歴史ぱびりよん > 長編歴史小説 > アタチュルクあるいは灰色の狼 > 第5章 温泉町カールスバート
1
イスタンブールに帰った皇太子は、急に弱気になった。
エンヴェル一派の威勢を間近に見るにつけ、彼らに抵抗するのが無謀な行為に思えたのだ。考えてみたら、ケマル・パシャは一介の少壮軍人に過ぎないのだから、いざというときに頼りになるとも思えない。
そこで皇太子は、元通り、宮殿の一角に引きこもった。
こうしてケマルは閑職に回され、エンヴェルにも会ってもらえず、絶望の心の闇に包まれて、酒と繁華街の女に溺れる日々を送った。そのことが体調をますます悪化させ、とうとう発熱が収まらなくなった。
「あなた、本当にバカだね」ザラが、褐色の二の腕を男の首に回した。「このままじゃ、死んでしまうよ」
「でも、病気療養なんてしたくないんだ」ケマルは、女の二の腕を唇に押し当てた。「ボヘミアの温泉なんて興味ない」
「ここに居たって、酒に溺れてゴロゴロするだけじゃない。ボヘミアに行けば、酒を飲まずにゴロゴロするだけじゃない。ゴロゴロするという点では、結局、同じよね」
「酒があるのと無いのとでは大違いなんだよ」
「じゃあ、死にな」
「・・・おい」
「少しは、人の言うことも聞きなさい」ザラは、潤む目をベッドに横たわる男に向けた。「死んだら承知しないんだから」
彼女の頬を、涙が伝い流れた。
「上官の命令なら逆らうが、君には逆らえない」
ケマルは、ようやく微笑んだ。
1917年の暮れ、彼は再びオリエント急行に乗り込み、ボヘミアの温泉地カールスバートに向かったのである。
2
ボヘミアは、今日のチェコ共和国の西部地方のことであるが、この当時はオーストリア=ハンガリー帝国の属領であった。そして、ドイツとの国境近くに位置するカールスバートは、世界的に有名な温泉保養地であった。
ボヘミアの温泉は、医療効果を重視する飲用温泉である。ここを訪れた患者は、美しい自然を満喫しながら、いくつもの源泉をコップで汲んで飲むのである。カールスバートの泉質は、特に内臓疾患に抜群の薬効があるという。
ケマルは、浴衣姿で病院のベッドの上でゴロゴロして過ごした。退屈だから、各国の新聞を中心に読書に励み、また、オーストリア帝国やボヘミアの現状について、いろいろと学んだ。
ボヘミアに住んでいるのは、チェコ民族である。彼らが話すのはチェコ語で、これはスラヴ語族に属する言語だ。ドイツ語よりも、むしろロシア語に近い。つまり、今の彼らは異民族であるオーストリア人に占領され、支配されている立場なのだった。
そういうわけで、チェコ人は英仏やアメリカと結んで、オーストリアからの独立を策しているとのもっぱらの噂だった。チェコ人の独立主義者たちは、外国で派手に活動しているらしい。しかし、ここカールスバートでは不穏な空気が少しも感じられなかった。ボヘミアの首都プラーグからも、暴動や内戦の噂は聞こえてこない。
「チェコ人は、トルコ人とはずいぶんと違った民族なんだね」ケマルは、親しくなった看護婦のテレザにドイツ語で話しかけた。「トルコ人は、もっと遥かに血の気が多い」
「チェコ人は色白で、トルコ人は色黒だからじゃない?」童顔の若い看護婦は、青い目をクリクリさせながら言った。「色黒ってことは、血の色素が濃いから、血の気も多くなる理屈だわ」
「君のユーモアは認めるけど、真面目に応えて欲しいな」患者は苦笑する。
「ごめんなさい」テレザは、赤い舌を出した。「あたしたちチェコ人は、歴史から学んだのよ。17世紀の『三十年戦争』で、オーストリアと戦ったボヘミア王国は、総人口の3割を失ったわ。戦争は、それがどのような形であろうと、決して何も生み出さない。あたしたちは、暗黒の歴史からそれを学んだ。チェコ民族は、歴史が終わる日が来るまで、絶対に戦争はしないと決めたの」
「でも、戦争をしなければ勝てないぞ」
「それは違うわ」看護婦は、青い目を光らせた。「この世には、誰にも曲げられない大義がある。時間は余計にかかるかもしれないけれど、それこそがあたしたちの武器よ」
「大義の力」ケマルは心を打たれた。「素晴らしい考え方だね。そうか、だからマサリク博士(チェコの独立運動家)は、アメリカや日本を歴訪して、大義の力で国際世論を動かそうとしているのだね」
「あたしたちは、戦争はしないけど必ず勝つわ。大義を決して手放さないから・・あっ、また話し込んじゃった。早く次の患者さんの部屋に行かないと。ごめんね」
「また、話を聞かせてくれ」
可憐な看護婦の後姿を見送りながら、ケマルは心の中に不思議な光を感じていた。
「ボヘミアに来て良かった」
彼は、心からそう思った。
3
新緑の季節、ケマルはテレザとともに、美しい新緑に覆われたコロナーダ(大理石の柱が並ぶ廊下)を歩いた。
カールスバートの療養者は、コロナーダのあちこちに置かれた噴水から、専用のコップで温泉水を汲んで飲むのである。温泉水の効果に加えて、美しい自然の中でおいしい空気を吸って歩くことが患者の回復を助けるのだ。しかも、美しい音楽。音楽好きのオーストリア帝国では、いつでもどこでもクラシック音楽の楽団が野外で演奏しているのだった。
ボヘミアの温泉が、当時から非常に進んだ総合医療施設であったことが分かる。
散歩に飽きた二人は、かつてベートーヴェンが宿泊したホテルの前のベンチに腰を下ろした。
「ムスタファさん、すっかり顔色が良くなったわね」
「ここのところ、酒もタバコも飲まないからかな。戦場を離れたせいか、ストレスが溜まることもないし」
「そういえば、ムスタファさんの顔が白人にそっくりなのは不思議ねえ。瞳の色は灰色かと思っていたけど、良く見ると青いのね。どうして銀色に光るのかな」
「私は、ルーメリア(バルカン半島)のテッサロニカ(現ギリシャ領サロニカ)の生まれだから、白人の血が入っているんだろう。トルコ民族は混血が多いから、いろいろな人がいる。どこかで、私の先祖の中に銀色に光る瞳の遺伝子が入ったのだろうね」
「チェコ人だって、ドイツ人との混血が多いよ。どちらも白人だから、あまり分からないけれど」
「そう考えると、『民族』っていったい何だろうな」
「あたしたちチェコ人は、『言葉』だと考えているわ」
「言葉?」
「つまり、チェコ語を話し、チェコ語を書く人が、チェコ人なのよ」
チェコ語は、文法の上でも発音の上でもスラヴ語族なのだが、ロシア語と違って、キリル文字では表記しない。ドイツ語と同様に、アルファベットにウムラウトを乗せるなどして表記するのだ。この独特のチェコの文字を作ったのは、15世紀に活躍したヤン・フスという偉い僧侶なのだという。
「私は、士官学校で日本語を勉強したことがあるのだが」ケマルは、イスタンブールで貿易商をしていた山田寅次郎先生のことを懐かしく思い出した。「日本語も、それに似ている。日本人は、中国から文字を取り入れたけど、それを独自に翻案して『ひらがな』や『かたかな』を発明したんだ」
「ヤーパン(ドイツ語)、つまりジャポンスコ(チェコ語)ね」テレザは、嬉しそうに笑った。「プラーグに、日本専門の博物館があるのよ。教育総監だったヨゼフ・コジェンスキー先生が、2度も日本に出かけて収集したの。漆塗りの陶器とか紙の玩具とか小さな筆と硯、最高に可愛らしくて綺麗だったな。あたし、日本が好き」
「私も好きだ」ケマルは、思わずテレザを抱きしめてキスをした。
看護婦は呆然として、そして真っ赤になって患者の目をじっと見つめた。
「好きだと言ったのは、君のことさ」
精悍なトルコの将軍は、再び看護婦に唇を寄せ、生涯で何十回目かの恋に落ちたのである。
4
その夜、ケマルは考え込んだ。
トルコ語について。
トルコ民族は、もともと中央アジアの遊牧民だから、言語体系はウラル・アルタイ語族である。文法などは、むしろモンゴル語や日本語に近い。
しかし、オスマン帝国の書き文字はアラビア語なのである。アラビア文字を、翻案も修正も加えず、そのままトルコ語の書き文字に使っているのだ。しかし、アラビア語とトルコ語は、まったく異なる系統の言語なので、非常に書きにくいし覚えにくい。その結果、オスマン帝国臣民の識字率は今でも10%程度だ。これでは、産業が発達するはずもない。
教育の高い上流階級は、もっとひどいことになっていた。トルコ語とアラビア語とペルシャ語のごった煮を、「オスマン語」と称して出鱈目に用いていたのである。これは、単語も文法も無茶苦茶な代物であった。そのため、近年に入ってからはフランス語を公用語代わりに用いるようになったのである。
「俺が偉い政治家だったなら」ケマルは、ベッドに横たわって天井を見つめながら夢想する。「『オスマン語』などというバカな言葉を廃止し、トルコ語の文法や語彙を整備するだろう。そして、チェコのヤン・フス先生のように、トルコ語の書き文字を発明する。民衆の識字率を、日本のように100%にしてみせる」
孤高の愛国者は、祖国が抱えた難題の多さに、つい、絶望的な気分になるのだった。
彼は、病室に巡回に来たテレザに、そのことを話した。
「それでも、トルコ人には自分の国があるからいいわ」看護婦は寂しげに言った。「あたしたちの国は、300年前にオーストリアに滅ぼされて名前を消されてしまった。ボヘミアは、本当はチェコって言うの。カールスバートは、本当はカルロヴィ・バリって言うの。プラーグは、本当はプラハって言うのよ。チェコ語を話すことだって、つい100年前までは禁止されていたのよ。独立を失うということは、言葉を失うということなのね」
「言葉を失う、か」ケマルはつぶやいた。「そんなこと、想像したことも無かったな」
「この戦争だって、好きで始めたわけじゃない」テレザはため息をついた。「若い人たちは、宗主国のオーストリアに命じられて、嫌々ながら戦場に行くの。トルコとは大違い」
「そうだね、独立を失うということは、良いことも悪いことも、自分の意志では決めることができないということだ。たとえ宗主国に国民を殺されても、文句を言えないということだ」
ケマルは今のトルコ人を、大義の無い戦争を続ける不幸な民族だと思っていた。しかし、この広い世界には、もっともっと不幸な人々がいるのだ。自分の国すら持てない人々が。今まで深く考えたことが無かったが、トルコに支配されているアルメニア人やクルド人もそのような人々なのだった。
「だから、あたしたちチェコ人は国が欲しいの。どんなに小さくてもね」
「大義の力で」
「そう、大義の力で」テレザは微笑んだ。
「ユダヤ人もアラブ人も、同じことを考えているということか」ケマルは、シオニスト運動やアラブの反乱のことを想起した。
5
この当時、一部のユダヤ人結社が、英仏政府に働きかけて、戦後のパレスチナに独立国を樹立する運動を展開していた。いわゆる、シオニスト運動である。英仏政府は、ユダヤ財閥の資金力を当てにしていたし、また、パレスチナが敵国オスマントルコの領土ということもあって、これを許可する声明を発したのである。これが「バルファア宣言」だ。
しかしイギリスは、同時期に、オスマン領メッカの長官ハジム家のフサインとの間に、パレスチナにアラブ人の独立国家を認めるという秘密協定も結んだのである。これが「フサイン=マクマホン協定」である。アラブ人たちは、希望に燃えて対トルコ戦争に参加した。いわゆる「アラブの反乱」だ。しかしこの協定の内容は、「バルフォア宣言」と明らかに矛盾する。
それだけではない。イギリスはフランスとの間に、戦後のオスマン帝国を解体し、それを自分たちで分割支配する秘密協定を交わしたのであった。これが「サイクス=ピコ協約」だ。その内容は、多くの場合、「バルフォア宣言」とも「フサイン=マクマホン協定」とも矛盾していた。
・・・今日まで続くアラブとイスラエルの争いや、イラクやイランを中心とする中東地域の紛争は、すべてこれらの矛盾した協約に原因がある。
1917年末、帝政ロシアを転覆させたレーニン政権は、帝国政府の極秘文書箱からこれらの協約の写しを発見し、そして矛盾した二枚舌三枚舌外交を武器とする帝国主義者たちの邪悪さを全世界に対して暴露した。英仏のメンツは、丸つぶれである。
このときオスマン帝国は、西欧列強が、今度こそ本気で祖国を滅亡させるつもりであることを知った。この戦争の帰趨こそが、祖国の運命となることを悟ったのである。
「絶対に負けられないのだ」
エンヴェル陸相は、八の字髭を震わせて、訓練完了の精鋭トルコ軍団に出陣を命じた。しかし、「汎トルコ主義」を掲げるエンヴェルにとって、戦場とすべきはあくまでもロシアや中央アジア方面なのであった。
6
1918年に入ると、ロシア国内での内戦はますます激しくなっていた。
帝政ロシアは崩壊し、皇帝ニコライ2世は退位し後に処刑された。しかし、その後の政局は二転三転を極め、共和制を志向したケレンスキー政権は、レーニン率いる社会主義者に取って代わられた。「ソビエト」の成立である。ところが、これに反対する共和主義者や復古帝政主義者(白軍という)たちが次々に蜂起し、広大なロシア全土で流血の嵐が吹いた。
この混乱に乗じて、ドイツ軍とトルコ軍はロシア領内に向かい快進撃を開始。ハリル・パシャ(エンヴェルの叔父)率いるオスマントルコの主力部隊は、1918年9月15日、念願のコーカサスのバクー油田を占拠したのである。
快哉を叫ぶ、イスタンブールの要人たち。
しかし、これは仇花であった。
この間、手薄になった戦線で、トルコ軍は連戦連敗を重ねていた。イラクでもシリアでもバルカン半島でも、兵力不足のトルコ軍は崩壊の危機にさらされていたのだ。
特に、1917年7月にトルコに宣戦布告したギリシャが曲者だった。ギリシャ軍自体は強くなかったが、ここを基地にした英仏軍(フランシェ・デスペレイ将軍指揮)が、ドイツとトルコの連絡線を切断するべく、1918年の夏以降、徐々にバルカン半島に対する圧迫を強めていたのである。トルコ軍は、必死にオリエント急行を守ろうとしたが、精鋭部隊を全てコーカサスに引き抜かれたため、この方面の戦力はわずか18個大隊。その前途は絶望的であった。
シリアでは、ファルケンハイン将軍の「電撃軍団」が何の役にも立っていなかった。彼は、補給を無視して砂漠で攻勢をかけたため、かえって逆襲を受けて大敗を喫したのである(メギドの戦い)。
そんな中、1918年6月、皇帝メフメット5世は心臓発作で死んだ。
その従弟に当たる同名の皇太子メフメットが、後を継いで即位した。
これが、メフメット6世・ワヒデッティンである。
彼は、オスマントルコ帝国の最後の皇帝となる。
7
「祖国が失われるかもしれぬ。チェコのようになるかもしれぬ」
1918年7月、ケマルは浴衣を軍服に替えた。イスタンブールから原隊復帰の命令書が来たのである。シリア戦線のザンデルス将軍が、どうしてもケマルの力が必要だというのだ。
「行ってしまうの」テレザは涙を一粒落とした。
「いつか、帰ってくるよ」小柄なチェコ人を抱きしめたケマルの脳裏には、今は祖国の危機しか無かった。
まだ、体調は万全とは言えなかったが、力の限りやるしかない。
祖国は、断末魔の危機にある。
イスタンブールに帰ったケマルは、即位して間もないメフメット6世に拝謁した。
皇帝は、ベルリン行以来の邂逅を喜び、自らケマルのタバコに火をつけるほどの好意を示してくれた。そこでケマルは再び希望を見出し、熱心に和平策を説いたのである。
「私は命がけで敵を防ぎます。ですから、トルコ民族の固有の領土(アナトリアとトラキア)に敵が侵入する前に、休戦協定を結ぶべく努力をしてください、陛下」
メフメットは、身を乗り出して聞き入った。しかし、ケマルの背後に目をやると、再び玉座の中に身を低く沈めてしまった。
背後を振り返ったケマルの前に立っていたのは、エンヴェルだった。陸相は、怒りと憎しみの篭った両眼で生意気な少将を睨んだが、声だけは存外穏やかだった。
「シリアでの健闘を祈るぞ、ムスタファ。あそこの戦況は厳しいから、いつものように陣頭指揮で活躍してくれたまえ」
「俺に、戦死してくれと言いたいのか。何もかも、全てが貴君の思い通りだな、エンヴェル。おめでとう、貴君は廃墟の帝王だ」
ケマルは吐き捨てるように言うと、足早に退出した。
すれ違いざまに敵意の炎が激しく散る。
これが、二人の最後の会見となった。
原隊復帰の書類を出したケマルは、母にも繁華街の女たちにも会わず、まっすぐにダマスカス(現在のシリアの首都)行きの汽車に乗った。
ダマスカスでケマルを出迎えたのは、ザンデルス将軍やフェヴジ少将、イスメット大佐やアリー・フアト大佐ら、かつて共に戦場を駆けた仲間たちだった。彼らが語るところによると・・・。
これまで中東のトルコ人部隊を統括していたのは、海相のジェマルだった。しかし、海相は赴任直後から信じられないことをした。シリアからパレスチナ一帯に住むアラブ人たちを、「敵性分子」と決め付けて逮捕投獄し、ついには虐殺を繰り広げたのである。
「青年トルコ党」の幹部たちは、トルコ民族を愛するあまり、領内の異民族を平気で虐待する傾向があった。1915年のアルメニア人大虐殺などは、ほんの一例にしかすぎない。
中東でのジェマルの愚かな行為は、激怒したアラブを一気にイギリス側に引き寄せた。「アラビアのロレンス」ことトーマス・E・ロレンスのもとに結集したアラブ人は、残虐非道なトルコからの独立を求め、復讐の念を胸に積極的に戦ったのである。
ファルケンハイン軍の惨敗の背景には、ジェマルが引き起こした深刻な民族対立があったというわけだ。
そして、パレスチナは瞬く間に協商国軍の手に落ちた(1917年12月)。勝利の勢いに乗る彼らは、一気にシリアを北上する。
この渦中で、ファルケンハイン将軍はついに更迭された。
シリア崩壊の危機に際し、ドイツ参謀本部から、有能なハンス・フォン・ゼークト将軍がトルコ軍の参謀総長として送り込まれた。そして、イスタンブールに着任した彼はザンデルスと協議し、療養中の名将をボヘミアから召還したのであった。
「愚かなことだ」ケマルはつぶやいた。「そもそも、異民族の住む場所で異民族の領土を守って戦うこと自体が間違いなのだ。『帝国』そのものが時代遅れなのだ。トルコ民族は、トルコ固有の領土の中で、静かに平和に生活すべきなのだ」
ケマルは、この戦争の何もかもが嫌だった。
しかし、今は祖国を救うために戦わなければならない。