歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

歴史論説集

概説 日本史

第六話 南北朝と室町

masasige

皇居前の楠木正成

1、王権の反撃
 
 後醍醐天皇は、たいへんな異才の主であった。言霊文化の宮廷世界で成長したにもかかわらず、この人は現実の「政治」に意欲を燃やした。また、中国渡来の朱子学(儒教)に傾倒したこともあって、朝廷の実権を奪っている鎌倉政権を深く憎んだのである。彼は、幕府を滅ぼし、天皇を中心とした中央集権の官僚国家を創設しようとした。すなわち、日本を摂関藤原氏専断以前の世の中(延喜、天暦の治)に回帰させようと考えたのである。
 
 彼にとって、西国を中心にした反幕府運動は渡りに船であった。しかし、二度にわたる挙兵計画はいずれも密告によって幕府の知るところとなり、かくして元弘二年(1332)、笠置山で挙兵した天皇は捕虜となり、かつての後鳥羽上皇と同様に隠岐へ流されていったのである。
 
 普通なら、これで一件落着である。しかし、今回は承久の乱のときとは時勢が大きく変わっていた。後醍醐天皇の挙兵は、乾燥した森に火を放ったようなものであった。西国の反幕府勢力は、天皇の挙兵によって「大義名分」を与えられた形となり、各地で執拗なゲリラ戦を繰り広げて幕府軍を苦しめたのだ。特に、河内(大阪府)の豪族・楠木正成の勢力は強力で、彼が篭る千早城は、幕府の大軍の猛攻を頑として撥ね付けた。
 
 この情勢を前に、隠岐にも天皇方につく役人が現れて、後醍醐を山陰地方に脱出させた。かくして、天下の情勢は次第に天皇方に傾き、元弘三年(1333)に入ると、幕府を見限った御家人が続々と朝廷に忠誠を誓った。そして、源氏の血を引く足利尊氏と新田義貞が、天皇方に転向し、それぞれ京都と鎌倉を攻略したことによって幕府の命運は尽きたのである。
 
 執権北条一門は、最期まで鎌倉で戦い、壮絶な最期を遂げた。かくして、日本は再び天皇中心の中央集権国家として生まれ変わったのだが・・・。

 
2、建武の新政
 
 後醍醐天皇は、京都に帰って次のような声明を発した。「朕の新儀は、未来の先例なり」。天皇親政のスタートである。元号が建武に代わったことから、この親政は「建武の新政」と呼ばれる(1334年~)。
 
 しかし、この新政府は、構成員同士が最初から同床異夢であった。特に、天皇を中心とする朝廷勢力と、足利尊氏をリーダーと仰ぐ武士団勢力とでは、新政に寄せる期待の内容が根本的に異なっていたのである。
 
 武士団の多くが最終局面で鎌倉政権を見限った理由は、末期の鎌倉政権が、彼らのニーズ(権益保護や利害調整)を満たしてくれなくなったからである。そんな彼らは、鎌倉政権に代わる「新しい幕府」を待望していた。すなわち、商業資本との利害調整能力を持つリニューアル幕府である。
 
 もっとも、後醍醐政権が、彼らのニーズを満たす政策を展開してくれるなら問題はない。しかし、この新政府は失政を繰り返した。最悪だったのは、「公地公民」の建前に回帰するために、諸国の武士の所領をいったん国有化したことである。武士たちは、所領における権益を確保するために、京都で新政府から改めて所領を下賜してもらう手続きを経なければならなくなったのだ。この結果、土地所有を巡って係争事件が相次ぎ、その量は新政府の裁判調停能力のキャパシティを大きく上回ったのである。要するに、日本社会を支える最も重要な基盤階層である武士団は、後醍醐の新政によって、鎌倉政権のときに比べて大きな不利益を蒙ったのである。
 
 日本の政府機能を朝廷の下に一元化しようという後醍醐の政策は、理論的には正しいのかもしれないが、社会の現状を無視した強引なものであった。彼は、もう少し長期的な視野に立って改革を進め、短期的に武士団の権益を保護する政策を取るべきだったのではないだろうか?
 
 朝廷の失政を見て、日本全国で北条一族の残党が反乱を起こした。その中でも最強の勢力を誇る北条時行の軍勢は、鎌倉を占領するほどの威勢を見せた。しかし、朝廷軍の総司令官として足利尊氏が出陣すると、この反乱軍はあっという間に崩壊した。諸国の武士団は、カビの生えた北条幕府の再興よりも、足利尊氏の手によるリニューアル幕府を希望したということだ。それに気づいた尊氏は、鎌倉に腰を据えると、軍功のあった武士団に勝手に恩賞をばら撒いた。これは、事実上の独立宣言であった。
 
 激怒した京都の後醍醐天皇は、新田義貞を司令官とする追討軍を鎌倉に派遣した。いわゆる建武内戦の開幕である(1335年)。これ以降の約60年間、日本は戦乱の渦中に叩き込まれる運命にあった。

 
3、南北朝の戦乱
 
 足利尊氏は、箱根で新田義貞を打ち破ると、彼を追撃する形で京都への西上を開始した。後醍醐政権を倒して、再び幕府政治を開始するためである。その軍勢は10万を数えたと言われる。しかしながら、尊氏は京都で大敗を喫した。後醍醐は、いったん京都を敵に明け渡して比叡山に動座した上で敵の糧道を絶ち、それから諸国の援軍を集めて包囲攻撃したからである。この巧みな戦略の前に、尊氏はとうとう九州にまで落ちのびる体たらくであった。
 
 しかし尊氏は、起死回生の策略で窮地を乗り切った。すなわち、かつて後醍醐に皇位を奪われた皇統(持明院統と呼ばれる。ちなみに後醍醐は大覚寺統)を担ぎ出し、「自分は正しい朝廷のために戦っている」という大義名分を掲げることに成功したのである。
 
 九州で態勢を立て直した尊氏は、再び10万の大軍で京都に攻め上った。兵庫湊川で新田義貞を破り楠木正成を敗死させた彼は、一気に京都を占領し、そして持明院統の皇族を帝位に就けたのである。比叡山、続いて吉野に逃れた後醍醐天皇は、それを認めるはずがなく、こうして日本に二人の天皇が対峙する異様な光景が現出した。南北朝時代の始まりだ(1336年)。
 
 これ以降、諸国の武士団は北朝(尊氏側)か南朝(後醍醐側)に分かれて互いに攻伐を繰り返すことになる。この場合、どちらにも「天皇」という大義名分があるからややこしい。
 
 軍事的には、足利尊氏が擁立した北朝方が優勢であった。後醍醐の新政に失望した武士団の多くが、北朝方に付いたからである。南朝方(後醍醐側)に味方したのは、後醍醐に個人的な深い恩顧を受けた一部の公家(北畠など)か少数の武士団(新田、楠木、名和、菊池など)であり、彼らは時の経過とともに次々に倒されていった。やがて後醍醐も失意のうちに吉野で病死し、天下の帰趨は定まったかに思われた。しかし、乱世はこれからが本番だったのである。
 
 以前にも述べたとおり、幕府というのは一種の「農協」であり、武士団の寄り合い所帯であって、将軍とその血統は、彼らに擁立されているのに過ぎなかった。そんな中で、征夷大将軍を世襲する足利氏に期待されていたのは、武士団の権益確保と相互間の利害調整である。しかし、こういった利害調整の過程では、不満を持ったり負け組に転落する者が当然現れる。そんな連中は、雪辱を晴らすために幕府に敵対的な行動を取るわけだが、彼らは自分たちの行動を正当化する大義名分に恵まれていた。すなわち、南朝の存在である。負け組の連中は、駆け込み寺よろしく吉野に出頭し、南朝の錦の御旗をもらうことで「造反有理」に出来たのだ。つまり、南北の朝廷は、対立する武士団同士が大義名分を得るための道具に使われたというわけだ。これが、南北朝時代の特殊性である。こうして、優勢なはずの幕府(北朝)内部でも恒常的に内紛が起きることになった。
 
 しかし、60年余にも及ぶ戦乱の中で、日本の人口はおおむね増加傾向だったと言われる。気候が温暖期になったこともその理由の一つだが、日本国内での内戦は、欧米や中国でのそれほどには残酷な殲滅戦に発展しないからである。前に述べたように、日本は自然環境に恵まれていて極端な食糧難が生じにくいため、食糧を巡る殺し合い(社会全体での口減らし)を行う必要が乏しい。しかも、南北朝の戦乱は、要するに武士団相互の利害闘争に過ぎないので、庶民はそれを遠くから観望していれば良い立場であった。もちろん、戦場付近の農地は荒らされたり略奪に遭ったりしたであろうが、社会全体としての損失はそれほど深刻なレベルに達しなかったのである。
 
 『太平記』などの戦記文学には、恒常的に10万から100万の大軍が殺し合ったように描かれているが、これは中国の歴史書に影響された小説家の創作であろう。実際には、数百から数千規模の軍勢が矢を射ち合って、先に戦意を無くした方が退却するといった、比較的のんびりした戦争がダラダラ続いたものと思われる。
 
 なお、足利尊氏がひらいたリニューアル幕府は、その本拠地が京都の室町に置かれたことから室町幕府と呼ばれる。この幕府が京都に置かれた理由は、奈良の吉野を本拠とする南朝軍と慢性的な対立状態にあったため、この敵に睨みを利かせる必要があったからである。それに加えて、京都に座す北朝の朝廷が尊氏に擁立された傀儡に過ぎなかったため、王権の膝元にいても、その干渉を恐れる必要が無かったことも理由の一つだったろう。
 
 だが、このリニューアル幕府は、武士団と商業資本の調整をするどころか、そもそも武士団ですら満足に束ねることの出来ない政権であった。その理由は、統治の根拠としての権威が非常に低かったからである。
 
 鎌倉幕府は、いちおう、京都の朝廷の伝統的権威(王権)をバックボーンにして全国に君臨することが出来た。ところが室町幕府は、その前提を満たせなかったのだ。肝心の朝廷の権威が、ガタガタに落ちてしまったからである。

 
4、王権の衰退
 
 南北朝の戦乱で最も大きなダメージを受けたのは「王権」であった。かつて後醍醐天皇は朝廷を、日本を統べる唯一絶対の権力に成長させたかったのだが、蓋を開けたら目算が狂ってしまった。二つに分裂した挙句、武士団に「大義名分創出装置」として使用され続けた朝廷の権威は、ガタガタに落ちた。
 
 ヨーロッパでは、14世紀の教会大分裂(シスマ)によってカトリック教会の権威が地に落ちて、それが宗教改革の淵源になった例がある。日本とヨーロッパで、同じ時期に同じ事件が起きたのは、偶然とはいえ面白い。
 
 足利家執事の高師直は、こんなことを言った。「この世に、天皇とか上皇とかいうのがあるから話がややこしいのだ。いっそのこと、まとめて島流しにするべきだ。どうしてもあれが必要というなら、木像でも飾っておけばよい」。
 
 また、美濃(岐阜県)の豪族・土岐頼遠は、酔って上皇の牛車に出会ったとき、道を開けるように言われて激怒し、「なに、院(上皇)のお通りだと。そうか、犬か。犬ならば射殺してくれる!」と叫び、牛車に矢を射掛けたという。
 
 思えば朝廷は、平安時代以来、政治らしい政治をしないで権威に寄りかかって生きてきた。そして、その権威が無残に崩れ去った今、木像や犬に喩えられるまでに落ちぶれ果てたのである。
 
 しかし、それに代わる政治的権威がこの国にあるかと言えば、それが無いのである。足利将軍家は、単なる「農協の親玉」に過ぎない。その足利家が衰退した後では、日本は事実上の無政府状態に転落していく。それが戦国時代だ。
 
 だが、南北朝時代から、すでに戦国時代の萌芽は生まれていた。各地の武士団は、南北両朝を渡り歩きながら攻伐を繰り返して領土を増やし、やがて中央の命令を聞かなくなった。山陰の山名氏などは、日本66か国のうち11か国を領有し「六分の一殿」と呼ばれたほどである。武士団は、「大名」へと成長を遂げたのだ。
 
 また、朝廷の権威が崩れ去った結果、日本全体に「下克上」と呼ばれる風潮が蔓延した。権威に頼らない能力主義が徹底されたということである。
 
 ただ、足利幕府の中興の祖である義満(三代将軍)の登場で、この混乱は一時的に緩和された。彼は、将軍家の軍事力を高める政策を強行し、その力を背景に、山名氏や土岐氏や大内氏といった巨大武士団を打倒してその勢力を弱めたのである。また義満は、ジリ貧状態の南朝の天皇家に対して次期皇位を約束するなどのペテンを仕掛けて京都に誘致し、これを軟禁状態に置いた。ここにようやく、南北朝は合体を見たのである(1392年)。
 
 足利幕府は、その後も義満以来の強権的恐怖政治で、何とか日本の秩序を維持しようと尽力したのだが、六代将軍・義教が赤松氏に暗殺される事件(嘉吉の乱。1441年)によってこの路線は崩壊した。これ以降、足利幕府は巨大武士団(大名)の利権に翻弄される道具に堕して行く。
 
 そして、将軍の後継者争いに大名同士の勢力争いが複雑にからみ、ついに未曾有の大内乱「応仁の乱」(1467~)が勃発する。10年にも及ぶこの戦争によって京都が一面の焼け野原と化した瞬間に、日本は実力本位の戦国時代に突入するのであった。

 
5、日本文化の確立
 
 南北朝から室町時代というのは、日本史の中でもあまりパッとしない印象がある。その理由を簡単に言えば、大衆作家がテーマに取り上げる機会が少ないためであろう。
 
 戦後の日本史は、教科書や学術書よりも、むしろ小説家の健筆やそれを原作にしたテレビドラマによって日本人の間に浸透している。そして、大衆作家の草分けであった司馬遼太郎氏は、南北朝から室町時代が嫌いで、「この時代はクズみたいな人間しかいない」旨の発言を繰り返した。そして驚くなかれ、この暴言が「歴史の通説」になってしまったのだ。
 
 司馬遼太郎は、たいへん優れた大衆作家であるが、その史観はしょせん「英雄史観」である。すなわち、彼の小説には、大衆を善導できる強大なカリスマ性やリーダーシップを持つ人間が不可欠なのである。そういう意味で、司馬氏は「リーダー不在(と彼が主観的に想像する)」の南北朝室町が嫌いなのだろう。でも、大衆作家の好悪が歴史の通説になるような不健全な環境は異常である。それだけでも、この国の歴史認識の幼稚さが良く分かるというものだ。
 
 南北朝室町期が「リーダー不在」に思える理由は、既存の権威が崩壊し、社会全体が混沌として複雑になったためである。確かに、これでは大衆小説のテーマにはなりにくいだろう。しかし、この混乱こそが、新たな日本を創造するための産みの苦しみだったのである。
 
 思えば、今日の我々が「日本的」とか「日本文化」と言い習わす概念は、室町時代に確立されたものがほとんどである。茶道、華道、俳諧、将棋、囲碁、能、狂言、邦楽、礼式は、いずれも南北朝室町時代に誕生し成熟したのだ。また、いわゆる和式の建築様式(床の間や掛け軸など)も、室町時代に完成されたものである。文学の世界でも、『太平記』、『風姿花伝』などの傑作が生まれている。
 
 八代将軍の足利義政は、政治家としては全く無能で、天皇から叱られるほどの人物であったが、東山文化の発展に絶大な貢献を見せた。そういう意味では、「応仁の乱」を引き起こした優柔不断の足利義政は、日本の大恩人なのである。まあ、こういう政治家は司馬遼太郎には嫌われるのだろうが。
 
 極論を言わせて貰えば、安土桃山から江戸時代の文化は、すべて室町文化の発展改良版(パクり)に過ぎない。また、明治維新以降の文化は欧米の猿真似に過ぎない。悲しむべきことに、いわゆる「日本文化」というものは、南北朝室町時代に誕生し完成し、それ以降は少しの進歩も見せていないのが現実なのだ。
 
 どうして日本文化が、このような政治的混乱期に成熟したのだろうか?それは、「下克上」の風潮によって、それまで朝廷の権威に圧伏されていた武士や民衆の力が、健全な形で社会の表層に溢れ出したからである。
 
 同時代のヨーロッパでは、「教会大分裂」によって教会の権威が衰えた結果、ルネッサンスに代表される新しい優れた文化が大輪の花を咲かせた。それと同じことであろう。
 
 南北朝の内乱は、諸国の武士団を日本全国に東奔西走させたわけだが、このとき、従来は地方ごとに孤立していた遠隔地方の文化同士が激しくぶつかり、相互に創造的な刺激を与えたことも、文化発展の背景を考えた場合に重要だろう。いわゆる地方の「名物」という概念は、南北朝時代に初めて成立したと言われる。また、日本語の共通語が生まれたのは、ようやくこの時代だったという説もある。
 
 南北朝室町は、「クズしかいない駄目な時代」どころか、実は日本史の黄金期だったのだと筆者は考えている。

 
6、大陸との関係
 
 さて、室町幕府と中国大陸の関係はどうだっただろうか?
 
 日本が南北朝の内乱にあえいでいたちょうどそのころ、中国ではモンゴルの元朝が転覆し、漢民族の明帝国が勃興していた(1368年)。
 
 明の初代皇帝・朱元璋は、日本との国交を回復したいと考えて博多に使者を出した。しかしそのころの九州は、懐良親王(後醍醐の皇子)率いる南朝軍に制圧されていたため、明の使者は、北朝の天皇にも足利将軍にも会うことが出来ず、仕方なしに懐良を「日本国王」に任命したのである。ここで、日本国王の叙任を受けたということは、日本が中国と朝貢関係に入ったことを意味する。もっとも、「日本国王」懐良の主権は九州にしか及ばなかったわけだが。
 
 やがて懐良は、足利将軍が派遣した九州探題・今川了俊に敗れて、菊池一族とともに肥後(熊本県)に落ち延びた。この情勢を受けて、明朝は京都の足利義満(三代将軍)を日本国王に任命しなおしたのだが、義満はこれを大いに喜んだようである。彼は、積極的に大陸との交易政策を推進し(勘合貿易)、文化と経済の発展に尽力した。そんな彼は、日本国王としての高まる威信を背景にして皇位簒奪を狙っていたようだが、志半ばにして病没した(1408年)。もしかすると、朝廷勢力によって暗殺されたのかもしれない。
 
 もちろん、大名や民衆も大陸との交易を行っていた。博多などに集中した巨大な商業資本は、積極的に貿易船を出していた。ただ、交易はしばしば略奪という形を取った。すなわち「倭寇」である。
 
 倭寇は、南北朝の戦乱期に経済的に困窮した漁民や地方豪族が、主として朝鮮半島を略奪することから始まった。彼らの胸中には、「元寇の敵討ち」という気分もあったことだろう。しかし、この倭寇は日増しに激しさを強め、いつしか中国大陸沿岸まで襲うようになったのである。
 
 ただ、いわゆる「後期倭寇」は、日本人の仕業ではなかったようだ。これは、政府に不満を持つ朝鮮や中国の土豪や民衆が、日本人の乱暴に便乗して暴れ出し、いつしか本家のお株を奪ったものであるらしい。

 
7、一揆の世界
 
 室町時代、民衆はしばしば「一揆」と呼ばれる騒動を起こした。民衆は、徳政令を求めて高利貸しの土蔵を打ち壊すのみならず、大名同士の戦争に割って入って無理やり停戦させることすらあった(山城国一揆)。
 
 倭寇といい一揆といい、南北朝室町時代の日本人は、非常にバイタリティに富んだ政治意識の高い民族に成長していたのだ。もちろん、為政者の立場から見れば、これらは全て「悪しき下克上」なのだろうが。
 
 ただ、この民衆のパワーを、「民度の向上」と見て手放しに喜ぶことは出来ない。彼らは、権威を失った政府(朝廷と幕府)が無能であることを知るからこそ、「俺たちが立たなければ」「自分の身は自分で守らなければ」という使命感に駆られたのである。
 
 また、この時代は、真宗(親鸞開祖)の一派である一向宗など、鎌倉新仏教系の新興宗教が大ブームとなった。これこそまさに、政府の無能無策ぶりに不安になった民衆が、せめてもの心の慰めを宗教に求めたことの証である。
 
 朝廷の権威が凋落し、室町幕府の機能が衰え、各地で大名同士が私闘を繰り返し、商業資本が「座」と呼ばれる組合を傘に着て搾取を行う時代においては、民衆は政治的にも精神的にも強くならなければならなかった。
 
 しかし、このような過酷な環境だからこそ、豊かな日本文化が鍛えられ育まれたのかもしれない。

ページ上部へ