歴史ぱびりよん > 映画評論 > 映画評論PART11 > シン・ゴジラ
制作:日本
制作年度:2016年
監督:庵野秀明、樋口真嗣
(あらすじ)
謎の巨大生物ゴジラが、突然東京を襲う。
日本政府は、この災厄を克服するべく全力を尽くすのだった。
(解説)
ゴジラは、東宝が生んだ最強の大スターであるが、最近は沈滞気味。それを刷新して、奇跡の大復活を策したのがこの作品だ。興行成績も批評家筋の評価も抜群で、その刷新は大成功だったと言える。
しかし、個人的には駄作であった。
映画製作で最も大切なのは、リアリティ創出の「バランス」である。物語の内容は、それに見合った演出を必要とし、両者のバランスが極めて重要となる。たとえば、シリアスな人間ドラマであれば、真面目な人間たちが現実的に物を考えて現実的な行動をとるべきである。コメディの場合は、ちょっと非常識な人間たちが面白い行動をとるべきである。SF映画の場合は、ある程度の科学的リアリティが必要となるが、過度に難しくすると詰まらなくなる。そういったバランスが大切なのだ。しかしながら、最近はそのバランスがおかしい映画があまりにも多い。『シン・ゴジラ』もその一つである。
これは巨大怪獣が出て来る幼稚な物語なのだから、ある程度の非現実的演出が必要であることは間違いない。それでも、全体的なバランスを考えた場合、あまりにも幼稚な描写が過ぎるのだ。
『シン・ゴジラ』の過剰な非現実的描写を挙げたらキリがないのだが、自衛隊の現有最強兵器がまったくゴジラ(いちおう生物)に歯が立たなかったり、アメリカの最高外交特使が石原さとみだったり、アメリカが東京に核爆弾を落とそうとしたり、日本政府(霞が関)が一瞬にして縦割り行政を解消して一本化したりと、かなり酷いことになっている。1つ1つは何とか我慢できたとしても、累積するとさすがに耐えられなくなる。(もっとも、世間ではこれらがリアリティの高い描写だと認識されているらしいので、個人的にはそっちの方に危機感を覚えるのだが)。
それでも、いわゆる平成ゴジラ(特に後期)もバランスの悪さという意味では同レベルだったので、『シン・ゴジラ』が特に悪いわけではない。多少はマシなくらいである。平成ゴジラは、バカバカしすぎて評論する気にもならないからな(苦笑)。
そういうわけで、バランスの問題に何とか目をつぶることが出来たとしても、この映画の最大の問題点は、「ゴジラが散歩しているだけ」という描き方であろう。ちっとも、脅威っぽくないのである。実際、この映画のゴジラは、自衛隊やアメリカ軍が余計な手出しをしなければ、のんびりと東京見物して、海に帰って行くだけの生物である。だから住民の避難は容易だし、ゴジラ散歩時の物的被害もかなり少ないように描写されている。そうだとすれば、むしろこいつを放置した方が、街の補修作業に従事するゼネコンがいくらか儲かって、国家経済的にはラッキーなのでは?この映画のゴジラは、先行作品のように、散歩中に致死性の放射能を撒くわけではないらしいし。
いちおう、登場人物のセリフで、ゴジラが人類全体の脅威であることが示されるものの、少なくとも私はまったく説得力を感じなかった。仮に、無限に進化し続けるような特殊生物だったとしても、「人間を襲わないで散歩するだけ」なら、無害じゃないのか?敵が怖くないモンスター映画は、そもそも物語の根本的レベルで破たんしていると思うし、製作する意味自体を感じない。
おそらく、「怖くないゴジラ」の根本的理由は、監督の資質や能力とは別のところにある。製作会社の東宝は、ゴジラのことが大好きだから、彼を悪く描きたくないのだ。だけど、昭和ゴジラ(後期)の時のように、この怪獣を人類の味方として描きたいわけでもない。いちおう、人類の敵という形にはしておきたい。この矛盾した思惑が、平成ゴジラ(後期)やシン・ゴジラのような、「怖くないモンスター」を生んでしまう根本的原因ではないだろうか?つまり、製作の最高レベルで、手足がバラバラに動くような禁治産状態なのである。
この状況を打開するためには、発想を完全に転換して、ゴジラを怖く描くしかないと思う。たとえば、「大量の人間を手づかみでムシャムシャと捕食するゴジラ」を観たいと思うのは、私だけだろうか?(苦笑)
いずれにせよ、そんな無害な生物を駆除するために、東京を核攻撃するというぶっ飛んだ物語の展開には、大いに呆れてしまった。「中学生のボクが考えた日本の政治と国際社会」といったレベルの幼稚さである。また、この映画のアメリカ合衆国は、日本国に対して歪んだ悪意を持っているように描写されているのだが、その描き方も「中学生のボクが考えた日米関係」といったお粗末さであった。
もっとも、世間では『シン・ゴジラ』は傑作として認識されているようなので、私が浮いているのだろうな。