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9月5日(金曜) ワルシャワに帰還


再びワルシャワへ

ワジェンキ公園

繁華街散歩

ワルシャワ蜂起博物館

最後の晩餐

 


 

再びワルシャワへ 

またもや、携帯アラームが鳴り出す少し前に、6時半に起床した。アラームをセットする意味ないね(笑)。

しかし、頭がクラクラする。ズブロッカを一気にロックで空けたせいで、軽い二日酔いになっているようだ。そのせいで食欲も乏しかったけど、朝のバイキングで昨日と同じような食事をした。

今日は、8時50分発の電車でワルシャワに戻らなければならない。

部屋で荷物を纏めてフロントにチェックアウトに行ったら、例の眼鏡っ子に「部屋に忘れ物はないか」とか「部屋のミニバーを使わなかったか」とか、いろいろ聞かれた。また彼女は、俺と話しつつどこかに内線電話をかけた。俺の顔が、赤くて酒臭くてフラフラしていたからだろうな、きっと(苦笑)。

俺が「忘れ物はしてないし、ミニバーも使っていないよ」と答えたそばから、清掃のオバサンが、見覚えのある衣類を抱えて笑顔で走ってきた。このオバサンは、眼鏡っ子の指示を受けて俺の部屋をチェックしたところ、赤ら顔の東洋人がハンガーに2着の上着を架け忘れて来ていたのを発見したというわけだった。うわー、恥ずかしい。でも、俺がこんなドジを踏むのは非常に珍しい。ズブロッカ恐るべしだ。っていうか、眼鏡っ子の慧眼、もっと恐るべし。もう一泊できるなら、もうちょっと仲良くなれたかもしれないなあ、とプチ妄想しちゃう。眼鏡っ子には、萌えるのが基本であるからな(笑)。

それから眼鏡っ子は、俺に電話代を請求して来た。なるほど、俺は2日前に「クラコフ・ツアー」に部屋から電話を入れている。ズロチーでキャッシュ払いしようとしたら、「当ホテルは、ユーロかカードしかお取り扱いしていません」と言われた。ひえー、高級ホテルは気取っているよね。しょうがないのでカードを使ったら、日本円で109円もした。1分間も話していないはずなのになあ。さすが、昨今のユーロの高さは驚異的である。

精算も全て済んだので、タクシーをお願いしたら、ちょうどホテルの前に客を連れてきたばかりのタクシーが停まっていたので、「これを使ってください」と言われた。そこで、眼鏡っ子たちに手を振りつつホテルを後にした。

「クラウン・ピアスト」、なかなか良いホテルであった。市街に近ければ、もっと良かったんだけどね。

実は、駅までタクシーを使うべきかトラムを使うべきか、大いに迷ったのだった。

昨晩寝る前に、所持している「クラコフ・ツーリスト・カード」を調べてみたところ、有効期限が日数単位で設定されていることに気づいた。つまり「2日券」の有効期限は、買ってから48時間なのではなく、買った日とその翌日だけなのである。ということは、今日は有効期限切れなので、トラムの切符を別に買わなければならない。そして、ホテルではトラムの切符は取り扱っていないのだった(高級ぶっちゃって!)。

「ただ乗りしようかな。どうせ検札も平日の早朝は無いだろう」と思いつつ、万が一のこともあるので、やっぱりタクシーにしたのだった。眼鏡っ子たちに「貧乏人と思われたくない」という見栄も、少しはあったのだが。

結局のところ、「クラコフ・ツーリスト・カード」に50ズロチーを払ったのは、完全な失敗だった。博物館で提示するのを完全に忘れていたために、入館料の割引も効かなかったし(というより、入れる博物館や美術館自体が少なかった)。これなら、普通に公共交通機関の2日間(48時間有効)を20ズロチーくらいで買ったほうが賢かったわい。だけど、「カード」はなかなか立派な仕様の綺麗な造りなので、これ自体が「お土産」としての価値を持つかもしれぬ。と、今は前向きに考えよう。

無線タクシーの運ちゃんは、陽気で声の大きい気さくなオジサンだった。駅前で一瞬だけ通勤ラッシュに嵌ったけど、旧市街の東方から駅の屋上に上がって、そこで俺を降ろしてくれた。料金は、22ズロチーだったので良心的だ。高級ホテルに呼ばれるような無線タクシーは、全国共通料金なので安心なのだ。

クラコフ駅は、屋上がそのまま広大な駐車場になっている。これは、隣接するショッピングモールの駐車場にもなっていて、すこぶる便利である。そして、ポーランドの鉄道駅には改札口という概念が存在しないので、切符さえあればこの駐車場からエスカレーターで直接、駅のホームまで降りられるのであった。日本では、考えられない便利さである。

でも、時計を見ると8時前だったので、電車が来るまで1時間もある。余裕を見て早く来過ぎてしまったようだ。しょうがないので、ホームを出て駅前広場に行く。さすがにショッピングモールは閉まっていたので、重い荷物を抱えつつ旧市街に出て、フロリアンスカ通りを歩いて中央市場広場を見に行った。ああ、クラコフの街もこれで見納めか。たぶん、二度と来ないだろうな。どうせなら、プラハにまた行くほうがマシだもんな(哀)。

flolianska

やがて時間になったので、駅に戻ってEx特急の二等車に乗り込んだ。席は、往路と同じく、進行方向を向いた窓際の席だった。同席したのは、ビジネスマンと思われる男女4人組。こいつら、道中でずっと仕事がらみの話を大声でするのでうるさかった。俺は、往路と同様に読書とMD観賞に勤しんだのだが。

電車は途中で、大勢の作業員が崩落した線路の土盛りを修復している現場を徐行した。もしかすると、往路でEC特急が30分も緊急停車したのは、このせいだったかもしれない。おそらく、予期せぬ集中豪雨で線路がダメージを受けて、土盛りがあちこちで崩落しているのだろう。

Ex特急は、ちょうど12時にワルシャワ中央駅に着いた。

売店で公共交通機関の1日券を買った後、しばらく駅構内を散策して食堂を探したのだが、ピザ屋かケバブ屋しかない。どちらもポーランド料理ではないので、あえてここで食べる必要を認めない。そこで、とりあえずホテルに入ることにした。

二度目のワルシャワでは、2日前までと同じ「ノボテル・ツェントルム」に予約が入っているので、ここにチェックインした。今度は18階のシングルルームだったが、大きな液晶テレビにアラームなどの様々な機能が付いているので、前回のツインルームより快適だった。ただ、貴重品用のミニ金庫が故障していたのが玉に瑕。まあ、貴重品を持ち歩けば済む話だが。

しばらくテレビを見てから、手荷物を持ってワジェンキ公園に向かった。2日前の早朝に時間切れ撤退となった雪辱を晴らさねばならぬ!

するとホテルの入口で、2日前に会話をした「息子が日本にいるオジサン」に出くわして驚いた。向こうも俺に気づいたので、笑顔で挨拶を交わす。このオジサン、客じゃなくてホテルのスタッフだったのか。いつも私服を着ているから分からなかった。物腰が柔らかくて優しい印象の人だから、きっと優秀なホテルマンなのだろうな。もしかすると、すごく地位の高い人なのかもね。

 

ワジェンキ公園

空は微妙に曇っていて肌寒い。どうも、天気には恵まれないなあ。途中で沿道のレストランを物色したけど、「公園内にもレストランくらいあるだろう」と軽く考えて、結局、何も食べずにワジェンキ公園に入った。

有名なショパン像の前に行くと、周囲に白人老人の団体観光客がひしめいていた。だけど彼らは、銅像を見た後すぐにバスに帰って行ったので、やはりこの像がワジェンキ公園で最大の売りなのだな。このときに撮ったデジカメ写真は、日本のガイドブックに載っているものより、遥かにナイスアングルで良い出来だと自負している。

chopin

ショパン像の裏手には、昔の王様の離宮ヴェルヴェテーレがある。そこを目指して、緑多き広大な公園を歩いていると、雨が降って来た。ひええー、またかよ!

傘をさしつつ、ヴェルヴェテーレを見学した。この宮殿は、ワジェンキ公園内に南北に横たわる細長い大きな池の上に、東西に渡した橋の上に建てられている。琥珀色をした宮殿の形自体は、ウイーンやプラハで見たのとあまり変わらないので、その周囲で憩っている老人たちや親子の姿のほうが見ていて楽しかった。この付近にある屋外演劇場跡も興味深かった。

それにしても、雨である。しかも予想外のことに、この公園内にはレストランが無い。いちおう、カフェを2件見つけたけど、入口でメニューを見てもジュースやコーヒーしか置いてなさそうである。うえーん、腹が減ったよーん。「ここは、市街に戻るしかあるまい」と考えて、公園の東側を北上した。

公園内の散歩道のあちこちに木製のベンチが置いてあるのだが、老人たちは平気な顔で傘もささずに座っている。雨は大丈夫なのだろうかと気になって、ベンチの一つに座ってみたところ、ちょうどベンチの上の大きな木の葉が傘のようになって、雨水を防いでいることが分かった。公園の管理者が、ここまで計算してベンチを配置しているとすれば、実に大したものである。晴れていたら、もっとこの公園を楽しめたのになあ。

wazyenki

途中の茂みでオレンジ色のリスに会ったりしつつ、大通りに戻ってから116番バスに乗って「新世界通り」の入口まで行った。この近くで見かけたピエロギ屋で、腹ごしらえをするとしようと考えたのだ。

後で知ったのだが、この店は、3日前に夕食を取った「ザピーチェク」のチェーン店なのだった。道理で、お店のお姉さんたちが、赤いミニスカートの民族衣装を着ているわけだ。長くてすらっとした生足の群れは、昼間から精神衛生上良くないなあ(笑)。もっとも、幾らかはそれに釣られて入ったようなものだけど。

木製の簡素なテーブルに案内されたので、お姉さんにポーランドビールとバルシチ・スープと挽肉入り餃子を注文した。しかし、最初に頼んだビールが品切れだったので、別の種類のポーランドビールにして貰った。するとお姉さんは、「何が何でもポーランドものを注文しよう」とする俺の姿勢に好感を抱いたらしく、急に愛想が良くなった。そうか、今さら気づいたけど、ポーランド人はそういう奴らだったのか!以前のお店の店員たちは、俺がチェコビールとか注文するから不機嫌になったのね。でも、チェコビールの方が美味いんだから、しょうがないよなあ。

実際問題、各店のドリンクメニューを見ると、上から順にチェコビールとオランダビールが並んでいる。肝心のポーランドビールは、下の段に恥ずかしそうに書いてある。これでは、国産ビールの存在に気づかない観光客も出て来るだろうし、そういうことで損をしているんじゃないか?ポーランド人は、もっと自分に自信を持ったほうが良いと思うけどな(笑)。

でも、出て来たポーランドビールはあんまり美味くなかった(泣)。やっぱり。

バルシチはビートのスープで、「ロシア料理のボルシチ」から具を抜いた奴だと思えば良い。具が無いボルシチを想像してもらえば分かるけど、あんまり美味くなかった。これなら、ジューレックの方が遥かに良い。

実際、スープ系では、昨晩も飲んだライ麦スープのジューレックの味はかなり行けていた。今回の旅行の最大の当たりかもしれない。

やがて、メインディッシュのピエロギが出て来たのだが、「普通の水餃子」だった。日本でも、その辺の居酒屋で食べられるのと同じだ。もちろん、美味かったけどね。

pierogi

お代はやはり、全部で20ズロチー程度だった。つまり900円だから、日本で同じものを飲み食いするより遥かに安上がりだ。だから、期待したポーランド料理が「普通の水餃子」だったとしても文句を言えない(笑)。でも、飯の味よりお姉さんたちの生足の方が印象に残っているのが問題だな(苦笑)。飯屋としては、ダメなんじゃないの?

愛想の良い(良くなった)お姉さんたちに別れを告げて外に出ると、空はすっかり晴れていた。そこで、繁華街の視察(?)をしつつ「ワルシャワ蜂起博物館」方面に向かうことにした。

実は、午後のメインイベントを「ワルシャワ蜂起博物館」にしようか「軍事博物館」にしようかと悩んだのだった。どっちも似たようなものだろうけど、「ワルシャワ蜂起・・」のほうが、開館時間が遅くまでだし、場所も市街の西側なので、そっち方面の散策も兼ねられてナイスだと判断したのだった。

 

繁華街散歩

まずは、レストラン裏手のフミエルナ通りに遊びに行った。お洒落なブティックなどを外から冷やかしたが、平日の昼間のせいか閑散としていて楽しくなかった。

この通りを西に抜けると、マルシャウコフスカ通りだ。この沿道のデパートに入り、本屋やCD屋を物色して回った。本屋には、日本関係の書籍はほとんどなく、雑誌コーナーで「Otaku」というアニメ雑誌を1冊見かけたくらい。ポーランドが、チェコなどと違って、対外的好奇心が薄い国柄だと言うことが良く分かる(チェコには、日本関係の書籍がたくさん置いてあったから)。

俺は、この本屋でワルシャワの詳細な地図を買おうと思っていたのだが、トラムやバスの路線図が完璧に載っているものが欲しかったのに、適当なのが見つからなかった。路線の種類があまりにも多すぎて、一枚の地図には載せ切れないのだろうか?仕方ない。どうせ残り半日の旅程だし、「地球の歩き方」と俺自身の土地勘に頼って移動するしかあるまい。

世界文化宮殿を左手に見つつマルウシャウコフスカ通りを北進し、スィエトコルツカ通りを左折する。ここをまっすぐ西に進めば、目当ての博物館に着くはずなのだ。

沿道には、雑貨屋や喫茶店が多くて、様子を眺めているだけで楽しい気分になる。しかし、博物館までは思ったよりも距離がありそうだ。そこで、たまたま10番トラムが走ってきたので、これに飛び乗ってトヴァロヴァ通りまで行った。

ポーランドの街で本当に感心するのは、ある程度の広さの道路には、必ずと言って良いほどバスかトラムの路線が通っている点だ。そのカバー率は100%に近いので(チェコやハンガリーより上)、幼い子供や体の不自由な人でも老人も、みんな自由自在にどこへでも便利に移動して、安心して生活を送れることだろう。しかも、前述のように安いのだ。これは、「社会主義」の良い面だ。

日本では、「社会主義」といえば、「時代遅れの歪んだ思想がもたらした貧困製造マシーン」みたいに見る人が多いけど、それは間違いだ。もともと社会主義は、所得格差や差別を無くし、弱い人や貧しい人でも平等に幸せに生きられるような社会の創造を目指す考え方だった。だから、キューバは今でも、教育と医療の完全無料を貫徹している。そして、失敗とされている旧ソ連や旧東欧の体制下であっても、その理想の一部は実現されていた。生活必需品の価格や公共料金が非常に安く抑えられた上で、車を持てないような弱者用の交通インフラが充実されたのである。ポーランドは、もちろん民主化してEUになったわけだが、こういった社会主義の良さを今でもしっかり残しているのだから立派である。

それに引き換え、日本はまったくダメである。公共交通機関は民営化されて運賃が値上がりし、しかも不採算路線はどんどん減らされて不便になっている。

「日本は自家用車の社会だから」との反論は無意味だ。なぜなら、日本には有料道路がやたらにあるし、高速道路は法外な料金を取るから、自家用車は公共交通機関よりも遥かにコスト高である。そもそも、俺が訪れたことがある国で、高速道路で料金を取るようなアホウな国は日本だけである。これは、不便なだけでなく、産業流通の深刻な阻害要因となっている。もしも高速道路が無料だったなら、日本経済は今の数倍の成長と発展を享受できていたはずだ。

もちろん、仮にそうだとしても、排気ガスが増えるからエコロジー的には良くないわけだが。というより、真剣に地球環境のことを考えるなら、車自体を無くしてしまうほうが良い。国民はみんな、トラムに乗ったほうが良い。

プリウスは、問題の抜本的解決になっていないことに気づくべきだ。だって、低CO2の車と言ったって、CO2を出すことには変わりは無い。「末期癌より初期癌の方がマシ」だと言っているのに等しい。結局、大企業の顔色を見ながらエコロジーをやるので、こういう中途半端なやり方となる。資本主義の悪い面である。

そして、日本の(特に)地方は、交通インフラが乏しいので、自家用車を使わなければ生活が出来ない。幼い子供や体の不自由な人や高齢者は、車の運転が出来ないし、させるべきでもないのに、公共交通機関が乏しい地方では高齢者が自分で車を運転せざるを得ず、そのことが不幸な交通事故の原因となっている。「もみじマーク」の制定は、お役人の責任逃れと自己満足以外には、何の解決にもなりはしないのだ。

以上のことから分かることは、日本は資本主義の悪い面(=金満主義+弱者切捨て)と社会主義の悪い面(=無能な政治家と役人が威張り腐って特権を享受する)の「悪いところ取り」国家だという事実だ。一部の権力者が私利私欲のために民生を犠牲にし、弱者切捨てを断行する冷酷非情な国家だと断言できる。やはり、革命が必要だな。うちの権力集団には、一度、アウシュビッツでの生活を経験してもらったほうが良い!(笑)

そういう意味では、ポーランドはとても良い国だ。交通が便利なだけでなく、治安も良いし人心は素朴だし。晩年は、この国に移住するのもありかと思案してしまう。

 

ワルシャワ蜂起博物館

やがて、道路沿いの案内図を頼りに「ワルシャワ蜂起博物館」の前に出た。この博物館は、閑散とした狭い路地に入口があるので、案内図を見なければなかなか辿り着けなかっただろう。

牢獄か病院みたいな雰囲気の赤レンガの博物館は、あまり外国人観光客向けではないためか、わずか4ズロチーの入館料だった。だけど、館内に入ってみると意外と客が多くて大盛況だった。年配の人が多いから、もしかすると遺族関係者の集まりでもあったのかも知れない。もちろん、学生風の若者も多くて、熱心に展示物を見ながらメモを取っている。

warusyawa museum

館内は全体的に薄暗くて、しかもドラムを叩くような低い不吉な音楽が鳴り続けている。音楽付きの博物館とは珍しいけど、これはこれで面白いな。でも、たまに「ドカーン」と大音量で爆弾の破裂音がするのは、心臓に悪いから止めて欲しい(苦笑)。これは、当時のワルシャワ市民が味わった心理状況を、いくらかでも入館者に分かって欲しいという配慮なのだろう。

ここで説明すると、「ワルシャワ蜂起」とは、第二次大戦中の1944年8月から9月にかけての、ワルシャワ市民と旧ポーランド軍人たちによる対ドイツ解放戦争のことである。

この国は、1939年9月にドイツに占領された。しかし、それを良しとしない人々がイギリスやソ連に逃げて、そこで様々な反ドイツ抵抗組織を樹立し、同時に義勇軍を結成して祖国を解放するための戦争に参加したのである。

やがて1944年になると、ソ連軍がドイツ軍に対して猛反撃を開始し、ついにその先鋒はポーランド領内に突入した。この間、東部戦線の戦場で活躍したのは、ソ連側のポーランド義勇軍であった。

英米仏西側連合軍も負けてはいない。同年6月のノルマンディ上陸作戦に成功し、フランスに地歩を築いたのである。イギリス側のポーランド義勇軍も、こうした一連の戦いで奮戦を見せた。ちなみに、映画「遠すぎた橋」では、名優ジーン・ハックマンが、ポーランド義勇軍の将校を演じていたりする。

もはやナチスドイツの頽勢は明らかである。ここに、戦後のポーランドの帰属について、イギリスとソ連の間に暗闘が始まった。地勢的に見て、ポーランドを最初に解放するのはソ連だろうから、このままでは戦後ポーランドはソ連の手に落ちてしまう。焦ったイギリスは、ポーランドを西側の手で解放したいと考えた。そこで、ワルシャワに潜伏する西側の抵抗組織と連絡を取って、彼らにソ連が入ってくる直前に軍事蜂起させたのである。

1944年8月1日、ワルシャワは一斉に立ち上がった。総勢5万人である。この街を守るドイツ軍は、兵力を対ソ連の前線に引き抜かれたため、わずか1千名しかいなかった。しかし、彼らがヴィスワ川にかかる橋梁などの重要拠点をしっかりと守ったため、ワルシャワ蜂起軍は最初から苦戦を強いられた。それでも、多くの市民が参加してくれたため、市内各所の兵営を占領し、多くの武器弾薬を入手したのである。イギリス空軍も、ワルシャワまでの長距離を飛来して彼らに援助物資を投下した。

ところが、ワルシャワ市内までわずか10キロに迫っていたソ連軍は動かなかった。それどころか、彼らはイギリス空軍に飛行場を使わせることすら拒絶したのである。実際、彼らはドイツ軍の反撃に直面して苦戦中だったし、あまりにも早くポーランド領内に進撃してしまったために補給不足になっていた。それにしても、すぐ目の前のワルシャワ蜂起を完全に傍観したのは悪意としか思えない。ソ連は、彼らの指揮下で戦うポーランド義勇軍に対してさえ、同胞を救援に行くことを禁じたのであった。

ソ連の立場からすれば、イギリスの息がかかったポーランド人とナチスドイツが、互いに潰し合ってくれるのは好都合だった。むしろドイツ軍が、西側シンパのポーランド人を掃除してくれたほうが、戦後のポーランドを支配しやすくなるはずだ。冷酷な独裁者スターリンが、そこまで考えたとしても不思議はない。

この様子を見たヒトラーは、スターリンの悪意を的確に洞察し、ソ連軍が傍観することを予測した。こういうところは、さすがである。彼は武装SSをはじめとする強力な部隊を東部戦線から引き抜き、これに猛反撃を行わせたのである。ヒトラーは命じた。「ワルシャワを廃墟に変えよ」と。

ワルシャワ市民は必死に戦った。しかし、完全な孤立状態の中で、ドイツの精鋭正規軍の猛攻にいつまでも耐え切れるはずもなかった。9月の終盤には、もはや組織的抵抗は失われてしまった。25万人の市民が死傷し、街のほとんどが瓦礫となった。降伏した兵士と周辺住民70万人は、ワルシャワから追い出され、強制収容所に入れられ、あるいは僻村に隔離された。

ソ連軍が、無人の廃墟と化したワルシャワに入城したのは、翌1945年1月であった。そして戦後のポーランドが、スターリンの思惑通りにソ連の従属化に置かれたのは周知の通りである。

詳しく知りたい方には、映画「地下水道」や「戦場のピアニスト」がお勧めだ。

こうしてポーランド人は、またもや大国の利害に翻弄されて悲惨な犠牲を払ったのであった。彼らは歴史の中で、いつもこういう目に遭っているのだが、その中でも「ワルシャワ蜂起」は忘れがたい歴史的悲劇なのである。だからこうして、独立の博物館が建っているというわけだ。

さて、博物館の展示に眼を移そう。

展示は、ナチスドイツの勃興から始まり、1939年9月のポーランド占領と、そこから始まる抵抗運動について語る。ソ連側、イギリス側それぞれのポーランド義勇軍の活躍が、地図などを用いて紹介される。そして1944年8月の「Xデイ」が決まって行く。ソ連軍は、ドイツ軍の反撃によってワルシャワを救援できる状態では無くなったのだが、そのことを西側に(恐らくわざと)知らせなかったため、予定通りに蜂起が行われてしまった。最初の戦闘とドイツ軍の堡塁の様子が等身大ジオラマで描かれ、多くの写真で英雄たちの横顔が紹介される。軍服や銃器の展示、通信や調理に活躍した女性たち、イギリス空軍の救援物資の様子、さらにはワルシャワを救援に来たランカスター爆撃機の実物まで展示されていた。すげえ、でっけえ!

その中で俺が最も楽しんだのは、実際に「ワルシャワ蜂起」の最中に撮影され、編集された、市民軍の3人のカメラマンによる実況フィルムである。これが館内の大きな映写室で繰り返し上映されていたので(英語字幕付き)、食い入るように見てしまった。

捕虜にしたドイツ兵を坊主狩りにして、バリケード造りなどの労役に使う様子。家を焼け出された幼い子供たちを慰めるために、大人たちが人形劇を上演する様子。調理道具などを使って手製爆弾を作る様子。ドイツ軍に水を止められたために、市民総出で井戸を掘る様子。砲撃によって、美麗な教会が次々に崩落する様子。実に生々しい。

最後のフィルムは、ワルシャワ市民軍最後の大勝利である電話局の占領の様子と、決死隊がヴィスワ川を渡ってソ連に救援を求めに行く様子だった。結末を知っていてこれを見ると、本当に哀れだ。これ以降、市民軍は壊滅的な打撃を受け続けたので、フィルムを撮る余裕は無かったのだろう。上映されるフィルムの続きは、もう無かった。

大国に翻弄される小国の悲劇は、見ていて辛いものがある。我々日本人は、荒海に囲まれた島国の住民で、本当に幸運だったと思うぞ。

 

最後の晩餐

感銘を受けつつ外に出ると、もう夕方5時だった。

どこかの施設に行くには中途半端な時間なので、若者向けの繁華街で遊んでから夕飯にするとしよう。

博物館の近くに100番バスの停留所があったのだが、備え付けの時刻表を見るに、このバスは1時間に1本しか来ない。「地球の歩き方」には、100番バスは市内の観光要所を全て回るので、「観光客にとっては至便だ」と書かれていたけど、1時間に1本じゃほとんど役に立たないぞ!それで、元の大通りに出て10番トラムを待った。とりあえず、国鉄中央駅付近に戻るつもりである。

トラムは、通勤帰りの渋滞を抜けながら中央駅の西側に到着した。ここのトラム駅から地下道に入ると、これが中央駅地下1階のショッピングモールに直結していた。なるほど、これは便利である。

しばらく地下街を冷やかしてから、駅の裏手にある巨大なドーム状のショッピングモール「ズウォタ・タラシー」に遊びに行った。このドームは、「モスラの繭」のような形状をした総ガラス張りの建物である。各階では円状廊下が多くの店舗を繋ぎ、そして各階は大きなエスカレーターで互いに連結されているから、その構造は「表参道ヒルズ」に似ている。もちろん、ワルシャワの方が大きくて居心地が良いけど。

本屋やCD屋やPC屋などを冷やかしつつ、あちこち見て周る。最上階にはマックやバーガーキングが並び、シネコン(ポーランドではマルチ・キネマと言うらしい)の映画館もあった。まあ、見たい映画もないしなあ。

それで、最下階のスーパーマーケットに行って、夜のお楽しみ用のウォトカ(スミルノフの果実割り)とハムの缶詰を買った。ウォトカには栓抜きが必要だったが、ホテルの部屋にあるかどうか不明だったので、ここで調達した。

夜6時を回ったので、夕飯を食いに出るとしよう。ショッピングモールの手前に「HARD  ROCK CAFE」があったので入ってみたところ、店員の青年に満席だと言われてしまった。「少し待ちますか?」と聞かれたけど、面倒だからバイバイした。

その後、駅前大通りをウロウロしつつ、結局、ノボテルの近くのケンタッキーに入ることにした。考えたら、海外でケンタッキーを食べるのはこれが初めてだ。だけど、店員たちは、やっぱり詰まらなそうな顔で無愛想に仕事をしている。そして肝心のお味は、日本で食べるのとまったく同じだったので、ちょっとがっかりだ。ともあれ、これでワルシャワの最後の晩餐も終わりだ。

ポーランドを旅していて感心したのは、どこの街のどの場所でも「完璧に英語が通じる」という点である。やはりEUに加盟したので、みんな必死に英語を勉強しているのだろう。街角で良く見かける語学学校の宣伝広告でも、最初に英語、次にドイツ語を挙げていた。もっとも、チェコやハンガリーも、今訪れれば同じ状況だろうから、ポーランドだけが特別ということもないだろう(俺がチェコやハンガリーを訪れたのは、彼らがEUに加盟する前だったので、英語が出来ない人が多かった)。

ちなみに、ポーランド語は西スラブ語の一種で、ロシア語とチェコ語のちょうど「あいのこ」みたいな言語である。文字表記はチェコ語に似ているのだが(ローマ字をウムラウトで補うし)、言葉のイントネーションは完璧にロシア語のそれだ。だから地名や人名も、チェコより難しくて覚えにくい。

日本語の「こんにちは」は、ポーランド語では「じぇーん・どぶりい」。ロシア語でも「じぇーん・どぶりい」。チェコ語では「どぶりい・でん」である。ほとんど同じだ。

日本語の「ありがとう」は、ポーランド語では「じぇくいえ」。ロシア語では「すぱしーぼ」。そしてチェコ語では「じぇくい」である。ロシアだけ、ぜんぜん違うね(笑)。

なんとなく、イメージは分かってもらえるでしょうか?

そんなポーランド独特の文字として、Lに横スラッシュが入ったものがあるのだが、これは「う」と発音される。ポーランド通貨ズロチー(Zloty)は、良く見ると二文字目のlにスラッシュが入るので、「ずうぉちー」と発音するのが正解。Lodsという街も、最初のLにスラッシュが入るので「うっず」と読むのが正解。外人は、しばしばこれを無視してズロチーとかロッズとか読むのだが、ポーランド人に対して失礼だ。

で、俺は失礼なことをしたくないので、ポーランドは「難しい」と諦めて(笑)、現地では最初から最後まで英語で通した(笑)。まあ、挨拶とお礼くらいは、ポーランド語を使ったけどね。

さて、話を旅行記に戻そう。

ホテルに帰って部屋をチェックしてみたら、ちゃんと栓抜きが置いてあった。なんか、スーパーで買って損したな。テレビを見たり読書をしたり、ハムをつまみながらウォトカを飲んだ。

それから、風呂に入って寝ようとしたら、携帯アラームが異常だ。携帯の日付表示がリセットされて、時刻表示が1月1日0時になっているのだ。そうか、長いこと日本と電波交信しないと、こういう状態になるのか。いずれにしても、これじゃあ携帯アラームは使えないな。仕方ないので、部屋のテレビのアラームをセットした。こいつは、指定時刻に自動的に電源が入って音が鳴るらしいから楽しみだ。

そのまま、眠りについた。明日は、とうとう帰国だ。