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7月10日土曜日 ウランバートルに到着


(1)成田からウランバートルまで

(2)ウランバートルの夜景

(3)フラワーホテル

 


(1)成田からウランバートルまで

今回は、渋谷から成田エクスプレスに乗った。

空港へは7時に着かなければならないのだが、多少の遅刻は構わないと考えて6時13分発7時29分着の列車に乗った。特筆することもなく空港に着くと、宮ちゃんこと宮下さんが待っていた。彼女は、職場の後輩に自動車で送ってもらったので、7時に着いてお茶していたらしい。なかなか良い後輩を持ってラッキーな奴だな。ここに、第一次合流は成功である。

成田空港は、最近特に出国手続きが厳しいと聞いていたのだが(テロのせい)、何事もなくスムーズにソウル行きのビジネスクラスに搭乗できた。ビジネスクラスを使うのは生まれて初めてだ。座席はゆったりして豪華だし、座席ごとにテレビが見られるようになっている。

朝飯は石焼ビビンバと聞いていたのだが、レンジで温めたご飯に具を載せるやつだったので、がっかりした。これじゃ、石焼とは言えまい。詐欺だよ、韓国人!

成田からソウルまで2時間程度なので、宮ちゃん(=恐怖のウワバミ女なのだ!)と朝から酔っ払ってバカ話しているうちに、ほとんどテレビすら見られないまま到着。

上空から、起伏に富んだ美しい仁川の海岸線を眺め、「ここが、白村江で日本軍が全滅した戦場か。日露戦争で最初の戦闘が行われた場所か。そして、朝鮮戦争の転機となった一大上陸作戦の舞台か」と思うと、歴史マニアとしては感慨深かった。

仁川国際空港の構内に入ると、名古屋から先着した望月さんが待っていた。第二次合流は成功である。

3人でビジネスクラス専用ラウンジに行ったところ、トラブル発生。我々の航空券は、厳密にはビジネスクラスではなく、「エコノミークラスに毛の生えた料金でビジネスクラスを使える」というものだったので、本来はこのラウンジを使えなかったのだ。しかし、成田の係員が、間違えてラウンジ利用券を俺と宮ちゃんに発券したのが付け目となり、望月さんがゴリ押ししてラウンジの利用を認めさせたのである。

専用ラウンジは、飲み放題食い放題だったのだが、あまり大したものは置いていなかった。食い物は、サンドイッチとバナナとコーンフレークかい!韓国オリジナルのジュースは、くそ不味いし。酒は、韓国の缶ビールとかワインとか多少は充実していたけれどな。我々はここで、夜7時半発のウランバートル行きを待たなければならないのだが、あと8時間以上あるぞ。3人は、交代で空港構内を散策し飲み食いをして必死に時間を潰した。それにしても、このメンツが昼間から酒を飲みまくるのは毎度のことなのだが、肝臓に悪いよなー。

俺は、サングラスを買ったり、ハリウンに頼まれた化粧品(といっても薬用石鹸だが)を買ったりしながら構内全域を踏破したのだが、ここは実に立派なハブ空港だ。成田と違って機能性に優れているし、店も多いので実に華やいでいる。しかし、例えばアムステルダムのスキポール空港に比べると、なんだか殺風景である。その理由は、同じ様な店舗がたくさんありすぎて、エリアごとの個性がないのだ。つまり、どこを歩いても同じ様な景色で面白くない。どこに行っても、ヨン様(ぺ・ヨンジュン)のポスターが溢れているし(笑)。これは、この空港の今後の課題かもしれない。

さて、さすがにラウンジにも飽きてきたし、小腹が空いたので、夕方5時になると3人はショッピングモールのバーガーキングに河岸を変えた。バーガーキングは、今や日本には存在しないファーストフード店なので、俺はハンバーガー(美味!)とピーチアイスティーに舌鼓を打ちながら、なかなか感無量であった。

やがて時間になったので、ウランバートル行きの大韓航空機に乗り込んだ。これも「にせビジネスクラス」なので、なかなか快適だ。そして飛行機は、沈む夕日を追いかけて飛ぶ形になったので、我々はモンゴルまでの3時間、ひたすら窓外に夕日を見続けることが出来たのである。でも、機内食の夕飯は、月並みすぎてイマイチだった。

 

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俺は、窓外に眼をやりながらクラシックのオーディオを聴きまくったのだが、ちょうどスメタナの「交響詩シャールカ」の最後の山場の途中でボヤント・オハー空港に到着した。チェコマニアを自認する俺としては、せっかくのチェコの名曲が尻切れトンボに終わったのが、ちょっと残念。ともあれ、到着の時刻は夜10時30分。

 

(2)ウランバートルの夜景

ボヤント・オハーは、案の定だった。敷地だけは無闇に広いけど、施設は実にお粗末だ。日本の地方空港でも、こんなに小さいのは見たこともない。空港ビルも、一昔前の地方のお役所みたいな雰囲気である。

さて、この空港で、わかなちゃんとハリウンが出迎えてくれるはずなので(二人とも、早い飛行機で先着しているはず)、急がねばならぬ。望月さんと宮ちゃんは、トランクを空港に預けていたので荷物受取所に向かったが、俺はボストンバックを機内持込みしながら来たので、そのまま一足先に空港出口に向かった。

ところが、出口で太ったオバサンにつかまった。手荷物検査を受けろというのだ。検査機は、部屋の隅に1台しか置いてないので、検査そのものはランダムに行われるようだ。俺は、運悪く「要注意人物」と思われたらしいが、何でだ?こんな純情な美青年をつかまえて、ふざけんな。

仕方なしにカバンを検査機に入れたところ、係員のオジサンが目の色を変えて、英語で「長い鉄棒が入っているぞ、これは何だ!」と言って来た。俺は、そんなものを持ち込んだ記憶は無いので、係員と一緒にモニターを覗き込んだ。確かに、長い棒が映っているな。驚いてカバンを開けたところ、何のことはない。使い捨てカメラ2個が、たまたま横に並んで棒状になっていたのだ。俺はこうして、無事に無罪放免となった。まったく、脅かしやがって。

空港の待合室は、お迎えの人でいっぱいだった。俺は仲間の姿を探し、直ちに、わかなちゃんと合流に成功。しかし、ハリウンの姿がないな。不審に思っていると、小柄で精悍な壮年が近づいてきて、英語で「はじめまして、こんにちは」と言って握手を求めて来た。握手に応じつつ、わかなちゃんを振り返ると、「ハリウンのお父さんです」とのこと。意外な邂逅に驚いた。俺はてっきり、ハリウンの家族に会うのは翌日からだと思っていたのだ。しかし、ここは英語で何とかしなければなるまい。2年前に用いたきりのダメダメ英語を全開し、とりあえずの世間話を組み立てた。

ハリウンのお父さん(バトボルド氏)は、51歳になったばかりというが、とてもそんな風に見えない。どうみても40台前半だ。しかも、どことなく小林旭に似ている。早く言えば、「かっこいい」のである。後に、日本の女性陣はみな、「あたしも、あんなお父さんが欲しかったー」と叫んだが、その気持ちは実に良く分かるぞ。

ところで、ハリウン本人は、体調が悪いので早く帰宅して休んでいるのだという。なんでも、整体の先生にかかっているとか。いきなり、予期せぬ不安材料だな。

しばらく待つうちに、望月さんと宮ちゃんが出てきた。トランクの受取りに手間取ったが、出口での手荷物検査には引っかからなかったようだ。おかしいな、俺よりも彼らのほうが人相悪いと思うけどな(笑)。モンゴル人は、人を見る目がないのかいな?いずれにせよ、わかなちゃんとの第三次合流は、ここに成功したわけだ。

空港ビルを出た我々は、バトボルドさんに先導されて、空港脇に停めてあった大型四輪駆動車(韓国のKIA社製)に乗り込んだ。バトボルドさんは、ありがたいことに、我々をホテルまで送ってくれるというのだ。持つべきものは、友人のお父上だ。

空港からウランバートル市街までは、10キロ程度。沿道は、ろくに照明がないので真っ暗だった。バトボルドさんは、運転しながら英語で熱心に説明をしてくれた。いわく、ウランバートルにはモンゴル人口の過半数に上る120万人が住んでおり、その規模はますます拡大中である。郊外に2棟4基の火力発電所があり、それが市内の電力を支えている。市街のインフラの多くは、中国やロシアの資本によって形成されている。

俺が、「ザイサンの丘はどこですか?」と聞いたら、「すぐ右手にあるから、ちょっと行ってみようか」ということになった。

漆黒の闇に覆われた道を四駆は疾走し、やがて大きな丘のふもとに着いた。ザイサンの丘(ザイサン・トルゴイ)は、ウランバートル南郊に聳える美麗な丘で、市内全域を観望できる絶好の景勝地なのだ。我々は、丘の中腹にある駐車場で車を降りると、澄み切った空気の中でウランバートルの夜景を楽しんだ。

空港に降りるときにも空から眺めて気づいたのだが、ウランバートルは想像していたよりも遥かに大きくて華やかな都市だ。一面に広がる美しい街の光は、この旅行の成功を暗示するかのようだった。

それにしても空気が美味い。蜜のような甘い味がする。ウランバートル郊外でこうなら、草原地帯に出たらどうなってしまうことか。期待で胸が高鳴る。

バトボルドさんは、丘の頂上を指差して「あそこには、60年前にモンゴルのために戦ってくれたソ連軍兵士のレリーフがあるんですよ」と教えてくれた。俺が、「あの当時は、日本の軍隊が貴国を攻撃して迷惑をかけました。本当に申し訳ないと思います」と言ったら、バトボルドさんは「今のモンゴル人は、そんなこと少しも気にしていません。だいたい、私だって生まれてなかったし」と応えてカラカラと笑った。モンゴル民族は、あまり歴史にこだわる人々ではないのである。

その後、駐車場の奥にある閉店まぎわのお土産屋を冷やかした。このときは誰も何も買わなかったのだが、お店の人たちは好奇心に満ちた目で我々を見ていた。どうしてだろうと思って、後でバトボルドさんに聞いたところ、我々が「日本人にしては身長が大きい」ので驚いていたらしい。

どういうことかというと、モンゴルを訪れる日本人は、中年以降の老人が圧倒的多数だから、お店の人たちは若い日本人を見たことがなかったのである。これって、なんだか寂しい話ではある。日本の若者は、南の島ばかりでなく、こういう国をもっと訪れたほうが良いと思うぞ。

ところで、モンゴル人って、どんな奴らかって?外見は、日本人とまったく同じだ。横綱の朝青龍を見れば分かるでしょう?ハリウンをゼミ外の知人に紹介すると、絶対に外国人だと信じてくれない。それくらい、日本人とそっくりなのである。きっと、祖先が同じなのだろうな。ただし、モンゴル語はかなり難しいので、俺には習得する自信がない。

 

(3)フラワーホテル

我々は、再び車上の人となった。セルベ川を北に渡り、いよいよウランバートル市街に入って行く。中国資本によって建てられた大きな平和橋(ピースブリッジ)で鉄道線路を北に越えると繁華街だ。

バトボルドさんは、市の中心にあるスフバートル広場で車を停めた。広大な広場の中央には、騎乗の立派なスフバートル像がある。

スフバートルは、1921年の革命の英雄である。このとき、中国の圧制から祖国を解放せんと願うスフバートルらは、革命ロシア(ソ連)の力を借りてモンゴルの中国からの分離独立に成功したのだ。もしも彼らの活躍がなければ、今ごろこの国は中国の「外蒙古自治区」と呼ばれていたかもしれない。そして、この革命記念日こそ7月11日。まさに明日である。ナーダムの日である。

この広場の東端には、ベージュ色の美麗な建物がある。日本人捕虜が築いたオペラ座だ。ウランバートルには、日本の戦時捕虜が築いた公共施設が何箇所もあるのだが、いずれも最高の出来として、今でも市民から賞賛されているらしい。そういう話を聞くと、とても複雑な気持ちになる。

ひとしきり広場の雰囲気を楽しんだ我々は、再び車上の人となった。今度は、市の東端に位置するフラワーホテルに向かうのだ。ここは、日本とモンゴルが合弁で建てたホテルだ。

バトボルドさんと明朝10時にホテル前で落ち合う約束をしてから、我々一向はチェックインした。

実を言うと、わかなちゃんは今日の午後にはモンゴル入りし、ハリウンの助けを借りて先にチェックインを済ませていたのである。そんな彼女から事前に聞いていたとはいえ、予想以上にボロいホテルであった。従業員の多くが日本語オーケーだったとはいえ、これじゃあ日系資本の名が泣くぞ。

特に部屋はひどい。狭い上に冷房や空調もない。木製の窓枠は、ボロボロに壊れかけている。俺は望月さんと同室だったが(当たり前だ)、二人が部屋に入るとかなり窮屈な感じだった。そういうわけで、望月さんと女性陣は大いに落胆したようだが、俺は意外とそうでもなかった。ここは、気の持ちようである。というか、「割り切り」である。なまじモンゴルで高級感を感じてしまったら、自然を満喫しに来たという趣旨に齟齬が生じてしまうではないか。そういうわけで、こういう国の(偏見かな?)ホテルは、むしろボロいほうが良いと思う。

幸い、虫も出ないし風も良く通るので、窓を全開にしただけで十分に涼を取れた。ウランバートルの夜はむしろ寒いのかと思ったら、日本の秋口の感覚で、ちょうど過ごし易いくらいだ。東京は灼熱地獄だったから、ここには避暑に来たようなものだな。

このホテルの唯一最大の「売り」は、大浴場があることである。モンゴルにはそんな習慣は無いので、さすがは日系ホテルと言うしかない。しかし、数度にわたって停電に見舞われ、部屋の電気がついたり消えたりで怖い。ううむ、さすがはモンゴルだぜ。そこで、今夜の入浴は止めておいた。

後で聞いたところ、わかなちゃんは、大浴場の中で停電にあって酷い目にあったらしい。女性は、入浴を欠かせない生き物だから可哀想だな。・・・本当は、男だって毎日風呂に入るべきなんだろうけど(笑)。

そうこうするうちに時計を見たら、もう夜1時過ぎだ。テレビで参院選の様子を見ながら(日本語放送をやっていた)、軽い打ち合わせを望月さんと交わした後で、俺は眠りに落ちた。

明日はナーダムの観戦だ。