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歴史論説集

概説 太平洋戦争

第二十二話 終戦工作その2

1.天皇制と日本神道

  終戦工作の話を続ける前に、閑話休題。

  これまでの私の記述を読んで、不思議に思った人もいるでしょう。

  どうして、日本の兵士たちは、バカな上司のアホウな命令を素直に聞いて、玉砕するまで戦ったのか?「戦陣訓」という通達の存在だけでは説明がつきません。 どうして、政治家達は、終戦工作で「天皇制の存続」にあれほど拘ったのか?戦後生まれの人々には、今ひとつピンと来ないのではないでしょうか?

 この不思議を説明する重要なキーワードがあります。すなわち、「国家神道」です。

 これは、どういうものか?

 端的に言うなら、日本古来の「神道」の理念が、江戸末期からはびこり出した「朱子学の大義名分論」と、いびつな形で結合した結果生まれた、全体主義イデオロギーです。

 すなわち、「日本国民は天皇陛下の赤子である。天皇陛下のために死ぬのが赤子たる国民の義務である!」という思想です。多くの日本人が、この思想を、全体主義的学校教育で、徹底的に教え込まれていました。 だから、ほとんどの国民は、天皇の名のもとに戦われた戦争を喜んで受け入れ、窮乏生活にも耐え、甘んじて玉砕し、特攻していったのです。

 もちろん、天皇自らがこのような命令を出すはずがありません(正確には、命令を出す権限が無かった)。天皇の名を騙る軍部が、自分達の省益拡大に都合が良いように、「国家神道」を利用したのです。

  どうして、このような恐ろしいことになったのでしょうか?

  まず、「神道」の話をしましょう。

 「神道」というのは、日本最古の宗教ですが、今でも古代のままの姿で存続しているという、珍しい特徴をもっています。その本質は、自然崇拝(アニミズム)に基づく多神教です。

  実は、中国でもインドでもヨーロッパでも、原始宗教はこのような形態をとっていたのです。しかし、歴史の波に翻弄されているうちに、このような宗教は、いつしか変質して風化していったのです。

  唯一の例外が、日本の神道です。日本は、地理的に東アジアのはずれに位置し、外国に征服された経験がない事が幸いしたのでしょう。原始宗教が、そのまま生き残ったのです。

 自然崇拝に基づく多神教とは何か?

 端的に言えば、森羅万象の全てに、それぞれ、神が宿っているという考え方です。神社のご神体を見たことがあるでしょう?いろいろな形態を持っていますね。木切れだったり、石ころだったり、古木だったり滝だったりするでしょう?死んだ人も神になることがあります。天満宮は菅原道真を祀っているし、東照宮は徳川家康を祀っています。私の家の近所にあった松蔭神社は、その名のとおり、吉田松蔭を祀っていますよ。つまり、何でもアリなのです。森羅万象の全てに神さまが棲んでいるのです。

 イザナミは、どうして死んだのか覚えていますか?彼女は、「火」を生んで火傷で死んだのです。そんなもの生むなよ!とか思うのですが、こうして生まれた「火」は、やっぱり神様なのです。 とにかく、数え切れないほど神様がいるのです。人間は、まさに「八百万(やおよろず)の神」に囲まれて生活しているのです。美しい景色や、暖かい人情、その影に、常に神様が棲んでいるのです。

  神道は、実は宗教ではない、という見方があります。それも、もっともです。なぜなら、神道には、他の宗教に付き物の「義務や束縛」が一つもないからです。日曜日に教会に行く必要は無いし、豚肉を食べても戒律違反にならないし、割礼を受ける必要もありません。座禅も念仏も、徳を養う必要もありません。本当に、自然で伸びやかなのです。初詣も七五三も、興味が無いなら行かなくて良いのです。それが神道なのです。

  日本人の柔軟性や呑気さというのは、神道が文化の基礎にあるからだと思います。日本人は、仏教もキリスト教も儒教も、実に柔軟に受け入れて来ました。しかし、本来の形では決して受け入れません。どこか、咀嚼しやすいように改造して受け入れるのです。これは、どういうことか?外国の神々を、神道の神々の一人として受け入れるからです。つまり、外来の宗教は、全て神道に吸収されてしまったのです。

 クリスマスやバレンタインデーの催しや教会での結婚式も、形はキリスト教に見えますが、実際には神道なのです。だから、多くの日本人は、何の違和感も覚えずに、クリスマスと初詣を共に楽しむことが出来るのです。これを「無節操」だと感じる人は、実は神道という概念が分かっていないのです。

  遠藤周作は、「本来のキリスト教」と「神道化したキリスト教」の狭間で悩んだ人です。彼の代表作『沈黙』、『海と毒薬』のテーマは、ズバリ、これです。彼の作品が 不朽の価値を誇るのは、その作品が日本人の本質に迫っているからなのです。

  さて、日本の歴史や文化をつぶさに見ていくと、いかに神道という概念が日本民族の基礎にあるのか、本当に驚かされます。日本人の独特の個性は、全て神道で説明がつくことばかりです。

 例えば、井沢元彦氏がしきりに主張する「言霊」や「怨霊信仰」など。 私見では、日本人は無宗教ではありません。本当は、みな、神道の信者なのです。戦後教育のゆがみによって、その事を忘れているだけなのです。

 さて、神道は、束縛の無い自由な信仰だと言いました。しかし、人間と八百万の神々を結び、感謝を捧げたり謝ったりする「束縛」を負う人が、一人だけいるのです。それが、天皇です。天皇制というのは、神道と切っても切れない深い関係を持っているのです。今でも、大嘗祭とかやっているでしょう?あれは、国民みんなに成り代わって、天皇が神々とお話しているのです。

 いわば、天皇というのは、神道の中枢であり、日本民族のアイデンティティの核なのです。 そうとでも考えなければ、説明がつかないことが多すぎます。私は万世一系を信じません。しかし、天皇制という制度が、これほどの激動の歳月を無傷で乗り切ったことには、驚きを禁じえません。天皇制を守ってきたのは、天皇だけが持つ「宗教的権威」です。誰も、天皇に成り代わって神々とお話できないのです。そして、天皇制を滅ぼすことは、神道を滅ぼすこととイコールなのです。だから、天皇制は、世界一長く存続できたのです。

  戦後生まれの日本人は、以上の事をほとんど知りません。

 なぜか?

 戦後の学校教育が、神道や天皇制を否定する方向に動いたからです。これには二つの理由があります。一つは、戦前の「国家神道」によって酷い目にあった人々が、神道そのものを忘れようとしたこと。一つは、戦後の文部省を牛耳った日教組が、左翼に偏向していた事です。

 左翼というのは、宗教を否定するでしょう?彼らは、子供たちに、神道を「過去の遺物」だと教えたのです。神道自体が、義務や束縛を伴わない概念ゆえ、忘れ去りやすい性質を持っていたのも、この傾向を助長しました。 天皇制を否定しようとか、天皇を税金泥棒だと思う人は、要するに左翼に洗脳されているのです。天皇制の否定は、すなわち、神道の絶滅と日本人のアイデンティティの喪失に繋がると思うのですが、どうでしょう。

  しかし、戦前の人々は、逆な意味で思想的に洗脳されていたのです。彼らは、なぜか、優しく穏やかなはずの神道に「束縛」されて、死を強制させられたのです。これは、たいへんに異常な状況でした。神道は、突然変異で変質してしまったのです。

  この謎を解く鍵は、朱子学です。

 

2.朱子学と国家神道  

 さてさて、アジア大陸の皆様から蛇蠍のように恐れられる「皇国史観」。どうして、こんなトンデモナイものが生まれたのでしょうか?

  まずは朱子学の話。

 誰が考えたかと言うと、10世紀の南宋の朱熹という先生です。

  当時の中国はどんなだったかと言うと、西夏やら遼やら金やらといった蛮族(差別語?)に攻め立てられて、中華民族国家は、滅亡の危機に瀕していたのです。宋の軍隊は、ビックリするくらいに戦争が弱かったのです。どうしてか?受験(科挙)の成績で将軍を選んでいたからです。紙の上でしか世間を知らない頭でっかちの将軍たちは、北方のバンカラな奴らの前に、連敗街道を驀進しちゃったのでした。ん?これって、どこかで聞いたような話ですね。デジャブかな?

  ともあれ、中国人は南へ南へと追い詰められて、劣等感にさらされていたのです。彼らは、「腕力では負けてもハートじゃ、負けねえゼ!」とばかりに理論武装を始めたのです。つまり、「正議」の思想です。この世には、絶対に変えられない「正議」というものがあり、これを守るのが士大夫(エリート)の務めだというわけです。蛮族どもは、喧嘩は強いかもしれないが、「正議」が無いから駄目なんだ、と言いたいわけです。

 この「正議」というのは、基本的には儒教の思想に基づいています。従来の社会の枠組みを全面的に肯定し、皇帝に代表される絶対権力を擁護する考え方でした。

  この思想は、例によって例のごとく、変形して日本に導入されました。 最初にマイブームにしたのは、どうやら後醍醐天皇のようです。この人は、しかし儒教の信奉者ではありませんでした。朱子学の中で、自分に都合の良い部分だけを利用したのです。すなわち、「鎌倉幕府打倒」の思想的武器として。

  後醍醐天皇というのは、「宗教的権威」というより「政治カリスマ」でした。南北朝~桃山時代までの日本というのは、この巨人の呪縛の中であがいていたのです。 この人は、土地政策の失敗によって没落するので、あまり大した人ではなかったように言われています。しかし、彼は従来の日本の枠組みを脱するような、画期的な施策をいくつも行なっているのです。その中で最大のものが、実は「能力主義的人材登用」でした。これ以前の日本社会というのは、インド人もビックリの、バリバリの身分差別社会でした。貴族と平民といった大きな枠組みのそれぞれの中で、門閥家柄や土地の所有関係を根拠とした、厳しい差別が行なわれていたのです。 例えば、「非人」。白土三平氏の『カムイ伝』を読んだ人ならピンと来るでしょうが、牛や馬を殺し革製品を作る人々です。神道の「死穢」という考え方の影響で、たいへんな迫害を受けていたのです。この問題は、「部落差別」として、現代でも継続していますね。同じ民族、同じ宗教、同じ言語なのに差別するというのは、実は外国にはあまり例の無いことなのです。

 日本人は、自分達が思っているほどには、寛容でもリベラルでもないのでしょう。

  後醍醐天皇は、こうした状況を一から覆そうとしました。彼は、幕府を打倒するための軍事力として、これらの被差別民を大量に動員したのです。もちろん、非人だけではありません。当時の被差別民は、「土地を所有しないもの」でした。従って、木こり、炭焼き、猟師、漁師はもちろん、商人や運送業者、芸能人も身分差別の対象になっていました。後醍醐政権というのは、こうした人々を糾合した、まさに「異形の王権」だったのです。

 後醍醐は、倒幕に成功した後も、従来の身分制度を打破し、能力基準で広く人材を登用していきました。この過程で、後醍醐のために「玉砕する」南朝の忠臣たちが登場するのです。 彼らのプロフィールを見ましょう。 ①楠木、名和氏・・・豪族だが、実態は武装商人だった。 ②新田、菊池氏・・・名門の末裔だが、実態は没落した田舎豪族だった。 ③日野、北畠氏・・・貴族だが、カーストの最下層にいた。 彼らは、従来の制度の下では、生涯、日の目を見ることができない闇の世界の住人だったのです。後醍醐政権の内部でしか、栄光を謳歌出来ない人々だったのです。だからこそ、玉砕するまで南朝のために戦ったのです。いわば、後醍醐天皇という政治カリスマがもたらした、歴史の中の例外的な現象だったのです。

  昭和戦前では、しかし恐るべきことに、この「例外」が「原則」に昇格したのです。制度の歪みに殺された楠木正成や新田義貞が、「天皇のために身命を投げ打った無双の忠臣」にされたというわけです。

  さて、後醍醐天皇の野望は、足利尊氏の前に費え去りました。尊氏は、復古政策を取ることで既得権益を持つ人々の支持を取り付け、南朝に群がる新興勢力を打倒したのです。しかし、南北朝合体後も、後醍醐の巻いた種は育ちつづけました。これが、室町幕府を倒壊させた「下克上」です。この最終的な結論こそ、土民出身の豊臣秀吉による天下統一でした。秀吉は、いわば後醍醐の怨念の落とし子だったのかもしれません。

 この強烈な後醍醐シンドロームを打破したのが、徳川家康です。彼は、「士農工商」に代表される身分カーストを復活させました。そして、これを補強する材料として「朱子学」を利用したのでした。つまり、徳川さまに「正議」があるのだから、日本人は徳川様や武士を敬いましょう!ということになったのです。 徳川時代260年、朱子学は変質して国学への道を開きました。朱子学の理想を突き詰めていけば、日本で一番偉い人は「天皇」なのです。だったら、幕府を倒して政権を天皇に返すのが「正議」なのでは?こうして、尊皇攘夷運動が巻き起こったのです。幕府は、いわば自分で自分の首を締めたのです。

 維新の志士たちは、泥水をすすり血の雨をかいくぐりながら、南朝の忠臣たちに思いを寄せつづけました。「俺たちも、正成や義貞のように戦って死ぬのだ!」。彼らのこの篤い思いが、徳川幕府を倒し、明治政府を生み出したのです。明治政府が、明治天皇が北朝の血筋であるにもかかわらず、南朝を正統としたのは、このような背景があったからなのです。

 明治の日本は、迫り来る西欧の圧力に抗すべく、「富国強兵政策」を推進しました。国民の生活を犠牲にして、国力を富ませる政策を強行したのです。「ああ、野麦峠」の世界です。そして、朱子学の考え方は、この強圧的な政策を正当化したのでした。「天皇が正議だ!天皇の為に過労死するのは当たり前だ!」というわけ。そして、南朝の忠臣たちが持て囃され、日本人の理想と言う事にされたのです。足利尊氏を誉めた学者は、たちまち学界を追放されるという、狂気の時代になったのです。

 もともと、天皇は、神道の大祭主として「宗教的権威」を持っていました。この「権威」が、朱子学のバックボーンとして大きく働いたことも、見落とすことができません。 いつしか、大多数の日本人は、「天皇のためなら死ぬのが当然」という異常な空気に慣らされてしまいました。これに、憲法の不備が重なって、省益拡大を狙う軍部に利用されてしまったのです。 これが、昭和の悲劇の実相なのです。

 日本国民は、軍部に騙されて、無謀な戦争で多くの犠牲を出し、周辺諸国に多大な被害を与えました。そしていまや、日本そのものが滅亡の危機にさらされていたのです!

 軍部を打倒できるのは、ただ一人。昭和天皇ただ一人だったのです。

 

3.終戦の日

  時に8月9日午前11時。鈴木貫太郎首相は、要人会議を開催し、開口一番こう言いました。

 「四囲の情勢上、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない、と私は思っている。皆さんのご意見を聞きたい」

 要人たち(外相の東郷茂徳、陸相の阿南惟幾、海相の米内光政、参謀総長の梅津美治郎、軍令部総長の豊田副武)の間に、沈黙が走りました。 すかさず、東郷が立ち上がり、二つの案を出して採決を迫りました。鈴木と東郷は、示し合わせていたのでしょう。

  ①天皇制の護持だけを要求して、ポツダム宣言を受け入れる。 ②天皇制の護持に加えて、国家主権の確保や軍隊の自主的武装解除などを要求した上で、ポツダム宣言を受け入れる。

 鈴木と東郷に続いて、米内も、すかさず①案に賛成しました。米内の率いる海軍は、すでに特攻機以外は全滅していたので、強硬論を唱えることは不可能でした。そこを、鈴木や東郷に取り込まれたというわけです。 残りの三人は主戦論だったのですが、会議のテンポに付いていけず、なんとか②案を支持するのが精一杯でした。

  3対3の対決です。

 議論は堂々巡りとなって、2時半になりました。この日は閣議が予定されていたので、六人会議は中断となり、閣議の後で続きを行なうことになったのです。

  このときの閣議は、実は、鈴木内閣最大のピンチでした。鈴木は、その施策の目玉として「ソ連を介した一般講和(降伏と言うと軍部が黙っていないので、こういう言葉で誤魔化していた)」を掲げていました。そしてソ連の裏切りによって、鈴木の威信は地に落ちていたのです。現に、幾人もの大臣が、鈴木に辞任を迫るような発言をしました。しかし、鈴木は、意志の力で持ちこたえたのです。

 このとき、状況のキャスティングボードを握っていたのは、陸相の阿南でした。彼が辞表を叩きつけて、陸軍省が後任の選出を拒んだら、鈴木内閣は崩壊するしかなかったのです。しかし、奇妙なことに、阿南はこの手を使おうとしませんでした。ならば、鈴木を応援したのか?全く逆です。「ポツダム宣言の全面否定」と「本土決戦の完遂」を、声高に叫びつづけたのです!

  実に奇妙な状況でした。阿南の真意はどこにあったのか?恐らく、六人会議での②案だったのでしょう。彼が、ことさらに強硬論を唱えた理由は、クーデターを目論む陸軍内部の不穏分子(②案すら反対)を撹乱し、その動きを封じるためだったと思うのです。人望家の阿南が強硬論でいるうちは、不穏分子たちも軽挙妄動を慎むはずだからです。

  とにかく、午後10時半になっても、議論に決着が付きませんでした。実は、多数決を採れば、宣言受諾派に勝算がありました。しかし、もしもこれをやれば、憤激した陸軍強硬派がクーデターを起こすことは必至だったのです。鈴木は、陸軍を完膚なきまでに叩き潰す形で閣議を纏めなければならなかったのです。そして、陸軍を倒す手段は一つしかありません。

  ついに鈴木は、型破りな決断をしました。歴史を変える決断です。

  休憩時間に、彼は東郷とともに皇居に行って、天皇に直接、御前会議の開催を申し入れたのです。

 天皇は、大きく頷きました。

 御前会議の開催には、出席者全員の署名と花押が必要でした。ただ、これでは実務的に面倒なので、御前会議に出席できるような大物は、みな事前に署名と花押を書いた紙を書記官長に渡しておいたのです。そして、これを勝手に使用することは禁じられていました。ところが鈴木は、書記官長と相談し、この「白紙委任状」を持ち出して、いわば強制的に御前会議を開催したのでした。

 また、当時の制度では、国際関係に関する決議は、通常の閣議で決定した事項を、枢密院の審議にかけて、その結果を天皇に報告するという仕組みになっていました。つまり、天皇の前で国際関係が決定されることはありえなかったのです。鈴木は、この難関を乗り越えるために術策を用いました。枢密院議長の平沼騏一郎を、御前会議のゲストとして迎え入れたのです。

 陸軍シンパの閣僚たちは、この型破りなやり方に不穏な物を感じて怒りました。しかし鈴木と東郷は、「陛下の前で議論をするだけで、絶対に何も決定しないから!」と言って宥めたのです。

 強硬派の首魁だった阿南の態度は、しかし意外でした。「そうか」と一言つぶやいて、鈴木の行動を容認したのです。阿南は、すでに覚悟を決めていたのかもしれません。

 こうして、なし崩し的に御前会議が始まったのです。 午後11時50分、東郷が提示した①案と②案を巡って、激しい議論の応酬が戦われました。

 ①案支持は、鈴木、東郷、米内、平沼です。

 ②案支持は、阿南、梅津、豊田でした。

 両者は真っ向からぶつかり一歩も退かず、ついに時刻は、8月10日午前2時。 そのときでした。鈴木が立ち上がり、天皇の前に進み出たのです。

  驚いた阿南は、「総理」と声をかけ、しかしそのまま沈黙しました。彼は、運命の時を悟ったのかもしれません。

  鈴木は、天皇に言いました。

  「すでに長時間にわたって論議を尽くして参りましたが、結論を得るに至りません。しかし、事は極めて重大であり、かつ一刻の猶予も許されない状態であります。前例も無く、はなはだ畏れ多い極みでございますが、このさい陛下の思し召しをうかがい、それをもって本会議の決定と致したいと存じます」

  天皇に意見を要請し、これを結論とするのは、まさに異例中の異例です。しかし、天皇があくまで「意見」を言うのであれば、憲法違反ではないのです。鈴木は、憲法の規程解釈ギリギリの線で、命懸けの勝負を賭けたのでした。

 彼は、ボケ老人のように見えて、実は昭和の日本で最高の英傑だったのです!

 そして、昭和天皇は、鈴木の期待に見事に応えました。溢れる涙を拭いながら述べた言葉を全文掲載しましょう!

 「それならば、私が意見を言おう。さきほどから外務大臣の申しているところ(①案)に同意である。 念のために理由を申しておく。戦争が始まって以来、陸海軍のしてきた事は、どうも予定と結果が違う場合が多い。いま陸海軍は本土決戦の準備をしていて、その勝算もあるように申しているが、その点についても心配している。先日、参謀総長から九十九里浜の防衛について話を聞いたが、侍従武官が現地を見てきての報告では、総長の話とは違っていて、防御対策はほとんどできていないようである。また、新編成の師団について、総長は装備完了といっていたが、実際には、兵士に銃剣さえも支給されていない有様であることも分かった。こういうことで本土決戦に突入したら、どうなるか。私は、非常に心配である。

 あるいは、日本民族はみんな死んでしまわなければならないことになるのではないか。そうなったら、先祖から受け継いできたこの日本という国を、子孫に伝えることができなくなる。日本を子孫に伝えるためには、一人でも多くの国民に生き残ってもらい、その人たちに再び立ち上がってもらうほかに道はない。

 また、これ以上、戦争を続ければ、日本国民だけでなく、外国の人々も多くの損害を受けることになる。 私としては、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍び難いことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽くした人であることを思うと、堪え難いことである。 しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍び難いことも忍ばねばならないと思う。

 私はいま、日清戦争のあとの三国干渉のときの明治天皇のお心持ち(臥薪嘗胆)を考えている。

 皆のものは、私のことを心配しているようだが、私はどうなっても構わない。私は、こういう風に考えて、戦争を速やかに終結する決心をしたのだ。

 兵士や国民は良く戦った。多くの人が戦死し、傷つき、空襲で死傷し、財産を失った。その人たちや遺族の事を考えると、まことに胸がかきむしられるようだ。また、外地にいる人たちのことも心配でたまらない」

 天皇の話は30分以上も続き、会議室は要人たちの嗚咽で埋め尽くされました。

 天皇の言葉は少々回りくどいので、要点を解説します。話の前段で、軍部の無能と嘘つきを非難しています。これは、軍部から虎の皮を剥がす言葉でした。後段では、天皇のための「正議」を、国民のための「正議」へと置き換えました。これで、人々は「国家神道」の悪夢の呪縛から解放されたのです。

 鈴木は、声高に言いました。

 「陛下の思し召しをもって、この会議の結論と致します」

 この後、午前3時から再開された閣議で、ポツダム宣言の受諾が正式に決定されました。午前4時、東郷はその足で外務省に走り、連合軍への通告電文を起草しました。

 アメリカ側は、なおもスッタモンダしましたが、日本側の要求を受け入れ、天皇制の護持という有条件降伏を認めました。  日本の戦争は、こうして終わりを告げたのです。

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