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歴史論説集

概説 ロシア史

ロマノフ王朝の崩壊

 

ニコライ2世とその家族

 

 さて、重苦しい政治の話に戻りましょう。

 保守派のアレクサンドル3世は、父帝の改革路線を完全に否定し、旧来の神権専制政治に回帰しようとします。これはこれで進歩派の憤激を買い、彼も数度にわたって命を狙われました。このうち、ハリキウ近郊で御用列車が爆破脱線させられた暗殺未遂での負傷が祟り、1894年に病没するのでした。

 こうして、息子のニコライ2世(在位1894~1917年)が即位します。彼もまた、保守派の父の薫陶を受けて育ったために守旧的な人物でした。それなりに聡明で、家族思いの優しい心根の持ち主だったようですが、それゆえに側近たちに振り回されて言いなりになる弱さがありました。

 彼がもっと強い人物だったなら、ロシア帝国は延命出来ていたのでしょうか?なかなか難しい問題です。時限爆弾が、たまたま彼の代に爆発したという考え方も出来るからです。

 慢性的な資金難で重税体質だったロシア帝国は、それでもなお、対外的な拡張政策を続けます。その新たなターゲットは、極東でした。

 これは、もともとは財政の専門家セルゲイ・ヴィッテの発案で、ロシア全体の経済力を底上げするべく、シベリア地方から極東を結ぶ市場を活性化させるプランでした。シベリア鉄道を敷設したのも、そのためでした。もちろん、それだけなら戦争にはならないはずですが、様々な貴族や軍人官僚の思惑が積み重なり、ニコライ2世もそれに追随したために、軍隊が極東に配備され、その圧力が満州(中国東北部)や朝鮮半島にまで及んだのです。

 ロシア帝国は、別に侵略をしているつもりはありませんでした。持ち前の「恐怖心」によって、国境線をより遠くに広げ、緩衝地帯をより多く設けようとして、そのための手段として軍隊や軍艦を用いただけなのです。

 しかし、その脅威にさらされる日本やイギリス(当時、中国市場を牛耳っていた)はそうは思いません。特に、日本から見たら、ロシアの態度は侵略としか思えません。追い詰められた気分になった日本は、イギリスと手を組んで軍事的にロシアに立ち向かいます。これが、「日露戦争(1904~1905年)」です。

 ロシアの身勝手な振る舞いによって引き起こされるコミュニケーション・ギャップに基づく深刻なトラブルは、この後の歴史の中でたくさん出てきます。今度のウクライナでの戦争も、根底にあるのはそういうことだと思います。

 さて、ロシアは日本から攻められる事態を全く想定していなかったので、戦場で連戦連敗。逐次投入した援軍も、陸軍海軍ともに各個撃破されてしまいました。ついに、屈辱的な講和条約を受け入れざるを得なくなります。

 こうして、ロシア各地で暴動が起きました。極東の小さな島国との、意味も分からない戦争のために重税を搾り取られた挙句、その島国相手に連戦連敗だったのだから、それこそ民衆の気持ちは収まりません。ついに、圧倒的大多数の民衆が、ロシアの専制政治や神権政治、ひいては皇帝権力に対してまで、根本的な不信感を抱いたのです。

 窮したニコライ皇帝は、憲法と議会政治を本格的に発足させることを約束して(1906年)、怒れる民衆を宥めます。しかし、ロシア帝国はまさに満身創痍でした。

 唯一の延命策は、戦争などのカネがかかる事業を封印して、経済を活性化させることで財政再建を図ることでした。そして、ヴィッテやストルイピンといった有能な経世家のお陰で、この路線は半ば成功しかけていたのです。

 しかし、運命の歯車は非情に回ります。複雑怪奇な安全保障の手違いによって、「第一次世界大戦(1914~1918年)」が勃発するのです。戦争勃発の詳しい経緯については、『概説・第一次世界大戦』を参照してください。

 ニコライ2世は、ロシアの参戦を食い止めるために自ら奔走します。しかし、育ちの良さとプライドの高さが邪魔をして、肝心なところで詰めが甘い。たとえば、ロシア軍の総動員を部分動員に留めていれば、ロシアによる先制攻撃を恐れたドイツによる宣戦布告を阻止できたかもしれません。しかし、意志の弱いニコライは、「部分動員では、本当に戦争が始まった時に的確に対応できません」とのタカ派軍人の主張を却下することが出来なかったのです。外国に対して弱気な態度を取ることは、プライドが許さなかったということもあるようです。まあ、昭和の戦前から戦中にかけての昭和天皇もこんな感じだったのだから、日本人にはニコライを嗤う資格は在りませんけどね。

 それでも、戦いに勝ち続けていれば何とかなったかもしれません。戦争は、麻薬のようなもので、民衆を熱狂させて苦痛を麻痺させる効果があります。ニコライ皇帝も、それが分かっていたので、全軍の陣頭指揮をして勝利を目指すのでした。しかし、現実のロシア軍は、最初の数年しか優勢を保つことが出来ず、1915年のドイツ軍の猛反撃に遭ってからは、全戦線で総崩れとなりました。そもそも、財政難だったロシア帝国は、長期に渡る国家総力戦を戦えるような体力を持っていなかったのです。

 軍服を着て前線で指揮を執ったニコライは、決して怠惰な暗君ではありませんでした。しかし、首都を留守にしたことが大きな禍根となります。留守中の首都ペトログラード(ペテルブルクから改名)で実権を握ったのは、皇后アレクサンドラ(アリックス)と、その側近の怪僧ラスプーチンでした。彼らは、後世誇張されて言われるほど酷い振る舞いやマズい政策をしたわけではないのですが、もともと政治家の資質に欠けていたので、帝国の財政悪化と政治的混乱に歯止めをかけることが出来ませんでした。何よりも民衆が、皇室に対する敬意を完全に失ってしまいました。「ラスプーチンが、皇后の愛人となって政権を私物化している」との風評が一般化してしまったのが致命的だったのです。

 ニコライは、仕事が出来ない皇后とその友人に無理ゲーを強いたようなもので、そういう意味では為政者として欠けるところがあったことは否めません。政治的混乱の中、ラスプーチンは敵対する貴族たちによって暗殺されます。

 そして、ついに革命が起こりました(1917年2月。2月革命)。今度は、「日露戦争」の時のような小規模なものではなく、組織的で大規模なものでした。ニコライは前線で退位を要求され、それに従います。彼の子供はみんな幼かったので、弟に帝位を譲ろうとしたけれど、ロマノフ一族は誰も火中の栗を拾いたがりませんでした。こうして、ロシア国家は、帝政を廃止して共和体制に移行します。

 これが、300年続いたロマノフ王朝の呆気ない終焉でした。

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