歴史ぱびりよん

第一話 はじめに

bukousi

 武候嗣~諸葛亮像


1、時代背景

2、二つの「三国志」

3、人物の名前

 


 

 

1、時代背景

今回のテーマは、諸葛孔明です。

まずは、彼が活躍した時代背景について解説しますね。

時は紀元2世紀後半の中国、400年の長寿を保った漢帝国は衰退期に入り、群雄割拠の情勢を迎えました。その後400年にも及ぶ南北朝の大乱世の幕開けです。その大乱世のとば口に当たるのがいわゆる三国時代でして、だいたい「黄巾の乱」の勃発(189年)から晋の統一(280年)までの約100年間が、その舞台になります。

さて、漢帝国は、短い中断の時期を挟んで前漢と後漢に分かれます。そして洛陽を首都とする後漢帝国は、創始者たる光武帝(劉秀)を筆頭に、豪族の連合体として成立したのです。そのため、その治世が爛熟し末期症状をきたしたとき、当然にして起こるのが豪族たちの権力争いでした。そして、熾烈なバトルロイヤルによって豪族たちの淘汰が進んだ後、中国の覇権は三人の君主のもとに収斂されたのです。この三人(三国)こそ、曹操(魏)、劉備(蜀漢)、孫権(呉)でした。

魏の曹操は、中央政界に近いエリート(士大夫)出身です。彼は、中原(黄河流域)の憂国の士大夫たちを帷幕に結集し、漢帝国の構造改革を目指して奮闘しました。彼は、漢の皇帝(献帝・劉協)を自陣営に迎え入れ、その権威をフルに活用してライバルたちを打倒したのです。そして、最強のライバルであった華北の袁一族を滅ぼしたとき(207年)、中原の覇権は彼の掌中に収まりました。そんな彼の視線は、おのずと南方に向かいます。そんな彼の中国完全統一の野望を挫いたのが、孫権と劉備でした。

呉の孫権は、江南地方の中小豪族出身です。彼はこの地に「豪族連合体」を築き上げ、もって北方の大勢力と対峙しました。

蜀漢の劉備は、華北の侠客出身です。傭兵隊長として各地を転々としつつ苦闘を重ねた後、四川に入って、曹操と孫権に並ぶ大勢力を築きました。

この論文の主人公・諸葛孔明は、この劉備の幕僚となり、その成功の礎となった士大夫なのです。

 

2、二つの「三国志」

我々が知る「三国志」は、大きく分けて2つの系統があります。

第一に、『三国志演義』。

吉川英治や柴田錬三郎や三好徹の小説、横山光輝の漫画、NHKの人形劇、そして光栄(KOEI)のパソコンゲームは、この『三国志演義』(以下『演義』)をモデルにしています。日本で紹介される「三国志」は、こちらが主流ですが、これは明の時代(16世紀)に、芝居をもとに集大成された「大衆向け娯楽小説」なのです。その作者は羅貫中と言われています。しばしば誤解されていますが、これは単なる「歴史小説」であって「歴史書」ではありません。その辺りが分かっていない人が三国志ファンの中に多いので要注意ですね。

第二に、『正史三国志』。

陳舜臣と北方謙三の小説、王欣太の漫画は、この『正史三国志』(以下『正史』)をモデルにしています。これは、三国を統一した晋の時代(3世紀)に成立した国定歴史書で、その作者は、蜀漢の官僚だった陳寿です。国が編纂した歴史書というものは、親方日の丸的な出鱈目のプロパガンダ である場合が多いのですが、この『正史三国志』にはそういった「臭み」は感じられません。その理由は、陳寿が誠実な記述姿勢を貫いたこともありますが、彼が亡国の出身者であるがゆえ、その視点が比較的客観的だったからだと思います。これは、私が知る中で最も質の高い「歴史書」です。

さて、『演義』というのは、『正史』を大衆向けに翻案した作品ですので、しばしば歴史的事実を歪曲しているのですが、その最たるものこそ諸葛孔明の扱いなのです。孔明の姿は、『演義』と『正史』では、完全に別人のように描かれています。

『演義』の世界では、諸葛孔明は「天才軍師」として描かれます。すなわち、奇襲、伏兵、火攻め、水攻め、ロウソク責め(おや?)、ムチ責め(あれ?)、木馬責め・・・じゃなくて木牛流馬攻め( ふう、軌道修正成功!)はもちろん、占星術や妖術まで用いて敵の大軍を翻弄するのです。ただし、その人間性については神格化されすぎていて、全知全能ゆえに冷酷で無感動な人物みたいに思えます。『演義』は、劉備や関羽や張飛の人間性を暖かく豊かに描いているので、バランスを取るつもりでそうしたのでしょうが、このように人物の性質を一面的に描くのが、「小説」というメディアの長所でもあり短所でもあるのです。私の周囲には、孔明のことを「尊敬するけど、好きになれない」という人がたくさんいるのですが、それは『演義』の中でそういう風に描かれてしまったからなのです。これは、とても残念なことです。

それでは、『正史』ではどうか?歴史上の諸葛孔明は、いったいどのような人物だったのでしょうか?それが、この論文のテーマなのです。

この論文では、『演義』で描かれた虚像と比較しながら、諸葛孔明の実像を分析しています。この論文を終わりまで読んでくれた人は、きっと諸葛孔明のことが大好きになることでしょう。

 

3、人物の名前

諸葛孔明の本名は、「諸葛亮孔明」です。

ここでは、諸葛が姓、亮が名、孔明が字(あざな)です。

昔の日本人も、例えば源義経の場合の九郎のように、姓名以外に呼び名があったのですが、それは中国の影響から来ているのです。

日本でも中国でも、「名」のことを「忌み名」といい、あまり人前で出さないようにしていました。ですから、孔明はあまり亮という名では呼ばれなかったはずです。「忌み名」は、基本的に本人または後世の歴史家が文章の中で書くものでして、同時代人が他者を「名」で呼ぶのはたいへんな無礼にあたります。そのため、相手を「名」で呼ぶ場合があるとすれば、それはその相手を深く憎んでいるか、その相手が政敵に当たる場合でしょう。

そういうわけで、諸葛亮孔明は、味方から「諸葛亮」と呼ばれることは無かったはずです。官職(丞相など)以外では、「孔明」、ないし「諸葛孔明」と呼ばれるのが普通だったはずです。

なお、中国人の名前の付け方は、少々、ユニークです。もちろん、姓(諸葛)は最初から決まっているし、名(亮)は両親がつけてくれます。でも、字(孔明)は成人した後で本人がつけるのです。このときの字は、名と「意味上の相関関係」を持たなければなりません。諸葛孔明の場合、「亮」が「朗らか」という意味なのに対して、「孔明」は「なおさら明るい」という意味です。字を上手につけられるかどうかで、本人の教養が問われるのです。

また、日本人と決定的に異なるのは、子供の名前のつけ方です。日本では、親の名を子供に与える場合が多いですね。例えば、織田信長の子供の名は信忠に信雄に信孝です。でも、中国ではこれは有り得ません。むしろ、禁忌に当たります。親は、子供に自分の名前を決して与えないし、子供は親の字を拝領することは決してありません。ですから、劉備玄徳の子供は劉禅公嗣ですし、諸葛亮孔明の子供は諸葛瞻思遠なのです。

三国志をテーマにした小説や漫画を読んでいると、しばしばこういった「常識」が無視されているので注意が必要ですね。

ともあれ、この論文では、諸葛孔明のことを敬意を込めて「孔明」と呼ぶことにします。