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歴史論説集

概説 ロシア史

ロマノフ家の勃興

 

 ロマノフ家の墓所~聖ペトロパブロフスク大聖堂

 

 イヴァン雷帝の病没後しばらくして、長く続いたリューリク朝が断絶すると(1598年)、ロシア全土が大混乱になります。「動乱」の始まりです。

 これまでの歴代の各ロシア系国家の大公は、いちおうみんな建国の父リューリクの子孫ということになっていました。それが途絶えてしまったものだから、誰がロシアの統治権を握るのか、全く分からなくなったのです。こうなると、それこそ「何でも有り」の世界で、様々な国内貴族のみならず、外国であるリトアニアやポーランドもロシア皇位を狙うようになります。この混乱が、どれだけ滅茶苦茶だったのかは、「偽ドミートリー」という人物が3人も登場して、互いに皇位を巡って争った一事だけで想像できるでしょう。

 プーシキンの戯曲あるいはムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドノフ』は、動乱時代の孤高の皇帝をテーマにした物語です。ゴドノフは、なかなか有能な人物だったのですが、リューリクの血を引かないばかりに皇帝としての権威を保てず、動乱を食い止めることが出来なかった悲劇の君主です。

 さて、最初のうちは身内同士で権力争いをしていたロシア貴族たちも、ポーランドに首都モスクワを占領され、いよいよロシア全体が外敵によって征服される危機が迫ると、さすがにロシア人同士で団結することを考え始めるのでした。

 そんな貴族たちが目を付けたのは、イヴァン雷帝の正妻で良妻賢母だったアンナ・ミハイロヴナの家系でした。彼らは、その子孫の居住地に日参して三顧の礼をします。こうして、まだ16歳の少年ミハイル・ロマノフが即位します(1613年)。

 ミハイルが選ばれた理由は、彼の父親フェラリートが、徳の高い聖職者として尊敬されていて、しかもポーランドの捕虜になっていたので同情されたこと。そして、彼が若い上に細身で病弱だったので、大貴族たちが傀儡として自由に操れると考えたからでしょう。

 しかし、この少年皇帝は、なかなかのバランス感覚を示します。ポーランドから生還した父の助けを借りて国内の騒乱を鎮めると同時に、諸外国とも和睦に漕ぎつけます。中欧で「三十年戦争」が勃発したので、スウェーデンやポーランドがロシアに構っていられなくなったことも、和平成立の理由の一つですが。

 それでも、この細身で病気がちだった少年の子孫が、その後300年もこの国を統治することになるとは、誰も予想できなかったことでしょう。

 さて、この時点でのロシア世界で留意すべき点は、ポーランドやリトアニア(両国はしばしば同君連合になった)の方が、ロシアより圧倒的に強かったことです。スモレンスクやキエフと言った主要都市は、数百年の間ポーランドに支配されており、これらを基地にしたポーランド軍は、簡単にモスクワを攻撃出来たのです(「動乱」時代には、実際に長期間モスクワを占領した)。

 今日のベラルーシやウクライナといった国々は、実はそれぞれ、リトアニアやポーランドの領土として300年以上も存在していて、だからこそ食文化や言語なども、ロシアよりもむしろポーランドに近いのでした。これは今でも同じでして、興味がある人は、ベラルーシやウクライナの料理や言葉を経験してみると良いです。筆者は、ベラルーシ料理屋で、店員さんにロシア語で話しかけたら怒られました(笑)。実際、「こんにちは」といった挨拶のレベルから、大きく異なる言葉です。料理の味も、ポーランドのそれに非常に近い。これらの国は、後の歴史の中で、暴力によって無理やりロシアに組み込まれたということです。

 さて、復活成ったモスクワ大公国は、ロマノフ家2代目のアレクセイ皇帝の代になってから、たまたま内乱を起こして弱体化していたポーランドに戦争を仕掛け(13年戦争)、キエフやスモレンスクのみならず、ウクライナの東半分を占領して、ついにこの地を奪い取ります(1667年)。しかし、当時のウクライナ人は、ポーランドの西欧型文化に長い間馴染んだ人が多かったわけだから、ここに大きな確執が生じるわけです。

 今日のロシアとウクライナの不幸は、すでにこの時に始まっていたのでした。

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