歴史ぱびりよん

1.博多の情景

人の心は遷ろい易いというが、過去と現在との距離は、思ったほど遠くないことがある。

今日、福岡市の一角として栄える博多の街は、六百年以上も昔から大いに賑わう商業港であった。海はどこまでも青く、空はどこまでも広い。そんな青一色を更に彩るかのように、大小の船が本州や大陸に向けて富を運んで行く。そうした点描は、今も昔も変わりはない。

しかし、元弘げんこう 二年(1332)の春に、この街に足を運んだ人々が最初に感じるのは、辺りに漲る緊張感であったろう。海原を見つめる博多っ子たちの目には、かすかに恐怖心が兆しているのがよく分かる。

彼らは、五十年前の悪夢を消し去ることができない。あの恐るべき蒙古の大船団。対馬と壱岐を劫掠し、一度はこの街を全焼させたあの恐怖の軍団。たまたま暴風雨が吹き荒れて撃退してくれなかったなら、この街の栄華もありえなかったはずである・・・。

彼らの恐怖心をさらに煽りたてるのは、沿岸に鳴り響く槌の音であった。これは、鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題の命令で、全九州の御家人(幕府の庇護下にある武士)たちが参集し、沿岸に延々と連なる石塁を築く音である。この前の元寇(弘安の役)で大いに役立ったこの石塁を、次の侵略に備えるために年に一度修築するのが、当時の九州御家人たちの義務であった。

さて、土埃の立ちこめる喧噪の博多の港。その桟橋の一つに降り立った僧形の人物があった。曹洞宗そうとうしゅう の禅僧、大智だいち である。年の頃は三十五、六であろうか。荷物を上げ下ろしする人夫に混じって、目深に被った笠から青空を見上げるその色白だが精悍な顔付きには、幅広い見識と知恵、そして強い意志が現れている。

「大智さま、お待ちしておりました」

桟橋で大智を出迎えた人物は、畿内でも有名な博多の豪商、うめ 富屋とみや 庄吾郎しょうごろう その人であった。ふくよかな恵比寿顔でにっこりと微笑みかける。

「これは、わざわざ出迎えかたじけない」静かに頭を下げる大智。

「さあさあ、わが家に参りましょう。今日はゆるりとくつろぎ下さい」

大智と梅富屋の交誼は深く、数年来の付き合いであった。大智が九州にやって来る時は、いつも梅富屋の世話になっているほどだ。今度も、梅富屋船が瀬戸内海を渡してくれたのである。

梅富商店はその本店を箱崎宮の南西に置いているが、広域販売網を畿内の諸都市にも有しており、かなりのやり手であった。しかし、梅富屋敷は身代のわりには簡素な造りで、大智はそれをとても好んでいた。屋敷の質朴さは、鎌倉ではとうに忘れ去られたはずの質実剛健の気風が、九州でまだ強く残っていることの現れであろうか。

丁重に通された客間の縁側から浜辺の土木作業を眺める高僧は、つい苦笑を漏らした。若いころ大陸に渡って修行を重ねた彼は、元の弱体化をよく知っており、再度の侵略はあり得ないと知っていたので、あくせく働く武士たちの徒労を哀れんだのである。

ちょうどそのとき、後ろからの鈴のような声が彼の耳を打った。

「大智さま、白湯をお持ちしました」

両手に小さな盆を捧げた十七、八の美しい娘が、白い歯を見せて微笑んだ。

「おお」大智は思わず目を見張った。「妙子たえこ どのではありますまいか、すっかり大きくなられて」

「嬉しい。うちを憶えておいででしたか」娘はかすかに白い頬を赤らめる。

「ははは、それはお互い様じゃ。もう十年来ですからのう」

「大智さまは、筑紫になかなかいらっしゃらないから」

「すまぬ、すまぬ。じゃが我が寺は加賀(石川県)じゃからの。いくら故郷が肥後(熊本県)にあるとて、用もないのにおいそれと来られませぬからの」

「そうですわね。・・・それで今度は、加賀のお寺から肥後に何の御用なのですか」

「なあに、宇土に住む老師に呼ばれましてな。いろいろと難しい話があるのです」

「もしかして、肥後に帰れと言われるのじゃございませんこと」

「うん・・・そうなるかもしれませぬ」

「まあ、嬉しい。そうなれば、しょっちゅうお会いできますもの」

桃色に染めた小袖を振って喜ぶ妙子は、梅富庄吾郎の一人娘である。美しく成長したものだと大智は驚嘆していたが、苦行の末に現世の欲望を脱却した彼にとって、妙子は清らかな好意の対象でしかない。

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博多の夜は騒々しい。特にこの時期は、石塁工事に駆り出された武士たちが酒を食らって騒ぐのだからなおさらである。お陰で酒屋だけは大繁盛であった。

梅富屋は、商売の都合上、得意先の武士たちに宿舎を提供していたので、夜半ともなると酩酊した武士たちが屋敷にふらふら帰って来る。

詩作をよくする大智は、自室の窓からこの光景を詠みこもうとしてみたが、酔漢は題材になりにくい。それで、彼の興味は次第に美しい満月へと移っていた。

「ふむ、一句浮かんだわい」

短冊に筆を入れようとした大智は、ふと庭の片隅に目を止めた。

満月に照らされた池の端に寄り添う二つの影。若い男女の姿である。

月の光を満面に浴び、幸せそうな笑顔を浮かべているのは妙子であった。傍らの男性はどうやら石塁工事の武士らしい。色白の顔と気品のある優しい顔。直垂には、鷹の羽の家門が示されている。

「ふうむ、妙子どのも年頃なのじゃ」大智は少し寂しそうに微笑んだ。

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鎌倉幕府のちん 西探題ぜいたんだい の使いが梅富屋の門をくぐったのは、その翌朝のことであった。曹洞宗の高僧が宿泊していると聞いたので、是非とも面会したいと言う用件である。

「喜んで参りましょう」大智は快く応じたのである。

鎮西探題は、正応しょうおう 六年(1293)に設置されて以来、鎌倉幕府の西国の拠点として九州の御家人を軍事、政治面で統率している。

時の探題職は北条英時ほうじょうひでどき であった。彼は鎌倉執権北条守時の実弟であるが、必ずしも兄の七光りというのではなく、彼自身の非凡の才能ゆえに、気性の激しい九州武者を見事に統率していたのである。

探題館は櫛田くしだ 神社の近くにあったので、梅富屋からはさほど遠くない。だが、屋敷の周りには空堀が設けられ、高い塀の後ろからは矢倉が屹立し、辺りに威圧感をふりまき、来訪者に別天地の感を強く与えていた。

この小さな城塞の主、北条英時は今、屋形の居間で平仄ひょうそく にもたれながら、関東の妹から送られて来た長い手紙を読んでいる。

彼の妹の登子のりこ は、幕府最大の外様御家人である足利あしかが 高氏たかうじ の正妻であった。

「おお、あの千寿王せんじゅおう どのが口を利いたのか。なんとも早いのう。将来が楽しみじゃ」

部下の前では厳しい顔が、今は幸せそうに笑み崩れている。手紙の内容は、妹の幼子の近況を中心とした世間話であったが、昨今の難しい情勢の中、かわいい妹の幸せに触れるのは何よりの慰めであった。

「殿、大智禅師が参られましたぞ」

室外からの部下の声に、英時の表情はたちまち引き締まった。

「すぐ行く。接待しておれ」

名にし負う高僧との対談は骨が折れる仕事である。英時は会談の運び方についてあれこれ考えながら、謁見室へと向かった。

大智は謁見室の中央に昂然と座していたが、英時が二名の従者とともに入室すると、静かに頭を下げた。

上座に腰を置いた英時は軽く答礼すると、労いの言葉をかけたり、道中の四方山についてあれこれと問うた。本題に入る前に相手の警戒心を解くのは、彼の得意とする話術である。大智も釣り込まれて四方山に興じたが、英時の怪しく光る目に不審を感じたのは流石であった。やがて、英時は膝を乗り出した。

「禅師は京の都を通って参られたとおっしゃったが、河内かわち (大阪府東部)、大和やまと (奈良県)の動静を肌で感じたことで御座ろう。いかが思し召される」

英時の強い語気に、大智は身構えた。やはり探題の目的は、中央情勢の聴取にあったと見える。しかし大智は政治には興味が無かったので、曖昧に答えざるを得ない。

「なんでも、錦の御旗を振りかざした賊が暴れているそうですが、拙僧には関わりなきことです」

「果たしてそうですかな」英時は冷たい視線を走らせた。「その賊の令旨りょうじ (皇族の発する命令書)を持って、諸国の武家をそそのかす悪僧が後を絶たぬとか。この筑紫にも、幕府に二心を抱く御家人が多いので、警戒しているのですよ、大智どの」

ここに至って、大智はやっと英時の真意を悟った。どうやら探題は、大智を悪僧の一人と勘違いしているらしい。やれやれ、どうやって誤解を解いたらよいだろう。

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ここで、大智が被った冤罪の正体について解説しよう。

鎌倉幕府を打倒し、公家一統の世を樹立せんとする後醍醐天皇は、ちょうど一年前の元弘元年(1331)五月、ついに武力による倒幕に踏み切った。しかし、陰謀の露見をきっかけとする性急な挙兵は準備不足の観を否めず、呼応するものは一部の悪党と僧兵のみというありさま。結局この倒幕は失敗に終わり、捕らえられた天皇は元弘二年三月には隠岐へ配流され、いわゆる元弘の変は落着したのであった。

しかし、天皇の一子・大塔宮おおとうみや 護良もりよし 親王と倒幕軍主力の河内の豪族・楠木くすのき 正成まさしげ は、巧みに南畿に潜伏し、幕府が仕立てた新天皇(光厳こうごん 天皇てんのう)の即位の後も、なんとなく畿内は騒然としていたのである。しかも護良親王は、密かに倒幕の密書(令旨)を山伏や僧侶に託して各地に送り、潜在兵力の確保に尽力しているらしいのだ。

かくして鎮西探題北条英時は、本土からやって来た大智禅師が、護良親王の密使であるとの疑いをもったのである。

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「貴僧は、肥後に参られると聞いたが」英時の眼光が光る。

「八年ぶりに、宇土川尻の大慈寺だいじじ に住む老師を訪なうつもりですが」

「肥後には、菊池や阿蘇といった油断ならぬ土豪が犇めいておる。ご存じであろう」

「ははあ、それで拙僧をお疑いで」大智はしかし朗らかに笑った。「とんだ見当違いですな。山門さんもん (比叡山延暦寺)や南都なんと (興福寺)の輩ならともかく、拙僧は螢山けいざん 禅師ぜんじ のお教えを護持すもの。現世利益には一切の関心を持たず、自力本願に邁進する身。なにゆえ都を脅かす賊徒に加担いたしましょうや」

「・・・・・・」

英時は大智の挙動を冷静に観察していたが、一点の曇りも発見できなかった。彼は自分の観察眼に強い自信を持っている上に、万が一の場合の威信失墜を恐れていたので、これ以上の追及を断念し、大智との和解を図るのが賢明であるとの結論に達した。

「なるほど、大智どののような高僧が、野盗どもに加担するはずが御座らぬ・・・。これまでの言動は、皆、戯れです。どうかお許しください」

頭を下げる英時に、大智もやっと眉を開いた。

「そういうことならば、拙僧も水に流しましょう」

まさに大智ほどの高僧になると、人間の出来が違うのである。

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だが、英時の焦りは決して故なきことではない。この頃の、鎌倉幕府の著しい弱体化に、聡明な英時は人一倍心痛していたのである。

しかし、源頼朝が開き、百五十年に亙って君臨してきた鎌倉幕府の弱体化は、一体どこに所以するのであろうか。

第一に、経済社会の変動が挙げられる。幕府創立時代の主要な産業は農業のみであったが、この頃には畿内を中心に商工業と信用経済の発展が著しく、幕府の政治機構の手に負えなくなったのである。そのため、畿内の民衆の間に幕府に対する根強い反感が生まれ、これが護良親王や楠木正成の暗躍を助けているのである。

第二に、鎌倉幕府首脳の腐敗が挙げられる。古今東西を問わず、長期安定政権は必ず腐敗する。豪奢な遊びが流行し、御家人から賄賂をとって訴訟判決を歪めることさえあったと言う。かくして御家人たちの信頼は幕府を離れ、より優れた行政組織の登場を期待する武士の数は日増しに増えて行ったのである。

第三に、御家人そのものの窮乏化が挙げられる。かつては質実剛健を誇った武士たちも、天下太平の中で贅沢を楽しむために、武具を質に入れて借金する者まで出る始末。また、当時は分割相続が通常であったので、鼠算式に全ての子孫に有限の所領を分割したため、この頃の御家人一人あたりの経済力は極めて小さくなっていた。つまり、幕府の存立基盤である武士自体が貧困化し弱体化していたのである。

第四に、幕府とそれを支える御家人との信頼関係が怪しくなったことが挙げられる。幕府と御家人の間には、元来「御恩と奉公」と呼ばれる緩い契約関係があるのに過ぎない。これは、幕府が御家人の土地所有を公認し保護し、手柄に応じて恩賞を与える代わりに、御家人は有事の場合に幕府のために軍事力を提供するという契約である。ところが、この関係は五十年前の元寇で崩れた。元寇は祖国防衛戦であったため、奮闘した御家人たちに恩賞は支給されず、彼らの不満を高めた。この事態を憂慮した幕府首脳部は、御家人の勢力を弱めて幕府に従属させ、高度の独裁政権を樹立しようと試みたが、これが御家人の心証を更に悪くし公共機関としての幕府の信頼度を著しく低めたのである。

以上の結果、冷静な観察者の目からは、鎌倉幕府は断末魔の危機にあった。敗れたとはいえ、後醍醐天皇の決起もこの情勢に乗じたものであった。ゆえに、天皇の敗北にもかかわらず中央の火種が消えない情勢は、聡明な英時を脅かしていたのである。

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さて、己の精神の研鑽と曹洞禅の普及を至上目的とする大智禅師は、そんな天下の情勢には、まるで無頓着であった。

しかし、人は時代の流れとは無縁には生きられないのである。

そして、大智の後半生を決定づける運命の出会いは、この日の夕刻に訪れた。

太陽が西の彼方に沈むころ、探題英時との歓談を終えて梅富屋に帰って来た大智は、居間で待っていた庄吾郎によって、印象的な二人の人物に引き合わされたのである。

「大智さま、この方たちは肥後の武門、菊池氏の御曹司です。石築地の修築のために我が家に逗留していらしたのですが、明日お帰りになられます。僭越ながら、大智さまの護衛を依頼したところ、快く応じてくれました。どうでしょう、この方たちと道連れというのは」

「おお、これは助かります」大智は微笑みながら二人の人物を観察した。

一人は巨漢である。胡座をかいていたのでその時は分からなかったが、大智より首一つ長身である。両眼は大きく、驚くほどの威圧感を漲らせているが、年はまだ二十くらい、案外純朴な人柄と見えた。

「おいは、肥後菊池の住人菊池武時たけとき が嫡男、次郎武重たけしげ です。お会いできて光栄ですばい。今後ともお見知りおきを」そう名乗った巨漢の声は、破れ鐘のようだった。

もう一人は痩身で眉目秀麗な青年である。隣に座る巨漢とは見た目こそ違うが、雰囲気で血の繋がりを感得できる。年は二十前といったところか。その美貌と直垂の鷹羽の紋は、大智に昨夜の月光を想起させた。彼こそ、妙子と庭で語らっていた人物なのである。

「同じく菊池武時が次男、三郎頼隆よりたか です。道中の安全は我らにお任せを」そう言った美青年の声は、意外に凛々しかった。

「かたじけない、よろしくお願いしもうす」

彼らに向かい合って座る大智は、静かに頭を下げた。菊池一族の武勇は、古来より天下に轟いている。そんな彼らに護衛してもらう幸運に笑みを浮かべた。

彼らとの出会いが、自身の後半生を決定しようとは夢にも気づかずに。