ちゃんと定時に目が覚めた。というより、興奮してあまり眠れなかったものだから、目覚まし時計が鳴る遥か前に目が覚めていた。そこでとっとと着替えて荷物を背負い、下宿を後にした。
今回は、東京駅から成田エキスプレスに乗る予定である。同行する友人の加賀谷くんとは、その電車(7時15分発)の中で集合ということにしていた。
東京駅の地下ホームの売店で「週刊ポスト」を買って読んでいると(なんだよ、「逆説の日本史」が休載じゃないか!)、友人がラフな格好で現れた。どのくらいラフかというと、部屋着の背中にリュックサックを背負い、片手に小さなカバンをぶら下げている。
「着替えはどうするのさ?」と聞くと、彼は「ホテルで洗うからいい」と答えた。なるほど、その手があったか。
そういう俺は、去年のハンガリー旅行と同じ装備であった。つまり、大き目のボストンバック(日数分の着替えを収納)と、小さな肩掛けカバン(観光道具を収納)を持ち、服装は普段着である。
いずれにせよ、見るからに貧乏そうな二人組である。人生の敗残者となり、残された運命は無縁墓地に葬られるのみ、といった風情だ。これなら、強盗に狙われることは万に一つもあるまい、と二人で言い合って爆笑する。
やがてホームに滑り込んできた電車は、驚いたことに、昔、信越本線で使われていたような旧式車両であった。なんだこりゃ、と思って自分の乗車券をよく見ると、予約した電車は成田エキスプレスではなくて「ウイングエキスプレス」である。なにがウイングだ!詐欺じゃねえのか?これで乗車賃2千円強はひどすぎる!
まあ良い。日本がアホウで極道な国であればあるほど、これから向かうチェコの素晴らしさが引き立つというものだろう。そう割り切って車中の人となり、空港までの約1時間を爆睡したのであった。
空港第一ターミナルの様子は、1年前と変わらない(当たり前か)。ただ、妙に混んでいる。9月はツアー料金が安くなる時期なので、旅行客が殺到するのかもしれない。まあ、我々もその手合いだから、人のことは言えない。人ごみを掻き分けて搭乗手続きに成功。とっとと奥に入り、免税店を物色し、カフェテリアで遅い朝飯(ざるそば)を食って時間を潰す。
今回の旅行は、いつものように、旅行会社にホテルと航空券だけ取ってもらい、後は完全自由行動というプランである。ホライズンという旅行会社を使ったのだが、昨年のIACEトラベルに比べてメールなどの対応は悪く、料金も少し高めであった。そういう意味では、IACEの方が良かったのだが、あいにくこの会社は、1週間以内の短期旅行は扱っていない。そうすると友人の同行が難しくなるので、まあ、ホライズンの4泊6日コースで妥協したというわけだ。チェコマニアの俺としては、短すぎる日程に感じたが、初めての加賀谷にとっては、まあ妥当なところであろう。
我々が乗る予定のKLM(オランダ航空)機は、10時25分発だ。しかし、案の定の渋滞で、実際に離陸したのは11時半になってから。
加賀谷は3人掛けの席の窓際で、俺はその右隣の席だった。おかげで、眼下の景色がよく見えた。特に、佐渡島の全景には感動した。
俺の右隣(廊下側)の席には、日本人のむさ苦しい青年(人のことは言えないが)が座った。青年は、歯槽膿漏でも病んでいるのか、妙に口臭がきつい。加賀谷に「席を替わってくれ」と何度言おうと思ったことか・・・。でも我慢して、音楽を聴いたり本を読んだり映画を観たり(「ジョンQ」、「アイス・エイジ」)して、なんとかアムステルダムまでの11時間を持ちこたえたのであった。
アムステルダムのスキポール空港は、やはり1年前と少しも変わらない。人は多いしショップやカフェテリアは華やかだ。しばらく土産屋を冷やかし、CDショップでDVDの「ロード・オブ・ザ・リング」のデモ映像(ちょうど、モリア鉱山の決戦の場面だった!)を楽しんだりしてからチェコ航空(CSA)の乗り場に向かった。
チェコ航空を利用するのはこれが初めてなので、やや心が躍る。CSAの機体は、チェコの国旗を模った赤と青の塗装が印象的だった。
やがて時間となり、搭乗手続き開始。受付の係員が、俺と加賀谷のパスポートを見て「Oh.Japanese.(以下日本語で)どうも、こんにちは」と言ったのには驚いた。どうやら、彼らの親日感情は健在らしい。いいぞ、いいぞ。
我々が乗り込んだのは小さなジェット機だったが、プラハまでは1時間弱の旅程なので、これで十分なのである。俺は、今度は窓ぎわの席だったので、のんびりと景色を堪能することが出来た。窓外には、ドイツの平原からボヘミアの森まで豊かなパノラマが広がる。
隣に座る友人は、気を利かせてチェコ情報の英字新聞を入り口でもらい、それを精読していた。それによると、プラハの地下鉄は、ほぼ全線が不通となっているらしい。
「ちょっと待て!そんな話、聞いてないぞ!」と心中で叫ぶ。日本でインターネットや観光会社から得た情報では、プラハの復旧はほぼ終わり、一部のレストランとホテルが開いていないだけだと聞かされていたからだ。でも、動揺を人に見せるのは俺の流儀ではないので、ポーカーフェイスを決め込んだ。
まあ良い。それくらいのトラブルがあった方が、かえって盛り上がると言うものだ、と心を落ち着けつつ、友人から英字新聞を回してもらう。
新聞には、洪水の生々しい写真がたくさん載っていた。あの美しいチェスキー・クルムロフが冠水し、アシカのガストンくんの末期の姿があり・・。
ここで状況の説明をすると、チェコを中心とした中部ヨーロッパは、8月上旬に150年ぶりの大豪雨に遭い、ヴルタヴァ川からエルベ川にかけて大洪水になっていたのである。これから訪れるプラハも、川沿いが大損害を受けて、特に動物園が壊滅的打撃を受けたことは、日本でもニュースでやっていた。アシカのガストンくんは、そのとき動物園から逃げ出して、250キロ下流のドイツ国内で発見保護されたものの、プラハに連れ帰る途中、極度の疲労で息を引き取ったのである。うう、生きていたら会いに行こうと思っていたのになあ・・・。
ともあれ、夕方5時50分にプラハ・ルジェニ空港に到着した。気のせいか、3年前に比べて大きく綺麗で華やかになったように思える。この空港は、以前は、田舎くさくて垢抜けない雰囲気だったのに。また、意外と日本人ビジネスマンの姿が目立つ。最近、チェコの物価水準の低さに惹かれて、こちらに工場を出す日本企業が増えているためだろうか。
空港内の両替窓口で1万円をコルナに替えたところ、約2,300コルナになった。1コルナが、約4円といったところだから、レートは3年前より良くなっている。3年前は、1コルナ約6円で、1万円が1,600コルナにしかならなかったのだ。なんとなく、得をした気分だ。
入国審査は、妙に混んでいた。3年前はガラガラだったのだが、それだけこの国の発展が著しいということだろうか?列を待ちながら周囲を観察すると、姉妹と思われる可愛らしい白人の幼女二人が楽しそうに駆け回っていた。その口から発せられる言葉は、どうやらチェコ語のようだ。靡く金髪と白い肌。やはり、チェコの少女は可愛いなあ・・・。と、忘れかけていたロリ根性がむくむくと顔を出す。いかん、いかん、今回は同行者がいるのだから、あまり変態の本性を出すべきではないとヨダレの流出を抑えていると、加賀谷が能天気な口調でこう言った。「三浦くん好みの小娘がいっぱいじゃんか!」。
俺と加賀谷くんは、実は小学校6年生以来の付き合いであるから、互いのチンポコの形まで知悉している仲なのである(おえー)。おそらく、知らないのは、お互いのケツの穴の形状と大きさくらいのものであろう。今回の旅行で知る羽目になったらどうしよう。胸の鼓動が止まらないのよ(おえー)。冗談はさておき、こいつの前で見栄を張っても無意味であることに気づいたので、これからはロリコンモード全開で突っ走ることに決めた。
入国手続きを終えて、ロビーに出る。市内の交通機関の様子が分からないので、まずはツーリスト・インフォメーションに向かったところ、窓口のオバサンは真剣な顔で電話器に向かい、なかなか我々の相手をしてくれない。ただ、机の上に現状の市内の交通機関図が置かれていたので、それを見て大雑把なことは分かった。やはり地下鉄は不通で、トラム(路面電車)が、路線を変更してその代わりを務めているらしい。すると、ようやく電話を終えたオバサンは、いきなり机の上に「10分休業」と英語で書いた紙を出し、そそくさと裏のドアから出て行った。緊急事態の勃発だろうか?それともトイレに行きたくなっただけなのか?我々は、ここでツーリストチケット(特定日数間、市内の交通機関乗り放題の券)を買いたかったものだから、仕方なくオバサンの復帰を待つことにする。
10分間、ぶらぶらと空港内を散策しに行くと、やはり3年前より店が増えて綺麗になっていることが分かった。それでも、昔からある店やカフェテリアはそのままだったので、物色しながら懐かしさに胸を包まれたのである。土産屋のウオッカコーナーに行くと、「ハヴェルの・・・」と銘打った酒が置いてあった。ハヴェルって、きっと大統領のことだろう。彼は、土産屋のネタになるほどの人気者なのか。でも、外国人観光客に受けるのだろうか?
さらにウロウロしてホテルの案内板を眺めていると、人の良さそうな青年が現れて、「ホテルを紹介しましょうか?」と聞いてきた。「既に予約があるから」と答えると、彼は「ごめんなさい」と素直に笑顔を浮かべながら、恥ずかしそうに去って行った。人心があまりすれていないのが、旧東欧圏の魅力なのである。
さて、10分経ったのでツーリスト・インフォメーションに戻ってみると、オバサンはまだ帰ってこないし、いく組もの観光客が並んでいた。時計を気にしながらしばし待つと、それから5分ほどしてようやくオバサンは復帰し、てきぱきと観光客の用事を捌いていった。我々は、相談の上、「7日間フリー券」を買うことにした。というのは、7日間券の下は3日間券になってしまうのだが、我々は足掛け5日滞在する予定なので、3日間券だと足りなくなってしまうからだ。もちろん、7日間券だと2日分無駄になるのだけれど、7日間券と3日間券の値段は、日本円にして200円くらいしか違わないので、それほど損したことにはならないのだ。
首尾よく券をゲットし、二人組はバス停に向かった。驚いたことに、3年前は殺風景だった空港前ターミナルは、いくつもの立体駐車場に囲まれている。やはり大発展しているのだな、この国は。
懐かしい119番のバス停は、なぜか発着所が変わっていたのだが、これは洪水の影響であろうか?ちょうどナイスタイミングでバスは到着し、俺と友人は市街への道をたどる。加賀谷に窓外のバス通りの地勢などを解説しているうちに、20分ほどでバスはプラハ市街の北側に位置する終点ディビッツェに到着した。
本当は、この近くにあるディプロマットホテルに宿泊する予定だったのだが、洪水の影響で変更となってしまったため、我々はさらに南下して小地区南側のモーベンピックホテルに向かわなければならない。
それにしても、ディビッツェの様子は3年前と少しも変わらないのに安心した。俺は、3年前、この近くのホリデイ・インに宿泊したのだ。この辺りは川に近いから、洪水の被害を受けたはずだと思うのだが(だからこそディプロマットに泊まれないのだ)、あまりそういう風には見えない。復旧が早かったのだろうか?
疑問を感じながら地下鉄駅に向かって歩くと、駅表示の上に赤い×印が書いてあり、やはり不通になっていることが分かった。でも、大きな黄色い案内があちこちに貼ってあり、それによれば臨時トラム路線X-Aが地下鉄の代わりになっていることが分かる。そこで矢印に従ってX-Aの乗り場に出ると、ほどなくトラム(路面電車)が現れた。地下鉄の代わりだというのに意外と車内は混んでいないから、おそらく大幅に増発しているのだろう。
俺は3年前、市街中心部へ出るためにいつも地下鉄を使っていたのだが、この交通機関は窓外の景色が見えないのが欠点だ。今回のトラムは、景色が良く見えるから、かえって新鮮で良かった。このトラムが城の北側を通り、城下へのつづれ折りをウネウネと下ると、ようやく美しい赤屋根に彩られた小地区と旧市街が見えてくる。
トラムX-Aは、既存路線のいくつかを臨時に統合したもののようだ。というのは、各停車駅の表示板のいくつかが、黄色いX-Aシールで隠されているのが見えたから。
もともと、ディビッツェと市街中心を結ぶトラムは存在しないはずだ。普段であれば、ディビッツェから地下鉄A線を使うからだ。つまりプラハ市は、最小限の工夫で、もっとも効果的に災害に対応したというわけだ。さすがにチェコの行政は臨機応変で優秀だ。俺が惚れ込んだ国だけのことはある。日本では、こううまくは行かないだろう。
さて、小地区で城下に達したトラムは、ヴァルドシュテイン宮殿の前で右折し、狭い街路を抜けて小地区広場で聖ミクラーシュ教会の前を通り、そのまま川沿いに南下した。いやあ、昔と少しも変わらない。懐かしいぜ。今のところ洪水の影響は見られないが、もう復旧が終わったのだろうか?信じられない話だが、チェコなら有り得ることだ。
やがて、トラムは左折し、軍団橋を川の東岸に向かった。ここで初めてヴルタヴァ川の全貌が見えたのだが、なるほど、3年前に比べて水位は高いし水も濁っている。でも、可愛い水鳥はたくさんいるし、もう大丈夫そうな雰囲気だった。
トラムは、国民劇場の横を通って、スーパーマーケット・テスコの手前で右折した。このまま終点のナメステ・ミールまで乗るとホテルから遠ざかってしまうので、そろそろ降りる時を見計らわねばならぬ。そこで、カレル広場駅で加賀谷に合図してトラムを降りる。この位置から歩いて西進し、川の西岸に渡ればホテルがあるはずだ。
ふと後ろを振り返ると、うっそうとした樹木に囲まれたカレル広場がそこにある。ここは、実は、今回の取材場所の一つであった。
遅まきながら説明すると、今回の旅行目的は、「チェコの歴史の取材」である。
3年前の旅行目的は、「スメタナの連作交響詩『我が祖国』の故地めぐり」であった。その旅の過程でこの国に心から惚れ込んだ俺は、帰国してからこの国に関する歴史書や文学書、果てはアニメや民謡に至るまで勉強し、そして『ボヘミア物語』なる長編歴史小説まで書き上げてしまった。そして、次回作もチェコを舞台にする構想が芽生えつつあったのだが、その前提として、前回の旅行で見られなかった名所旧跡や博物館を回り、またデジカメ画像を取りためる必要がある。そのために、3年ぶりの懐かしい大地に降り立ったというわけなのだ。
加賀谷くんが同行することになったのは偶然である。実は、以前から彼には海外旅行を企画するたびに声を掛けていたのだが、たまたま日程が合わなかったのである。今回は、企画レベルから加賀谷が乗り気だったので、彼の都合に合わせて旅程を組んだというわけだ。彼を誘った理由は、なんと言っても幼馴染だから気心が知れているし、それに彼はあまり自己主張しないタイプなので、旅先で喧嘩になる可能性が低いと思われたからである。往路の飛行機で気づいたのだが、彼は意外と(失礼!)英語が分かるし、旅慣れているし、状況判断も的確だ。海外旅行の経験もそれなりにあるし(アメリカとシンガポールに行ったことがある)、実に得がたいパートナーかもしれない。でも、おケツの貞操までは捧げるつもりはないけどな(笑)。
さて、俺は加賀谷に声を掛けて後ろに転進すると、カレル広場に突入した。ここは、中世の昔は家畜を商うところだったらしいが、意外と小さな広場だ。あまり人出も多くない。目指すは、広場北端に屹立する「新市街庁舎」と、その前に立つ「ヤン・ジェリフスキーの銅像」である。
1419年、この市庁舎の2階から、市会議員13名が、乱入してきた市民たちに窓外に突き落とされて殺された。いわゆる「窓外放擲事件」だ。その指揮をとったのが修道士ヤン・ジェリフスキー、こうして始まった戦争が「フス派戦争」だ。拙著『ボヘミア物語』で重要な役割を果たしたこの場所を、まさか初日に訪れることが出来るとは思わなかった。俺は市庁舎をデジカメに収めると、今度はジェリフスキー像に向き直った。しかし、高い円柱の先に立つ像は、薄暗くなってきた周囲の中では黒いシルエットにしか見えない。そこで、銅像の撮影は諦めることとする。
加賀谷は、俺から歴史の解説を聞くと、俺の真似をしてデジカメを使い始めた。ここは、あまり大した観光名所ではないのだが・・・。まあ、最初から大きな感動を与えすぎない方が、後のインパクトが強くなるというものだ。
一通りの撮影を終えると、我々は広場を出て一路、ホテルに向かうこととする。プラハというのは本当にすごい街で、あらゆる街路に中世風の建物や古びた壮麗な教会がある。加賀谷は、歩きながら周囲の様子に度肝を抜かれていた。この程度で驚いていたら、今にショック死しちまうぞ。
途中で水かジュースを調達したかったのだが、もう夜7時だったので、沿道の雑貨屋は全て閉店となっていた。加賀谷は実は「痛風病み」なので、定期的に水分を補給しないとヤバイのだ。「ホテルで何か飲もう」と言い合って、やがてヴルタヴァ川の東岸に出たところ、そこに屹立していたのは、プラハの新名所「踊るビル」だった。白壁の円筒状の建物と、ガラス張りの円筒状の建物が、互いに寄り添った状態でドロドロに溶けて流れ出したようなビルである。こんな変てこな建物は、全世界でここにしか無いだろう。
プラハには、ヨーロッパ史上のありとあらゆる建築様式が揃い踏みとなっている。「建築博物館」とあだ名される所以である。この「踊るビル」も、いずれはその仲間入りするのだろうか?デジカメを操りながら、俺は建築の歴史についていろいろと思い描いた。
さて、夕闇の中、イラーセク橋を西岸に渡りきり、小地区南端の繁華街アンジェルにたどり着く。そこは、電化製品の店やマクドナルド、ケンタッキーが並ぶ若者向けの街だ。しかも、トラム停留所の前には巨大なスーパーマーケット(ノヴェ・スミーホフ)がそそり立ち、どうやら夜12時まで開店していることが分かった。これは素晴らしい。チェコは、どうやら日本に負けない便利な国になりつつあるようだ。
でも、ここはホテルに急ぐことにして、二人はアンジェルから大通りを西進する。二人とも、カレル広場からずっと歩きづめで、さすがに疲れていたので、最後の上り坂はきつかったのだが、なんとか赤い大きなモーベンピックホテルにたどり着いた。ここは、べルトラムカ荘(モーツアルトが滞在していた屋敷)の目の前だから、ここを訪れる人にとっては至便だろう。我々も、余裕があれば訪れたいところだが。
無事にチェックインを終え、我々は3階の快適な部屋に荷物を置いて人心地となる。俺は取りあえずビールが飲みたかったので、加賀谷を誘って階下のレストランに下りた。やはり、チェコといえばビールだろう。3年ぶりのお楽しみに心が躍る。
ホテルの1階の立派なレストランは、午後8時にしては混んでいる。2人掛けの禁煙席に座ると、さっそく美貌のウエイトレスが駆け寄って、システムの説明を始めた。彼女は、メニューを我々に渡すと、「メニューから注文するか、あるいは向こうから持ってくるか、好きなようにしてください」と英語で言って、レストランの奥を指差した。その指の先には、バイキング形式のビュッフェがあり、お客さんたちが自由に料理を自分の皿に取り分けている様子が見えた。つまり、バイキング形式と注文料理の折衷になっているのだろう。
しかし、それだと料金体系はどうなっているのだろうか?俺は、こういう状況に直面した経験がないので、しばし頭を悩ませた。ウエイトレスの営業スマイルが、どうも気になり、頭の中で黄色い信号が点滅する。俺のこういう直感は、まず外れたことは無い。ここは、慎重に行動するべきだろう。そこで、加賀谷を席に残してビュッフェの様子を見に行った。
ビュッフェには、さまざまな皿が並んでいたが、その中身はサラミやハムやサラダといった、簡単なお惣菜である。皿の前には値段表がついていないし、飲み物も置いていない。ううむ、困った。メニューから注文するほどには空腹ではないけど(プラハ行き飛行機内で軽食が出た)、料金の分からないバイキングには危険を感じる。今から思えば、ウエイトレスに料金体系を聞けば良かったのだが、そのときはそれに思い当たらなかったのだ。二人とも、かなり疲れていたからなあ。
席に戻った俺は、とりあえず今度は加賀谷にビュッフェに斥候に向かってもらう。考えてみると「痛風病み」の彼は、サラダの摂取が必要なので、バイキングを食べる羽目になることは違いないのだ。俺は、ビールさえ飲めればそれで良かったのだが。
結局、加賀谷は大きな皿にお惣菜を盛って来た。それから二人でビール(スタロプラウメン)を頼んで乾杯した。チェコ語で「ナズラヴィー(乾杯)」と声を合わせる。ううむ、やはり美味いなあ。コクがあるのに喉越しさわやかで、腹も重くならない。結局、2杯飲んでしまった。ただ、加賀谷は酒が強くないしあまり好きでもないので、俺ほどの感激は無かったようだ。疲れていたためか、お互い、あまり食も進まない。それにしても、ウエイトレスにチェコ語で話しかけると、妙な作り笑いを返されるのは、いったいどうしたわけだろう。どうもチェコ人の心底は読みきれないものがある。奴らは賢いから、要注意である。
さて、ビールも空いたし皿も綺麗に片付いたので、お勘定を頼むと、なんとびっくり、惣菜一皿が600コルナもした。日本円で2,400円だぜ。なるほど、してやられた。何杯お代わりされても儲けが出るように、一皿あたりの料金を超高めに設定していたのだ。だったら、腹をすかせてから来て、10回くらいお代わりすれば良かった。
チェコは物価が安いと思って油断していたが、奴らの賢さは3年前よりも拡大強化されている。このままでは、帰国するまでに合法的に身包み剥がれてしまうかもしれぬ。明日からは気をつけよう、と心に決めてレストランを出た。
その後、二人は、酔いに任せて夜風に当たりながらアンジェルのスーパーマーケットに行った。その巨大さに度肝を抜かれつつ中を見て回ると、意外なことに魚介売り場の水槽の中にエビやカニがひしめき、さらには鮭などの海の魚の切り身も売っているではないか。チェコには海が無いので、これらはすべて輸入されて来たに違いない。チェコ人の食生活は、日増しに豊かになっているのではないか?どうも、3年前より、すべての面でパワーアップしている感じだ。
二人は、大き目のペットボトルのミネラルウオーター(ドブロー・ヴォーダ)を買い込んだ。それにしても、夜10時近いのに、周囲は賑やかで、しかも治安が良さそうなのが良い。
その後、ホテルの部屋に帰り風呂に入った後、二人とも泥のように眠った。
明日は、プラハの観光名所を一日で制覇する予定であった。友人が、感動のあまりショック死するのではないかと心配だ・・・。