歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

概説 第一次世界大戦

大戦の原因

 


 

1.老衰する『帝国』~オーストリアとオスマン

2.老大国ロシア

3.奇形国家ドイツ

4.イギリスとフランス

5.イタリア

6.アメリカ合衆国

7.日本

8.バルカン半島諸国


 

 1.老衰する『帝国』~オーストリアとオスマン

 20世紀初頭、かつて世界有数の強国であった3つの「帝国」が断末魔の危機に喘いでいました。3つの帝国とは、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国です。

 実は、20世紀初頭の世界において、「帝国」という国家の基本コンセプト自体が、著しく陳腐化していました。

 「帝国」とは、一人の皇帝が複数の異民族を束ねて統治する国家形態を言います。かつては、こういった国家形態が普通でした。ペルシャ帝国、ローマ帝国、中華帝国、モンゴル帝国、ティムール帝国、大英帝国など、歴史教科書の中に枚挙のいとまが無いくらいに、いろいろな名前が出て来ますね。昔は、複数の民族を効率的に束ねた国家の方が、広大な土地と多くの人口を抱えることが出来るから強かったのです。

 しかしながら、西ヨーロッパを中心に、次第に「国民国家」という概念が成熟して来ました。すなわち、同じアイデンティティを持つ一つの民族集団が、共通文化を触媒に団結した方が、効率的に国家を運営し技術を発展させられることに気づいたのです。広い土地や雑多な民族を抱えることは、かえって効率性を落として不利になりました。海外に植民地を持つことも、維持管理にかかるコストを考えればマイナスの影響が顕著になって来ました。

 最初に、「国民国家」の威力を全世界に思い知らせたのは、フランス革命とそれに続くナポレオンの専制国家でした。ナポレオン帝国などと呼ばれるこの国家は、実際には「帝国」の定義と逆行していました。あくまでも、「フランス人」のためだけに存在し、「フランス国民」の力を結集した国家だったからです。17世紀末~18世紀初頭に荒れ狂ったナポレオンの国民国家は、戦争に敗れて短期間で消滅しますが、そのコンセプトはヨーロッパ全土に甚大な影響を与えました。

 ここに、「民族自決」という概念が生まれます。

 「帝国」の中に住んでいた諸民族は、気づいたのです。帝国から独立して、自分たち同一民族から成る同質の国を持てば、今よりも遥かに幸福になれることに。彼らは、独立を目指して一斉に行動を開始しました。1848年の「2月革命」がその嚆矢です。

 こういった「民族自決」の影響を最も深刻に受けたのが、オスマン帝国とオーストリア帝国です。なぜなら、これらの国家では、支配民族であるトルコ人やドイツ人は、むしろ人口比で少数派だったからです。それゆえ、多数派である被支配民族の独立を認めてしまったら、「帝国」そのものが空中分解してしまいます。したがって支配者たちは、独立を求める少数民族を弾圧せざるを得ません。その結果これらの帝国は、独立を巡る内戦やテロや戦争に、慢性的にさらされることになりました。

 また、オスマン帝国は「ヨーロッパに存在するイスラム教徒の国」ということで、西欧、ロシア、オーストリアから成るキリスト教連合による恒常的な侵略を受けていました。こういった攻撃を仕掛けるに際して、キリスト教連合国は、オスマンを弱らせるために帝国内の諸民族に独立を呼びかけ、積極的に彼らの反乱を支援しました。

 しかし、その戦略が功を奏すればするほど、同じキリスト教仲間であるオーストリア帝国が弱体化するという皮肉な現象が起きたのです。なぜなら、オーストリア帝国は、オスマン同様の多民族国家だからです。この国に住む被支配民族からすれば、オスマン帝国内の被支配民族の独立だけを応援する西欧列強やロシアの態度は、ダブルスタンダードに見えるわけです。帝国内のハンガリー人やスラヴ人は激怒して、その革命行動をますます活発化させるのでした。

 特にハンガリー人は、数度にわたって大規模な武装蜂起をして、支配者であるハプスブルク家のドイツ人たちを苦しめました。これに窮したドイツ人が、ハンガリーの独立を形式的に認めた結果、成立したのが「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です(1867年)。

 しかし、そうなると帝国内のスラヴ民族が納得しません。「なんで、ハンガリー人だけが優遇されるのだ?」と、彼らが不満を持つのは当然でしょう。しかし、ドイツ人から見れば、多数派民族であるスラヴ人を独立させてしまったら、帝国そのものが完全に空中分解してしまうのだから、それだけは認めることが出来ませんでした。

 こうして特に、バルカン半島のセルビアやクロアチアなどに住む血の気が多いスラヴ系民族は、北方のオーストリアに対する民族自決テロをしきりに起こすようになります。

 この地域は、その一方で、南側に隣接するオスマン帝国に対する民族自決を建前とした侵略戦争も熱心に行っていたので、まさに地域全体が「バルカンの火薬庫」になっていました。

 案の定、第一次世界大戦はここから発火するのです。

 

2.老大国ロシア

 さて、オスマン帝国とオーストリア帝国は、実は双子のようによく似た国家で、同じような形に成長し、同じような形の衰退を迎えました。これは決して偶然ではなく、このライバル国家は敵対するばかりでなく、お互いに国家の統治システムを学び合う関係にあったからです。両国とも、雑多な他民族を上手に纏めるノウハウを十分に成熟させたけど、「民族自決」の流れの中で帝国のコンセプトそのものが陳腐化すると、もはや断末魔の苦しみに一緒になって喘ぐしか有りませんでした。

 さて、もう一つの大帝国ロシアは、それとは異質な苦しみの中にありました。民族自決の潮流は、この帝国ではそれほど大きな問題になりませんでした。なぜなら、この国が抱える被支配民族は、支配者であるロシア人に比べると少数かつ弱体で、彼らの行動はそれほど深刻な脅威にならなかったからです。むしろこの国が抱える問題は、「民族自決」以前の段階にありました。

 ロシア帝国は、非常に前近代的なアジア的な帝国でした。むしろ、オスマン帝国より遅れていたくらいです。なにしろ国会が初めて開設されたのが、日露戦争直後の1905年という有り様。農民も、1861年になってようやく農奴の立場から形式的に解放されたとは言え、彼らにはいわゆる基本的人権さえ認められていませんでした。つまり、ロマノフ家の皇帝一族が国家を私物化するような、まさにアジア的な中世国家だったのです。

 この事態を憂慮した志あるロシアの若者たちは、西欧の歴史を見習って積極的に革命運動に参加しました。その過程で、歴代ロシア皇帝が何人もテロで殺されている有り様です。つまりロシア帝国は、フランス革命以前の発展段階にある遅れた国家であり、「国民国家」とか「民族自決」が問題になる以前の存在だったわけです。

 しかしながらこの老大国は、複雑なヨーロッパ外交に巻き込まれ、西欧列強との「集団的自衛権」の枠内に取り込まれていました。

 しかもロシアは、「汎スラヴ主義」のスローガンを掲げることによって、バルカン半島のスラヴ人たちと密接な関係を持つようになります。

 もともと「汎スラヴ主義」は、スラヴ民族であるロシア人が、敵国オスマン帝国内に住むスラヴ人たちを支援し反乱に掻き立てると同時に、オスマンに対する侵略戦争を正当化するための方便として言い出したものです。何しろロシア帝国の数百年来の悲願は、オスマン領の豊かな港湾を領有すること。もっとも、つい最近まで極東の港に浮気していたけれど、「日露戦争」で日本に負けたものだからトルコ虐めに原点回帰(?)したのです。

 ところが前述のように、オスマンとオーストリアは、双子のような関係にある国家でした。したがって、オスマンに対する思想的攻撃は、そのままオーストリアへと鏡のように反射するのです。すなわち、ロシアがオスマン国内のスラヴ人の独立を応援する以上、オーストリア国内のスラヴ人に対しても同時に応援しなければ片手落ちになるでしょう。

 こうしてロシア帝国は、いつのまにかセルビア王国に代表されるバルカン半島内のスラヴ人と結託し、彼らが憎むオーストリア帝国と冷たく睨み合う関係に入ってしまいました。

 ロシアとオーストリアの間には、直接的な敵意も恨みも有りませんでした。本当は、仲良くしたいのです。だけど外交戦略の行き違いから、いつのまにか対立を強要されるような、そういう関係に嵌ってしまっていたのです。

 これも、第一次大戦勃発の重要な原因の一つでした。

 

 3.奇形国家ドイツ

 さて、「民族自決」の巨大な歴史的潮流は、複数民族から成る古い「帝国」を衰退と分解へ向かわせただけではありません。

 それと同時に、これまで複数の国家に分断されていた同一民族を統合させて、新しい国家を生み落して大発展させるという、まったく逆のベクトルを生み出しました。すなわち、イタリアの統一(1866年)とドイツの統一(1871年)です。

 我々がよく知っているイタリアとドイツは、実は非常に若い国家です。それまでの彼らは、同じ民族がいくつもの小国へと分割された脆弱な存在でした。それが、「民族自決」の潮流に乗って、相次いで強力な統一国家樹立の偉業を成し遂げたのです。

 この統一運動は、ドイツの方が遥かに困難でした。周辺諸国が、必死に妨害したからです。なぜならドイツは、ヨーロッパ中央部に位置する豊かな土地柄ゆえ、そこに強国が出現すると周辺諸国の安全保障の脅威になるからです。そのためヨーロッパ史では、ドイツで民族統一の動きが始まると、周辺列強がすかさず介入してこれを叩き潰すことの繰り返しでした。別の論説で紹介した「三十年戦争」は、まさにそんな戦争でしたね。

 そして19世紀の時も、やはり同じでした。しかしながら、プロイセン王国の鉄血宰相ビスマルクは、天才的な外交戦略で、デンマーク、オーストリア、そしてフランスを各個撃破することに成功し、ほとんど奇跡的な大勝利のうちに「ドイツ帝国」の成立に漕ぎ着けたのです(1871年)。

 ちなみに、ここでの「帝国」は、前述の定義とややズレます。国内にユダヤ人やスラヴ人も住んでいるとはいえ、ドイツ帝国は、基本的に複数の民族集団を束ねることを目的とした国家ではないからです。これは単純に、日本語訳の間違えです。先人の研究者が、「ライヒ」「カイゼル」といったドイツ語の翻訳を間違えて、「帝国」「皇帝」などと呼んでしまった結果なのです。そういうわけで読者諸氏は、いわゆるドイツ帝国を、前述の3つの老帝国とはまったく異なるコンセプトの「国民国家」であると認識してくださいね。

 さて、ドイツ帝国の首相となった天才政治家ビスマルクは、国家統一の歴史的成功が、幸運に恵まれた結果の「奇跡の産物」だったという事実を正確に認識していました。だからこそ、統一ドイツの成立後は周辺諸国と融和外交を繰り広げ、国家の安全を最優先したのです。これ以上の危険なギャンブルを、慎重に避けたのです。

 ところが、それが分かっていない人々がいました。ドイツの軍人官僚たちです。彼らは、ドイツ統一が成功したのは、自分たちの作戦が上手で、戦争が強かったがゆえだと過信し自惚れました。そんな彼らは、低姿勢で軟弱に見える国際外交を推し進めるビスマルク首相に対して不信感を抱きます。

 やがて、軽佻浮薄な見栄っ張りであった皇帝ヴィルヘルム2世が、この情勢に乗っかりました。ビスマルクの突然の解任(1890年)は、すなわち傲慢な軍人官僚の暴走を招くことに繋がるのでした。

 我が国ではなぜか、「ドイツ参謀本部」が過大評価されて好意的に受け止められる論調が強いみたいですね。渡部昇一さんが書いた、中身の薄っぺらな読みやすい本がベストセラーになったからでしょうか?確かに、ドイツ参謀本部には国家のエリートが集結していたのかもしれない。だけど、政治や経済や外交を一切無視して、ひたすら戦場での勝利ばかりを考える自惚れ屋の頭脳集団って、異常かつ危険ではないですか?

 しかも、これは官僚と呼ばれる人種に共通の特徴ですが、この人たちは異常に視野が狭いために、自分たちの仕事のことしか考えません。そして、エリートである自分たちが目先の仕事を上手にやりさえすれば、全ての物事が好転すると勝手に思い込むのです。要するに、「戦争をガンガンやって勝ちさえすれば」、経済や外交などの面倒な問題は全て自動的に解決するだろうと思い込んでいたのです。そして、自分たちは世界最強の軍隊であるのだから、戦争になっても絶対に負けないし、むしろ早く開戦すべきだと信じ切ってもいました。

 そのような好戦的暴力集団が、大手を振って尊敬される社会。

 まさに奇形国家ドイツです。

 これが、第一次大戦勃発の決定的な原因の一つです。

 

 4.イギリスとフランス

 この当時の西欧先進国、すなわちイギリスとフランスは、成熟した議会制度を持ち、産業革命は順調に進展し、植民地を多く持ち、つまり非常に安定していました。

 もちろん、産業内での労働争議は、かのマルクスやエンゲルスに共産主義革命を思いつかせるほど過酷だったし、植民地では様々な民族問題が起きていました。イギリスとアイルランドの関係は、歴史的憎しみもあって一色触発でした。

 しかし、彼らの立場からは、いちかばちかの世界戦争をヨーロッパで起こさなければならないような動機は全く存在しませんでした。むしろ、平和状態が維持された方が、貿易や文化の進展が期待されるので有利だったのです。

 とはいえ、そんな彼らは新興国のドイツが、1890年にビスマルクが失脚してからというもの、国際社会に対して挑発的態度を取ることに神経を尖らせていました。何しろ、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、やたらとアグレッシブに外交世界を動き回って陰謀や密談をやるくせに、全体としていったい何を目指しているのか不透明なのです。実際には、気まぐれ屋による見栄っ張りのスタンドプレーだったようですが、周辺諸国はそうは思いませんでした。それ以上に、やたらと好戦的な態度のドイツ軍部も不気味でした。

 これに危機感を覚えたフランスが、ドイツの背後に位置するロシアとの同盟関係を強化したのは、当然の反応でした。イギリスも、彼らと軍事同盟こそ締結しませんでしたが、西欧の安全保障においてフランスと共同歩調を取ることに決めたのも、当然の反応でした。いわゆる「集団的自衛権」の関係です。

 これを見たドイツは、フランスとロシアに挟撃されるリスクに怯え、ますます軍備増強と戦力拡大に励みます。また、隣国オーストリアとの同盟関係を強化します。この態度が、さらに周辺諸国の不信感を煽るという悪循環の始まりです。

 ヨーロッパ列強は、互いに疑心暗鬼に陥り、複雑な同盟関係を交錯させました。絡み合った太い糸が互いの足を縛り合い、それを引っ張ったら全員ずっこけた。第一次大戦というのは、そういう事件とも言えます。

 

5.イタリア

 イタリアはどうだったか?実は、ドイツやオーストリアと共に「三国同盟」という防衛的な軍事同盟を結ぶ関係でした。

 しかしながら、イタリアが敵視していたのは、同盟相手であるはずのオーストリアでした。

 なぜなら、多民族国家のオーストリア帝国内には、トリエステなどのイタリア人居住地が多く残っており、「民族自決」の観点からは、これら「未回収のイタリア」を奪い取ることこそがイタリア王国の大義だったからです。

 つまりイタリアは、隙あればオーストリアに侵略戦争を仕掛けたいと考えていました。

 

6.アメリカ合衆国

 アメリカはどうだったか?実は、ヨーロッパ情勢にまったく興味ありませんでした。この国は当時、中南米諸国を実質的な植民地とするのに忙しかったため、いわゆるヨーロッパ世界に対する局外中立である「モンロー主義」を貫いていたのです。

 アメリカ人は、中南米の利権さえ確保できるなら、他の世界がどうなろうと知ったことでは無かったのです。

 

7.日本

 日本もそれと同じです。この国は、朝鮮半島や中国東北部を支配するのに夢中で、ヨーロッパのことに興味ありませんでした。

 しかしながら日本人は、東洋の後進国ゆえのコンプレックスからか、西欧を中心とした国際社会にその存在感をアピールしたいと希求していました。

 また、山東半島などの中国の経済利権に興味を持っていたので、そこに居座るドイツ植民地を煙たく思っていました。

 

8.バルカン半島諸国

 バルカン半島の国々、すなわちセルビア、モンテネグロ、アルバニア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャは、いずれもオスマン帝国から独立して間もない国です。

 彼らは国家として若くて未熟だった上に、西欧諸国に使嗾されてオスマンに対する戦争を起こしたばかり(第一次バルカン戦争~1912年)。この戦争で、オスマンを破ってその領土を奪ってみたけど、取り分に不満があって、互いに戦争を始めました(第二次バルカン戦争~1913年)。この戦争は、当事者全員が疲れ切って痛み分けに終わったものの、お互いの心に深い恨みを抱き、復讐のチャンスを狙っている状況でした。

 とほほ。

 もちろん彼らの中で、オスマン帝国に対する敵意も消えてはいません。

 また、スラヴ系のセルビア王国は、北方のオーストリア帝国も大嫌いでした。その国内で、同族のスラヴ人を差別し搾取しているように見えるからです。

 この地域には、とにかく血気盛んで喧嘩っ早い人々が溢れていたのです。

 

 第一次世界大戦は、1.~8.の複雑怪奇な事情が、玉突き状に連鎖反応を起こす形で勃発し拡大したのでした。

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