歴史ぱびりよん

第二話 生い立ち


 

1、諸葛孔明の生い立ち

2、劉備の生い立ち

 


 

 

1、諸葛孔明の生い立ち

諸葛孔明は、徐州瑯邪郡陽都県(山東省)の出身です。祖先は、漢の司隷校尉も勤めた士大夫(エリート)の家柄でして、父の諸葛珪は、泰山郡の丞(副市長)にまで昇進したものの、亮が幼いうちに亡くなったそうです。

この当時の中国は、「士大夫」がたいへんな権威を持っていました。これは、19世紀イギリスの「貴族」の在り方に良く似ています。士大夫は、幼いころから高度な教育を授けられ、国家の礎となることを期待されていました。彼らは、私利私欲を捨てて、国家全体の幸福と大義のために仕事をするよう高度な教育を施されたのです。『演義』の世界で「軍師」として登場する知性派の文官たちは、例外なくこういった士大夫たちです。

三国時代から南北朝時代は、中国史上でも一、二を争う悲惨な乱世でした。後漢末の中国の総人口は5000万人だったのに、それが三国時代初期には、魏500万+呉200万+蜀漢90万=合計800万人にまで激減したのです。そのような状態だったにもかかわらず、中国文明が衰退しなかったのは、教養あふれる士大夫たちの必死の努力があったからです。

さて、士大夫の中にも家系によって序列があり、特に毛並みの良いのが「名士」と呼ばれていました。その代表格が、曹操に仕えた荀彧や荀攸でした。

そして、我らが諸葛孔明も、こうした「名士」の一人だったのです。彼の持つ純粋な愛国心と誠実さは、こうした前提抜きには語れません。

・・・今の日本には、士大夫や名士に相当する人物が一人もいませんが、それはこの国の教育が、根本的に腐っているからですね。

さて、話を戻しましょう。

父の死後、兄の諸葛瑾は、すでに成人していたので江南に仕官しました。弟と同様に優秀だったこの兄は、やがて呉の重臣になるのです。

幼い孔明は、母や姉や弟と徐州で暮らしていたのですが、後漢末の過酷な戦乱に巻き込まれて荊州(湖北省)に疎開し、叔父の諸葛玄を頼ります。この叔父は、荊州の主権者・劉表と旧知の仲だったので、彼のために江南の諸勢力と戦い、その渦中で死んだのです 。このとき、ある程度の遺産を遺してくれたので、孔明は母の死を見取った後、襄陽(襄樊市)に移って学究生活に入ったのでした。

当時の荊州は、州牧(長官)の劉表が学問好きで戦争嫌いな人柄だったために、外界の大乱世にもかかわらず、中国で最高の学問の都になっていました。そこには、「襄陽学派」と呼ばれる極めて有力な学閥があったのです。もちろん、孔明もその一員になりました。

ただ、孔明の能力は、あまり襄陽学派では評価されなかったようです。彼は、個々の学問の細部にはまったく関心が無く、古今東西のあらゆる学問の概要を押さえることに専心したからです。学者としての専門知識を持とうとしない彼を、同僚たちは軽蔑して疎んじました。まあ、本当に優秀な人というのは、いつの時代でもそういう時期を経験するものですね。

それでも孔明は、自らの才能を管仲と楽毅(いずれも春秋戦国時代の宰相と名将)に譬えていたので、みんなは笑いものにしました。そんな中で、学友の崔州平と徐庶は彼の才能を見抜いて友達付き合いしてくれたの だそうです。

孔明は、朝晩ののんびりした時間には、八尺(190センチ)の巨体を床に横たえて、好きな『梁父吟』(故郷の民謡)を歌ってくつろぐのが常でした。

そんな彼は、あるとき仲間たちに向かってこう言いました。

「君たちの才能なら、仕官すればきっと刺史か太守(いずれも州長官)になれるだろう」

その場にいた石韜、孟建、徐庶は、誉められたと思って喜びました。

「そういう君は、どこまで出世するつもりだい」

孔明は、笑うばかりで答えなかったといわれています。

彼は、もっと上を見ていたのでしょう。

ところで、孔明が、管仲と楽毅に憧れていたというのは意味深です。彼は、自らがトップになるのではなく、優秀な君主の下で宰相あるいは名将となって働きたいと考えていたのです。もちろん、州長官などというチンケな処遇で甘んじる気はさらさらありません けれど。

しかし孔明は、27歳になるまで、彼が理想とする君主に出会えませんでした。隆中というところに庵を構え、畑を耕して(もちろん、作業は小作人がやったのだろうが)、プータローの書生生活を続けていたのです。27歳でプータローというのは、今の日本なら珍しくありませんけど、当時としては少し 珍しかったのです。

孔明は、自分の夢を実現できるチャンスを辛抱強く待っていたので しょう。

そんな彼のもとに、運命の出会いが訪れます。

劉備が、彼の庵を訪れたのです。

 

2、劉備の生い立ち

ここでは、孔明の生涯の盟友であり、君主であった劉備玄徳の人生を俯瞰しましょう。

劉備は、幽州琢県(河北省)の庶民出身です。祖父も父も県の役人をしていたので、まあ、中流家庭の生まれだったわけです。しかし、父の劉弘が早死にしたために生活が窮乏し、母を助けて莚や草履を編んで売ることで生計を立てていた時期があったようです。

15歳のとき、叔父の劉元起の資金援助を受けて、高級官僚で学者でもある盧植の私塾に入学しました。叔父は、劉備を亡兄のような役人にさせたかったのでしょう。しかし、劉備は「読書を好まず、華美な服装を好み、乗馬や犬や音楽を愛した」のです。犬というのは闘犬です。音楽というのは芸伎遊びのことです。要するに劉備少年は、勉強そっちのけでファッションとスピードとギャンブルと玄人女に嵌ったというわけです。こういうのを、世間一般の通念で「不良」と言いますね。

ただ、劉備には「大人」の風格がありました。喜怒哀楽を表に出さず、いつもニコニコしていて、良く人にへりくだるのです。そのため、彼の周囲には多くの人々が慕い集まりました。劉備は、不良少年たちの「顔役」だったのです。そして、この不良少年の中に、後に蜀漢を支える名将となる関羽や張飛の姿がありました。どうやら劉備は、士大夫への道を諦めて、侠客の親玉になったようです。清水次郎長とか国定忠治を連想してもらって構いません(若い人は知らないか)。

さて、「黄巾の乱」が始まると(189年)、劉備は不良少年たちを引き連れて義勇軍となり、黄巾討伐で功績を挙げました。しかし、恩賞の官職が不満のため、職を捨てて逃亡すること数度に及びました。県の監察官を殴打したという記録もあるので、相変わらず「不良」の本質が抜けきれていなかったようで。

『演義』などの小説では、劉備は清廉純真に国家を思いやる義人として描かれますが、それは虚構の姿なのです。

無頼漢の群れとともに各地を放浪する劉備ですが、やがて盧植塾時代の兄弟子である公孫瓉と再会し、彼の部下になります。これ以降、劉備は、豪族の間を転々として「凄腕の傭兵隊長」として頭角を現すのです。彼が仕えた群雄は、公孫瓉に始まって陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表といった具合に、節操なく変わります。群雄たちが、この無節操な傭兵隊長を喜んで迎え入れた理由は、やはり劉備集団の武力の高さが、明日を読めないこの乱世において、極めて有用だったためでしょう。

劉備配下で、その義弟といわれる関羽と張飛は、「一人で1万人を相手に出来る」と賞賛される猛者でした。同じく部将の趙雲も、「全身が肝っ玉」と言われる勇者でした。

なお、この論文は諸葛孔明が主人公なので、後漢末のバトルロイヤルについての詳細は書きません。詳しく知りたい方は、長編小説コーナーの『昭烈三国志』などをどうぞ(笑)。

それにしても、劉備はなぜ「就職」を考えなかったのでしょうか?「三国志」には、劉備と良く似た立場の傭兵集団が数多く出てきますが、そのほとんどが曹操や袁紹などに吸収されてサラリーマン化しています。劉備は、例えば曹操と親しい時期があったので、彼の配下としてやって行けば良かったのではないでしょうか?

しかし、曹操と劉備は、互いに相容れないものがありました。曹操は、しばしば「劉備は俺と対等だ」と評しています。対等の存在を、猜疑心の強い曹操がいつまで可愛がっていられるかどうか。また劉備も、一生サラリーマン生活を続けられるような人間ではありませんでした。

曹操のところを飛び出した劉備は、袁紹のもとに亡命し、そこでも容れられないと思うと、今度は劉表のところに逃げ込みました。

劉備は、ここで諸葛孔明と出会うのです。