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歴史論説集

概説 チェコ史

第五話 帝都プラハは黄金の街

lucenburuku

ルクセンブルク朝時代のチェコ

 さて、14世紀のヨーロッパは、各地で世俗の王権が急成長し、教会権力と烈しい角逐を繰り広げていました。ローマ法王庁も諸侯と渡り合うために世俗化し、傭兵を雇って戦争したりしていました。やがて教会の権威は利権と化し、跡目争いが封建諸侯の利害対立と微妙に絡み合い、教会大分裂(シスマ)という異常事態が起こります。法王庁が3つに分裂し、教皇が3人も並び立ってしまったのです。

 同じころ、日本は南北朝時代に突入し、やはり天皇家が大分裂していました。日本とヨーロッパで、同時期に類似の政治的事件が起きているのは偶然ではないでしょう。封建制度の成熟過程は、地域や人種が違えども、同じ動きをとるのでしょう。

 さて、東ヨーロッパでは、新興勢力のオスマントルコが、ビザンツ帝国軍を蹴散らしながら、バルカン半島を北上してきました。

 その一方、西ヨーロッパでは、成長を続けるイングランド(イギリス)とフランスの勢力が全面対決に入ります。いわゆる英仏百年戦争です。

 そんな剣呑な情勢下、「神聖ローマ帝国」の注意は、百年戦争に向いていました。帝国は、フランスを支援する方針だったので、ボヘミア国王ヨハンは、百年戦争にフランス側で出征し、「クレシーの戦い」でイギリス長弓隊に敗れて戦死してしまいました。ただ、彼はその前年に失明し、既にボヘミア王位を息子カールに譲っていたので、死に花を咲かせるための覚悟の出陣だったのでしょう。

 さて、ボヘミアの新王カール(1316-78年)は、苛烈な選挙戦に勝利し、神聖ローマ皇帝の座を手に入れます。そして彼は、意外な決断をしました。「神聖ローマ帝国」の帝都を固定し、しかもその場所をプラハに置くというのです。かねてからドイツ領内の諸侯の暗躍を嫌うカール4世は、これを機会に首都を自分の本拠に移すことで、独自の治世を敷こうと考えたのでしょうね。

 カール(ボヘミア王としてはカレル1世)は、プラハを帝都にふさわしい都市にするべく大改造に着手します。市域を拡大し、城を改装し、川には頑丈な石橋(カレル橋)を架けました。ここにプラハは、人口4万人を擁する、中部ヨーロッパ最大の都市に成長したのです。人々は、ここを黄金の街と呼びました。

 でも、カレルの最大の功績は、プラハに大学を設置した事(1348年)でしょう。これは、アルプス以北のヨーロッパで初の大学でした。神学部、医学部、自由学芸部(哲学部)、法学部が置かれた立派な施設には、ドイツ、中欧、東欧諸国から多くの学生が殺到して智恵を磨いたのです。

 実は、オタカル2世も大学設置を考えたことがあるそうです。ただ、彼は封建貴族たちの強い反対にあって果たせませんでした。貴族たちが反対した理由は、賢い外国人が流入しすぎると、自分たちの権益が脅かされるだろうと考えたからです。

 しかしカレルは、神聖ローマ皇帝としての権威をフルに活用して、貴族たちの反対の声を押さえ込むことが出来たのです。

 もともと勤勉なチェコ人は、良く勉強しました。大学教授たちも、進取の気風をもって国際交流を図りました。中でも、彼らがもっとも交流を深めた国は、イギリスでした。その理由は、カレルの妹アンナがイギリス王に嫁いだため、コネが効き易かったからです。

 しかし、このころイギリスでは宗教改革運動が勃興していました。火をつけたのは、オックスフォード大学の神学部教授ジョン・ウイクリフです。彼は、大分裂した挙句、利権をむさぼり庶民を虐めるカトリック教会を激しく攻撃し、正しい信仰は聖書に立ち帰ることで得られる、と説いたのです。

    この思想は、まっしぐらにプラハ大学に流れ込み、そして激しく燃え上がりました。火をつけたのは、プラハ大学総長ヤン・フスです。

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