歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 日本史関係 通説や学説とは異なる切り口です。 > 概説 日露戦争 > 3.開戦
(1)奇襲攻撃
(2)閉塞作戦
(3)シーレーンの攻防
(4)世界最強の要塞
(1)奇襲攻撃
日露戦争は、日本軍の奇襲攻撃によって幕を開けました。
陸軍は、朝鮮半島の西岸に大軍を送り込み、海軍は、水雷戦隊を旅順港に潜入させて、ロシア旅順艦隊に夜間魚雷攻撃を仕掛けたのです。時に、1904年(明治37年)2月8日。
不意を衝かれたロシア軍は、大損害を出しました。
既に国交は断絶していたのです。当時の国際法規では、国交が断絶した国家間には、宣戦布告無しの攻撃が認められていました。ですから、日本軍の奇襲攻撃は卑怯な騙まし討ちではなく、国際的に非難を浴びることもありませんでした。
ロシアが不意を衝かれた理由は、やはり日本を軽んじていたことと、もともと腐朽官僚体質であるがゆえ、情勢判断が雑になっていたためなのでしょう。奇襲を受けた旅順港では、ほとんどの海軍士官が上陸しており、その多くはパーティーで浮かれ騒いでいたと言われています。
しかし、いよいよ戦争になってしまいました。
そして、ロシアは、自軍の不利な情勢に初めて気づいて愕然とします。極東にはほとんど陸軍を置いておらず、海軍も日本に劣っていたのです。軍艦の数は日本に匹敵していたのですが、旧式艦が多くて、とてもイギリス製の高性能艦で占められる日本海軍に勝てると思えません。そこで彼らは、長期持久戦の構えに入り、そして本国からの増援を待って決戦を挑む方式に切り替えたのです。
ロシアは、ドイツとの国境に数百万の大軍を擁していました。これをシベリア鉄道で極東に送り込めば、陸兵の数で日本を圧倒できるでしょう。
また、ロシアはヨーロッパのバルト海と黒海にそれぞれ大規模な艦隊を持っていましたから、これを極東に送り込めば、やはり数の上で日本海軍を圧倒できるはずなのです。
そして、日本は、こうした情勢を知悉していましたから、ロシア軍が増援を得て強化される前に、極東地域を電撃的に制圧して講和に持ち込もうとしたのです。
日露戦争は、陸海ともに、まさに時間との戦いだったのでした。
(2)閉塞作戦
ロシア軍が守りに入ったため、当面の日本軍の進撃は極めて順調でした。
極東ロシア海軍の主力は、旅順港を基地とする「旅順艦隊」でした。その戦力は、日本艦隊と規模の上で匹敵していたにもかかわらず、要塞化された旅順港内に立てこもり、日本の挑戦に応じようとしません。日本艦隊は港外で切歯扼腕したのですが、そのお陰で日本の輸送船団は安全に黄海を押し渡り、朝鮮半島のみならず遼東半島の南岸にまで大量の陸兵を揚陸したのです。
遼東半島を守っていたロシア陸軍は、もともと兵力が少なかった上に、味方の海軍が役立たずで、敵兵の揚陸を簡単に許してしまったために、有効な反撃を行えません。小競り合いを繰り返しながら満州の奥地へと撤退して行きました。ロシア陸軍は、ヨーロッパからの増援を待ってから反撃に転じる方針だったのです。
一方、日本陸軍は、3つのルートで遼東半島を北上し、遼陽市で合流。その後、一気に満州のロシア軍主力に決戦を挑む手はずでした。その進撃は、極めて順調に進みます。
しかし、日本軍の誤算は、「旅順艦隊が篭城してしまった」事です。旅順艦隊は、もちろん臆病だったわけではありません。彼らは、ヨーロッパ方面からの増援を待ち、これと合流した後で、日本海軍に決戦を挑む方針だったのです。
高性能艦が多い日本海軍といえども、ヨーロッパの敵と旅順の敵の合流を許せば、彼我の戦力比は2:1となり、勝ち目は無くなります。つまり、日本軍が戦争に勝利するためには、ヨーロッパのロシア艦隊が来援する前に、何としてでも旅順艦隊を潰さなければならなかったのです。
度重なる挑発にもかかわらず、どうしても出てきてくれない旅順艦隊を前に、日本海軍はユニークな作戦を案出します。すなわち、「閉塞作戦」です。出てこないなら、永遠に出られなくしてしまおう、という作戦です。つまり、旧式の商船団を、湾口が狭くて水深の浅い旅順港の入口に沈め、もって旅順艦隊を港内に封じ込めて増援との合流を妨げようという作戦なのでした。
しかし、3次に渡って展開されたこの作戦は、ロシアの海岸砲台や駆逐艦の活躍で失敗に終わります。有名な廣瀬武夫中佐が戦死したのは、この作戦中の出来事でした。
「こうなったら、陸上から攻撃するしかない」
大本営は、旅順港を陸側から攻撃するべく、新たに「第3軍」を編成します。指揮官は、乃木希典大将でした。
(3)シーレーンの攻防
前述のように、日本のアキレス腱はシーレーンです。資源の乏しいこの島国は、シーレーンを切断されたら自滅するしかないのです。そして、ロシア軍もその事を知悉していました。
ロシア海軍は、日本海に面したウラジオストック港にも艦隊を保有していました。巡洋艦4隻を中心とした「ウラジオストック艦隊」です。この艦隊は小規模だったため、日本軍はあまり重視していませんでした。しかし、この小兵が、思わぬ脅威に成長して日本を苦しめるのです。
日本海軍の主力が、旅順沖で釘付けになっていることを見て取ったエッセン提督は、積極果敢にウラジオストック艦隊を動かします。この小兵艦隊は、日本海から玄界灘へ、さらには津軽海峡を越えて房総半島から東京湾へと転じ、列島沿岸の日本の商船や輸送船を片端から撃沈して回ったのです(4月~7月)。
日本国民は、震え上がりました。
この情勢を危ぶんだ日本海軍は、上村彦之丞提督の艦隊を主力から分派して(第2艦隊)、ウラジオ艦隊の追撃に当たらせました。しかし、それぞれワンセットの艦隊が追いかけっこをしても、なかなか遭遇できるわけがない。日本列島という名のテーブルの周りをグルグルと回る、トムとジェリーみたいな様相を呈したのです。
船舶の被害は日を追って広がり、国民の戦意は衰えていきました。
日本国の持つ致命的な弱点は、開戦劈頭の時点で、戦争全体を危殆に陥らせたのです。
(4)世界最強の要塞
さて、亀の子のように港内深くに閉じこもった旅順艦隊を倒すべく、日本陸軍第3軍は遼東半島を南下し、そして旅順港を包み込むように広がる巨大な要塞を包囲しました。
旅順はたいへん美しい街ですが、巨大な軍港を守るために、街全体を取り囲む山岳地帯をコンクリートと銃砲で埋め尽くした、世界最強の要塞でもあったのです。
日本軍の最大の誤算は、この都市が要塞化されていることを「知らなかった」ことです。参謀総長の児玉源太郎などは、「旅順など、竹矢来で囲っておいて、敵兵を閉じ込めればそれで済むのだ」などと豪語していたのです。
もともと日本陸軍は、旅順を攻撃する計画を持っていませんでした。旅順は海軍に任せて、自分たちは満州奥地の主戦場に特化しようと考えていたからです。そのため、旅順の状況について無知であっても、それはそれで仕方なかったのかも知れません。
このことからも分かるように、日本の陸軍と海軍は、すでにこの当時から不仲で、互いの情報が分立していました。
それが悲劇を招きます。
急造の第3軍は、情報も兵力も武器弾薬も、全てが不足気味でした。しかし、現場を知らない大本営や満州軍司令部は、乃木将軍に総攻撃を強要します。そして、これに押し切られた乃木司令部はこの要塞に正面攻撃を仕掛けたのです。
7月26日からの第一次総攻撃は、屍の山の中で失敗に終わりました。
攻撃軍5万のうち、死傷者数はなんと1万5千!
全戦線で連敗中のロシア軍は、この情勢に欣喜します。