歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

歴史論説集

概説 日本史

第十話 帝国主義の道

1、帝国主義という時代

 前述のように、日本が多くの犠牲を払って近代化を成し遂げた理由は、欧米列強の侵略からこの国を守るためであった。これは必ずしも杞憂ではない。この当時の世界は、弱肉強食の帝国主義が全盛だったからである。 そこで、しばらく帝国主義の流れについて見ていくこととしよう。

  もともとヨーロッパは、その国土が貧しく生活資源が豊かでなかったので、対外進出の動機を常に抱いていた。しかもこの文明では、いくつもの対等の力を持つ民族国家が複雑なライバル関係にあったため、軍事でも経済でも、常に非常な競争原理に突き動かされていたのである。ヨーロッパで、軍事技術や科学技術が急速に進歩し、産業革命が実現したのはそのためである。

  この文明が、海外に植民地を築いて生活資源を充足しようと考え出したのは、既に15世紀に遡る。嚆矢となったのは、スペインとポルトガルのアジアとアメリカへの進出だ。戦国時代の日本も、鉄砲やキリスト教の伝来という形でその影響を受けている。

 その後、競争の激しいヨーロッパでは、イギリス、オランダ、そしてフランスがこのムーブメントに追随し、こうして両アメリカ大陸の在地文化は破壊され、アフリカ大陸は荒廃の大地と化したのであった。 様々な競争の後、19世紀に独り勝ちを納めたのはイギリスであった。フランスやオランダは、なおも巻き返しを画策していたが、もはやイギリスに大きく引き離された存在であった。

 イギリスは、北アメリカでもインドでも中近東でも、最大のライバルであったフランスを軍事的に圧倒し、「日の沈まない帝国」に成長したのである。大英帝国は、18世紀後半に北アメリカに独立されるというハプニングは起きたものの(1776年、アメリカ合衆国の誕生)、その食指はインドを完全占領し(1858年)、さらに清(中国)を半植民地に貶めるまでに至ったのである。今や、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューギニア、マレー半島、中近東、インド、そしてアフリカの大部分がイギリスの支配領域に組み入れられていた。

  ちなみに、フランスの取り分は、アフリカ西部、ベトナム、シリアといったところ。オランダの取り分は、インドネシア諸島。イタリアの取り分はリビアとソマリア、ベルギーの取り分はコンゴといった具合であった。

 明治維新の当時、世界で有色人種が支配する完全な独立国は、日本、韓国、タイ、トルコ、エチオピアの5つしか無かった(南米諸国は、白人との混血なので除外)。また、長らく東アジアの盟主であった中国は、白人勢力に次々に侵食されてガタガタになっていた。

 日本人が、西欧列強に対して非常な恐怖心を抱いたのは当然であろう。 帝国主義は、日本の戦国時代と全く同じ原理に支配されていた。そこには、「力こそ正義」の完全な実力主義があった。軍事力と経済力が強い国は、どのような非道を働いてもそれがまかり通ったのだ。

 国家間で締結される条約は、こうした暴力を背景にしているため、力の弱いものは日本や中国のように「不平等条約」を押し付けられて泣き寝入りをするしか無かったのである。

  この巨大な暴力に立ち向かうためには、日本は白人列強と同レベルの国力を育成し、これをもって彼らに対抗する以外に道がなかったのである。

 

  2、朝鮮半島と日清戦争

  日本が白人列強に対抗するためには、防衛線の構築が必要不可欠であった。

 北方の防衛線は、ロシアと取り交わした「千島樺太交換条約」で万全である。東方と南方には、広大な太平洋が広がるばかりだ。そこで明治政府は、西方の防衛線を朝鮮半島に求めたのである。

  当時の朝鮮は韓帝国が支配していたが、この国は江戸期の日本以上の儒教国であり、完全な農本主義を施行していたため、近代産業の素養をほとんど持っていなかった。しかも、両班(ヤンパン)と呼ばれる特権階級は、農民を搾取するのに夢中で、既得権益に固執するあまり、国政改革に全く意欲を見せなかった。そして国王も、その上に乗っかって無為無策であった。

  日本は当初、この国の「近代化」を支援し、もって頼りになる盟友関係を築こうと考えていた。「征韓論」は、この過程で起きた議論である。そして日本政府は、朝鮮人の憂国の志士たちを支援したのだが、彼らの革命運動がことごとく失敗に終わったものだから、ついに力づくで朝鮮半島を影響圏に置こうと考えるに至った。

  日本が恐れていたのは、ロシアの南下政策であった。ロシアが朝鮮半島を植民地化する前に、何としてもこの半島を確保しておきたいと願ったのだ。

  この当時、イギリスの世界支配に挑戦状を叩き付けたのはドイツとロシアであった。

  新興国ドイツは、中東地域への浸透を図った。この地域にイギリスの3C政策とドイツの3B政策が激しい火花を散らし、これが第一次世界大戦の遠因となる。

  一方の大農業国ロシアは、産業の育成のために不凍港(冬に凍結しない港)の確保を熱望し、弱体化したトルコを傷めつけてこの領土を奪おうとした。しかし、ロシアの強大化を恐れたイギリスとフランスが介入し、クリミア戦争などでロシアに痛棒を食らわせたのである。

 窮したロシアは、その矛先を極東に向けた。トルコ以上に与し易い中国と韓国を痛めつけて、この地に不凍港を確保しようと狙ったのである。ロシアのこの動きは、完全に日本の利害と対立する。日本が半島への進出を焦ったのは、こうした背景があるからだった。

 しかし、朝鮮半島は、長い歴史の中で中国を宗主国として仰いで来た。そして、中国も朝鮮を従属的な同盟国として庇護して来た。秀吉の朝鮮出兵のとき、明の軍隊が犠牲を払って朝鮮を救ったのはそのためである。つまり、朝鮮半島への進出は、中国との戦争を招来するであろう。

  日本政府は、このリスクを恐れなかった。こうして始まったのが「日清戦争」(1894年)である。近代装備の常備軍を育成した日本軍は、朝鮮半島でも黄海の海上でも、前時代的な清国軍に対して圧倒的に優勢であった。日本軍は、山東半島でも勝利を収め、台湾を完全占領した。 圧勝の中で結ばれた「下関条約」で、日本は中国の宗主権を打破し、朝鮮半島を影響下に置くことに成功した。おまけに、台湾を領土に組み入れた。しかも、中国領である遼東半島の租借権を獲得し、さらに巨額の賠償金まで確保したのであった。

  しかし、ロシアとドイツ、そしてフランスがこれに茶々を入れた。「三国干渉」である。

 密かに中国に領土的欲求を持つ彼らは、日本政府を恫喝して遼東半島の租借権を放棄させたのであった。その後、遼東半島(旅順と大連という不凍港がある)に入り込んだのはロシアである。帝国主義時代というのは、力のある者が、どのような無茶な横暴でも通せる時代だったのだ。

 激怒した日本人は、「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシアへの復讐を誓った。中国から得た賠償金は、全て軍備拡張のために使われた。 やがてロシアの食指が朝鮮半島に伸びるにいたって、ついに日本は立ち上がった。

 「日露戦争」の開幕である。

 

   3、日露戦争の衝撃

 当時の世界を俯瞰すると、帝国主義競争で独り勝ち状態だったイギリスは、猛烈な勢いで追走して来るドイツとロシアに危機感を抱いていた。

 それでも、中東とアフリカに野心を燃やすドイツなら、本土や中東のイギリス軍で十分に牽制出来るだろう。問題は、極東のロシア勢力である。イギリスは、極東地域に軍事拠点を持っていなかったのだ。 そこでイギリスは、日本の軍事力をロシアにぶつける政略を考えた。もちろん、最近になって近代化した貧乏国の日本が、大国ロシアに勝てるとは思えなかったが、何らかの牽制効果は期待出来るだろう。

 こうして結ばれたのが「日英同盟」である(1902年)。 イギリスの利害は、日本の利害と一致する。

  「日露戦争」は、日本軍の奇襲攻撃で開幕した(1904年)。

 朝鮮半島を一気に制圧した日本軍は、その決戦兵力を一挙に遼東半島に突入させたのだ。準備不足のロシア陸軍は、満州北方に退却するばかり。旅順を基地とするロシア海軍も、イギリス製軍艦で強化された日本海軍の猛攻を受けて港湾に閉じ込められてしまった。

  ロシアは、満州の陸海軍に持久戦の方針を採らせ、大急ぎで増援の手配を行った。完成したばかりのシベリア鉄道を通って、陸兵は満州にどしどしと送り込まれ、そしてヨーロッパ方面の艦隊(バルチック艦隊)は、喜望峰経由で極東へと出撃した。

  国力に劣る日本は、援軍に来られては勝ち目が無いので、必死の猛攻撃で短期決戦に持ち込もうとした。旅順要塞の戦いで、乃木第三軍から6万人もの精鋭が戦死したのは、このときの話だ。それでも、ロシア軍は、結局、旅順で破れ、遼陽で破れ、ついに奉天でも破れた。ロシアには、日本を極東の小国と思って侮ったツケが回ったのだ。

  日本軍が優勢に戦えた理由は、イギリスが世界最高の情報インテリジェンスや財政面で支援してくれたことが大きい。それ以上に、国難を救おうとする日本の健児たちの闘志が、ロシア兵のそれを圧倒したことが大きい。日本兵の多くは、この戦争に負けたら祖国は滅亡してしまうと必死の思いだった。これに対し、ロシア兵の多くは、言葉も通じない異郷での戦いに意義を見出すことが出来なかったのである。

  連敗街道を驀進するロシアの最後の切り札は、バルチック艦隊だった。しかし、半年にわたる無茶な遠洋航海で疲労困憊のこの艦隊は、東郷平八郎率いる日本海軍との決戦で全滅し去った(日本海海戦)。

  ここにようやく和平の機運が漲り、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれた(1905年)。アメリカは、密かに東アジアに野心を燃やしていたので、日本を利用してロシアを牽制するというイギリスの戦略に加担していたのである。

  しかし、講和は難航した。日本は、戦場では連戦連勝だったが、短期決戦を志向するあまり人的損害が甚大で武器弾薬も底を尽き、とてもこれ以上は戦える状態でなかった。対するロシアは、財政状態が悪化して国民の怨嗟が地に溢れ、いつ革命が起きてもおかしくない有様だった。満身創痍の両国は、有利な講和を引き出そうと虚虚実実の駆け引きを続けたが、日本は結局、遼東半島と南満州鉄道の租借権を確保し、南樺太を領有することは出来たものの、賠償金をまったく貰えないことに落着した。ロシア人は、昔から外交が上手なのだ。それでも、そのロシア人相手に一歩も退かずに頑張った全権大使の小村寿太郎は、日本史上で最も優秀な外交官だったと思う。

  しかし、日本国民は、戦勝国であるにもかかわらず賠償金が貰えないという現実に激怒した。明治維新以来、我慢に我慢を重ねてきた鬱憤が爆発したのであろう。各地で、反政府デモや交番焼き討ち事件が頻発した。殊勲者の小村寿太郎は、気の毒なことに、身の安全を守るためにお忍びで帰国したのであった。

  日露戦争は、確かに辛勝であった。しかし、世界史に輝く極めて重要な勝利であった。なぜならこれは、「有色人種が白色人種に勝利した歴史上初めての近代戦争」だったからである。白人に搾取されている植民地の民衆は、この勝利に大いに勇気付けられた。自分たちも、日本のように頑張れば必ず自由になれると希望を抱いたのだ。例えば、インドのガンジーが独立運動に自信を持ったのは日本のおかげである。中国でも、孫文などの多くのエリートが、日本を尊敬し、日本を見習い、近代化路線を歩む決意を固めたのだ。

  日本は、日露戦争の苦闘によって、「世界史の流れを正しい方向に変える」という絶大な偉業を成し遂げたのである。我々は、もっともっと誇りに思って良い。

 

   4、幻の民主主義

 日露戦争の勝利は、日本に朝鮮半島はもちろん、中国東北部(満州)に対する巨大な利権への道を開いた。調子に乗ったこの国は、とうとう朝鮮半島を植民地として併合するにいたる(1910年)。今でも朝鮮人が恨みに思う「日帝50年支配」の幕開けだ。

  日本は、歴史の中でいつでも朝鮮半島に迷惑をかけている気がするが、これは地政学的に見て仕方ないのである。だって、日本が対外進出しようと思ったら、その行き先を朝鮮半島にするしかないのだから。

  さて、日本が名実ともに大国の仲間入りを果たしたことから、ついに念願の不平等条約撤廃が成った(1911年)。帝国主義の時代では、「力」を見せさえすれば、どんなことでも適うという好例であろうか。

 しかし、日本が大国に成長したことは、新たなる軋轢の源になった。なにしろ、帝国主義時代は絶え間ない過当競争の連続だから、出る杭は必ず打たれるものなのだ。

  イギリスは、日露戦争の結果、植民地競争からロシアが脱落するのを見て安心したが、その代わりに日本が急激に台頭したのに警戒心を抱いた。また、日露戦後に満州に利権を扶植しようとしたアメリカは、日本にこれを拒絶されて恨みに思った。つまり、昭和の戦争は、既にこのときからレールが敷かれていたのである。

  焦った日本は、むしろ仇敵のロシアと手を組もうとした。しかし、ロシアで社会主義革命が起きたことによって(1917年)この路線は閉ざされてしまう。

  日本が国際的に孤立する傾向は、第一次世界大戦の勃発(1914年)によってさらに深まった。4年に及ぶこの激戦の結果、世界を牛耳ってきたヨーロッパ勢力は互いに傷つけあい壊滅的な打撃を受け、斜陽への道を転落していく。しかし、この戦争で圏外に立った日本は、戦時特需でバブル景気に浮かれ、さらに「日英同盟」の履行を口実にして極東や太平洋のドイツ植民地を片端から奪い取り、さらに、どさくさに紛れて中国への利権伸長を図った(対華二十一か条)。また、ロシア革命の際には、シベリアに大軍を送り込み、一時期バイカル湖以東を制圧した(シベリア出兵)。

  このような大胆な行動は、欧米列強にたいへんな恐怖感を与えた。欧米は当時、これまで有色人種を虐めてきたやましさゆえか、「黄禍論」というのを信じていた。つまり、そのうち黄色人種に仕返しされるのではないかと恐れたのだ。 白人勢力の反日感情は日増しに強まり、やがて、せっかくの「日英同盟」も継続を拒否されたのである。アメリカは、その太平洋方面の大艦隊をわざわざ東京に回航させて脅しをかけたほどだ(白船来航)。

  このような情勢にもかかわらず、大多数の日本人はロシアを負かした優越感から有頂天になり、大国意識を抱いて慢心するようになっていた。まあ、それまでの恐怖感と辛酸を考えれば、反動でそうなっても仕方ないとも言える。

  大正時代は、それゆえに民度が高まり、国民の政治意識が伸長し文化が栄えた。吉野作蔵が唱えた「民本主義」は、この国に民主主義の萌芽を蒔いた。いわゆる「大正デモクラシー」である。 やがて普通選挙が実施され、市井の人々が政党を通して議員になれる時代になった。日本史上初の平民宰相は原敬だった(1919年)。このとき日本は、イギリス型の立憲君主制度を遥かに上回る自由の国になろうとしていた。能力しだいで、誰でも総理大臣になれる国に変わろうとしていたのだ。

  しかし、戦時特需が終わるとバブル景気が崩壊し(1920年)、この国は慢性的な不況に覆われた。さらに、世界大恐慌(1929年~)の勃発が全ての夢を破壊した。 政党政治家たちは経済対策に失敗し、市井は倒産会社と失業者で溢れた。また、士気を落とした政治家たちが収賄スキャンダルを続発させるにいたって、国民は「大正デモクラシー」に深く失望するにいたる。

 人々は考えた。やはり、選挙で出てきた平民よりも、難しい試験に合格した官僚の方が、信頼に値するのではないだろうか?

 こうして、再びこの国は「官僚統制国家」に逆戻りするのであった。 亡国への道が、ここに音を立てて開いた。

 

  5、暴走する官僚

  政党政治が崩壊した後、この国の実権を握ったのは、事もあろうに「軍人官僚」であった。

 日本の陸海軍は、政治家の言うことを聞かずに勝手な行動を取り始めたのである。

  大正期の日本に、民主主義が根付かなかった理由は明白である。 民主主義というのは、もともと民衆が、「市民革命」によって権力者を打倒した後で生まれる政体である。この政体は、かつて暴君によって苦しめられた人々が、「二度と同じ思いをしたくない」と必死になって努力するから維持できるのだ。民主主義は、それほどまでに壊れやすい政体なのである。

 日本の場合、大正時代の民主主義は、一部のインテリが外国の書物で勉強して市井に紹介し、元老政治家がそれを承認したから生まれたものだ。つまり、為政者からトップダウン型で導入されたわけだ。その間、民衆はそれを勝ち得るためにたいした努力をしていないのだから、維持する覚悟も中途半端となる。そんな民主主義が、簡単に失われるのは当然の結果なのだ。 ちなみに、同時期のドイツで、民主的なワイマール共和国が独裁者のヒトラーに簡単に乗っ取られたのは、これと全く同じ理由である。

  なお、今日の日本の民主主義は、戦後になってアメリカ人に押し付けられたものであって、市民にこれを維持する覚悟が乏しいのだから、いつ崩れてもおかしくないような代物だ。我々は、その事実を十分に銘記するべきであろう。

  さて、大正期の経済政策が不調に終わった理由は、政治家の能力不足の他に、軍備拡張問題があった。

 第一次大戦後の国際社会は、従来の帝国主義拡大路線を反省する動きが顕著になった。国際連盟は、しばしば軍縮会議を主催したり、各種の平和条約を仲介したりしていた。しかし、新興国の日本やドイツから見れば、これは「勝ち組」であるイギリスやフランスの勝手な言い分である。「まだ十分な成長を遂げていない」と考える彼らは、むしろ国際連盟に敵意すら抱いたのである。そして、日本の軍人官僚たちがその急先鋒であった。

  ところが、日本の政党政治家たちは、むしろこの平和協調路線を歓迎したのである。前述のように、明治期の日本人が貧困だった理由は、国力を度外視した無理な「富国強兵政策」によるものだが、世界が無法な弱肉強食に狂っているうちはこの路線を改めることは不可能だった。しかし、世界が理性を取り戻して平和協調を謳うのなら、日本は軍事費を削減して国民の幸福を追求することが可能になるというわけだ。

  ところが、軍人官僚たちは、むしろ軍備拡張を求めた。日露戦争で望外の勝利を収めて有頂天になった彼らは、軍事大国化を推進しようと考えたのである。始末の悪いことに、マスコミはおおむね軍人官僚に好意的であった。軍縮を提唱する政党政治家が贈賄スキャンダルに倒れ、あるいは暗殺される事件が相次いだのは(原敬、浜口雄幸)、そのことと深い関係がある。こうして、「軍事費の削減による景気回復策」はその途を閉ざされ、日本は慢性的な不況の中、軍隊だけが威張り腐る国へと堕して行くのであった。江戸期以来の「官僚主導型」システムが、ここで仇となったのだ。

  現在の日本も、それと良く似た状況にあるようだ。マスコミは相変わらず官僚サイドだし、大局観の無い官僚たちや族議員のエゴが、政治の根幹を誤らせている。我が国は、相変わらず徳川家康の呪縛から逃れられずにいる。

  さて、昭和に入ると、軍人官僚の横暴はますます激しさを増した。「5・15事件」(1932年)や「2・26事件」(1936年)を見れば分かるように、彼らは公然と政党政治家を殺しまくったのである。そして無責任なマスコミは、この異常な動きを「世直し」として歓迎する傾向があった。 こうして軍人官僚たちは、政治を完全に壟断するにいたったのだが、視野の狭い彼らは国際情勢の流れを完全に無視する行動に出た。

 やがて日本は全世界から孤立し、そして全世界を相手に絶望的な戦争を挑み、そして紅蓮の炎の中に壊滅するのであった。

 

  6、戦略なき軍事大国

 日露戦争後、大国意識に凝り固まった日本では、たいへんなベビーブームが起きた。この国の総人口は、徳川時代を通して3000万前後、日露戦時で4000万前後しかなかった。それが、昭和戦前には7000万にも膨れ上がっていたのである。つまり、徳川時代の2倍以上になったのだ。

 日本は豊かな国だが、生産資源が乏しい山がちな島国なので、それほど多くの人口は養えない。そこで、日本政府は移民を奨励した。この時期、ハワイ、マリアナ、南米、そして北米への移民が続出したのは、仕方のない成り行きであった。 ところが、日本に対してライバル視を強めるアメリカは、日本人移民を弾圧する政策に打って出た(1913年~)。日本人移民は、大多数のアメリカ人より勤勉で優秀だったので、彼らに職を奪われる白人が続出したせいだ。 こうして日本は、アメリカに対して敵愾心を抱くと同時に、アメリカに受け入れを拒絶された過剰人口を中国大陸に移そうという野心を燃やすようになる。

 これは、日本の実権を握る好戦的な軍人官僚にとっても、軍備拡張の口実が得られて好都合な政策であった。彼らは、国際協調路線を否定して、旧来型の帝国主義路線を貫徹しようとしたのだ。「力こそ正義」というわけだ。

  朝鮮半島の日本軍は、政府の意向を完全に無視して、出先の判断だけで侵略戦争を開始した。すなわち「満州事変」である(1931年)。当時の中国は、清朝の崩壊後、いくつもの軍閥が混戦状態だったため、外国勢力の進出に対して脆弱であった。日本軍は、その隙をついたのであった。これは戦術的には大成功で、中国東北部(満州)はあっという間に征服された。

  新たな領土をゲットした暴走軍人官僚たちは、暗殺の影に怯える政治家たちを操って前時代的な植民地政策を採った。すなわち、清朝の最後の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、これを傀儡皇帝として「満州国」を建国したのである(1932年)。そして、この地に日本人をどしどしと入植させた。この手法は、前世紀に白人列強が用いた常套手段である。

  しかし、国際協調路線を掲げる国際連盟が、このような時代錯誤の無法を認めるはずがない。逆ギレした日本は、国際連盟を脱退する(1933年)。

 同じころ、ヨーロッパではナチスドイツが勃興していた。ドイツは日本とまったく同様に、発展途上の帝国主義国であり、移民の受け入れ先を希求しており、しかも官僚が強権型の統制を行う国であった。そして、その上に君臨するヒトラー総統は、極めて過激な帝国主義者であった。似たもの同志のこの2国は、やがて深く連帯するようになる。

  英米を中心とする国際社会の主流と対立した日本。それならば、ドイツに加えて東アジアの国々と協調すれば良さそうなものだが、事実は逆になった。日本は、中国やソ連とも交戦状態に入ったのである。 視野の狭い官僚が実権を握る国は、大局的な見地から国家戦略を立てることなど出来はしないのである。しかも軍人は、どうしても「暴力」で物事を解決したがる人種である。それが軍人の本質なのであるから仕方ない。

 この国が、戦火の中で滅びたのは自然の成り行きであったろう。

 

   7、日中戦争

 ここで、近代中国の歩みについて概説をしておこう。

  中国は、清朝末期に帝国主義列強の侵略にさらされた。西欧列強は、最初のうちは清を「眠れる獅子」と呼んではばかっていたのだが、「アヘン戦争」(1840~42年)でこの大国を打ち負かした後は、かえって侮るようになる。列強は、清を挑発して戦場で打ち負かすたびに不平等条約を押し付けていき、いつしか中国大陸は白人列強の植民地に成り下がったのだ。

  屈辱にあえぐ中国人たちは、隣国の日本が明治維新を成功させ、しかもロシアを打ち負かしたことに勇気付けられた。孫文や蒋介石は日本で学び、日本の支援のもとに中国の近代化に乗り出したのである。こうして清朝は倒れ、「中華民国」が建国される(1912年)。

 しかし、孫文には、あの広大な大陸を支配するだけの「権威」が欠けていた。そのため、各地で袁世凱などの軍閥が次々に台頭し、大陸は戦国乱世へと突入したのだ。孫文は、「いまだ革命ならず」と悲痛な言葉を残して他界したのだが、その意志を受け継ぐ蒋介石は、南京を首都として、いよいよ中国を武力で統一しようと志した。そして、「北伐」を開始した彼は(1926年)、共産主義勢力を漠北の延安にまで放逐し、今や天下統一を目前にしていた。

  しかし、日本が満州に進出してきたのは、ちょうどそんな時であった。 日本は、中国の混乱に乗じて、かつてのイギリスのように中国市場を牛耳ってしまおうと考えていた。

 しかし、近代化を歩む中国では、魯迅などの文化人の活躍によって、日増しに国民の「愛国心」が高揚していた。つまり、幕末の日本みたいになったのである。彼らは一致団結し、いわゆる攘夷(=抗日運動)が盛んになった。

  この当時、国際協調路線の西欧列強は、既に中国から手を引き始めていた。アメリカは「門戸開放政策」を提唱し、中国市場をオープンにするべきだと主張した。しかし日本は、かたくななまでに旧時代的な植民地政策を貫徹しようとしたのである。こうして日本は、欧米列強のみならず、中国人の燃える愛国心をも敵に回す羽目に陥ったのだ。

 どうして日本が路線変更できなかったかといえば、それは官僚が実権を握っていたからである。官僚という人種は、新しいことを始めたり、やりかけの仕事を諦めたりするのが大嫌いなのである。この国は、滅亡するまで帝国主義を突っ走るほかなかったのである。

 やがて、北京郊外の盧溝橋で、日本軍と中国軍が偶発的な衝突をしたことから日中戦争が始まった(1937年)。日本の近衛内閣は「不拡大路線」を提唱して戦争の早期終結を模索したのだが、軍人官僚とそれと結託する内務官僚がそれを妨害して戦火を煽り立てた。軍人官僚たちは、中国人の愛国心を過小評価し、「簡単に勝てるだろう」と思い込んだのである。軍人の判断なんて、いつの時代もそんなものである。

  だが、日本軍の侵略が激しさを増すにつれ、中国人の愛国心はますます強くなった。蒋介石は、「第二次国共合作」(1937年)によって国内の抵抗勢力と和睦し、まずは中国人全体で日本の侵略に立ち向かう戦略を立てたのであった。こうして戦争は泥沼化した。日本軍は南京や武漢などの主要都市を占領したが、蒋介石は四川省の重慶に逃れてなおも抵抗を継続した。延安の毛沢東率いる共産党勢力も、八路軍などのゲリラ戦術で日本を苦しめた。

  苦闘する蒋介石は、日本を打倒するために欧米列強との同盟を強化した。蒋夫人の宋美齢はワシントンに渡り、積極的なロビー活動を行ったのである。その甲斐あって、英米両国は、ミャンマーなどから物資を送って中国を支援した。彼らとしても、中国市場が日本の独壇場になる事態は避けたいのであった。

 

  8、大日本帝国の滅亡

  日本にとって、アメリカとの関係悪化は、国家の存亡にかかわる重大事態であった。

 この島国は、石油などの生産資源の多くをアメリカからの輸入に依存していたのである。そのアメリカは、移民問題や中国市場の帰属を巡って日本との対立を深めて行くばかり。

 見識のある日本の政治家たちは、懸命に打開策を模索した。しかし、この国の実権を握るのは軍人官僚である。彼らは仏領インドシナ(ベトナム)に軍隊を派遣してこの地域を占領し、かえってアメリカの怒りの炎に油を注いだのだった。 また、視野の狭い軍人官僚たちは、満州の国境線を巡る問題で、しばしばソ連と大規模な衝突を起こしていた(張鼓峰事件、ノモンハン事件)。つまり日本は、国境を接する全ての国と敵対関係に入ったわけだ。これほど愚かな話は滅多に聞かない。それでも、ソ連とはなんとか仲直りが出来て「日ソ中立条約」を結ぶ運びになったのだが(1941年)。

  カオスが深まる中、近衛内閣の外務大臣であった松岡洋右は、ナチスドイツとの同盟で事態を切り抜けようとした。当時のドイツは、イギリスやフランスと戦争状態にあり(第二次世界大戦、1939~)、しかもフランスを占領するなどの軍事的優位にあった。日本軍がフランスの植民地であったベトナムを接収できたのは、この情勢を背景にしていたのだ。そのため、松岡大臣のみならず、軍人官僚の多くも、ドイツに憧れ、ドイツを見習おうと考えていたのである。 こうして、「日独伊三国同盟」が締結される(1940年)。

 だが、これは最悪の選択であった。この当時、イギリスのみならずアメリカもドイツと敵対関係にあったからである。彼らは、日本をドイツの一味と見なし「悪の枢軸」と認定するにいたった。

  もちろん、それを知る松岡は、今度はソ連との同盟を強化しようとした。ソ連を三国同盟に引き入れようと考えたのだ。彼は、もしもソ連とドイツが共に日本の味方につけば、アメリカもその勢威に恐れをなして仲直りしてくれるだろうと期待したのである。 ところが、ドイツとソ連が戦争を始めてしまった(1941年6月)。これで、三国同盟にソ連を引き入れることが不可能になり、松岡の奇策は見事に空中分解を遂げたのだ。

  そんな中、日本を憎むアメリカは、ついに日本向けの石油をストップし、中国大陸からの撤兵を強く求めた。石油を止められたら、もはや戦争どころじゃない。普通なら、ここで矛を収めることを考えるはずだ。しかし、日本は「好戦的な軍人官僚の国」だったので、アメリカから力づくで石油を分捕る気になったのだ。

  日本の国力は、アメリカの1/20。とてもじゃないが勝ち目は無い。でも、暴走する軍人官僚には、そんな理屈は通用しない。もともと、だからこそ中国やソ連に向こう見ずな喧嘩を吹っかけたのだから。

  こうして、太平洋戦争が勃発した(1941~45年)。

  この戦争の詳しい経緯については、論説コーナー別掲の「概説 太平洋戦争」を参照していただきたい。

 日本は、ドイツと同様に廃墟となった。

  アメリカの星条旗がはためく下で、大日本帝国は滅亡したのである。

ページ上部へ