歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 日本史関係 通説や学説とは異なる切り口です。 > 概説 日露戦争 > 4.戦争経済と諜報戦
(1)戦争はカネがかかる
(2)金子特使と明石大佐
(3)捕虜優遇政策
(1)戦争はカネがかかる
日本軍にとっては実に不本意ながら、旅順の戦いは、日露戦争の死命を決する主戦場へと昇格してしまったのです。
その理由は、「戦争経済」にあります。
戦争は、生産性皆無の破壊行為なので、ただひたすらにカネがかかります。どうして、このような愚かな行為をするのでしょうか?人間という生物種の本質に疑いを感じてしまいます。
それはさておき、この当時、日本とロシアはたいへんな貧乏国で、財政が非常に逼迫していました。そこで、この日露戦争において、両国とも外国からの借金で戦費を調達していたのです。
日本は主にイギリス市場で、ロシアはフランス市場で外債を発行しました。しかし、言うまでもなく、借金は「信用」が無ければできません。カネを貸す側は、利息を含めて回収の目処が立つから貸すのです。もしも貸付先が破綻したら、貸したカネは不良債権となり、大損をこいてしまいます。
現在の日本では、ほとんどの都市銀行が不良債権に苦しんでいますね。政治家やマスコミの論調では、あたかも「天災」みたいに扱われていますが、それは大きな間違いです。不良債権というのは、単なる「経営の失敗」です。銀行が、貸してはならない相手にカネを貸したからあんなことになったのです。なのに、どうして銀行の無能な経営陣は責任を取らないのでしょうか?どうして、彼らの尻を叩いた財務官僚どもは責任を取らないのでしょうか?公的資金の投入とか手数料の値上げとか、要するに、庶民に全てを押し付けて知らん顔なのはいかがなものか?この国は、まったく無責任で駄目な国になりましたな。
ともあれ、投資というのは、それくらいに難しいものなのです。
さて、外債市場では、当初はロシア債の方に人気がありました。なぜなら、外債を購入する投資家からすれば、日本よりもロシアの方が強いだろうから、ロシアに投資した方がより安全だと思われたからです。
そのため、日本の資金調達は、高橋是清らが奔走しイギリス政府のバックアップを受けたにもかかわらず難航しました。しかしそのとき、アメリカ市場のユダヤ財閥が助け舟を出してくれたのです。当時のロシアは、国内のユダヤ人に大弾圧を加えていましたから、同胞の苦境に悩むユダヤ財閥は、むしろ日本を応援して日本に勝ってもらいたいと願い、外債を大量に引き受けてくれたのです。こうして、日本は当面の戦費を確保することが出来ました。
しかし、それだって時間の問題です。もしも日本が戦場で劣勢を続けるようなら、投資家の興味はますますロシア債に移り、日本はいずれ資金ショートに陥るでしょう。
幸い、日本軍は戦場で連戦連勝でした。ロシア海軍は旅順に閉じ込められ、ロシア陸軍はどんどん北方に逃げて行きます。
この結果、日本債は高騰し、逆に、ロシア債は買い手が付かなくなりました。これは、ロシアにとって戦争遂行上の死活問題です。
そんな矢先、旅順要塞の戦いが起こり、日本軍は大損害を出して撃退されました。ロシア政府はこの勝利を大々的に宣伝し、「旅順要塞無敵神話」を創造したのです。このため、外債市場では再びロシア債が人気を取り戻したのでした。
こうして、日本はロシアの戦争遂行能力を破壊するため、何が何でも旅順要塞を陥落させ、その無敵神話を突き崩さなければならなくなったのです。
一部の歴史小説には、「旅順要塞を攻略する必要はなかった。203高地だけを落とせば良かったのだ」などと書かれていますが、これは間違いです。
(2)金子特使と明石大佐
ところで、どんなに戦場で勝利を重ね、どんなに資金繰りが円滑になっても、戦争そのものを終結させる方策を立てねば意味がありません。
当時の日本政府は、非常に用意周到でした。
まずはアメリカに、セオドア・ルーズヴェルト大統領の学友であった金子堅太郎を、外交等特使として送り込みました。彼の任務は、アメリカ大統領に食い入って、時宜を外さず和平の仲介を行わせしめることでした。ルーズヴェルトは、この戦争の全期間を通じ、タイミングを見計らって和平会議の開催をロシア政府に提案したのですが、その影に金子特使の活躍があったのです。金子はまた、アメリカ各地のパーティーに出席したり新聞に投稿をしたりと、アメリカ世論の親日感情を増進する上で大活躍しました。
また、日本政府は、スウェーデンに明石元二郎大佐を大量の金塊とともに送り込みました。彼の任務は、ロシア国内の反政府活動家に援助を与え、これをもって欧州のロシア軍の東進を制約するとともに、ロシア民衆の反戦感情を煽り立てて、ロシア帝国に長期戦の遂行を断念させることにありました。明石大佐の接触相手には、あのレーニンもいたと言われています。そして、ペテルブルクでの大暴動(血の日曜日事件)や黒海艦隊での戦艦ポチョムキン号の反乱の影には、明石大佐から軍資金をいただいた社会主義活動家の姿がありました。こうして、ロシア政府は「革命」の二文字に脅え、次第に日露戦争の早期終結を考えるようになります。明石大佐の活躍は、「数個師団に相当する」と言われました。
それ以外にも、日本は世界各地に諜報員や外交官を送り込み、世論操作や情報収集に全力を尽くしたのです。こうした草の根の活躍が、日露戦争の勝敗を決する重要なキーになったのでした。
(3)捕虜優遇政策
日露戦争当時の日本軍は、国際法をよく学び、それに完全に準拠して戦争を進めました。
例えば、内地に移送したロシアの捕虜たちを、日本全国に設置した捕虜収容所で人道的な待遇で扱い、また「二度と戦争に参加しない」ことを条件に、彼らを定期的にロシアに送り返すことまで行ったのです。松山収容所では、道後温泉に行ったり女郎屋に通うことすら許していました。つまり、ロシア捕虜は、日本の平均的な民間人よりも良い生活が出来たのです。
この事実は、日本を「劣等の黄色人種」と呼んで侮る傾向があった西洋列強に深い感銘を与えました。彼らは、次第に日本を「文明国の一員」として認知するようになります。これが、後のポーツマス講和条約で、日本寄りの国際世論を喚起する上での重要な要因となりました。
また、戦場のロシア兵にこうした噂が広がると、ただでさえ厭戦気分の強い彼らは、逆境になるとむしろ喜んで日本軍に投降するようになりました。「マツヤマ、マツヤマ」と叫びながら。捕虜優遇政策は、戦場でも敵の士気を落とす戦術的効果を発揮したというわけです。
以上のことから分かるように、この当時の日本政府は、満州の戦場だけではなく、全世界の金融市場や外交活動やテロ支援、さらには国際法と国際世論を視野に収めた壮大な大戦略を展開していたのです。でも、戦争に勝つためには、必ずこういうやり方をしなければなりません。そのことは、「孫子の兵法」からも明らかです。
こうしたグローバルな戦略遂行力が、この40年後の戦争で完全に失われていたのは奇妙に思えますが、その理由はもちろん、40年後の戦争が、政治家不在の「軍事官僚の暴走」によるものだったからです。
そして、現在の日本も「官僚の暴走」によって手足がバラバラに動いている状態にあります。これを是正できさえすれば、日本は長引く不況からも容易に脱却できると思うのですが・・・。