歴史ぱびりよん

第十九話 特攻隊

今回のテーマは、特攻隊です。実に嫌な言葉です。私は大嫌いです。

日本軍は、いろいろな特攻をやったのですが、最も多く行われたのは、航空機が爆弾を抱えて敵艦に体当たりするという、通称「神風特攻隊」です。

どうして、こんな残酷な戦術が考案されたのか?

既述の通り、軍部の計画性の無さが元凶です。第二次大戦は、航空機が戦場の主役となりました。そして、航空機を操るには高度の専門的技術が必要なので、パイロットの保護や育成が何よりも大切です。しかし、日本軍はこうした基本を怠ったために、戦争末期になると、敵艦に爆弾や魚雷を命中させられる手練が枯渇してしまったのです。

日本以上の苦境にあったドイツが、最後まで特攻隊をやらなかった理由は、優秀なパイロットの育成に成功していたので、特攻をやる必要がなかったからです。日本軍の計画性の無さが、いかにはなはだしかったか、良く分かります。

戦争末期の日本軍は、マリアナ沖や台湾沖で、合計1000機もの航空機を失いながら、得られた成果はわずかでした。しかし、フィリッピン戦のときに、少数の志願兵に試しにやらせた特攻で、日本軍はそれ以上の大戦果を挙げたのでした。関大尉は、新妻の写真を抱きしめながら敵空母に体当たりし、これを見事に撃沈したのです。 アメリカ軍の対空砲は、当初は、Uターンせずに突っ込んでくる敵機には無力だったので、「カミカゼ」の猛威にパニックになったのでした。

官僚組織の恐ろしさは、目的のためには手段を選ばないという点です。通常の爆撃よりも特攻のほうが効果的と知った日本軍首脳部は、特攻を正式な戦法として制度化したのです。

パイロットは、建前では志願制でしたが、実質的には周囲の圧力で強制的に集められたようです。日本の未来を担う若者たちは、バカなお偉いさんたちの尻拭いをさせるために、操縦桿の代わりとしての死を強要されたのです。何と言う恐ろしい事でしょうか!

でも、若者たちの多くは、喜んでその運命を受け入れたようです。 私は、広島の出張帰りに、江田島の海軍博物館を訪れた事があります。そこでは、特攻隊員の遺書が、ショーケースの中に山のように陳列してありました。どれもこれも、物凄い達筆です。しかも、文章が驚くほどに上手なのです。そして、その中には国や家族や恋人に対する篤い想いが赤裸々に語られていました。彼らは、自分たちの行為が戦局を逆転させられるとは、必ずしも信じていませんでした。しかし、自分たちの犠牲が、この国の未来に何かを残せるはずだと信じて、そのための人柱になるために出撃したのです。

なんという尊い心でしょうか。

私は、読んでいるうちにマジで落涙してしまいました。このような立派な人々が、操縦桿の代わりとして生を終えたという事実に、戦慄を禁じることが出来ませんでした。

ここに、戦争の本当の恐ろしさがあります。戦争は、どうしてやってはいけないのか?大量破壊と大量殺戮が起こるから?それは違います。破壊と殺戮なら、地震や事故でだって起こるでしょう?戦争の本当の恐ろしさは、「人間の愛と知性を否定する」点にあるのだと思うのです。戦争によって、人間は人間で無くなるのです。人間が人間で在り続けるために、戦争は地球上から根絶しなければならないのです。

ううむ、つい感傷的になってしまった。

日本軍は、この他にボートを用いた水上特攻、小型潜水艦を用いた海中特攻など、さまざまな特攻を考案し、さまざまな特攻兵器を開発しました。

陸軍省の役人は、こんなことを公言していたそうです。

「2000万人の国民が特攻をやれば、必ず勝てるだろう!」。

もはや、まともな精神状態とは思えません。軍隊は、自らを犠牲にして国民を守る組織でしょう?国民を犠牲にして自分たちのメンツを守ろうとは、本末転倒も良いところです。日本という国家は、まさしくバカな役人によって滅亡の淵に立たされていたのです。

海軍の軍艦も、特攻に出撃しました。戦艦「大和」の菊水特攻作戦です。沖縄の敵橋頭堡に突入して、最後まで撃ちまくるという計画です。誰がどう見てもナンセンスでした。そんな事が成功するはずがありません。もはや、戦術的合理性を超えています。

この作戦の本質は、海軍のメンツの問題にありました。当時日本海軍の残存艦艇は、呉や横須賀の港湾に横付けされて、対空砲として活躍していました。どうしてか?もちろん石油が無くなって動けないからです。アメリカの艦載機は、身動き取れない軍艦を狙い撃ちにしたため、港湾には無残に着低した軍艦の残骸がさらされたのです。

私は、写真で戦艦「伊勢」と「日向」の末路を見たことがあります。あまりの痛ましさに愕然としましたね。例えるなら、「便器に腰掛けてケツからウンコを半分出した状態で、心臓麻痺を起こして逝っちゃったオヤジ」ってとこですか(わー、お下品)。

海軍首脳部は、せめて戦艦「大和」には、まともな死に場所を与えてあげたかったのです。せめて、「ケツを拭いて便所の外に出た状態で逝って」ほしかったのです。だから、片道分の燃料を積んで出撃させたのです。

2000名の乗組員は、メンツのために犠牲になったのでした。

戦艦「大和」は、戦争中はあまり活躍できませんでした。もともと、日本近海で敵を待ち伏せて戦うことを前提とした軍艦だったからです。ミッドウェーに出かけた後は、トラック島に転出し、他の軍艦のための燃料タンクになったり(トラック島には、実は油槽も修理設備もなかった。「大和」の大きなタンクは、油槽の代わりとして機能したのです)、疲労した将兵にその威容を見せることで、「癒し系オブジェ」として活躍したのでした。

1945年4月7日、世界最大の戦艦「大和」は、九州坊岬沖でその巨体を海底に横たえました。雲霞のごときアメリカの攻撃機の前には、もはや何者も立ち向かうことが出来なかったのです。

これが、日本海軍の最期でした。