歴史ぱびりよん > 長編歴史小説 > アタチュルクあるいは灰色の狼 > 第24章 私がトルコだ!
1
ケマル大統領は、外資の導入に異常なまでに慎重だった。
アメリカとの交渉が、条件が折り合わず失敗に終わると、直ちに外資の導入を諦めた。そして、国家歳入の範囲内のみで経済政策を行ったのである。彼の脳裏には、イギリスやフランスやドイツによって財政を食い物にされたオスマン時代の悪夢が根強く残っていた。彼は、祖国を二度と外国の食い物にさせたくなかったのである。
共和国の最初の大きな国家歳入は、オスマン王朝から没収した膨大な財産であった。それに加えて、王朝の廃止は歳出を大幅に減少させた。年間数十万ポンドと言われた皇室の豪奢な生活費を、全額カットできるようになったからである。オスマン王朝の廃止は、国家財政の面で大きなプラスに働いたのだった。
トルコ共和国は、この財源を用いて1924年に「勧業銀行」を設立した。
これまでのトルコには、産業を育成するための自前の銀行が無かった。「オットマン・バンク」などの外資系の銀行は、オスマン帝国に借款を貸し付ける組織に過ぎなかった。そこでケマルは、産業復興を目指す国民を手助けするために、新しい銀行を作ったのである。
共和国は、勧業銀行の助けを借りて産業振興政策に尽力した。砂糖工場やセメント工場を建てた。農地開拓も奨励した。
また、国家が担うべきインフラとして、鉄道と道路の整備に熱心に取り組んだ。
これまでのトルコ国内の鉄道は、オスマン帝国政府とドイツが、帝国主義的な思惑で「軍隊の早期輸送」のために敷設したものであった。しかしこれは、当然ながらトルコ国民の利益や産業流通の都合をまったく考えない代物だった。そこでケマルは、産業振興を目的とした鉄道網を新たに考案したのである。この政策の結果、1923年には総延長距離3756キロメートルだった鉄道が、20年後には7324キロメートルにまで伸びていた。
共和国は、以上の政策を実現させるため、皇室財産以外の新たな財源を必要とした。無借金財政を貫く以上、財源はあくまでも国内に見つけなければならない。
まず、1925年に抜本的な税制改正を行った。
オスマン帝国時代の税制は、ほとんど「十分の一税」で賄われていた。これは、帝国領内すべての臣民が、所得の十分の一を国家に納税する制度である。これに加えて、財政が厳しくなったら、その都度「特別税」を課していた。しかし、このような出鱈目なやり方が、近代国家にふさわしくないのは言うまでもない。
共和国は、これらの旧税制を廃止し、「十分の一税」の代わりに「地租」を導入した。領土の大部分を占めるアナトリアは、地主と小作人の貧富の差が激しい土地柄だったので、政府は税負担を大土地所有者に転嫁させたのであった。これは、一種の累進課税と言えなくもない。
税制改正に並行する形で、共和国は専売事業を多く設けた。没収した皇室財産を使って、これまで外国資本に握られていた基幹産業を買い取ったのである。タバコ産業を皮切りに、アルコール、塩、砂糖、マッチ、ガソリンを国家専売とし、国営企業に委ねたのだ。
こうした施策の結果、歳入は大幅に増加した。トルコ共和国は、外資を用いなくても、なんとか財政をやり繰りできるようになったのである。
借金財政を嫌うケマルは、口癖のように言った。「持たないカネを使うのは間違いだ」と。
21世紀のどこかの借金まみれの島国の為政者に、聞かせてやりたい言葉である。
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しかし、トルコが外資を拒絶する姿勢は、国際社会で問題となっていた。
世界各国の財閥系投資家にとって、アジアとロシアとヨーロッパを結ぶ要衝に位置し、しかも未開発の地下資源が豊富なトルコの大地は、垂涎の的だったからだ。そこで投資家たちは、共和国内の「抵抗勢力」に渡りをつけることで、頑迷なケマルの鎖国政策を撤回させようと図ったのである。
ロスチャイルド家に代表されるユダヤ財閥は、かつてオスマン帝国の蔵相であったメフメット・ジャヴィドをエージェントとして送り込んだ。
痩身小柄でネズミのような風貌のジャヴィドは、見かけどおりの人物ではなかった。フリーメーソンの大幹部であり、ユダヤ財閥の顔役でもある彼は、国際金融の裏世界に通暁するフィクサーだったのだ。彼は、かつてオスマン帝国に取り入り、「青年トルコ党」時代に蔵相を勤めることで、老帝国を国際金融界の狩場にした。戦後はスイスに脱出していたが、今度は新生トルコ共和国を食い物にしてやろうと心組んだのである。
ジャヴィドは、スミルナ港でズィヤ・フルシットと接触した。この元議員は、かつて「第二グループ」の要人だった人物で、トルコ経済を再生するには外資に頼るしかないと思い込んでいるのだった。
「ケマルは、本質的に百姓なんです!」元議員は、埠頭のコンクリートの床に唾を吐いた。「あいつには、国際金融のことなんぞ何も分かっちゃいないんだ!」
「まったくですな」ジャヴィドは、表情を見せずにうなずく。こういう見識の乏しい人物は、『ハゲタカ』にとって最も利用価値が高い。「大統領を翻意させる方法はありませんかねえ」
「無理でしょう。あいつが生きているうちは」
「大統領は、遊説がお好きなようですね」
「しょっちゅう、この街にも来ますよ」
「じゃあ、話が簡単ですね」ジャヴィドは、凄みのある笑顔を見せた。「私が、全ての資金の面倒を見ましょう。あとは、実行する者を選ぶだけ」
そしてジャヴィドは声を潜め、陰謀に共鳴する政府要人の名前を並べたのである。
フルシットは、痩せたユダヤ人の顔を見つめ、そして小さくうなずいた。
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いつの時代でもどこの国でもそうだが、保守的な人間は、変革のマイナス面ばかりを見たがる。特に、旧体制でエリートとして育った者ほど、こういう傾向から免れられない。だから、カエサルはブルータスに暗殺されたのだし、織田信長は本能寺で憤死したのだ。
大きな改革や投資行動はいつもそうだが、短期的にはマイナス面ばかりが出る。これが軌道に乗って、ようやくプラスの影響が出始めるのだ。しかし、保守主義者は最初のマイナス面を絶対視してしまうのである。
確かに、あまりにも矢継ぎ早の改革によって、国民が疲れきり、怨嗟の声が上がっていたのは事実であった。
「だいたい、頭に何を被ろうが、俺たちの勝手じゃねえか!西洋帽を被らないからって、牢屋に入れることはねえだろう!」
「暦が全部変わってしまったから、日常が不便でいけねえや!」
「セメント工場が出来たっていうから行ってみたけどよ。肝心の原材料が調達できないって言うんだよ。そもそも、ギリシャ人の技術者が、みんな国を出て行ってしまったからな。誰も機械の動かし方を知らないんだぜ」
「そうそう、新しい線路を見に行ったら、汽車がひとつも走って来ない。人に聞いたら、汽車の生産が間に合わないんだってさ。線路ばかり出来ても意味ないじゃん!」
「勉強、勉強っていうけどさ。うちは先祖代々、百姓なんだ。百姓は、地面と天気さえ読めればそれで良い。文字なんて読めなくても関係ないね!」
1924年から25年は、たまたま凶作の年だった。そのことが、国民の不満を倍加させていた。
ただし、市井の恨みの声は、ケマル大統領には向けられなかった。人々は、大統領を「灰色の狼」と呼んで神格化していたからである。したがって、民衆の恨みは党細胞や役人たちに向けられた。党細胞や役人たちにしてみれば、良い迷惑だっただろう。彼らは、大統領に言われたとおりに仕事をしているのに過ぎないのだから。
ともあれ、この様子を見た保守主義者たちは、暴力的な手段を用いて国民を救済することが「正義」だと思い込むことが出来たのである。
4
国民の不満を感得したケマル大統領は、1926年の春から積極的に遊説の旅に出た。
国民に、改革の意義を納得してもらう必要がある。短期的な苦しみが、長期的な喜びに転化することを分かってもらう必要がある。
しかし明敏な彼は、「抵抗勢力」が不穏な動きを見せていることに気づいていた。国際金融界の大物ジャヴィドが、何らかの目的でスミルナに潜入し、旧「第二グループ」や旧「進歩主義者共和党」に接触していることも知っていた。そこで、遊説先の警察力を強化し、厳重な警戒を命じたのである。
6月15日、ケマルを乗せたオープンカーは、スミルナ市の大通りを走る予定だった。しかし、前日の派手な晩餐会で疲労した一行は、急遽予定を変更し、その日は郊外のバルケスィールに一泊することにしたのである。
そのおかげでスミルナ警察は、大通りに面したアパートの総点検を、最後にもう一度だけ行う時間の猶予を得られた。これが運命の転機となった。前日にアパートの2階の一室を借りたという怪しい3人組の挙動を怪しみ、家宅捜査を行ったところ、小型爆弾と拳銃を押収したのであった。
逮捕された3人の殺し屋は、苛烈な尋問の末に口を割った。彼らは、大統領のオープンカーが窓の真下を通過するとき、頭上から爆弾を投げて銃撃を加える手はずであったという。また、彼らは雇い主の名も白状した。雇い主の名はズィヤ・フルシットであった。
警察は、迅速に動き、スミルナに滞在中のフルシットの身柄を押さえた。そして、彼の口から、陰謀に加担した者たちの名を聞きだした。
その日の午後、スミルナのホテルに入った大統領は、警察署長の報告を聞いて激怒した。そして、独立法廷に命じて被疑者全員の逮捕を命じたのである。いつもながら、逆境を好機に変えるケマルの政治センスは、「抵抗勢力」に属する者の全てを、暗殺計画とのかかわりが不明であっても一網打尽にする方針を立てたのだった。
6月26日の裁判開始までに、逮捕された要人は全国で100名を超えた。彼らはすべて、スミルナに護送された。
その面々の中には、黒幕ジャヴィドの他に、カラベキル、アリー・フアト、ベキル・サミ、ナージム博士、カラ・ヴァースフ、レフェト、アリフの姿があった。
ヒュセイン・ラウフとアドナン博士は、たまたま外遊中だったので逮捕を免れた。カラ・ケマルは、イスタンブールの夜の闇に潜伏した。
7月12日、トルコ国旗とケマル大統領の写真を背にした判事たちは、迅速に判決を出した。ズィヤ・フルシットと殺し屋3名を筆頭に、15名の関係者に死刑を宣告したのである。このうち、カラ・ケマルは欠席裁判で死刑判決を受けたわけだが、後に潜伏先のイスタンブールで警察に逮捕されそうになり拳銃自殺した。
カラベキル、アリー・フアト、レフェトといった軍関係の要人は、「証拠不十分」ということで釈放された。ベキル・サミとミトハト・シュクリュも、同様の理由で釈放された。しかし、新聞各紙は「大統領を爆弾で殺そうとした卑怯な陰謀の加担者たち」と呼んで悪質なプロパガンダを展開したので、彼らの政治生命は致命的ともいえる大打撃を受けたのである。ケマル大統領にとって、これで目的は十分に達成された。彼らはもはや、「抵抗勢力」とはならないだろう。
これが、ケマルの狙いだった。彼は、高潔な軍人であるカラベキルやアリー・フアト、そして盟友レフェトらが、ユダヤ財閥を中心とした暗殺計画に加担するとは思っていなかった。彼は、「抵抗勢力」に回った者を、無罪と知りつつも一網打尽に逮捕することで、彼らから国民の信望を奪い取ってしまったのである。これは、ケマルの温情でもあった。彼は、かつての同志たちを殺したくなかったのだ。政治力と人望を奪い取ることで、彼らを生きたまま無力にしたかったのである。
釈放された将軍たちとベキルやミトハトは、大いに恐怖し憤った後、ライバルの智謀の深さを肌身に感じた。
「ムスタファ・ケマル。俺の及ぶ相手ではなかったか」
カラベキルは、打ちひしがれて嘆息した。彼は、ケマルの実力を十分に知りつつも、彼に取って代わるという野望をどうしても捨て切れなかったのである。しかし、とうとう年貢の納め時が来たようだ。
彼らは、この事件以降、政治の世界での隠棲者となる。
5
アンカラに帰ったケマルは、あらためて死刑囚の名簿を眺めた。
カラ・ヴァースフの名がある。やむをえない。彼はカラコルの問題を巡って、この運動の最初からケマルとうまく行かなかった。大統領暗殺の陰謀に加担した以上、死んでもらうしかない。ムスタファ・ナイールか、彼もエンヴェル派だったな。
しかし、ここにある名前はなんだ?
「あのアリフだろうか・・・」ケマルは、当惑した。
15名の死刑囚の中に、確かにアリフという名があるのだ。確かに、彼はカリフ制廃止の騒動以来「抵抗勢力」の一員に回っているから、今回の事件で逮捕されていてもおかしくない。しかし、そんなはずはない。暗殺計画に加担したという直接証拠を持たない者は、ことごとく釈放されたはずである。
「彼が、私を殺そうとしたはずはない。きっと、同名の別人だろう」
ケマルは、裁判長に問い合わせをしようとして、しばし思案した後に見送った。トルコ共和国は「三権分立」が建前である。大統領といえども、司法の決定に干渉することは許されない。ケマルは、そのように考える政治家であった。
「厳正な裁判の結果、あのアリフが本当に罪に問われるというのなら、それは運命というものだ。仕方がないのだ」
そう考えて割り切った。これが、この人物の強さであり、感じ方によっては、凄味のある冷たさであり恐ろしさであった。
死刑執行は、判決の翌日に行われた。
逃亡中のカラ・ケマルを除く14名は、絞首台の露と消えた。
死刑執行の日、大統領は私邸の一室に篭りっきりになり、「嫌な日だ」とつぶやき、ため息をついたと伝えられる。
これが西欧の歴史家の筆になると、ケマルは、死刑執行の日にわざわざ私邸で舞踏会を開催し、強制的に参加させられた者たちが嫌々ダンスするのを楽しげに見ながら、「俺に逆らうブタどもは皆殺しだぞ!」と叫んだことにされているのだが、それはどうもケマルという人物の個性にそぐわないように思う。西欧の歴史家は、中世にトルコ帝国に脅かされた恐怖心からか、しばしばトルコ人の残虐性や野蛮性を誇張したがる癖があるので要注意である。
さて、第二回公判は、8月からアンカラで行われた。この裁判は、スミルナでの暗殺計画のみならず、第一次大戦当時の戦犯や、救国戦争中における反ケマル勢力の罪状を広く対象とするものであった。
裁判の結果、ジャヴィド、ナーズム博士ら4名に死刑判決がくだり、海外のヒュセイン・ラウフには懲役10年が宣告された。ここにヒュセインは、7年後に恩赦がくだるまで、祖国に帰ることが出来なくなったのである。
ジャヴィドの死刑判決については、世界中から大反響が巻き起こった。ユダヤ財閥やフリーメーソン関係者が、競い合うようにして助命嘆願したのである。彼らが、どれくらい暗殺計画に関与していたのかは、今となっては藪の中だが。
しかし、ケマルは言い放った。
「ジャヴィドは、トルコ国民の将来を奪い取ろうとした大犯罪者だ。私を暗殺して外資を導入することは、この国を滅亡させることに等しい。絶対に許すことは出来ない!」
ジャヴィドは、切羽詰まって法廷で叫んだ。
「あの無能な大統領は、自分の経済失政の責任を我々に押し付け、国民の不満を外部に転化して誤魔化そうとしている!諸君、騙されるな!この犯罪に加担してはいけない!」
しかし、裁判官も判事も聞く耳を持たず、8月7日、4名の被告は絞首台に消えた。
6
「革命」は、多くの人命を消費する。
フランス革命でギロチンにかけられた者の数、ロシア革命で凍土に斃れた者の数は、幾万人いるか数え切れない。明治維新も、戊辰戦争や士族反乱で数万の人命を失っている。
しかし、トルコ革命で命を失った者は、いわゆる「スミルナ事件」で死刑になった19名、これにクルド反乱の犠牲者などを加えても1千名程度だ。それは、トルコ共和国が革命政権であるにもかかわらず、人権や人命を大切にする国家だったからである。西欧の歴史家が、しばしばケマル時代を指して残虐性や野蛮性をうんぬんするのは明らかに間違っていると思う。
しかし、ケマル大統領の苦悩は深かった。ジャヴィドはともかく、死刑になった者たちは皆、顔見知りで、しかもかつては同志だったのだから。
処刑がすべて済んだ日の夜、イスメット首相が大統領邸を訪ねて来た。彼は、開封済みの一通の手紙を持っていた。
「アリフからの手紙です。逮捕される前日に投函され、私の元に届いたものです。お見せしようかどうか迷ったのですが」
「アリフ、やはり、あのアリフだったのか」ケマルは呻いた。「同名の別人なら良いと思っていたのだが」
「残念です。救国戦争を始める前からの友人だったのに」イスメットは目を伏せる。
「私が、マケドニアからガリポリ半島に転任したとき、配属された副官が彼だった。英仏の大軍と生死をかけて渡り合ったとき、彼は常に隣にいてくれた。コーカサスでもシリアでも一緒だった。サムソンに船出をしたときも一緒だった」
「心中、お察しします」イスメットは、複雑な表情を浮かべて一礼すると、部屋を辞去した。
ケマルは、震える手で手紙を開いた。それは、イスメットに向けて発送されたケマル宛の手紙であった。
『イスメットくん、この手紙をガージーに読ませるか否かはあなたの判断に任せます。おそらく、あなたのことだから、さんざん悩んだ後でガージーに渡すのだろうね。
私はガージーを心から尊敬していたので、ガージーとともに仕事をするのが楽しみでした。苦しいことや辛いこともたくさんあったけれど、それを乗り越えて救国戦争に勝利したときは、ガージー、自分、そして祖国が本当に誇らしいと感じたものです。仲間たちとの友情が、本当に嬉しく感じられたものです。
しかし、私はその後の国づくりについては、何も考えていませんでした。政治について考えたことがない一介の軍人だったからです。私よりは大分マシですが、レフェト大佐も同じようなものでした。私たちは、戦争が終わったらオスマン帝国が復興し、ガージーを大宰相とする政府が出来るだろうと思っていたのです。再び、イスラム世界の強国になるだろうと思っていたのです。
しかし、実際は違いました。ガージーはイスラム世界の英雄となることを拒否し、狭くなった国土に閉じこもって軍備を縮小しました。私は心ひそかに、ガージーが「十字軍」を率いてイスラム世界を白人から解放することを期待していたのです。この期待は裏切られました。
スルタンを倒し、カリフを追放しましたね。聖なる教えを汚すのみならず、策略を用いて独裁権力を手に入れましたね。そして今、白人の真似をして白人の法や習慣を取り入れようとしています。国民は、あまりに酷い「裏切り」を前に悲鳴をあげて泣き叫んでいるのですよ。
私は、国民のために友情を裏切る決心をしました。ガージーの暗殺に成功したなら、イスメット(今、手紙を読んでいる君のことだよ)やフェヴジを拘束してヒュセインを擁立する手はずでした。ヒュセイン自身は、おそらく暗殺計画について知りません。だから外遊に出たのでしょう。ヒュセインは、まあ、たいした男ではありません。勇敢な軍艦乗り出身で、帝国の外相を務めたことがあるものだから、昔取った杵柄の上に乗っているような男です。しかし、国民はそういう人物のほうが安心するのです。安らげるのです。
カラベキルやアリー・フアトには声をかけていません。ベキル・サミは、どうだか分かりません。もしかすると、ジャヴィドあたりが彼らに声をかけているかもしれませんが。
レフェト大佐は、まったく知らないはずです。私は、彼を巻き込みたくなかったのです。ですから、レフェトを逮捕するのは間違いです。
私は、間もなく逮捕されるでしょう。そして、明らかな証拠の元に処刑されるでしょう。
ガージーに、どうして私がここで死ぬのかを分かってもらいたかった。そこで、この手紙をイスメットくんに託します。どうか、私の死の意味を分かってください』
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「アリフ、私には分からないよ」ケマルは、手紙を執務机の上に置いた。「お前は間違っているのだ。間違った思い込みのために無駄死にしだのだ。お前は、あの悲惨な第一次大戦と救国戦争を生き延びたのに、ここでこんな風に死ぬことは無かっただろうに」
絨毯の上に膝をついた大統領は、静かにすすり泣いた。
この翌日、議会で登壇したケマルは、6時間ぶっ続けの大演説を行った。これは、トルコ史上に燦然と輝く名演説であった。彼は、分かって欲しかった。彼が、どんな想いで働いているのか。どんな想いで妻を離縁し友人を殺したのか、議員と国民になんとしてでも分かってもらいたかったのだ。
「私は数え切れないほど戦場で死と直面したし、必要とあれば明日にでも再び命を戦場でさらす気でいる。だが、それはすべて、祖国を強靭な独立国家にしたいためである。私は、私の生きがいである唯一のもの、すなわちトルコ国民を進歩に向かって導かねばならない。
私は、国民のすべてを知った。戦場で、砲火のもとで、死に直面して人民の性格が剥き出しになるとき、彼らを研究した。私は諸君にこう言える。トルコ国民の精神力は、世界のどの国の精神力にも決して引けを取るものではないと。
我が国民が進歩への道をしっかりと、方向を間違えることなく歩めるようになった時、私はすべての権力を手放すつもりでいる。だが、我が国民の歩みは始まったばかりなのだ。すなわち、私を殺すことはトルコ国民の未来を奪うことなのだ。
もっと、はっきりと言おう。
現在の時点においては、私がトルコだ!」
議会は、圧倒的な迫力に押され、やがて猛烈な拍手の渦に包まれた。この瞬間、すべての議員がケマルの本当の心を知った。
どうして粗末な邸宅に住み、馬に乗って通勤するのか。どうして財産を蓄えようとしないのか。どうして家庭を大切にしないのか。どうして友情を犠牲にするのか。どうして4時間しか睡眠を取らずに激務に耐えるのか。
この演説を伝え聞いた人々は、どんなに苦しくても辛くてもこの人物に付いていこうと決心した。なぜなら、一番辛くて苦しいのは「灰色の狼」その人なのだから。
ハジ・サミが、「反ケマル」を叫んで蜂起したのは、1927年初頭の出来事であった。かつてエンヴェルとともに中央アジアで暴れた彼は、投機的冒険家とでも言うべき人物であった。エーゲ海の島々で機会を窺っていた彼は、数名の同志とともにクシャダス(スミルナ近郊)に上陸し、そして民衆に反乱を呼びかけたのである。楽天的な彼は、「スミルナ事件」の混乱に付け込めば、天下を取れると思い込んだのだ。しかし、今や大統領の渾身の想いを知った民衆は、誰も彼に付いて行こうと思わなかった。
・・・ハジ・サミは、数名の仲間とともに、警官隊と射ち合って殺されたのである。なんとなく、かつての領袖だったエンヴェルの最期に似ていなくもない。