歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 日本史関係 通説や学説とは異なる切り口です。 > 概説 太平洋戦争 > 第十八話 硫黄島と沖縄
フィリッピンでの大敗で、日本海軍は事実上壊滅したため、戦争の主導権は完全に陸軍に委ねられました。
陸軍は、まだ日本本土に200万近い兵力を温存していましたから、これを用いて「本土決戦」を行なおうと考えたのです。そのためには、入念な準備期間が必要です。
そこで、次にアメリカ軍の来攻が予想される地域(小笠原、台湾、沖縄)で長期の持久戦を挑み、彼らの進撃ペースを遅らせるという戦略が練られたのです。
1945年2月16日、アメリカ軍7万5千は、激しい艦砲射撃と空爆に支援されながら、小笠原諸島の硫黄島に上陸を開始しました。
どうしてこの島なのか?
この島は平野がちの地形なので、飛行場適地なのです。そしてここからなら東京まで戦闘機を飛ばせるので、B29に護衛戦闘機を付けることが出来て、日本本土への空襲が楽になるのでした。
日本軍守備隊は、栗林忠道中将に率いられた2万3千。栗林は、「愛馬行進曲」の作者としても知られる文人肌の冷静な指揮官で、部下たちから篤く信頼されていました。彼は、画期的な戦術を用いました。すなわち、島の全土に、延べ18キロに及ぶ地下トンネルを掘り、ここに立て篭もって敵を迎え撃ったのです。アメリカ軍の艦砲射撃と空爆は空振りに終わり、上陸してきた米兵は、地下から踊り出た日本軍によって、血まみれの白兵戦に引きずり込まれたのです。
日本軍の勇戦奮闘は、3月17日の玉砕までに、アメリカ軍に死傷2万6千(うち、戦死5千)の大損害を与えたのです。人命の損失を厭うアメリカ軍は、この予想外の犠牲の大きさに顔面蒼白となりました。
栗林兵団の見事な戦いの理由は、彼らが捨石として見捨てられたために自由な戦いが出来た点にあります。大本営がチャチャを入れなかったため、日本軍は真の実力を発揮できたというわけです。
3月、アメリカ艦隊は沖縄周辺に姿を現し、激しい空襲を仕掛けました。沖縄の危機は、いまや指呼の間に迫ったのです。
ところが、大本営は何を勘違いしたのか、沖縄の兵力を大量に引き抜いて、台湾に送る命令を出したのです。
さすがに、沖縄守備隊は反対しました。牛島満中将を筆頭に、厳重に抗議したのです。しかし、命令は強行されました。そのため、4月のアメリカ軍上陸時には、沖縄の抗戦力は著しく弱体化していたのです。
どうして大本営は、そんな意思決定をしたのか?
もちろん、アメリカ軍が先に台湾に攻めてくると思ったのでしょう。それにしても、台湾を強化する引き換えに沖縄を弱くするやり方は腑に落ちません。内地の兵力を、台湾に移送したほうが良かったはずです。また、台湾と沖縄の戦略的重要性を勘案した場合、むしろ沖縄を強化するべきだったことは明らかです(台湾人には悪いけど)。
大本営の役人どもは、重要性の判断能力を持たなかったようですね。
兵力を減らされた牛島中将は、苦渋の決断をしました。すなわち、沖縄本島の北部と中部を敵に明け渡し、全軍を珊瑚礁の岩盤に守られた南部の洞窟陣地に移して、アメリカ軍と長期持久戦を戦おうとしたのです。この戦略は、牛島の置かれた状況を考えればベストだったでしょう。
そして、上陸してきたアメリカ軍は、大いに苦しみました。沖縄南部の洞窟陣地は、硫黄島の地下トンネルと同じ機能を発揮して、敵の砲撃や爆撃を受け付けませんでした。アメリカ軍は、肉弾戦に持ち込まれて大量に出血したのです。また、必死に友軍を支援するアメリカ艦隊は、延べ数千機に及ぶ特攻機の襲撃を受けて深く傷つきました。 牛島の長期持久作戦は、ほとんど成功したかに見えたのです。
しかし、例によって例のごとく、現場を知らぬ大本営が、理不尽な命令を下したのでした。すなわち、「反撃を仕掛けて、敵が占領している本島中部の飛行場を奪い取れ!」というのです。
そもそも沖縄戦の目的は、「本土決戦」の時間稼ぎだったはずです。だったら、なるべく堅い陣地に立て篭もったまま、兵力を温存するのに勝る戦術はないはずです。それなのに、なんで大本営が、そんな道理に合わない命令を出したのか?恐らく、海軍の特攻機の活躍を見て、これに呼応する姿勢を見せなければメンツが潰れると思ったのでしょうね。
ともあれ、命令は絶対です。沖縄軍は、洞窟陣地を飛び出して一斉に突撃しました。一時的にはアメリカ軍を苦しめたのですが、何しろ敵には空爆と艦砲射撃が付いています。陸兵の砲戦能力だって、日本軍とはけた違いです。沖縄軍は、こうして壊滅的打撃を受けて敗退したのです。
この無謀な突撃は、沖縄の運命を決めました。6月23日、日本軍は玉砕し、8万5千名が戦死しました。民間人も、10万人近くが巻き込まれて犠牲になったのです。
日本軍は、軍属として民間人を大量に徴用し、戦火に巻き込むという愚を犯したのでした。
アメリカ軍の損害も甚大でした。バックナー中将をはじめ、1万2千が戦死し、他5万人が重傷を負うか発狂したのです。
硫黄島と沖縄の悲劇は、しかし無駄ではありませんでした。予想外の損害に慌てたアメリカは、日本本土への上陸を躊躇うようになったのです。もしも本土決戦を行なったら、少なくとも100万人の犠牲が出るだろうと予想されたからです。 アメリカは、本土決戦をしないで日本を屈服させる方法を考えました。
それが、「原爆」と「ソ連の対日参戦」です。