歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 世界史関係 著者の好みに偏っております。 > 概説 チェコ史 > 第三十一話 栄光のビロード革命
ソ連でゴルバチョフ政権が誕生すると、世界の政局は急激に慌しさを見せ始めます。冷戦構造の崩壊は、すなわち鉄のカーテンの崩壊でもありました。
1988年、ハンガリーの国境から亡命希望者がオーストリアに溢れ出すと、崩壊は劇的な速度で進みます。東西ドイツを隔てるベルリンの壁は倒壊し、ルーマニアでは独裁者チャウセスク一党が市民に処刑されました。
1989年11月、チェコスロヴァキアでは、まずプラハの学生たちが立ち上がります。警官隊との乱闘になってデモ隊の学生たちが負傷すると、今度はプラハの市民たちが立ち上がりました。
ヴァーツラフ広場は、連日のように5万人を超す市民が集い、国旗を振りながらフサーク政権の退陣を声高に叫んだのです。ハヴェル率いる「市民フォーラム」は、彼らに全面的な支援を与えます。いつしか市民の声は、「ハヴェルを大統領に!」に変わっていったのです。この情勢下、軍隊も警察も、次々に群衆側に寝返っていきます。
プラハ城の共産党幹部たちは、恐れ震え上がりました。もはや、20年前のようなソ連の援助は期待できません。彼らは、呆気なく退陣を表明したのです。
こうして、チェコスロヴァキアの革命は成功しました。流血を伴わず、ビロードのように滑らかに行われたため、人々はこの事件を「ビロード革命」と呼んだのです。
大統領に選出されたハヴェルは、経済の専門家クラウスなどの有能な人材を民間から積極的に起用し、大胆な資本主義化と自由化を推し進めました。計画経済を市場経済に移行するため、国営企業の持分をクーポン化し、これを、資金を拠出した市民に配ることで、株式会社に変えました。この過程で物価が急上昇したのですが、金融当局が素早く介入することで、インフレを抑えることに成功したのです。
他の東欧諸国が改革の難航に苦しむ中、チェコスロヴァキアは一躍、「資本主義化の優等生」と呼ばれるようになりました。もともと、社会主義政権下でも工業生産力に優れ、市民の生活水準が高かった国です。GNPは、史上類例を見ないほどの高水準で上がり続けたのです。
ただ、改革の方法をめぐって、急進派と穏健派の対立がありました。ハヴェルを中心とするチェコ人は急進派でしたが、スロヴァキア人の政治家や官僚は、おおむね穏健派だったのです。そこで、もともと民族の異なるチェコとスロヴァキアを切り離そうというアイデアが浮上したのです。
1993年1月1日、チェコとスロヴァキアは、それぞれ別の国家になりました。オタマジャクシの頭と尻尾は切り離されたのです。バルカン半島の血まみれの民族闘争が世界の注目を浴びる中、分立は極めて平和的に成し遂げられました。さすがは、チェコ&スロヴァキア人ですね!
チェコ共和国の急激な経済成長は、1996年を境に停滞します。しかし、再び大統領に返り咲いたハヴェルのもと、ゼマン首相の政府は内政に尽力し、いまやチェコのEU加入は時間の問題と言われているのです。
ただし、急激な資本主義化によって、国内の物価は急上昇し、貧しい市民の暮らし向きは悪くなっています。また、西側資本の流入に伴い、治安は悪化し、お金目当ての観光地化が進んでいるようです。ジプシー(ロマ族)との民族対立も進んでいるようです。
それでも、14世紀以降、大きな戦災に遭わなかったチェコは、文化遺産に恵まれた実に美しい国です。その中に宿る深い歴史や文化人たちの足跡は、訪れる人々の心を魅了して止まないのです。