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レ・ミゼラブル Les Miserables

制作;アメリカ

制作年度;2012年

監督;トム・フーパー

 

ビクトル・ユゴーが上梓したかの高名な世界的文学の、ミュージカル版の、そのまた映画化作品。

私は原作小説が大好きで、2回通読したほどである。

そして、『レ・ミゼラブル』は、これだけ高名な小説ゆえ、過去に何度も映画化されている。私はもちろん、これら映画作品を一通り見たことがある。しかし、原作のストーリーが異常に長い上、登場人物やエピソードが多いので、2~3時間の映画の中にきっちり収まるはずがないから、どうしても舌足らずになる。その中では、ジャン・ギャバン主演の1957年版が最も原作に忠実だったけど、かえって退屈で面白くなかった。

優れた文学は、人間心理の内面描写に優れているので、そこに物語の面白さの源があるのだが、映像化作品は心の内面まで表現できないから本質的に無理が生じる。だから、どんなに頑張っても原作を超えることは出来ない。むしろ、原作をある程度改変して、映像美を際立たせるような別作品として再構成した方が上手く行くケースが多い。そして、ミュージカル版は、この知的作業に最も成功した例である。このミュージカル版をそのまま映画化したのが2012年版で、だからこそ映画も成功し大ヒットとなった。

ただし、原作ファンの視点からは、首をかしげざるを得ない部分もまた多かった。そこで、この稿では、原作小説とミュージカル版(+2012年映画版)の本質的相違点について検証してみよう。

(1)神と人との対決;

19世紀のヨーロッパ文学全体に流れる主題は、「神VS人」である。どういうことかと言うと、人間は科学技術などの進歩によって、どんどん英知を身につけて神を超越しつつある。しかし、そのことは、人類に利便的な幸福をもたらす反面で、神の愛を忘れさせて精神面での堕落を招くのではないだろうか?人の智恵と神の愛。この両者が織り成す深刻な対立こそが、19世紀ヨーロッパ文学の、そして小説『レ・ミゼラブル』の基本命題なのである。

ここで、「神」の代表はミリエル神父であり、その薫陶を受けた主人公ジャン・バルジャンである。そして、「人」の代表は、ジャン・バルジャンを罪人と決めつけて、彼を執拗に追い続けるジャベール警視である。

ジャベールが、バルジャンを敵視する理由は、バルジャンが「人の法に背いた」という一事のみだ。つまり、この警視の精神世界には、「人の法を上回る上位概念があるのではないか?」あるいは「人の法が間違っているのではないか?」という想念はまったく存在しない。つまり、「法」のためなら神を踏みにじっても構わないという思想の持ち主なのだ。しかし、そんな彼も、最後にはバルジャンの持つ「神の愛」に屈服する。でも、今さら神の側に寝返ることは出来ないので、自ら死を選ぶのだ。

ところが、ミュージカル&映画版では、こういった対立図式は棄却されている。むしろジャベールが、神の命令を受けて行動する狂信者として描かれているから矛盾である。だから、彼の最後の自殺の動機も、今ひとつ分かりにくいのだ。

(2)マリユス・ポンメルシー;

原作小説は、とにかく人物の内面描写が濃厚で、「ビジュアル的に動きが乏しい静かな人物の方が魅力的」だったりする。その代表が、ジャン・バルジャンでありマリユス ・ポンメルシー青年である。逆に、この静かで無口な人たちは、映像作品の中ではまったく映えないし、それどころか本質を誤解されがちの演出がなされてしまう。この矛盾というかギャップは、おそらく映像作品では解決不能である。

マリユスについて言えば、彼の人物説明を表面的にするなら、

「もともと金持ちのボンボンで、反抗期で家を飛び出して革命運動に参加するけど、恋に溺れて仲間を裏切ろうとして、それでも最終的には革命に参加するけど、自分だけ命が助かって、実家に帰って美人の嫁さん貰って幸せになる奴」。

なんだか、無節操でスケベで薄情で嫌な感じである。後ろから、飛び蹴りを食わせたくなるような奴である。あらすじだけ紹介すれば、マリユスはそんな人物である。だけど、彼の家庭環境や生い立ちを知った上で、内面描写をじっくり噛みしめれば、皮相的な説明が木っ端みじんに吹き飛ぶくらい魅力的な人物だと分かるはずだ。これを表現出来ないのが、映像作品に共通の弱点なのである。

それに加えて(1)に即して言えば、原作小説でのマリユスは、著者に最も近い立場で、「神VS人」の中間点に立って物語のバランスを取る重要な役目を持っている。しかし映像作品は、「神VS人」のテーマを棄却した時点で、マリユスの立場をも根っこから消し飛ばしているのだった。ああ、マリユス。不憫な奴よのお。

(3)ABCの友;

原作と映像作品の最も大きな違いは、「革命運動の扱い」ではないか?

「ABCの友」とは、劇中に登場する革命集団である。簡単に言えば「連合赤軍」みたいな手合いであるが、構成員のほとんどが学生で、しかもリーダーのアンジョルラスが超絶的イケメンという設定なので、ビジュアル的に魅力的である。だから、ミュージカル&最近の映画版では、彼らこそが主人公のような扱いになっていて、彼らの散華こそがクライマックスである。つまり、その後のジャベールやジャン・バルジャンの死は蛇足みたいになっている。

しかしながら、原作小説では、学生たちはむしろ否定的な存在として描かれている。彼らはジャベール同様、「人の法に偏って、神の道に背いた悪い例」として扱われているのだ。もっとも、「ABCの友」が奉じる「人の法」とは、ジャベールとは逆に、現行政体であるブルボン王制を否定する共和制であったわけだが、王制、共和制どちらも「人の法」であって、「神の愛では無い」という点では共通だ。

そして、この学生たちは血気盛んなだけで、戦略や戦術もロクに持っていない。なんとなく政治情勢の転機に付け込んで挙兵すれば、民衆どころか政府要人まで仲間に加わってくれて、革命が成就するだろうと無邪気に信じている奴らなのだ。だから、挙兵してわずか数日のうちに、罪の無い善良な人々(マブーフやガブローシュ)を巻き添えにして、政府軍によって皆殺しにされてしまうのである。

「暴力は、より強い暴力によって報復されるだけ」。それは、「神の愛」に背く行為なのだ。だからユゴーは、強い同情心を抱きつつも、彼らの散華を残酷に無情に描く。

また、メンバーのアンジョルラスとグランテールの関係など、同性愛というか、すごく不健康で不道徳な匂いがプンプンする。アンジョルラスは「俺の恋人はフランスだ!」などと呟いて、死ぬまで童貞だったっぽい人だが、何だか偏っていて性格が変である。キリスト教的には背教である。こういう描写で、「人の法」によって「神の愛」を忘れた心の堕落を描いたのが『レ・ミゼラブル』の原作なのだ。

そして、ジャン・バルジャンは、徹頭徹尾、イエス・キリストの理想の「神の愛」の体現者として描かれ続け、その通りの最期を迎える。だから、原作小説を読み終えると、涙が溢れて止まらなくなるのだ。私はキリスト教信者ではないけれど、こういった首尾一貫した正しい生き様を提示できるのなら、「宗教も悪くないな」と考えさせられる。

それなのに、ミュージカル&最新映画だと、「ABCの友」のイケメン青年たちが物語の中心になってしまうので、バルジャンの死は「こいつ、まだ生きてたの?」という感じで蛇足感がプンプンしちゃう。映画館で観客の反応をうかがうと、みんなそういった違和感を抱いたようだった。

本来の文学的(キリスト教的)主題をブチ壊されて、おそらくユゴーは草葉の陰で激怒しているのではないだろうか?

それでも、ミュージカル&最新映画は、まったく別の作品だとして見るなら、それなりに楽しめる。でも、未読の方には、ぜひ原作小説を一読していただきたいと思う。そして、両者を比較考察することをお勧めします。人類が、ここ200年で何を失ったのかが、きっと見えて来るだろう・・・。