歴史ぱびりよん > 世界旅行記 > チェコ、オーストリア旅行記 > 9月7日火曜 プラハ市内観光
なんと、朝の6時に目が醒める。日本では有り得ない早起きだ。食堂は7時からなので、テレビニュースを見ながら窓から街並みを眺める。ニュースは、詰まらない。だって、チェコ語かドイツ語なんだもん。おバカなボクには全然わかんないや。窓外の街の風景も、いまいち殺伐として、いかにも社会主義という感じ。ただ、ホテルの前が広場になっていて、トラム3路線分の駅と転回点になっているのが楽しかった。
食堂は、白人の中年だらけ。日本人は一人もいない。どうやら、ツアー客は俺一人だけだったのかもしれぬ。ウエイター君も、珍しそうに俺を見ていた。でも、飯はなかなか旨かった。バイキング形式のビュッフェだが、結構品数は多いし、パンとハムはたいへんな美味だった。チェコの食い物はゴムみたいだ、という噂は、まったくのガセネタであることが容易に判明する。
気持ちの良い晴れた朝なので、ディヴィチェ駅までの1キロを歩くことにする。途中で雑貨屋を見つけたので、そこでプラハ全域図を購入。その店では英語が通じなかったので、 ボディランゲージで用を足した。自慢じゃないが、俺はボディランゲージの才能は凄いのである。
なお、地下鉄ディヴィチェ駅では、ついに券を買うことに成功した。どうやら、これ以上の犯罪行為は、防ぐことができそうだ。
ここで説明すると、プラハ市内の交通機関は、全て同一の券で共通利用できる仕組みである。どこかで券を買えば、一定時間(普通は1時間半)は、地下鉄、バス、トラム、ケーブルカー全てが乗り放題なのだ。ただ奇妙なのは、どの交通機関にも改札口が存在しない点である。一応、車両の中や駅のホームに刻印機が設置してあるから、ここに券を差し込めば購入時間が印字されるので、残り時間を計測できる仕組みになっている。でも、刻印機を使わなくても乗れちゃうし、誰もチェックに来ないのだ。地下鉄などは、券売機のすぐ横にプラットホームがあったりするから、日本人ならきっとただ乗りし放題だろうな(俺は既にしまくった)。こんな杜撰なシステムで問題にならないところを見ると、チェコ人の公衆道徳は非常に高いのかもしれない。ちなみに、1時間半券は12コルナ。つまり72円。や、安い・・・・。JRは、少し見習うべきではあるまいか。
さて、地下鉄A線を3駅乗って旧市街(スタレームニェスト。駅名はスタレームニェツカ)に着く。まずは、ここからカレル橋を越えてプラハ城に遊びに行くという寸法である。本当は、1駅手前のマラーストラナで降りたかったのだが、ここはどういうわけか通過駅となっていた。駅自体が改装中だったらしく、駅の表示板には駅名の上に赤い×印がしてあった。
時刻はちょうど8時で、街は出勤中のビジネスマンで一杯だ。ときどき、携帯電話で話しているサラリーマンを見かけたが、電話がでっけえ。トランシーバーみたい。でも、日本だって5年くらい前はこうだったのだ。チェコは10年前まで社会主義国だったのだから、日本との技術差が5年なら大したものだ。チェコが、資本主義化の優等生というのは、恐らく本当なのだろう、と納得。
さて、ビルの合間から、地下鉄が走ってきた方角を見渡すと、あった、あった、お城があった。やっぱり、丘の上に城がある街はいいなあ。なにか、心が落着く。
ずんずん歩くと河に出た。いわゆる一つのヴルタヴァ川だろう。思ったよりも流れが早くて幅が広い。川幅は、約600メートルらしい。ただ、俺が足を踏み入れた橋は、自動車用だから、目指すカレル橋ではない。この橋の上から上流(南)を見渡すと、あるある、たくさんの橋が架かっている。1個向こうの橋が、古色蒼然として石像がたくさん立っているから、あれに違いない。旧市街に引き返して、ルドルフィノム(ここが、プラハの春音楽祭の会場らしい)の前を通って、川の東岸沿いに南下してカレル橋に達する。まだ早朝なので、観光客は誰もいない。誰もいない観光名所を独占状態であるから、やっぱり自由旅行はいい。由緒ある石像は見放題の触り放題だし、河の流れをいろいろな場所から眺めることもできる。さらに、橋の上から見るプラハ城の美しいこと美しいこと。朝日を浴びて輝いている。俺は、ヨーロッパの城というのはあまり好きではないのだが、この城は唯一の例外となった。
突如としてデジャブが襲う。前に何度も来訪したかのような懐かしい感覚。俺は本当はチェコ人なのではあるまいか。本当の両親は、プラハにいるのではないだろうか。思えば、俺が生まれた年は、「プラハの春」崩壊の年であった。これは偶然だろうか。ソ連軍の戦車に追われた本当の両親が、むつきの俺を籠に入れてヴルタヴァ川に流し、それがエルベ川からバルト海を経て太平洋へ・・・。そんなわけはないか。とにかく、初来訪の場所でデジャブに見舞われるというのは、その場所が非常に気に入ったという証拠であるらしい。
さて、カレル橋を西に渡りきって小地区(マラーストラナ)に入り、聖ミクラス寺院の前を通って登山道を登る。ううむ、誰もいないし閑散としている。ここは本当に観光地なのか?こうして9時前には、プラハ城の城門の前に立っていた。
大統領官邸前には国旗が翩翻としており、城の入り口には儀杖兵が二人、銃剣を掲げて無表情に突っ立っている。イギリスのバッキンガム宮殿を思い出すが、チェコの儀杖兵の制服は濃い青色をしている。果たして、一人で入っても良いのであろうか。いきなり、銀色に輝く銃剣でツンツン突かれるのじゃあるまいか。というわけで、少し奥の勝手口から入ることにする。良かった、兵隊はいない。
入り口を入って左奥の庭園にベンチがあったので、座って「地球の歩き方」を精読する。城内にある歴史博物館の開館時間を確認するためである。そして腰をあげたとたん、三人の兵隊が列を作ってこちらに進んできた。やばい、刺される・・・・。とりあえずベンチに座ってやり過ごすと、兵隊たちは目の前を素通りして裏庭へ去っていった。定期巡回という奴だろう。狙いは俺じゃあなかった・・・って当たり前か。それにしても、あんな重たそうな銃剣が急場の役に立つのだろうか。銀色に光る剣だって、相手に突き刺さるようには思えないが・・・それを言っては、バッキンガム宮殿やバチカン市国の儀杖兵だって似たようなものだが。きっと、急場なんて無いのだろう。テロリストなんて出ないのだろうな。
こうして、無人の門を二つ抜けて聖ヴィート教会の前に立つ。実に大きな立派な建物だ。俺も、イギリスやイタリアで教会はたくさん見ているが、これほど美しいのを見るのは初めてだ。14世紀に建設がはじまり、完成したのがなんと20世紀に入ってからという。気の長い話だが、この気長さこそヨーロッパ文化の真髄なのだろう。この中には、歴代のボヘミア王の遺骨やミイラが安置されているらしい。入りたいとは思ったが、周囲に誰もいない上に門は閉まっている。また後で来ようと思ったら、軍靴の音と共に、さっきの儀杖兵三人衆がこちらにまっすぐ進んでくるではないか。やっぱり、俺をツンツン刺そうというのか!足早に逃れて奥へと進む。
本丸の奥の少し開けた広場に出ると、カフェなどが点在して観光名所らしい雰囲気になってきた。この辺りの教会や昔の宮殿は、それぞれ博物館になっているようだが、開館時間まで随分と間がある。ここは、一番早く開館する歴史博物館に直行するのが良さそうだ。
こうして、9時半ちょうどに歴史博物館に入る。もちろん、この日の客第一号だろう。ここは、もともと宮殿だった建物なので、5階建てで、小さな部屋がたくさんある。最上階まで階段を登った吹き抜けの左側が入り口になっており、そこから順番にフロアを回り、右側から出てきて下の階に移っていくという展示序列になっているのだ。各階の入り口には、人の良さそうなお婆さんがテーブル越しに座っていて丁寧に挨拶をしてくれる。驚いたことに、日本語で「こんにちは」と言う人もいるので、なんとなく安心した。もしかすると、大英博物館のように日本語のガイドブックもあるのかもしれぬ。だが、その予想は甘かった。5階の入り口で、お婆さんにいくつかのルーズリーフを見せられる。どれか一つを選べというのだ。中身は、チェコの歴史の概説である。それぞれ、チェコ語、ドイツ語、ロシア語、英語で書かれていて、残念ながら日本語はない。俺は当然、英語版を手に取って奥へと進んだ。
館内には、やっぱり俺しかいなかった。展示物は、想像以上に充実している。最初は、旧石器時代の展示だ。美しい地図の上に遺跡の場所が記され、また土器や石器が所狭しとケースの中に置かれている。ただ残念なのは、展示物についている説明が、全てチェコ語だという点である。もらった英字パンフレットの内容は、チェコ史の概説なので、個々の展示物の説明には対応しきれていないのだ。これは、相当のチェコ史マニアじゃないと理解できないなあ、と溜息をつく。すると、奥からお婆さんが参上。俺の周りをウロウロとし始める。どこの博物館にも警備員は付き物だが、どうもそれとは違うようだ。恐らく、ガイドをしてくれるというのだろう。しかし、質問を投げるにしても、それなりの予備知識が必要である。俺はチェコの地名や人名に通じていないので、質問してもしょうがないよなと思い、お婆さんを置いて奥へと進んでいく。
新石器時代のコーナー。さっきとは別のお婆さん登場。やっぱり、俺の周りをウロウロする。どうやら、各フロアに最低3人はお婆さんがいるらしいが、個々の部屋が狭くて展示順路が曲がりくねっているので、仕方ないのだろう。ただ、ガイド兼警備員のお婆さんたちが、それぞれの歴史区分のエキスパートだとすれば、ある意味、これほど親切な博物館は他に無いとの見方もできる。
展示物の三分の一も理解できなかったが、実に立派な博物館だ。特に、フス教徒の時代の展示は圧巻で、当時の武具や防具に、フス教軍の旗印まであるから、マニアは感涙にむせぶに違いない(フス教マニアって日本にいるのかな?)。フロアを降りるたびにハプスブルク時代、近代工業化時代と続くのだが、実にビジュアルで分かりやすい。ああ、チェコ語を勉強していつか必ず出直そうと、心に誓う俺であった。さて、出口では最後のお婆さんがノートを渡してくれた。一言書いてくれというのだろうが、中身を見てびっくり。日本人観光客のサインでも、文章は全てドイツ語かチェコ語である。どうやら、俺のような素人が訪れてよい場所ではなかったようだ。突っ張って日本語でコメントしようかと思ったが、何となく恥ずかしいので英語で書いた。後から思えば、かえって恥ずかしかったかもしれない。
さて、博物館の外へ出てみれば、一面の人だかり。ツアーの観光客がウジャウジャ群れている。時計を見ると、11時近い。ヴィート教会の前など、旗を持ったドイツ系観光客の群れでたいへんなことになっているので、中に入るのは諦めた。路地に入って黄金小道や火薬塔を見学して城の外に出たが、入り口付近のフラッチャニ広場も、ツアー客や親子づれでびっしりだ。どっから涌いたんだ、こいつら。
俺は、同じ道を歩いて帰るのが嫌いな人なので、登山道を避けて大通りへと回った。その沿道は、観光客用の出店で一杯だ。旨そうな臭いを立てるレストランも多かったが、飯にはまだ早いので、再びミクラス教会の前に出る。それからカレル橋の手前で右に折れて、マラーストラナの美しい赤屋根の家並みを見ながら、ぺトシーン公園に向かう。この公園は、プラハ城の南にお椀を伏せたような形に広がる大きな丘陵を、そのまま自然公園にしたものである。その頂上には展望台があり、ここからならプラハ市全体を一望できるはずなのだ。そして、丘の麓から頂上まではケーブルカーが通っているので、それを試したくなったというわけ。
駅までの距離感が湧かないので、道の途中から公園の中に入ってみた。自然公園かと思ったら、麓に近い部分には意外と鉄棒や砂場も多い。そこでは、平日の午前中だというのに幼児が大勢で遊んでいたりするのだが、良く見ると離れたところに先生らしい人が立っているので、これは幼稚園の課外授業なのだろう。東京の子供とは比較にならないくらいに恵まれているのだなあ、チェコの子は。ただ、犬のウンコがやたらに落ちているのが気になる。砂場で遊ぶこの子達の手は、実はウンコまみれではあるまいか。それはそれで、黴菌に負けない強い大人に育って良いのかも知れぬ。
麓の道に平行して歩くことしばし。ようやく、ケーブルカーの駅を探り当てた。ミネラルウオーターを飲んで一息つきながら車両の中で出発を待っていると、ドイツ人(オーストリア人?)の若い男女が大勢で乗り込んできた。高校生くらいなのか、大声ではしゃぐもんだから、うるさいのなんのって。一人だけ日本人の俺は、抗議もできず、車両の一番奥に座って小さくなっていた。逆らうと、親父狩りの餌食になるかもしれないしなあ。
さて、ケーブルカーは3両編成で案外大きい。個々の車両もガラスが多いので眺めが良くて、座席もゆったりしている。駅も、頂上までの間に一つあって、そこで降りるとレストランがあるらしいが、俺は展望台が目当てだからもちろん最後まで乗っていくことにした。
登るケーブルカーの窓から見ていると、ここがなかなか立派な公園だということが分かる。お椀を伏せた形の丘であることをうまく利用して、階層状のエリア区分が出来ているのである。一番下の階層は、砂場や鉄棒のある小道がメインで、犬のウンコと子供のパラダイス。少し上に上ると、花壇や樹木に恵まれたエリアといった具合。これなら、1日いても飽きなさそうだ。
10分ほどで頂上に辿り着き、うるさいゲルマン族どもから解放される。最上階層は、花壇の多い気持ちの良い場所だ。ただ、歩いてここまで来るのは結構たいへんかも。時間に余裕があれば、やったところだが。
さて、問題の展望台は、驚いたことに木造で、しかもエレベーターが無い。ギシギシと音を立てる螺旋階段を10階分くらい登ってようやく屋上に出ることができる。映画「コーリャ」で、主人公のコーリャ少年が、義父のロウカの肩から街を眺めた場所がここだ。やっぱり、素晴らしい眺めだ。こーりゃ、ええわ!あのプラハ城が、眼下でこじんまりとたたずんでいる。美しいヴルタヴァの流れの向こうには、旧市街と新市街のパノラマが一望の下で、プラハ市の構造が悉く見て取れる。
唯一の汚点は、新市街の東側、ジシコフの丘に立つテレビ塔であろう。無機質的な建物で、どうにもセンスが悪いというか、景観にそぐわないのである。これを建てたのは社会主義政権とのこと。だからアカは駄目なんだよ。まあ、とにかく市街全体の位置関係が分かったので、なんとなく安心した。俺はもともと、全体を把握できないと不安になる性質の人なのだ。
さて、展望台を降りた俺は、当初は橋を東に越えて旧市街に出る予定だったのだが、ロレッタ寺院をはじめ、フラッチャニ地区の高名な観光名所を見ていないことに気付いたので、また城の方に戻ることにした。ケーブルカーで帰るという手が順当だろうが、同じ道を使うのは嫌いだし、少し遠回りになる。そこで、ぺトシーン公園からまっしぐらに北上し、果樹園を突破して城下に向かおうと考えた。黄色い落ち葉に彩られた山道を歩いて降ると、観光客は誰もいないし、公園の作業員にときどき出会うだけで少々寂しい。距離も、結構ある。でも、首都のど真ん中に、このようなハイキングコースがあるというのは、実に羨ましい限りである。チェコ人は恵まれているなあ。
さて、裸樹ばかりの果樹園を抜けて、城の真横に出る。やっぱり、城下は人が多い。フラッチャニ広場からロレッタ寺院を見に行ったが、白を基調とした色合いだからだろうが、近くから見ると結構汚れが目立つ。
その隣にオープンエア形式のレストランがあったので、そこで腹ごしらえをする事にした。取りあえず、宮殿と寺院の両方を眺められる席に落着くと、可愛いウエイトレスにビールと家鴨料理を注文した。ビールは、かの有名なピルスナー・ウルケル。世界のラガービール第一号だ。実はチェコは、世界一ビールが旨い国なのである。確かに旨い!ドイツビールのように薄味ではないし、日本ビールのような薬っぽい苦味もない。これはいける、というので今度は黒ビールを注文する。これまた旨いので、なんだか無茶苦茶に幸せになってきた。空は抜けるように青いし、気温も半そででちょうど良いくらいだ。もう日本には帰りたくないなあ、などと本気で思う。それにしても、料理が出てこない。おかしいなあ、と思ってウエイトレスを呼ぶと、例の可愛いスラヴ娘が、ハスキーヴォイスで「もう一杯いかが」と聞いてくるので、結局ごまかされてまた1杯とやってしまう。なかなか商売上手だなあ、と感心する。さすがは資本主義化の優等生。
すると、随分遠くのテーブルに座っていたアラブ人っぽい中年夫婦が、勘定を済ませてからこちらにやって来て、夫の方が気さくに英語で話し掛けてきた。「日本人ですか」「ええ」「会えて嬉しいです、観光ですか」「ええ、あなたはどちらの方ですか」「リビアです」。という会話を交えてから奥さんを見ると、黒い布で全身を覆ってこちらに顔を見せようとしないし、話し掛けても来ない。どうやら、敬虔なイスラム教徒のようだ。それにしても、こんなところでリビア人と会話する羽目になろうとは夢にも思わなんだ。彼らは、とても優しい目で手を振って、仲良く去っていった。しかし、どうして日本人と会えて嬉しいのだろうか。こんなところに夫婦で観光に来ているのだから、きっと特権階級に違いない。日本からの ODAで旨い汁を吸っている輩かもしれんな、などと漠然と考える。まあ、ただ単に、一人でビール飲んでる黄色人種が珍しかっただけかもね。
それはさておき、飯はまだかいな。どうもウエイトレスでは話にならないので、店長らしきオッサンを呼び止める。すると、家鴨料理はもう無いという。なんだそりゃ。もう一度メニューを見せてもらって、チキン料理を注文しなおすと、今度はすぐに出て来た。どうやら、注文内容がウエイトレスに伝わっていなかったということらしい。俺の英語が下手だからかな。でも、店長にはすぐに通じたぞ。ううむ、メスガキ、もっと英語を勉強したまえ。でも、可愛いから許す。別れ際に手を振ってくれたし、チキン料理もなかなか旨かったしな。でも、チップはやらないケチな俺であった。
というわけで、千鳥足で城門の前まで歩く。隣に大きな軍事博物館があったが、時計を見るともう2時だ。見学している暇はない。諦めて登山道からカレル橋に降りると、朝方とは打って変わって大混雑だ。お土産屋さんは左右に並び、いくつもの石像の周囲には観光客が犇いている。こりゃあ苦手だわい、と思って足早に渡り切って旧市街に入る。
クレメンティウムの横を通り、ボヘミアガラスの専門店街を抜けて旧市街広場へ。思ったよりも広い。フス像は立派だし、ティーン教会も美しい。フス像の周囲は、若者たちで鈴なりだ。ここはおそらく、渋谷ハチ公のような存在なのだろう。確かに、待ち合わせにはもってこいだ。
酔い覚ましにオープンカフェでお茶でもと思ったが、どこも満席状態だ。ふと目を向けると、市街一周観光用のトロリーがある。2両編成のディーゼルで、遊園地を走っている子供用の汽車みたいな大きさと形をしているので、興味にかられて乗り込んだ。時間がないのに大丈夫かな、とは思ったが、好奇心には勝てないのである。でも、これは外れだった。自動車用の橋を越えてフラッチャニに入り、プラハ城を1周して帰ってくる奴だったからである。城に戻ってどーする!石畳の上をガタガタ走るものだから、ケツは痛くなるしな。まあ、英語で名所の解説が入ったから少しは良かったが。
しかし、もう3時である。こんなんで、最終目的地であるヴィシェフラトに辿り着けるのだろうか。とりあえずムステーク交差点に出てから、有名なヴァーツラフ広場を歩く。この広場は、大通りと言って良いくらい細長い一帯で、プラハで一番の繁華街というだけあって、人通りが多くて賑やかだ。通りの左右には、様々なデパートや出店、レストランが立ち並び、マクドナルド、ケンタッキー、ダンキンドーナツまである。行き交う若者たちは、みんな晴れがましく幸せそうな表情だ。こいつら、悩みなんか一つも無いのじゃあるまいか、と思われるくらいである。
歩いていく途中で、大きな本屋のショーウインドウが目に入った。そこでは、新発売のチェコ全土の地図帳というのが売れ筋らしい。何となく欲しくなって、店に入る。なかなか綺麗で立派な店だ。これなら、日本の紀伊国屋に匹敵するのじゃあるまいか。さすが、中欧で初めて大学を持った文化都市である。店の間取りは、1階にはペーパーバックと雑誌、2階にはCDなど、そして地下1階に専門書や地図が飾ってあった。欲しいものがたくさんあったが、ここは我慢して、目指す地図帳だけ買う。レジの叔母さんが笑顔を浮かべて、チェコ語で何か話しかけてきたが、理解不能なので曖昧な笑顔でごまかした。いやあ、これは良い本だ。道路網や鉱物資源、歴史や政治、人口、宗教など、チェコ共和国の全ての情報が詰まっているといっても過言ではない。惜しむらくは、文字が全てチェコ語なので、読めない部分が相当あるということ。・・・意味ないじゃん。
地図帳を小脇に抱えつつ、広場の南端まで行くと、そこに聖ヴァーツラフの騎馬像と国民博物館がある。聖ヴァーツラフことヴァーツラフ1世は、チェコ国家最初の伝説的名君だ。日本なら神武天皇といったところだろう。この銅像の前で、1989年のビロード革命が起きたのだ。俺は国民博物館に入りたかったのだが、やはり優先順位はヴィシェフラトにあるから、涙をのんで地下鉄の博物館(ムジウム)駅に入る。そこから、C線で南に2駅で目的地だ。
ここでプラハの地下鉄を紹介しよう。A、B、Cの3線あって、それぞれが緑、黄、赤の三色で表現されていて分かりやすく、乗り換えも簡単だ。プラットホームは全体的に大きく、車両も日本の地下鉄並の大きさで、空調も効いているから、イギリスやイタリアの地下鉄より、よっぽど快適である。車内放送も随分と丁寧で、「次の駅は○○」と必ず入るので、目的地で降り間違えることはまず無い。
こうして、ヴィシェフラト駅に着く。ここはプラハ新市街(ノヴァームニェスト)の南郊で、大きな舗装道路や近代的なビルも建っており、旧市街とは別天地の観を来訪者に強く与える。駅ビルも、なかなか立派だ。しかし俺は、新しいものには目もくれず、ひたすら西へと歩く。そこには、有名な城跡があるはずなのだ。
ヴィシェフラト(高い城)は、プラハ発祥の地と言われている。チェコ民族を初めて統合した王女リブシェ(日本でいうなら卑弥呼?)が、この地でプラハの栄光を予言したという。ただ、歴史的事実は大きく異なるらしい。ヴィシェフラトの創建はプラハ城よりも後。ここは、南に拡張発展するプラハの南郊を防衛する目的で建てられた戦闘用の城塞なのである。ここはその機能を十全に発揮し、1422年のフス戦争で、第二次十字軍とフス派軍の決戦地となり、戦いは名将ジシカ率いるフス派の大勝利に終ったものの、城自体は跡形も無く破壊されたのだという。ただ、黒くて厳しい城門は焼け残り、また、城内の教会だけは再建された。残りの敷地は、公園や運動場として利用されているらしい。
城の周囲には、さすがに観光客の姿は見当たらない。ツアー客は、こんなところに来ないのだろう。太陽も、もう随分と西に傾いているし。俺は荘厳な城門をくぐって城内に入った。城内の敷地には、やっぱりテニスラケットやサッカーボールを小脇にした子供が多い。双子の姉妹と思われる十二、三歳の美少女に出会ったが、やっぱりスラヴ民族の少女は美しい。世界で一番子供が美しい民族はスラヴ人に違いないという俺の推測は、確信へと変わったのであった。言葉さえ通じる保証があれば、ナンパするところなのになあ、惜しい・・・って、子供をナンパしてどうするんじゃい。チェコではロリコンは何罪になるのだろうか。よもや死刑ではあるまいなあ。気をつけねば・・・。
とにかく、広い敷地を横切って西に歩き、ヴルタヴァ川を見下ろす展望台に達する。実を言うと、ヴィシェフラトからヴルタヴァを眺めるというのが、今回の旅行の大目標だったのである。この時点で、旅行目的の5割が達成されたと言える。
今回の旅行目的は、スメタナの「我が祖国」全曲の故地を回るというものであった。連作交響詩「我が祖国」は、全6曲から構成される。すなわち、「ヴィシェフラト」「ヴルタヴァ」「シャルカ」「ボヘミアの森と草原」「ターボル」「ブラニーク」である。いずれも、チェコの歴史や自然を称えるテーマである。このうち、3曲目は伝説上の女傑、4曲目は一般的な自然がテーマであるから除外できるとして、残りの4箇所を回らなければならない。そして今、俺は1曲目(古城)と2曲目(川)の故地に同時に到達したというわけだ。
ひとしきり写真を撮ってから、川沿いに城壁の上を歩く。手近なベンチを見つけて腰掛けて、頭の中で「ヴィシェフラト」と「ヴルタヴァ」を続けて演奏すると、この曲の本当の素晴らしさが心に立ち込めてきた。本当は CDウォークマンを持ってきたかったのだが、この国の治安が、噂どおりグチャグチャの場合、強盗に狙われやすくなるだろうと思って断念したのである。こういうのを、取り越し苦労というのだろうな。それにしても、「我が祖国」は名曲だ。俺は、「ヴィシェフラト」の最後のフレーズが大好きで、聴く度に目頭を潤ませるのだ。こうして城から川を眺めていると、この曲を作るときのスメタナの気持ちが、万分の一くらいは理解できたつもりになる。やはり、現地のものは現地で味わうのが一番なのだなあ。酒や料理に限らず、音楽もその魅力は現地で味わうべしだ。というわけで、死ぬ前に「プラハの春音楽祭」を聴きに来るという決意が、ますます強まったのである。
その後、壮麗な教会を外から見学して、付属しているスラヴィーン墓地に入った。ここには、歴史に残るチェコの偉人が大勢眠っている。チェコの学芸に秀でた偉人は、死後、ここに葬られるのである。墓碑銘を見ていると、有名どころでドヴォルザーク、スメタナ、チャペック、ムハ(ミュシャ)といった具合の物凄さ。人口1千万の小国にして、これほど多くの国際的偉人を輩出したとは、チェコ、恐るべし。とりあえず、ドヴォルザークとスメタナの墓石に向かって、「尊敬しています。愛しています」と、胸中で語りかけた。この世に霊魂というものがあるならば、この想いを(日本語でも)感じ取ってくれたことだろう。それにしても、スメタナの墓の前で、でっかい屁をこいた俺って、とてつもなく不謹慎な人なのかもしれぬ。一応、胸中の日本語で、墓石に謝っておいたけどね。これも感じ取ってくれたかな?
その後、城の北側へ続く小道に入って、城壁の下に出る。ふと見上げれば、険しい崖の上にそそり立つヴィシェフラトは、やっぱり戦闘用の城塞だったのだなあ、と思う。
時計を見たら、もう6時である。そろそろ飯屋を探したほうが良いかもしれぬ。「地球の歩き方」によれば、この付近に民族料理屋があるはずだが、結局見つからなかった。地図が悪いのか移転したのかは分からない。残念だが、今日の所は諦めよう。
とりあえず、地下鉄でヴァーツラフ広場に戻ってみることにする。喉が渇いたので、ヴィシェフラト駅でお茶でもと思ったが、駅構内のカフェはどこも若者で一杯だった。しかたないので、赤いC線で博物館駅まで戻る。この駅の構内には、コカコーラの自動販売機があったので、ためしに利用してみたところ、けたたましい落下音とともに、500ミリのペットボトルが出て来た。考え無しに蓋を開けたところ、プシュー。中身の半分ほどが噴出し、ずぶ濡れになった俺は馬鹿みたい。それにしても、激しく炭酸飲料を落下させる販売機って・・・。仕方ないので、売店でミネラルウオーターの大きなペットボトルを買い込んだ。これだけあれば、夜中に喉が渇いても安心だろう。
沈み行く陽光を浴びながら、ヴァーツラフ広場の東側(来たときと逆側)を、旧市街方面に向かって歩く。沿道には飯屋がたくさん並んでいるが、あまり多すぎて目移りする。意外と日本料理屋も多く、すき焼き屋があったりする。チェコ人は肉料理が好きだから、すき焼きは口に合うのかもわからない。でも俺は、とにかくチェコ料理が食いたかったので、ひたすら広場をウロウロする。
すると、一天にわかにかき曇り、土砂降りの雨が降り注いだ。周りの若者たちは、キャーキャー嬌声をあげながら逃げ惑うが、なんだかとても楽しそうだ。チェコ人って、みんな物凄く能天気なのかしらん。広場の横には、ちゃんとアーケード街もあったりするので、みんなでそこへ逃げ込んで雨宿り。ここで飯食おうかと思ったが、ダンキンドーナツとか喫茶店しかない上に、どこも若者たちで一杯だ。下手に入ると、親父狩りの危機にあうかもしれぬ。
窮した俺は、雨の中を少し戻って、地下のレストランに入ることにした。とにかく広くて、メニューも山ほどあるが、味は普通だった。俺は野菜スープとローストポークとクネドリーキ(チェコ名物の蒸しパン)とビールで腹ごしらえしたのだが、やっぱり安い。日本円にして五百円程度にしかならなかった。
外へ出ると、もう雨は止んでいた。いわゆる夕立だったのだろう。チェコの降雨量は、日本の三分の一らしい。だから、みんな雨を喜んでいたのかな。
時計を見ると、もう8時だ。空も暗くなりかけている。俺はムステークで地下鉄A線に乗って、ディヴィチェまで出てから、歩いてホテルに帰った。さすがに疲れたので、その日はすぐに寝た。