を見せたのです。
こうして、とんでもない勘違いの中でフィリッピンの戦いが始まりました。