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7.畿内に戦鼓とどろく

月日は流れて元弘二年の十一月。ついに楠木正成が動いた。

楠木正成の最初の目標は、先年奪われた本拠地、赤坂城の奪回である。守将の湯浅孫六は紀伊の住人であるが、楠木一族とは対立関係にあり、そこを幕府に見込まれ、赤坂に駐屯していたのである。

しかし湯浅党は、当然ながら河内の人々に嫌われており、ろくに食料すら調達できないので、必要な物資はしかたなく紀伊から運んでいたのだった。

正成はそれを利用した。

彼はまず、湯浅の輸送隊を途中で待ち伏せして全員を生け捕りにし、兵を輸送隊に変装させて赤坂に送り込んだのである。彼らは、攻城戦半ばにして内応する手筈であった。 こうして内と外から攻撃された赤坂城はひとたまりもなく陥落し、湯浅孫六は降伏し、正成に忠誠を誓ったのである。

赤坂を手中にした正成は、疾風のように河内、摂津に出陣し、たちまち両国を平定してしまった。負け戦は徹底的に秘匿し、勝ち戦は、たとえそれが小競り合いによるものであっても誇大に宣伝した。これが情報戦略である。

驚いたのは京都の人々である。幕府寄りの公家たちは恐怖に震え上がり、六波羅ろくはら 探題(幕府の京都出張所で、畿内の要)は鎌倉に援軍を要請した。 家財を抱えて避難する京童みやこわらべ は引きも切らない。彼らは、楠木正成が数万の兵を率いて都に攻めて来ると信じ込んでいた。しかし正成が自由に動かせる兵力は、実はわずか一千に過ぎなかったのである。

同じころ、大塔宮の調略も、ついに吉野で成功した。宮は吉野金峰山寺を要塞化し、千数百の兵とともに立て籠もったのだ。このことも、幕府方をおそれ、慌てさせるには十分であった。

各地の豪族たちは動揺した。

意外と宮方は優勢である。ここらで宮方に味方して恩賞を稼ぐべきではなかろうか、と考える者が現れ出した。

鎌倉の幕府首脳部も、連日の軍議で追われていた。 本来ならば、昨年のように大動員令を発令し、大軍をもって宮と正成の息の根を止めるべきなのだが、この時代、戦時費用は動員される御家人の自弁であったから、大動員は御家人たちの不満をますます高める恐れがある。そもそも、昨年の恩賞すらまだもらっていない御家人が大多数なのだ。

※                  ※

不穏な動静の中で、やがて年が明けて元弘三年(1333)元日。

ここ肥後菊池では、一族宗徒の者たちが一堂に会し、新年の祝い酒を食らって大騒ぎしていた。

阿蘇山まで初日の出を見に行ったものたちも大勢いた。

「謹賀新年」

「おおっ、おめでとう」

次郎武重、三郎頼隆、五郎武茂、八郎武豊たけとよ 、九郎武敏たけとし の成人に達した五人の若者達は、酒を酌み交わしながら談笑している。その日は、肺をわずらい体の弱い四郎隆舜も、珍しく途中から仲間に加わったりした。 一方、虎若丸以下の未成年の子供達は、それぞれの母親とともに新年を迎えていた。

「やれやれ、また今年も、覚勝かくしょう 叔父上の裸踊りを見せられるのかな」と、うんざりしたような口調は、八郎武豊である。

「はは、あの人、デブでチビだから、三郎兄者のように舞をやっても様にならないもん。裸踊りでちょうどいいんだけどな」と言った九郎武敏は、最近元服したばかり。すぐ年下の弟、虎若に差をつけることができて上機嫌である。

「そういえば、親父はどこだ」と、五郎武茂。

「どうせ早苗のところだろう。親父、甘やかし過ぎなんだよ。早苗の将来が心配だぜ」と、次郎武重。次郎は、息子よりも幼い妹に未だに戸惑っているようである。

「でも今年は、いつもより静かだ。うるさいのが二人いないから」と、寂しそうな頼隆。

「あいつら、どうしてるかな。向こうは相当物騒なことになってるらしいし。まあ城隆顕どのが付いてるから心配ないとは思うけど」五郎武茂は遠い目をして言った。

「・・・楠木どのは、どこまで頑張れるのかのう」武重は、腕組みしてうなった。

そのころ、彼らの父、寂阿入道武時は、早苗のところではなく、自分の居室で難しい顔をして思案にふけっていた。 そばに控えるのは、武時の実弟である覚勝入道武正たけまさ である。彼は自分の所領を有し、分家の身であったが、昔から武時のよい相談相手であった。戦場では長刀を縦横無尽に操る豪傑であるが、酒に酔うと裸踊りをするのがタマに傷である。

「兄上、やはり菊池だけではなく、錦の御旗の元に筑紫中の豪族を結集させるべきですたい。我らだけでは、ちと不利ですぞ」と、鼻をほじりながら覚勝が言った。

「うむ、分かっておる」うなずく武時の膝には、六郎武澄と七郎武吉、そして城隆顕からの書状があった。そこには言うまでもなく、楠木勢の活躍を中心とした畿内情勢が記されている。

今や武時は、後醍醐天皇のために旗揚げすることを心に決めていた。 しかし、挙兵するからには勝たなくてはならない。どんなに菊池勢が勇猛であっても、その稼働兵力は阿蘇大宮司勢と合わせても、せいぜい三百騎一千人である。これでは博多の鎮西探題を滅ぼすのは困難である。もっと多くの豪族の協力が必要であった。

武時と覚勝は、そのことについて先程から相談しているのである。

「そうじゃ、兄上、我らも楠木のように、親王を上に仰げばよいのじゃ。そうすれば我らは菊池阿蘇連合軍ではなく、親王軍じゃ。多くの豪族の同心を得られるはずですたい」と、覚勝は手を打って叫んだ。

「そげんこつあ分かっとるわい」呆れた顔で武時は手を打ち振って言った。「どこに親王がおるんじゃ。吉野から大塔宮でもさらってくるのか・・・・」 そこまで言ったとき、武時の顔は突然緊張した。

「土佐じゃあ!」

武時のこの大声には、覚勝も肝をつぶした。

「あ、兄上、土佐がどうかしたんですか」

「分からんか、尊良たけよし 親王(後醍醐天皇の第一皇子)が、土佐に流されておろうが。土佐は土居、得能の縄張りだから、彼らに尊良の宮を救出してもらい、筑紫に迎えるのじゃ」

「なんじゃ、おいの言ったとおりじゃなかか」

「ふん、くだらんことにこだわるな。早速手配じゃ」 武時の瞳は、正月早々、きらきらと輝き始めた。

※                 ※

正月中旬になると、不穏な情勢を極めて重視した六波羅は、ついに楠木征伐を決意した。

五千の兵を河内に派遣したのである。

この知らせを受けると、楠木正成はしばし黙考した。ここでこの大軍を破る事ができれば、様子を見守っている各地の豪族たちが勤王方に靡くことは必定である。しかし勝てるであろうか。

やがて京都近辺の流通業者から、正成のもとに情報が流れ込み始めた。どうやら敵は、数こそ多いが寄せ集めの雑軍のようである。

正成はただちに幹部たちを招集した。その中には、菊池六郎、七郎、そして城隆顕ら客将の姿もあった。

「断固戦うべきや」 「いや、相手になるべきではない」 正成の弟の正季まさすえ や、和田六郎など若手は強硬論であったが、恩地左近などの老将は、時期尚早であるとして消極論に傾いていた。

「お屋形は、どうお考えか」恩地左近は正成に詰め寄った。

「爺、心配するな。敵は六波羅の警備兵の寄せ集めや。野戦の経験は全く無いらしい」

「それでは・・・」

「出陣する。敵を撃破し、ついでに渡辺付近の糧食をいただくとしよう」 正成の決断は素早かった。

楠木勢は六波羅勢の立て籠もる四天王寺に向けて、全力を挙げて北上したのである。

同行した城隆顕は、正成の言う情報戦略が戦術的にも有効であることを実感することができた。正成は事前に、楠木勢が圧倒的大軍であるとの情報を敵陣にばらまいたのである。萎縮した六波羅勢は、楠木勢の五倍の兵力をもちながら四天王寺に立て籠もったまま、一方的に楠木勢に攻めたてられた。

やがて夜に入ると、正成は付近の住民や野武士たちに松明を持たせ、暗夜の中を四天王寺の後方に向かって移動させたのである。 これを楠木本隊と誤認した六波羅勢は、背後を突かれることを恐れて総退却を始めた。

「いまや、いてこましたれ」 正成の掛け声とともに、四天王寺を捨てて退却する六波羅勢は、楠木勢の総攻撃に見舞われた。五千の軍隊は今や見る影も無く潰走し、渡辺の渡しで多くの者が溺れた。

「武士の情けじゃ、刃向かわぬものの命は助けてやれ」 正成は溺れる六波羅兵を救出してやり、恩を感じた六波羅兵は次々と楠木勢に加わったのであった。

そしてこの楠木の勝利の知らせは京都を震撼させた。

二条河原には、無様な六波羅勢を皮肉った落書が立った。その文面は、 「渡辺の水いかばかり早ければ 高橋落ちて隅田流るらん」。 ちなみに、高橋、隅田というのは、六波羅方の大将の名前である。

四天王寺を占領した楠木正成は、渡辺の糧食集積所の物資を千早城に運び込むように指示すると、四天王寺の名物である聖徳太子の未来記を閲覧した。古来から、予言書というものは、何とでも解釈できるように難解に書かれているものである。正成は、これを都合よく解釈し、兵士たちにふれ回った。

「聖徳太子さんがわいらの勝利を予言しとるで。『人王八十六代ノ時、東夷来ツテ、王ヲ泥シテ国ヲ取ル』これは、北条幕府が帝をないがしろにしとることを指す。次の『西鳥来ツテ国ヲ従ウ、世間豊饒タルベシ』これは、わいらが北条幕府を倒すことを指しているんや。どうや、わいらは勝つ運命なんやぞ。もっと胸を張れい」

この訓示は、兵士たちの勇気を奮い立たせた。

一方、焦る六波羅は、引き続き鎌倉に援軍を要請するとともに、折よく居合わせた宇都うつ 宮公綱のみやきみつな に出陣を命令した。この公綱は下野しもつき(栃木県)の御家人で、東海一の弓取りと呼ばれる猛将であった。このときはわずかに数百の兵しか率いていなかったが、決死の覚悟で四天王寺に向かって南下したのである。

この知らせを受けると、正成はまたもや幕僚たちを招集した。

「五千の敵を打ち破った我が軍や。宇都宮の数百の兵など屁でもないわい」と、強硬論を唱えるのは、楠木正季などの若手の将校である。

「ここは、河内に一旦退がるべきや」しかし今度は、正成が消極論であった。

「兄貴、なんでや。なんで退がらなあかんのや」と、首をかしげるのは正季である。

「宇都宮は死ぬ気やで。死に狂いの猛卒に関わっては、こっちの損害も馬鹿にならん。先は長いのや。渡辺の糧食も頂いたことだし、四天王寺は宇都宮に譲ってやろうや」

こうして、宇都宮勢は一戦も交えずして四天王寺の奪還に成功したのである。しかし付近の住民は皆、正成に好意的であるから、夜な夜なゲリラ戦を仕掛けて宇都宮勢を眠らせなかった。結局、宇都宮公綱は神経衰弱に陥った兵士を連れて都に帰還する羽目になったのである。

城隆顕は、楠木勢の情報収集力と、正成の判断の正確さに舌を巻いた。敵の人数はもとより、兵士の士気までも的確に把握し、絶対に勝てると見た相手とのみ戦う。これが楠木勢の強さの秘密であった。

さて、赤坂に帰還した楠木勢を待っていたのは鎌倉からの情報であった。ついに幕府は業を煮やし、大動員令をかけたのである。五万とも十万とも言われる坂東の大軍が上洛中とのことである。

「隆顕どの、大変なことになった」七郎武吉が、帰って来た城隆顕のもとに駆け込んで来た。武吉は四天王寺合戦には同行せず、兄の武澄とともに大塔宮の吉野の築城に協力していたのである。そのため、各地の情報には多く接する機会があったのだ。

「ははは、七郎どの、大動員のことならこの隆顕とて知っておりますぞ。楠木どのの思う壷になって来ましたなあ」

「そのことではござらん、我が菊池と阿蘇にも千早攻めの幕命が下ったのですばい」

「えっ、なんですと。うちのお屋形はそれを受けるであろうか・・・」

「先程、宮に尋ねたら、菊池にはまだ令旨を渡していないとのこと。父はやむを得ず、千早攻めに参加するやも知れません」

「それはいかん。何としても阻止しなければならぬ」

※                ※

そのころ菊池では、寂阿入道武時が鎮西探題から送られて来た軍勢催促状を前に考え込んでいた。

彼としては拒否したいのだが、下手に命令に逆らって、尊良親王救出前のこの時期に、幕府に賊軍と認定されるのは時期尚早である。しかも大塔宮の令旨すら有していない今の状態では、仮に蜂起しても錦の御旗を持たない反乱軍と成り下がってしまう。

「とりあえず、行くしかあるまい」武時はため息をついた。

武時はしかし、東上の途中で理由を設けて引き返すつもりではあった。問題は、その口実をどうするかである。下手な口実では、かえって怪しまれる結果になる。

阿蘇大宮司惟直も、武時と同じ考えであった。もっとも惟直は、可能であるなら千早に入城して正成と共に戦うのも悪くないと考えていた。これは、令旨を持つものの精神的な強みであろうか。

ともあれ、菊池、阿蘇の軍勢数百人が肥後を発ったのは、一月の下旬にさしかかる寒い朝のことであった。