歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

概説 ロシア史

構造改革の挫折

血の上の救世主教会~アレクサンドル2世の暗殺現場の上に立つ

 

 ロシア帝国の極端な後進性は、西欧との文化交流が深まるほどに浮き彫りになって行きました。それに気づいたロシアの若き知識人たちは、様々な手段で祖国の近代化を模索するようになります。

 しかしながら、前述のように、ロシアの支配体制は極端な専制志向であって、あらゆる民主化や自由化を潰しにかかるのが通例でした。ついに19世紀中盤、知識人による暴力的なテロや反乱が続発するようになります。デカブリストの乱、ナロードニキ運動が相次いで起こるのです。

 ところが、これらの運動は民衆感情から遊離したために、孤立して失敗するのが通例でした。信心深くて権力に従順なロシアの農民たちは、皇帝が宗教的権威を盾に国政を支配するこの状況に違和感を持たなかったのです。仮に悪政が行われたとしても、それは皇帝を惑わす君側の奸の仕業であって、皇帝自身は慈愛に満ちて清廉潔白だと信じていたのです。

 こんな中、保守的だったロシアの支配層を一変させる大事件が起きます。それが、前章で紹介した「クリミア戦争」の敗北でした。戦争というのは、それ自体は悪ですが、勝敗という形で結果がはっきり提示されるという意味で、問題点を明確にする効能があります。ロシア支配層は、近代化の必要を皮膚感覚で明確に悟ったのでした。

 ニコライ1世の跡を継いだ息子のアレクサンドル2世(在位1855~1881年)は、彼自身が開明的な人物だったこともあって、トップダウンによる積極的な構造改革に着手します。議会制度、税制、軍事、教育、地方自治、鉄道輸送など多岐にわたる近代化が図られたのですが、画期的だったのは農奴解放でしょう(1861年)。

 農奴解放は、ロシア人口の大多数を占める農民たちに移動の自由を与えました。これまで特定の貴族の土地に縛り付けられていた彼らは、ようやく都市部に移住して工業や商業に従事出来るようになり、これが長期的な産業発展の原動力となります。ロシア帝国もようやく、イギリスやフランスのような先進経済国へのスタートラインに立ったのです。

 ところが、この構造改革は多くの人々から悪評を買いました。既得権益を潰された大貴族たちはもちろん、身分を解放して貰ったはずの農民たちも激怒したのです。なぜなら、農奴解放は無償ではありませんでした。自由になった農民は、かなり高額の代金で土地を買い取る必要があったのです。しかし、大多数の元農奴には貯金など有りませんから、数十年にわたるローンを地主貴族に払い続けなければなりません。そうやって苦労して手に入れた土地も、これまで農奴として耕作していた土地よりも遥かに狭い面積だったりする。つまり、農奴解放令によって、かえって生活が苦しくなった農民が激増したのです。結局のところ、貴族たちの既得権益に配慮した上での改革だから、こうなったのですね。

 そして、税金も高くなる一方でした。ロシア帝国は、「クリミア戦争」の敗北にも懲りず、バルカン半島(対トルコ)やカフカス地方(対イスラム諸民族。チェチェンの英雄シャミーリとの死闘が有名)、そして中央アジア諸汗国への侵略戦争を行い、東アジアでの清帝国(中国)との対立、そして支配下においたポーランドでの独立運動の弾圧など、ほとんど全ての国境で軍事活動を繰り広げていました。

 いちおう、統治困難なアラスカをアメリカ合衆国に720万ドルで売却する(1867年)などの財政改善策は採ったのですが、焼け石に水。軍事費の負担は、自由になったはずの農民たちにより重く圧し掛かるのでした。

 19世紀のロシアが、どうしてこんなに極端な拡張政策を取ったかというと、世は帝国主義の時代で、全地球レベルの領土拡張競争が起きていたこと。ロシア皇帝や大貴族たちが、東方正教の唯一の守護者として、この宗教を可能な限り広い範囲に浸透させたがったこと。そして、最大の理由は「恐怖心」だったのだろうと思います。

 これまでの歴史を見てきて気づいたように、ロシアという国は、草創期から狂暴な暴力による支配を受け続けました。ロシア民族の憧憬の対象となるべきキエフ・ルーシは、モンゴルによってほとんど皆殺しになりました。それを打破した後も、ポーランドや諸汗国やコサックやスウェーデンから激しく攻撃され、ナポレオンには旧都モスクワを廃墟にされました。そして、「クリミア戦争」での敗北。

 ロシア人は、こういった先祖以来のトラウマによって、国境をなるべく首都から遠方に拡張しようと必死になるのです。

 私見ですが、古代ローマ帝国も同じだったと思います。イタリア半島中部に位置する小さな都市国家だったローマは、いつしかヨーロッパの大部分を支配下に置く巨大帝国に変貌します。そうなったそもそもの動機は何かといえば、草創期にケルト族やカルタゴなどに何度も首都に攻め込まれたトラウマだろうと思います。ローマ人は、首都を守るためになるべく国境線を遠くに置こうとした結果、スコットランドやイランやスーダン方面にまで領土が広がってしまったのです。それが、国家財政などに深刻な障害をもたらし、やがて滅亡に至ります。ロシアもそれと同じだったのでしょう。

 私が何を言いたいかというと、ロシア民族が特別に精神を病んでいるとか異常ということではなくて、同じような歴史的経験を積んだ民族は、みんな似たような道程を辿るはずだということ。我々は、そういった視点で、ロシア人の気持ちを忖度しなければならないのです。もっとも、歴史の中でモンゴルやアメリカにしか攻められたことが無い(いずれも、ほぼ自業自得だし)日本人には、永遠に理解できないことかもしれませんが。

 さて、アレクサンドル2世皇帝が自ら構造改革を指導したことは、仕事を効率的に進められたメリットもある反面、失敗の責任を皇帝自らが背負い込むことに繋がりました。「悪政」によって苦しめられた人々の憎しみが、この人物に集中したのです。

 このころになると、市井の革命家の中には、「真のロシア民族の近代化のためには、ロシア帝国そのものを滅亡させる必要がある」と考える過激派が増えていました。もちろん、権力サイドは、秘密警察オフラーナを駆使してこれらを弾圧します。

 しかし、「人民の意志」を名乗る過激派グループが、執拗に皇帝の命を狙います。秘密警察は、この組織の構成員について詳しく把握していたのにもかかわらず、どういうわけか、彼らに対してほとんど何もしませんでした。数次にわたる暗殺未遂の末、ついに手投げ爆弾がアレクサンドルの命を奪いました(1881年)。彼が、近代的な議会制度を発足しようとした数日前の出来事でした。もしかすると、保守派の大貴族らが裏で糸を引いていたのかも?

 アレクサンドル3世(在位1881~1894年)が急遽その跡を継いだものの、保守反動派のこの人物は、父が着手した構造改革を白紙に戻してしまいました。

 こうしてロシア帝国は、指導者層によるトップダウンの構造改革に待ったをかけられ、いよいよ抜き差しならない状況に陥るのでした。

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