歴史ぱびりよん > 長編歴史小説 > アタチュルクあるいは灰色の狼 > 第10章 シヴァス国民会議
1
ケマルは、考えに考え抜いていた。
白人列強が、なぜ世界を支配するほど巨大になれたのかを。
もちろん、政教分離や産業革命の成功もあるだろう。しかし西欧、特にイギリスの成功は、それだけでは説明できない。人口3000万人で資源に乏しい島国が、どうして「太陽の沈まない帝国」になれたのか。
結局は、工業力と軍事力である。しかし最も重要なのは、軍事力に裏打ちされた大義名分である。彼らは、征服や侵略を行う場合であっても、常に大義名分を用いて来た。支配される側は、征服者が掲げる国際条約や議会決定という名の「大義名分」と、その背後に隠された「軍事力」とのダブルパンチによって打ち倒されてしまうのである。
ケマルは、帝国主義の歴史をとことん学んだ。ムガール帝国(インド)も清朝(中国)も、まったく同じ手段で征服され、あるいは半植民地にされてしまった。イギリス政府の常套手段は、まず、相手国の特権階級を財貨で篭絡しあるいは軍事力で脅迫し、そして「不平等条約」を押し付ける。それに耐えかねた民衆や中産階級が反抗すると、「条約違反」を口実に軍事介入し、気骨のある人々を抹殺する。こうして、骨抜きにされた国家は、いつしか物理的にも心理的にもイギリスの奴隷になってしまうのである。
唯一の例外となったのが、日本であった。この国も、徳川幕府が列強の脅迫に屈して「不平等条約」を押し付けられた。しかし、これに反抗する人々がたちまち強大な勢力に成長し、しかも大きな流血もなく幕府を倒してしまったのである。その上、明治新政府はあっという間に西欧の成功のエッセンスを咀嚼吸収し、いつしか列強の仲間入りを果たしていた。1905年に日本がロシアを打ち負かした時は、ケマルも大喝采を送ったものだ。
ケマルは考える。
「トルコは、日本を見習い、日本のように生きなければならぬ。いや、日本を越えなければならぬ。敵が不正な国際条約を打ち出して来るなら、こちらは大義に基づく国内条約で対抗する。敵が不法な会議決定を持ち出すなら、こちらは合法性の高い会議決定で対抗する。そして、敵が軍事力で圧迫をかけるなら、こちらも強力な軍事力で対抗するのだ」
軍事力で闇雲に暴れても無駄である。大義を持たない武力は、いつか必ず破れるだろう。まずは合憲的な議会をひらいて、この運動全体に大義を抱かせる必要がある。
ケマルの当面の目標は、合法性の高い国会の開催と、軍事力の養成である。
2
熟練の軍人であるケマルには、エルズルムの議会において、可及的速やかに軍事力を高めるという重要な任務が委ねられた。「国民軍」の創設である。
カラベキルとアリー・フアトが掌握するのは、各2個師団の計4個師団。すなわち、現状での戦力は兵士5万人に過ぎない。
それ以外の戦力は、ギリシャの進駐を憤って蜂起した西部のゲリラ集団である。しかし、現時点での抵抗活動は、好き勝手にゲリラ活動を行い、占領軍に嫌がらせをしているのに過ぎない。まずは、これを首尾一貫した軍事組織に纏め上げなければならなかった。この作業を進める上で、カラコルの組織は有用だった。なぜなら、ゲリラのリーダーの多くが旧「青年トルコ党」のメンバーだったからである。ここでは、カラコルの大幹部であるカラ・ヴァースフやカラ・ケマル、そしてレフェト大佐が活躍し、少しずつ連帯の輪が広がっていった。
それ以上に重要なのは、より多くの勇敢な兵士を集めることである。
幸いなことに、ギリシャ軍のスミルナ侵入と無法行為は、全土のトルコ人を憤激させていた。ケマルたちの呼びかけに応えて、各地から憂国の若者たちが駆けつけたのである。
ケマルは、カラベキルやアリー・フアトとともにアマスヤやエルズルムなどの東部アナトリア諸都市を駆け回り、志願兵たちの前で熱弁を振るった。
「立ち上がって武器を取れ。もはや、戦うことでしか、君たちと君たちの家族を救う道はない。故郷を守り、奴隷とならないためには、戦うことしかない。これまでの戦いは、正直なところ、君たち自身のものでは無かった。一部の権力者たちの私利私欲の戦いだった。しかし、今度ばかりは違う。今度の戦いは、君たち自身のための戦いなのだ!」
若者たちは、伝説的な英雄の熱い魂に触れて燃えに燃えた。
ケマルたちの精力的な活動は大きく実り、志願兵の数は日を追って増えて行ったのである。
第16軍団や第20軍団の精鋭と合わせ、その兵力はついに8万人に達した。後は、これを組織的な戦力に変えていかなければならない。
問題は、カラコルが山地に秘匿しておいた武器だけでは数が足りないことである。
そこで、第16軍団と第20軍団の精鋭は、暗夜に紛れてトルコ政府や西欧進駐軍の武器庫を襲った。この不意打ちは各地で成功し、進駐軍は次第に苛立ちを高めて行った。
シヴァス国民会議は、そんな中で開催されたのである。
3
オスマン帝国は、形式的にはイギリス型の立憲君主国家であった。
すなわち、全土が多くの選挙区に区切られ、選挙区から選ばれた国会議員の合議に基づいて国家を運営する建前なのである。ただし、実質的に皇帝や「青年トルコ党」による独裁政治が行われていた期間が長かったので、議員たちの実力は未知数だった。
しかし、ケマルやヒュセインやカラベキルたちは、あくまでも国家の主役は国会議員でなければならないと考えていた。だからこそ、シヴァス国民会議に全国の国会議員を招集したのである。
この当時、占領軍に迎合する一方のイスタンブール政府の在り方に疑問を感じる議員は多かった。彼らはケマルの呼びかけに応え、全国からシヴァスを目指したのである。
ただし、イスタンブールを初めとする協商国の占領地域では、憲兵の監視の目が厳しく、出発できずに拘留された議員も多かった。それでも気骨のある者は、憲兵の目をかすめて農民や退役兵士に変装し、野を越え山越えしてやって来たのだが。
こうして集まった国会議員の数は39名。オスマン帝国下院の総議席数は286だから、7分の1しか集まらなかった勘定だ。それでも、この国が置かれた状況を考えれば上出来であったろう。
問題は、この議会が皇帝の臨席を仰がない変則的な形を取った点にあった。
前述のように、オスマン帝国の皇帝は、カリフとしての宗教的権威を併せ持つイスラム世界で最強のカリスマである。彼を除外する形での政治活動は、どんなに大義名分に溢れていたとしても、民衆感情から大きく遊離してしまう可能性があるのだった。
それに次ぐ重要な問題は、リーダーであるケマル自身の「権威不足」だ。
今や第9軍監察官を辞任し、皇帝に逆賊呼ばわりされる立場の彼は、無位無官の徒である。いちおう、お手盛りで「エルズルム市代議員」の肩書きは得たものの、彼が過去に上げた政治上の実績はゼロなのである。つまり彼には「ガリポリ戦の英雄」という、軍人としての過去のネームヴァリューしか、他者に訴えられる「権威」がない。
しかし、この困難な運動を仕切れるほどの有能な人材はケマルしかいないのである。それは、ケマル自身はっきり分かっていたし、ヒュセインやカラベキルたちも、それを認めていた。
しかし、能力に比して著しく低い「権威」は、その後数年間にわたってケマルを大きく苦しめることになる。
4
シヴァスは、アナトリア半島の東に寄った標高1300メートルにある山間の都市である。ここは、セルジューク=トルコ朝とそれに代わったモンゴルのイル=ハン朝の遺跡が多く残る由緒ある街だ。
9月4日から、この街の学校の講堂で第一回総会が開催された。
議長に選ばれたのは、やはり、ムスタファ・ケマルである。「ガリポリ戦の英雄」は、この非常時において、国会議員たちの衆望を高く集めていたのだ。
彼はまず、「東部アナトリア権利擁護同盟」を発展解消させて、「アナドル・ルーメリア権利擁護同盟」を創設することを提案した。アナドルとはアナトリア(小アジア)、ルーメリアとはバルカン半島のトルコ領のことである。つまり彼は、カラベキルが創設した東部に偏った組織を、全国規模に拡大することを提案したわけだ。これは満場一致で可決され、そしてケマルが常任委員会の委員長に任命された。
それから、「権利擁護同盟」の綱領が検討された。ここでは、ケマルが提案した綱領を、議員たちが多数決で承認して行く手法が取られた。
このうち、以下の5つの綱領は比較的簡単に可決された。要約すると、
一、トルコ民族には民族自決の権利がある。
二、アナドルとルーメリアは分離できない一つの集合体であり、そこにはアルメニア人やギリシャ人の国家は存在しえない。
三、それ以外の地域は、あくまでも住民投票によって帰属を決定するべきである。
四、協商国は、オスマン帝国の分断やイスタンブール政府の支配を断念すべきである。
五、以上の要求を満たすため、トルコ「国民軍」には武器を取って戦う権利がある。
しかし、「権利擁護同盟」の政治的位置づけの問題については紛糾した。
ケマルは、イスタンブール政府を完全に否定し、皇帝権力から独立した単一の政府を作ることを提案した。そうしないと、国家の意思決定機関が2つになってしまい、後々、混乱を招くからである。
しかし、多くの議員や聖職者たちは、それには反対だった。彼らは、皇帝を信じていたからである。
「お気の毒なスルタン陛下は、君側の奸者たちと占領軍に軟禁され苦しまれている。我々の使命は、邪悪な者どもを排除し、陛下をお救い申し上げることだ!」
口々に言う議員や聖職者たちの剣幕を前に、ケマルは妥協した。
そのため、
六、我々は、皇帝陛下に忠誠を誓い、大宰相と内閣に君側の奸として誅罰を加える。
七、イスタンブール政府が倒れたときは、権利擁護同盟が国家を代表する。
という方針を決めざるを得なかったのである。
次にケマルは、この運動が「青年トルコ党」の復活ではない旨を運動の基本方針にしようとした。実は、当時の世論の多数は、ケマル自身と議員たちのほとんどが旧「青年トルコ党」員だったことから、この運動を過去の焼き直しだと誤解していたのである。そこでケマルは、これがまったく新しい運動であると人々に印象付けることにより、人心の刷新を図ろうと考えたのだ。
しかし、カラ・ヴァースフはこれに逆らった。カラコルの大幹部である彼は、日ごろから次のような事を口にしていた。
「この運動のリーダーは、すなわちカラコルの指導者に他ならない」
困惑したケマルは、ヴァースフを別室に呼び出した。
「あれは、どういう意味だ?」
「カラコルの指導者というのは、ケマル・パシャのことです。ベルリンのタラートどのから、そういう指示を貰っていますから」ヴァースフは、慌てて応えた。
「・・・君の本音を当てようか。カラコルの指導者は、ベルリンに住んでいる戦犯たちだと言いたいのだろう。この運動は、彼らを帰還させるためだと言いたいのだろう。仮にそうじゃなくても、多くの者がそう誤解するぞ」
「とんでもない、三巨頭は関係ありませんよ。だって、あなたはカラコルの上に乗って活動しているでしょう?」ヴァースフは、鷲鼻を撫でつつ意地悪く言った。それは図星だった。カラコルすなわち「青年トルコ党」の人脈が無ければ、ケマルはこの地では何も出来ないのだ。
それでもケマルは、唇から言葉を押し出した。
「あのような言動は、決して認められない。カラコルは、そもそも占領地域での抵抗運動なのだから、権利擁護同盟の活動区域内では無効となるはずだ。そして、権利擁護同盟の委員長はこの私なのだから、諸君は私一人に従ってもらいたい!さもなければ、この運動に疑惑や分裂がもたらされるだろう」ケマルは、そう言い捨てて部屋を出た。
「・・・あいつ、独裁者になりたいのかな」ヴァースフは、床に唾を吐いた。「権利擁護同盟の広告塔の地位じゃ、満足できないってことか?」
彼はこれ以降、カラベキルとの接触を深めた。場合によっては、傲慢なケマルを倒してカラベキルを擁立しようと考えたのだ。その方が、ベルリンの三巨頭も喜ぶかもしれない。
「ふん、どうしたものかな」カラベキルは、ヴァースフの真意を知って冷笑を浮かべた。「まあ、焦ることは無い。しばらく、ケマル・パシャのお手並みを拝見しよう・・」
一方、ケマルには、ヴァースフら「青年トルコ党」シンパの考えがどうしても分からなかった。「青年トルコ党」の政治は、大失敗に終わったのだ。あれは国民から遊離し、祖国を大義のない戦争に導き、そして敗戦に追い込んだ悪しき体制だったのだ。なぜ、それが分からないのだ。
ケマルは、心底から情けなくなった。
根本的な問題の所在は明らかだった。ヴァースフらは、「復古」を目標にしている。祖国を第一世界大戦前の世界に回帰させたいだけなのだ。しかしケマルは違った。彼は、祖国を列強の占領から救った後で、国政の大改革を行う腹積もりだった。トルコを、開明的で進歩的な議会制民主主義の国に改造したかった。さもないと、再び過去の過ちを繰り返すだけだからだ。そんなケマルの考えを、誰も理解できないのだった。
混乱状態のトルコには、二重三重の保守層がいた。そして、今やその全てが、ケマルに対する抵抗勢力と言えた。
前途は多難である。
5
そのころ、イスタンブールのトプカプ宮殿では、高等弁務官キャルソープを初めとする占領軍当局の面々が、シヴァス国民会議の進展を苛立ちながら見守っていた。
当初は「山賊」と思って侮っていた連中が、意外な政治力を持ちつつある。うるさくならないうちに、芽のうちに摘んでおきたい。
「ケマル・パシャは、やはりただの戦争屋ではなかったですね」情報将校ウインダム・ディーズはうなった。「国会議員が自主的に会議を開く体裁を取られては、反乱だと決め付けることは出来ないし、休戦協定違反を糾弾することも出来ません」
「この国は、未だに建前の上では独立国だし、立憲君主国だからな。皇帝や占領軍の意向を無視しても、法的には容認されるというわけだ。ケマルめ、良く考えたものだ。これでは、我が軍の軍事介入すら難しい」キャルソープ提督は、苦虫を噛み潰したような顔だ。彼の任期は、残り4ヶ月。なんとか、波風を立てずに乗り切りたかった。
「策はあります」ディーズは姿勢を正した。「クルド人を利用するのです」
「おお」キャルソープは両手を打った。それは妙手だ。
クルド人は、イラク北部からトルコ東南部に居住する山岳民族である。彼らは、歴史の中で大国による直接統治を経験したことのない自由の民である。好戦的で死を恐れない勇士たちは、この地域に覇を唱えようとする勢力にとって常に厄介の種だった。当のイギリスも、最近、この地域に進駐し彼らを支配しようと試みたのだが、激しい抵抗を受けて断念せざるを得なかったのである。
クルド人の問題は、日本では同情的に取り上げられることが多い。すなわち、彼らを弾圧するイラク政府やトルコ政府の残虐性が非難される場合が多いのである。しかし、国家の領域内に住みながら「国民」になろうとしない彼らの姿勢にも問題がある。実は、スペインのバスク問題も、ロシアのチェチェン問題も、東欧のロマ族(ジプシー)の問題も、元々はこれと同根である。日本人の狭い了見と経験では、単純に論ずることは出来ない。
話を戻すと、イギリスは、クルド人の頑健さを兵器として利用しようと考えたわけだ。
「彼らに武器を与え、シヴァスを攻撃するよう仕向けましょう。それなら、我が国も国際世論に攻撃される恐れがありません。少数民族の単独行動だと言い張れば良い」
ディーズのこの策は、その日のうちに皇帝メフメット6世に伝えられた。皇帝の宗教的権威で、クルド人を動かそうというのである。
そして、ケマルを憎む皇帝は、二つ返事でこれを引き受けて快哉を叫んだ。
「裏切り者どもの生皮を、クルド人が生きながら剥いでくれるわ!」
そして、反骨精神旺盛なクルド人(その多くがスンニ派イスラム教徒)も、カリフの命令には比較的素直に従った。進駐軍の置き土産であるイギリス製の小銃で武装した彼らは、皇帝に忠誠を誓うマラティア県知事アリ・ガリブの指揮下に入り、続々とこの地に集結を開始したのである。
しかし、カラコルの情報網は、早くもこの動きを捉えていた。
シヴァスの国会議員たちは、大いに狼狽した。クルド人の獰猛さは全国に名高い。眼球をえぐられ、五体をバラバラにされるくらいなら、まだマシな方だ。クルド人に襲われるくらいなら、自殺した方が良い。
「どうしよう」「早く国会を解散して逃げたほうが・・・」右往左往する議員たち。
「イギリスめ、何と陰険な謀略を使うのだ」ケマルは激怒した。
彼はカラベキルやアリー・フアトと相談し、大急ぎで攻撃隊を編成した。第16軍団から2個連隊を抽出し、そして志願兵たちから後備兵力を捻出したのである。そして、自ら彼らを率いてマラティアへと出陣した。
クルド人部隊は、まさか先制攻撃を受けるとは夢にも思っていなかった。
歴戦の名将ケマルは、マラティア市に対して白暁の奇襲攻撃を仕掛けたのである。剽悍さで名高いクルド部隊も、無防備な寝込みを襲われ、成すすべもなく四散した。
実に、呆気ない勝利である。
ケマルはマラティア県知事を捕虜にしてシヴァス国民会議に忠誠を誓わせると、クルド人が置き捨てていったイギリス製兵器を鹵獲し、それらをシヴァスへと持ち帰った。
「諸君!」ケマルは、学校講堂の議長席でイギリス製ライフル銃を打ち振った。「これが、国民会議に対するイギリスの回答だ。これが、奴らの邪悪な意図なのだ。このままでは、我々トルコ人は西欧列強の奴隷にされてしまう。今は議論の時ではない、戦いの時だ」
満座の議員たちは、互いの顔を見合わせて押し黙った。自分たちの、いや祖国が置かれた苦境の重さをようやく思い知ったのである。ここは、優れた軍事指導者に任せてしまったほうが良い。
カラ・ヴァースフとその仲間たちも、ケマルに対する冷笑的な態度を改めた。彼らは、少なくとも当面は、有能な軍人であるケマルを擁立しなければならないことを悟ったのだ。
それからは、とんとん拍子に会議が進んだ。
イギリス占領軍と皇帝は、図らずもケマルを助けてくれたのである。
こうして、次の方針が決まった。
八、これは、「青年トルコ党」の継続ではなく、まったく新しい運動である。
これらの基本方針のうち、占領軍向けの声明が6か条に纏められ「国民誓約」として可決決定された。
その内容を簡潔に記すと、次のようになる。
第一条:休戦時点で敵軍の占領下にあったアラブが多数を占めるオスマン領の将来は、住民投票で決定されるべきである。それ以外の、休戦協定で定められた境界内に住むオスマンのイスラム教徒は、現実的にも法的にも分割され得ない一体的存在である。
[趣旨:トルコ民族の固有の領土内における自決権確保]
第二条:東部アナトリアのうち、ロシア軍の撤退によって自由意志で祖国に加わった三州について、必要なら再度の住民投票を行うことを我々は受け入れる。
[趣旨:帝国主義者の勝手な線引きに基づくアルメニア独立国の阻止]
第三条:将来の講和条約に委ねられているトラキア地方の法的地位は、住民の完全な自由投票に委ねられるべきである。
[趣旨:帝国主義者の勝手な都合によるトラキア割譲の阻止]
第四条:イスラムのカリフ位とオスマンのスルタン位の玉座が置かれたイスタンブールとマルマラ海の安全は、あらゆる脅威から守られるべきである。この条件が保証される限りにおいて、ボスポラス、ダーダネルス両海峡が全世界の商船に開放されるべきである。
[趣旨:いわゆる海峡地域での主権確保]
第五条:国際的な諸条約の原理にはかって、我々は少数民族の権利を、近隣イスラム諸国の民衆と同様の条件で保証する。
[趣旨:少数民族への保護政策を謳うことによる領土分割の阻止]
第六条:我々の国民的かつ経済的な発展と、より近代的な効率的統治とを可能にするために、我々にも他の諸国同様の自由と独立が必要である。したがって我々は、我々の政治上、司法上、財政上の発展を阻害するいかなる制限にも反対である。
[趣旨:不平等条約や法外な賠償金の拒否]
この「国民誓約」は、トルコ国内のみならず、広く全世界に発信されたのである。そして、アナトリアに集う愛国者たちは、これから「国民誓約」を守るために命を賭して戦うこととなる。
6
「国民誓約」に真っ先に反応を示したのは、意外なことにアメリカ合衆国であった。
アメリカ政府は、ケマルたちの主張を入念に検討した結果、これが大義に基づくものだと正しく判断したのだ。「国民誓約」で高らかに謳われた「民族自決」は、ウイルソン大統領の年来の抱負でもある。
しかし、9月末にシヴァスにやって来たウイルソンの「実態調査委員会」は、山間の田舎町に本部を置く権利擁護同盟が、わずか39名の国会議員から構成されることに失望した。そこで彼らは、トルコ全土を「アメリカの委任統治領」にしたいと申し出たのである。それが、アメリカ政府の立場から世界平和のために精一杯考えた結論なのだという。
ケマルは、それを聞いて当惑し、次に失笑した。
アメリカ人は、実は何も分かっていないのだ。
彼らは、トルコ人が自らの力で責任ある政府を樹立できるとは考えていない。そこにあるのは、白人優位主義に基づく偏見だ。考えてみれば、「民族自決」という主張自体にも差別の臭いがする。アメリカ人は、自分たちが手助けしない限り、有色人種や少数民族は自立できないものと思い込んでいるのだろう。
これは、今日まで続くアメリカ国家の病根である。アメリカは、実は、外の世界のことを良く分かっていないのだ。しかし、自分自身の無知にまったく気づいていない。このことが、今日なお、多くの人々に犠牲と悲しみを与えている。
しかし、意外と多くの議員がアメリカの提案に飛びついた。ヒュセイン・ラウフ、カラ・ヴァースフ、ベキル・サミ、そして女流作家ハリデ・エディブは、「西欧列強の包囲網を破るためには、アメリカの力が不可欠だ」と主張したのだ。知識人たちは、「自力再生」をやる自信が持てなかったのである。
しかしケマルは、彼らに一喝を食わせると、アメリカ人たちを丁重にワシントンに追い返した。彼は、これ以上、祖国を外国の食い物にされたくなかったのだ。
ところで、アメリカの無邪気さと無知さは、トルコ分割を進めるイギリスにとって利用価値の高いものだった。
そもそも、ギリシャ軍のスミルナ上陸も、アメリカ大統領がイギリス首相に操られた結果の産物なのである。
大戦中の秘密協定によれば、当初、アナトリア西岸はイタリアの領土になるはずだった。しかし、戦後になってアメリカが嘴を挟んだ。ウイルソン大統領は、アナトリア西岸にイタリア人が住んでいないことから、イタリア軍の進駐に反対したのである。そこでロイド=ジョージ首相は、新たにギリシャ軍による進駐を主張したのだ。アナトリア西岸には、確かにギリシャ人が多いので、ウイルソンはこれには反対出来なかった。
実は、ロイド=ジョージは、もともとイタリア政府と仲が悪く、ギリシャ政府と親しかったのである。彼は、アメリカの無邪気さをうまく利用して、大嫌いなイタリアを弱めることに成功したというわけだ。
アルメニア人の独立問題も同じだ。ロイド=ジョージは、「民族自決」という概念を用いて「アルメニア独立国」の後押しをアメリカにさせたのであるが、彼の真の狙いは、アルメニアに旧ロシア領と旧トルコ領を吸収させることによって、大嫌いなソ連とトルコを同時に弱めることなのであった。
老練なイギリスの政治家から見れば、単純なアメリカ人など赤子の手を捻るようだったろう。国際連盟と民族自決の提唱者であるアメリカをうまく操れば、国際政治など掌の上を転がすようなものだ。程度の低い有色人種など論外だ。日本だって、イギリスの言うなりになってシベリアでロシア人と殺し合っている(シベリア出兵)。ましてや、トルコなど。
しかし、彼がバカにしていたトルコ人たちが、予想外の政略を発揮した。
10月2日、シヴァス国民会議は、「全国総選挙」の開催をイスタンブール政府に提案したのである。人心一新のため、新たな国会議員と政権与党を選ぶ必要があると言うのだ。
そして、皇帝にも占領軍にも、この提案を却下できるような理論的根拠はなかった。権利擁護同盟の「反乱」は、極めて巧妙なことに、オスマン帝国の国内法に基づく合憲的な手法を取っていたのだから。
このころ大宰相は、ダマト・フェリトからアリ・リザに替わっていた。ダマトは、クルド人蜂起が失敗に終わった責任を取らされて皇帝に解任されたのである。新任のアリ・リザは、権利擁護同盟に同情的な人物だったので、むしろ彼らの提案を歓迎したのであった。
こうして、12月に全国総選挙が行われることになった。
占領軍の頭越しに、トルコは民主主義国家への成長を開始したのである。