歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

概説 第一次世界大戦

8月の砲声~大戦の勃発

 


 

1.サラエボ事件

2.ハプスブルク最後通告

3.シュリーフェン計画

4.  マルヌ川とタンネンベルク

5. ドイツ海外植民地の破滅

6.オーストリア帝国の自壊

7.オスマン帝国の乱入


 

1.サラエボ事件

 運命の1914年6月28日。

 当時オーストリア領だったボスニアの都市サラエボ(現ボスニア=ヘルツェゴビナの首都)を訪れたオーストリア皇太子フランツ=フェルディナンドとその妻ゾフィーが、セルビア人テロリスト集団「黒い手」の一員プリンツィプ青年によって、馬車の上にいたところを至近距離から銃殺されました。

 どうして、このような事件が起きたのでしょうか?

 サラエボ市に代表されるボスニア=ヘルツェゴビナ地方は、昔からスラヴ人が多く住む土地柄です。これまで長いことオスマン帝国の領土だったのですが、19世紀末にキリスト教連合軍が、これを打ち負かして奪回したのです。そして、スラヴ人国家であるセルビア王国は、この地が当然自分たちに帰属するものと考えていました。

 ところが、オーストリア帝国が1908年になって、この地を正式に併合してしまったのです。「ドイツ人の帝国によるスラヴ人居住地の併合」は、まさに「民族自決」の潮流に反していました。これは、空気が読めない暴挙です。オーストリア政府は、世界史の潮流というものを、まったく理解できていなかったのです。

 激怒したセルビア王国で、巨大な陰謀が動き始めました。

 サラエボで皇太子夫妻を暗殺したテロリスト集団「黒い手」は、セルビア政府から軍資金や武器を支給されていました。すなわち「サラエボ事件」は、オーストリアのボスニア併合に激怒したセルビア王国による官製テロだったのです。

 

2.ハプスブルク最後通告

 皇太子夫妻を殺されたオーストリア政府は、当然、報復を考えます。7月23日、セルビア王国に対して、とても受諾不可能な内容の最後通牒を叩きつけたのです。

 オーストリア帝国のこの好戦的な姿勢は、同盟国ドイツが全面的軍事支援を確約してくれたことによるものです。軍事強国ドイツの協力があれば、小国セルビアを一気に滅ぼすことは容易です。老帝国は、そうすることで「民族自決」を騒ぎ立てるバルカン半島のスラヴ人どもを一気に殲滅できると同時に、帝国内に燻る非ドイツ民族の反乱分子たちを大人しくさせられるだろうと踏んだのです。

 いわば、皇太子夫妻の悲劇を奇貨として、陳腐化した「帝国」を再生させようと企んだわけです。歴史のネジを巻き戻そうとしたのです。

 この事実から容易に伺えるように、オーストリア皇室(ハプスブルク家)とその取り巻き集団は、「自分勝手で空気が読めない」人々でした。

 これは、ハプスブルク家の伝統というか、DNAによるものかもしれません。

 「三十年戦争」の張本人であったオーストリア皇帝フェルディナンド2世は、まったく空気が読めない身勝手な宗教原理主義者でした(概説「三十年戦争」参照)。

 「フランス革命」で有名なハプスブルク家出身の王妃マリー・アントワネットは、フランス国民の困窮ぶりを尻目に、「貧乏人は、パンが食べられないならケーキを食べれば良いのよ」などとほざいて憤激を買ったと言われています。だから、ギロチンで殺される羽目になったのです。

 サラエボで暗殺されたフェルディナンド皇太子も、同地が不穏で危険だということを百も承知だったくせに、まったく無防備に、天蓋を開け放した馬車で気軽に動き回って殺されています。

 我が国では、これらの状況が「ハプスブルク家の悲劇」などと同情的に紹介されることが多いですけど、私はあまり同情する気になれません。「空気を読めない身勝手な愚か者たちの自業自得」にしか見えません。

 そもそも、オーストリアの指導者たちは、「民族自決」の歴史的潮流に対して完全に無自覚だったのです。

 はっきり言って、双子国家のオスマン帝国の方が、その点では遥かに賢明でした。トルコ人の要人たちは、ちゃんと世界の流れを理解して、それに対応しようと前向きに努力していましたからね。結果的に、うまく行かなかったけど。

 ところが、我が国では、むしろハプスブルク帝国の方が好意的に紹介されることが多いのは、実に不思議です。確かに、クラシック音楽などの宮廷文化は良かったと思うけど、政治能力はグダグダでしょう。それなのにトルコ人のオスマン帝国よりも褒められるのは、やはり「白人優位主義」の悪影響でしょうかね?

 そして、時のハプスブルク皇帝フランツ=ヨゼフとその幕僚集団も、やっぱり「空気が読めない」人々でした。セルビア王国と同盟関係にあるロシア帝国の動向を、あまり気にしなかったようなのです。仮にロシアが出て来ても、同盟国のドイツが簡単に片づけてくれるだろうと安直に考えたのです。

 この不穏な情勢を前にして、むしろドイツ、ロシア、そして西欧諸国の方が神経を尖らせました。彼らは、戦争を始めたくなかったからです。

 ドイツ帝国は、見栄っ張りで気まぐれなヴィルヘルム皇帝が、ついついオーストリアへの全面軍事支援を口約束しちゃったけれど、国家としては必ずしも戦争をしたいわけではありませんでした。イギリスやフランスとの貿易が順調だったので、特に経済界は平和を希求していたのです。

 もちろん、イギリスとフランスだってそうです。平和を維持して、貿易を続けた方が良いのです。

 ロシアだって同じです。日露戦争で負けたばかりだし、国内情勢は不穏だし、とても大規模な戦争を行える情勢ではありませんでした。

 これら諸外国の外交官による必死の説得の結果、セルビア王国は、屈辱的な「ハプスブルク最後通牒」10箇条のうち8箇条の受諾を完全に飲みます。残り2箇条も拒否したわけではなく、これが重大な内政干渉にかかる事柄ゆえ(セルビア国内の裁判にオーストリア人判事を同席させるなどの非常識な要求)に、多少の留保をつけただけです。つまり、オーストリアへの全面謝罪に応じることを決めたのです。

 これは、精いっぱいの譲歩でした。

 テロリスト集団に武器を与えて応援していたセルビア王国は、確かに悪質極まりない国家でした。しかし、この局面での譲歩は、戦争回避のための決定的な鍵として評価されるべきだと思います。

 ところがオーストリアは、あくまでも「48時間以内の10箇条全部の完全なる無条件の受諾」を要求しました。そして、それが通らなかったため、セルビア王国に対して宣戦布告したのです。

 時に、1914年7月28日です。

 ・・・第一次世界大戦勃発の最悪の戦犯は、空気が読めないオーストリア政府とハプスブルク家のDNAである。そう思うのは、私だけでしょうか?

 

3.シュリーフェン計画

 前述のとおり、ロシア帝国は必ずしも戦争なんかしたくありませんでした。

 しかしながら、セルビア王国と軍事同盟を結んでいる以上、「集団的自衛権」の発動に踏み切るしかありません。そして、ロシアの軍部は、オーストリアとの単独の戦争ならば勝つ自信がありました。

 問題は、オーストリアの同盟国ドイツです。前近代的な老帝国ロシアが、近代的な軍事新興国ドイツと戦うのは危険でした。そこで、ロシア皇帝ニコライ2世は何とかドイツを宥めようとします。すなわち、中立を守らせようと努力したのです。

 ところが、ドイツはオーストリアと軍事同盟を結んでいるのだから、やはり「集団的自衛権」の問題が出て来ます。しかもここは、好戦的な軍人官僚が高い権威を持って幅を利かすような国柄でした。そして、高名なる「ドイツ参謀本部」は、ロシアの対独中立を確信することが出来ませんでした。

 実はドイツは、ロシアとの戦争に際して、とんでもない軍事計画を持っていました。

 それは、「ロシアとの戦争が始まったら、まずはロシアとの国境をがら空きにして、ドイツ全軍で反対方向のフランスに攻め込む」というものです。参謀本部のシュリーフェン将軍が発案したので、「シュリーフェン計画」と呼ばれている戦略です。

 なんで、こんな無茶苦茶な計画が出て来たかというと、ロシアとフランスが「露仏同盟」を結んでいたことが原因です。つまりドイツは、ロシアとフランスのどちらか一方と戦争になった場合、露仏両軍から一斉に挟み撃ちになってしまいます。

 その状態の中で、勝利するためにはどうするか?

 答えは、「各個撃破」しかありません。つまり、戦争の主導権を緒戦からドイツが握ることで、ロシアとフランスを一つずつ順繰りに降伏させれば良いわけです。

 「どっちを先に叩く?それはフランスだ。なぜなら、ロシアは前近代的国家ゆえ、鉄道などの交通インフラが未熟なので、ドイツに攻め込むまでかなり時間がかかるに違いない。だったら、ロシアは当面の間放置していても無害だろう。そこで、先にドイツ全軍でフランスを叩いて降伏に追いやり、返す刀でロシアを迎え撃てば、時間的に間に合うだろうし、結果的にフランスとロシアの両方を降伏させられるだろう」。

 なんか、危なっかしい議論じゃありませんか?机上の空論っていうか、身勝手で都合の良い仮定の上にいくつも立脚していて、いかにも「官僚」な感じです。だけどドイツ帝国は、戦争が始まったら、この戦略で行くことに決まっていました。

 他の選択肢は、まったく考えていませんでした。たとえば、「外交的手段でフランスに中立を守らせて、ロシアだけを相手にする」というプランは、まったく存在しませんでした。

 何しろ「シュリーフェン計画」の要諦は、「常にドイツ軍が戦略のイニシアティブを握る」ことにあります。つまり、相手に対する先制攻撃が必須条件なのです。だったら、外交などという不確定なものを当てに出来ません。純粋に軍事理論的に考えるなら、この論理はまったく正しい。

 やがてドイツに、「ロシアがセルビア支援のための総動員を開始した」と確報が入りました。

 「集団的自衛権」の関係で、「いずれロシアとドイツの全面戦争に発展することは確実。フランスも参戦するのは確実」。

 そう思い込んだドイツ参謀本部が、「シュリーフェン計画」にゴーサインを出したのはこの瞬間です。今すぐに動かないと、戦略のイニシアティブを握れなくなって、作戦の展開が間に合わなくなるからです。

 その結果、オーストリアの報復軍がセルビア国境に迫るころ、ドイツ軍は同盟国を支援するどころか、完全に逆方向のフランス国境に突進していたのです。

 オーストリアは、この「シュリーフェン計画」を知らなかっただろうから、「何だ、何だ?話が違うぞ。ドイツくん、何をやっているのだ?」と、さぞかし狼狽したことでしょう(笑)。

 第一次大戦があれほどの悲劇に拡大した最悪の戦犯は、たった一つの夢想的な軍事戦略を国際外交よりも優先させるような、ドイツ軍国主義の官僚たちだったのです。

 

4.マルヌ川とタンネンベルク

 「シュリーフェン計画」が、机上の空論に過ぎなかったことは、すぐに明らかになりました。ドイツは、フランスを降伏させることが出来なかったのです。

 ドイツはフランスに攻め込むに際して、中立国であるベルギーを通路として利用しました。ベルギーは平地が多いので、大軍の通行に便利だったからです。そういうわけで、「シュリーフェン計画」は、ベルギーに対する中立侵犯を最初から戦略の前提に組み込んでいました。しかしながら、これは明らかに国際法違反です。軍事のことしか考えていない視野狭窄な官僚頭の「ドイツ参謀本部」は、国際法違反がどのような影響を及ぼすか、まったく想定していませんでした。

 問答無用に中立を侵されたベルギーは、当然のごとくドイツに宣戦布告。国土の大半を占領されながらも、ゲリラ的な抵抗を続けます。そればかりではありません。国際法を無視したことによる世界中の敵意がドイツ一国に向けられると同時に、その追い風に押されるように、イギリスがドイツに宣戦布告したのです(8月4日)。

 イギリスは、ロシアやフランスと「三国協商」を結ぶ経済的な友好関係にありましたが、これは軍事同盟ではなかったので、この戦争で中立の立場を取るオプションも有り得ました。むしろ、経済発展の観点からは、その方が賢明だったかもしれません。

 しかし、ドイツが国際法を平気で侵すような非道国家であり、しかも突然の奇襲攻撃で盟友フランスが窮地に立った以上、そんな悠長なことを言っていられません。政治的に見ても、万が一、大陸でドイツの一人勝ちの情勢が生まれてしまったら、戦後のイギリスの立場は致命的に弱まってしまうでしょう。ここは、ドイツの突出を押さえる側に回った方が、長期的観点から有利です。この考え方は、また、イギリスの伝統的な国家戦略でもありました。

 こうして、イギリス軍がドーバー海峡を渡ってフランスの応援に駆けつけたのです。これは、ドイツ軍にとって完全に想定外のことでした。

 しかしながら、実はイギリス政府は、ドイツ政府に対して「ベルギーへの中立侵犯がイギリスの参戦を招く」旨を事前通告していました。ところが、ドイツ参謀本部は「はったりだ」と決めつけて、この警告を無視していたのです。官僚は、想定外の事項を全て「無かったこと」と見なして計画を立てる傾向があります。だから、官僚の暴走は危険なのです。

 さて、イギリスの援軍を得て勇気百倍したフランスは、必死の努力で全軍をパリ北部のマルヌ川に集結させます。この時、パリのタクシーが、ピストン輸送で兵士の移動に協力しました。これは、民間資本の交通インフラが十分に成熟した西欧社会ならではの芸当ですね。

 こうして、ドイツ軍はマルヌ川で食い止められました(1914年9月)。

 ドイツ軍の西への衝撃力が弱くなった要因は、他にもありました。東部戦線で、ロシア軍が想定外の速度で進撃して来たのです。ドイツ参謀本部は、国土防衛のために、フランス戦線に集めた兵力の一部を東に転送せざるを得ませんでした。これが、彼らが決定的局面でフランス軍を突破できなかった理由の一つです。

 ロシア軍は、まったく抵抗を受けることなく、ドイツ領だったポーランド西部のみならず、東プロイセンにまで入って来ました。先述のように、ドイツは「シュリーフェン計画」に従って東部国境をがら空きにしていたからです。

 ほとんど一発の銃弾も撃たないままに首都ベルリンに迫ったロシア軍は、おそらく、あまりの簡単さに拍子抜けしていたことでしょう。その間、ロシア軍に暴行や略奪を受けた民間人は数知れずいたわけで、机上の空論を絶対視して民衆を守る努力を放棄したドイツ軍の無責任さには呆れてしまいます。しかし、この安直な状況がロシア軍に油断を生みます。

 おっとり刀で西部戦線から引き返してきたドイツ軍の一部は、鉄道網を利用してロシア軍の背後や側面に素早く展開しました。前近代的インフラ社会の中で生活してきたロシア人は、このような事態をまったく想定できず、いつの間にか完全に包囲されてしまいます。そもそも、長距離をずっと歩いてきたものだから、みんな疲れ切っていました。

 こうして、いわゆる「タンネンベルクの戦い」は、ロシア軍の壊滅的敗北に終わりました(1914年9月)。

 

5.ドイツ海外植民地の破滅

 ドイツの首都ベルリンは、こうして救われたのですが、ロシアの敵意は未だに健在です。

 こうした一連の出来事の結果、ドイツは国境のほぼ全てを敵に囲まれる形となり、政治的にも経済的にも国際的に孤立する形になってしまいました。そして、フランスとロシアはどちらも生き残ってしまったため、ドイツは軍事戦略的に見て最も不利な「二正面作戦」を強要されることになりました。それだけでなく、孤立無援になったドイツの海外植民地は、次々と周辺諸国に奪われて行きました。

 たとえば極東では、イギリスの同盟国であった日本が、ドイツに対して宣戦布告を行いました(8月23日)。ドイツは、ベルギー侵略という国際法違反によって、全世界に「悪玉」イメージを振り撒きました。これは、ドイツに対して領土的野心を持っている国々にとって、実に好都合なことでした。もちろん、日本も快哉を叫んだ国の一つです。こうしてドイツの極東植民地は、あっという間に日本に飲み込まれてしまいました。

 アフリカにあったドイツ植民地も、そのほとんどが、あっという間にイギリスとフランスのみならず、ベルギーやポルトガルや南アフリカによって征服されてしまいました。タンザニア植民地だけは、終戦までゲリラ的な抵抗を続けたのですが。

 この時点で、植民地帝国としてのドイツは崩壊してしまいました。

 以上のことから分かるように、「シュリーフェン計画」はドイツを亡国に追いやる机上の空論だったのです。紙の上でしか世間を知らない官僚が、国家のイニシアティブを握ることの恐ろしさは、この状況を見るだけで明らかでしょう。

 「ドイツ参謀本部」は、決して手放しで賞賛されるような人々の集まりでは無かったのです。IQが高くて勉強が出来る人が、常に良い仕事をするわけではありません。

 

6.オーストリア帝国の自壊

 その間、戦争勃発の元凶であるオーストリアは何をしていたのか?

 セルビアに攻め込んでみたけど、ドイツ軍が助けてくれなかったものだから、口ほどにもなく敗北を喫して逃げ帰ったのです。そして、弱体化した軍を、国土防衛のためにロシア国境に張り付けざるを得ませんでした。

 何とも情けない状況です。

 そこに、隣国イタリアが追い打ちを掛けます。オーストリア軍が実は無茶苦茶に弱いことを知ったイタリアは、かねてよりの領土欲を満たすべく、この国に宣戦布告したのです(1915年5月)。

 しかし、オーストリアにとって幸いなことに、イタリア軍も無茶苦茶に弱かったので(とほほ)、これをアルプスの国境線でなんとか食い止めることが出来ました。それでも、オーストリアも気が付けば国境のほとんどを敵に囲まれる苦境です。

 この国の場合、それだけではありません。ドイツと違って多民族国家なので、独立を求める国内の諸民族が、より一層騒ぎ出しました。特に、スラヴ系の人々は、同朋であるセルビアやロシアと戦いたくありません。チェコ人とスロヴァキア人(いずれもスラヴ系)は、部隊単位でロシアに脱走し、その数は5万人にも達しました。

 オーストリア帝国の上層部は、このような事態が起きることを想定していなかったのでしょうか?どうやら、まったく想像できなかったみたいです。

 さすがは、空気が読めないハプスブルク家だ!

 開戦から終戦まで、周囲から一方的に攻め立てられて、しかも脱走兵を出しまくったオーストリア帝国。この国は、そもそも戦争を始めるべきではありませんでした。

 最後に滅亡したのはまったくの自業自得であって、同情の余地はありません。

 

7.オスマン帝国の乱入

 さて、戦争が膠着状態になったので、両陣営とも外交的手段を強化します。

 連合国が、イタリアを説得して味方側で参戦させたのは、その成果でした。結果的には、弱すぎてあんまり役に立たなかったけど(苦笑)。

 これに対する同盟国は、かねてより親しくしていたオスマン帝国を戦争に誘いました。オスマンが味方に付けば、ロシアを南部から攻撃出来るし、エジプトなどのイギリス中東植民地に圧力を掛けることが出来るからです。

 オスマン帝国は、前述のようにオーストリアによく似た多民族国家ゆえ、民族自決の潮流の中で、すでに弱体化していました。しかしながら、周辺諸国からの残酷な悪意にさらされ続け、「もう後が無い」という絶望的な心境に陥っていました。

 1908年の、オーストリア帝国によるボスニア(オスマン領だった)併合は、その傾向を加速しました。これを見た周辺諸国が、オーストリアの真似をして、オスマン領を併合しにかかったのです。イタリアは、いきなりオスマン領北アフリカに攻め込んでリビアを併合しました。ブルガリアやギリシャらバルカン半島の国々も、これに便乗して2度にわたる「バルカン戦争」を起こしました。彼らはオスマン領のかなりの面積を奪い取ることに成功しましたが、その分捕り合戦の過程で、互いの心に大きな恨みを残しました。

 いや。最も巨大な恨みをその心に残したのが、オスマン帝国でした。当然でしょう。

 そんな老帝国は、第一次大戦の勃発を見て、この混乱に付け込めば失われた領土と国力を回復できるだろうと考えました。おまけに、ロシアに対する数百年来の恨みを晴らせると考えました。

 彼らが同盟国側で参戦する上で決定的だったのは、ロシアに対する恨みだけでなく、当時のオスマン帝国の支配層が、大のドイツびいきだったことが原因でした。それは、周辺諸国の激しい悪意の中で、ドイツだけが有形無形の様々な支援を与えてくれたからです。

 もちろん、ドイツは純粋なボランティアでオスマンを支援したわけではありません。オスマン領の中東で発見されつつあった油田に目を付けて、この権益を獲得したくてこの国に恩を売ったのです。しかし、この態度は、同じく中東に興味を持つ英仏の心を逆なでします。すなわち、ヨーロッパを遠く離れたこの地でも、連合国と同盟国の対立の枠組みが出来ていたのでした。もちろん、それだけでは戦争にはならなかったでしょうけど。

 ともあれ、オスマン帝国はドイツ側に立って、連合国に宣戦布告(1914年10月31日)。オーストリアと違って、アグレッシブに攻撃を仕掛けます。スエズ運河への大遠征、クウェート(イギリス領)への殴り込み、ロシア領コーカサスへの大包囲作戦。また、イスタンブール攻略を狙ってダーダネルス海峡へ攻め込んだ英仏連合軍を、完膚なきまでに打ち破りました(ガリポリの戦い。1915~1916年)。

 実は、オスマンの方が、オーストリアよりも遥かに戦場で役に立ったのです。結果的に、ガリポリ戦以外は負け戦だったけど(苦笑)、連合国の側面や背後を脅かす形で、同盟国の大戦略において貢献したことは間違いありません。

 しかし、ドイツはこれら同盟国を支援するために、少なからぬ兵力人材や軍事資材を振り向けねばなりませんでした。その事実こそが、ドイツの国力を長期的に弱らせることを、見栄っ張りのヴィルヘルム皇帝や視野の狭いドイツ軍人官僚は気づかなかったようです。

 それどころか、ドイツ帝国の指導層は、第一次世界大戦が長期戦になることをまったく想定していなかったのです。「シュリーフェン計画」が確実に成功し、短期に大勝利できると勝手に思い込んでいたからです。

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