歴史ぱびりよん > 映画評論 > 映画評論 PART8 > のぼうの城
制作;日本
制作年度;2011年
監督;犬童一心、樋口真嗣
(1)あらすじ
戦国末期、小田原北条氏を滅ぼすために来襲した豊臣秀吉軍。
武蔵国の忍城は、城主・成田長親(野村萬歳)を中心にして防ぎ切るのだった。
(2)解説
映画版は、原作小説よりは面白かったような気がする。なにしろ、和田竜さんの原作小説は、あまりの詰まらなさに、上巻を読み終えた直後に「ブックオフ送りの刑」に処したくらいだ(笑)。映画版は、寝ないで最後まで観られただけ、少なくとも 『リンカーン』よりはマシだった。
原作小説を詰まらないと感じた理由は山ほどあるけれど、最大のポイントは「現代人の価値観を、歴史にそのまま押し付けている」部分があまりにも多くて、嘘っぽかった事にある。もちろん、小説の読者は現代人であるのだから、彼らの感情移入を誘う上で、作品にある程度は現代っぽいところがあるのは構わないし仕方ない(言葉づかいとか)。往年の名作家(吉川英治や山本周五郎など)だって、多少はそうしている。しかし、それには限度というものがある。超えてはならない一線というものがある。
たとえば、主人公の「のぼう様(成田長親)」は、領内の農民から非常に慕われ愛されているという設定なのだが、その根拠は、彼が「分け隔てなく農民と接して、お祭りに参加したり農作業まで手伝ってくれるから」。
でも、それは、身分制度が消滅した現代人の感覚での仁徳であろう。たとえば、大企業の社長が現場にやって来て、派遣社員の仕事を手伝ってくれたら、派遣社員はとても嬉しいだろうし、そんな社長のことを慕うだろう。
だけど、戦国時代は違ったはずだ。何しろ「身分社会」である。城主の一門が農民の真似ごとなどしたら、農民は慕うどころか、彼を露骨に軽蔑して嫌ったはずである。それどころか、城主一族を「軟弱で無能だ」とバカにして反乱を起こすかもしれない。身分社会とは、そして戦国時代とは本質的にそういうものなのだが、和田竜さんはそれが全く分かっていないらしい。
私は、それと同じ理由で『永遠のゼロ』も嫌いである。百田尚樹さんも、腕の良い作家だとは思うけど、歴史における人間の価値観の変遷が分かっていないらしい。
ところが、『のぼうの城』も『永遠のゼロ』もベストセラーだったりする。商業ベースで考えるなら、「現代人の価値観そのままに歴史を描いた」作品の方が、不勉強な読者も、あまり頭や心を使わずに読めるのだから売れるんだろうけど、それはそもそも歴史小説ではないね。「歴史を道具に使った現代小説」でしかないよね。最近は、NHKの大河ドラマもそんな感じだけど 。
さて、百万歩譲って、そういった時代感覚の違和感を「無かったこと」にしてみよう。それでも『のぼうの城』は、ストーリーの構造が矛盾だらけである。
忍城が、当初は降伏する予定だったのに、圧倒的な豊臣軍に立ち向かうことになった理由は、「のぼう様」が寄せ手の侮辱や挑発に耐えきれなかったためである。つまり、彼が 忍耐心に欠けるアホだったためである。そしてこれは、領内に住む農民たちの生活と生命を犠牲にする行為である。それなのに、「のぼう様」が最終的に勝利できたのは、彼の「護民意識」が農民たちの心を動かしたゆえである・・・ と、いうことになっていた。
・・・これって、矛盾ではないか?
そもそも、戦国時代の身分社会に、現代的な感覚での「護民概念」があったのか?しかも、それが城主と農民の間にしっかり共有されていたのか?
小田原北条家は、比較的領民に優しい領主だったという研究もあるけれど(税率40%だったし)、今風な「護民」の概念は無かったと思う。
映画版は、残念ながら、こういった原作小説が持つ矛盾や違和感を解消できておらず(製作スタッフは、そもそも違和感すら持たなかったようだが)、俳優陣もおおむねミスキャストだった。それでも、最近の日本映画の中では、マシな方ではないだろうか?私にとっては、途中で寝なかっただけマシであった 。