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歴史論説集

概説 チェコ史

第二話 スラヴ民族大移動

morava

9世紀の大モラビア王国

 

 オタマジャクシの頭みたいな形のチェコの国土は、その縁の部分を高い山々に囲まれた盆地になっています。この盆地の西北部はボヘミア地方、盆地の東南部はモラビア地方と呼ばれています。ボヘミアは丘陵と森林に覆われていますが、モラビアは豊かな農地に恵まれた平野がちの土地柄です。

 さて、この巨大な盆地には、紀元前1世紀からケルト系民族のボイイ人が、狩猟採集などをして暮らしていました。ボヘミアという呼称は、「ボイイ人の土地」という意味から来ているのです。

 やがて、南から農耕文明のローマ帝国が北上してきますが、彼らはドナウ河畔で進出を止めたため、その北方のチェコは、相変わらず狩猟採集の生活を送っていました。

 6世紀に入ると、ボイイ人はゲルマン族に押される形で西に移動し、代わりに住み着いたゲルマン人が、サモ王国を樹立します。しかし、7世紀以降のいわゆる「民族大移動」の渦中でサモ王国は滅亡。東から襲来してきたゲルマン族やフン族が、チェコを通り過ぎて西に去った後、この地にやってきたのはスラヴ民族でした。

 スラヴ民族は、ロシア南部に居住していた人々です。いわゆる「民族大移動」の原因は、気候変化による世界的な大凶作によるものと考えられますが、スラヴ人たちもその影響を受け、父祖の土地を捨てて、新たなフロンティアを目指してやってきたのです。

 彼らは、当初は部族単位でめいめいに暮らしていたのですが、やがて強力な指導者のもとに王国を樹立するに至ります。9世紀前半の「大モラビア王国」の建国です。

 強勢を誇った「大モラビア王国」の国土は、オーストリアとハンガリーとポーランドの大部分を包含していたようです。建国当時のチェコは、西隣の「フランク王国」に負けない大国だったのです。

 しかし、この国の栄光は、一瞬にして崩れ去ります。10世紀、東方から進出してきた遊牧騎馬民族のマジャール人が、雄たけびをあげて襲い掛かってきたからです。「大モラビア王国」は滅亡し(906年)、生き残ったチェコ人たちは部族ごとにボヘミアへ逃げました。もはやチェコは終わりかと思われたそのとき、西から救いの手が伸びたのです。

 「東フランク王国」の名君オットー1世の登場です。

 先に西方に大移動したゲルマン族は、死に体のローマ帝国を巻き込んで、互いに激しい攻伐を繰り返していましたが、ようやくカール大帝(シャルルマーニュ)の指導の下、「フランク王国」の安定を取り戻していました。しかし、大帝の死後、彼の子孫たちは王国を三分割しました。これらが、それぞれフランス、ドイツ、イタリアの前身となるのです。

そして、ドイツの前身である「東フランク王国」を統べるオットー1世は、東から迫る脅威に積極的に対応しました。彼は旗下の全軍を率い、ボヘミア地方で震えるチェコ人たちと合流してマジャール人を迎え撃ち、これを完膚なきまでに叩きのめしたのです。

敗れたマジャール人たちは、やむなくドナウ沿岸のカルパチア平原に移動し、ここに定住しました。これが、今日のハンガリーです。チェコとハンガリーは、あまり仲が良くないのですが、それは建国当初からの因縁のなせる業でしょうか?

さて、かろうじて滅亡を免れたチェコ人たちは、成り行き上、「東フランク王国」の従属的な同盟者となりました。その国内は、再び多くの豪族(貴族)が群雄割拠する様相を呈したのですが、やがて10世紀初頭、プシェミスル家のポジボイを中心に纏まります。こうして建国されたのが「ボヘミア王国」です。この国は、形式上は、チェコスロヴァキア共和国の成立まで約1000年にわたって存続するのです。

 この王国を統べるプシェミスル家は、当時のヨーロッパで有数の富裕な王家でした。その理由は、チェコ国内の交易ルートを押さえ、ここに関税を課したからです。

 前述のとおり、チェコはヨーロッパの真ん中に位置するので、東西南北の交易ルートは必ずこの地を通るのです。中でも最も重要な場所は、ボヘミアの中央部に位置するヴルタヴァ川の渡河点でした。ここは開けた浅瀬になっており、交易にはもってこいの要地だったのです。プシェミスル家は、最初は代官を派遣して関所を置くだけでしたが、この地の重要性に気づくと、自らの王宮をここに移します。これが、今日のプラハ城です。

 世界一美しい「黄金の街プラハ」は、こうして誕生したのです。

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