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歴史論説集

概説 チェコ史

第十話 孤高の信仰者ペトル・ヘルチツキー

 カトリックのヴワディスワフ王は、チェコ国内のフス派を圧伏しようとします。しかし、これに反対のフス派市民は、暴動を起こしてこれに対抗し(1483年)、自分たちの信仰を守り抜くのです。

 チェコの市民が、これほどまでに自分たちの信仰(「異端」と呼ばれているのに)に固執し、権力に抵抗したのは、たいへん興味深いものがあります。彼らの市民意識は、既に近代化していたのかもしれません。

 やがて、ハンガリーと和解して対外戦争を終わらせたヴワディスワフは、チェコの市民たちとも和解して、戦後復興に尽力しました。特に、戦災で荒れ果てたプラハ城の修築に熱意を燃やします。あの美しいヴワディスワフホールは、彼が築いた見事な成果の一つなのです。

 ヴワディスワフの跡を継いだ息子のルドヴィークは、同時にハンガリーの王座も手に入れます。ヤゲヴォ朝の最盛期。しかし、この栄光は一瞬にして崩れ落ちるのです。

 チェコとハンガリーの軍勢を率いて出陣したルドヴィークは、今日のハンガリー南部で、オスマントルコとの決戦に敗れて戦死してしまいます(モハーチの戦い、1526年)。

 ここにヤゲヴォ朝の血統は途絶え、オーストリアとスペインを支配していたハプスブルク家の台頭が始まります。この大族は、当時、得意の婚姻政策を使って、東欧諸侯に血縁の網を張り巡らせていました。そして、ウイーンを包囲したトルコ軍を撃退したハプスブルク家は、対トルコ同盟を結成するべく、東欧の掌握に乗り出すのです。

 チェコ王に就任したフェルディナンド1世は、やはりチェコをカトリックに改宗させようと動きます。プラハ旧市街に、イエズス会の総合教育施設クレメンティヌムを造ったのも、その政策の一環でした。

 実はこのころ、ハプスブルク家を中心とするカトリック派勢力は、北方の空を焦燥感溢れる眼差しで見つめていました。

 ドイツで、マルチン・ルターが「宗教改革」を開始したからです。

 ルターの教説というのは、実はヤン・フスの主張とほとんど同じです。ルター自身、「ヤン・フスは我が心の師」と明言していたほどです。それなのに、どうしてフスは失敗し、ルターは成功したのでしょうか?それは、技術的な問題です。この時代、グーテンベルクが活版印刷術を発明しました。ルターは、この技術を使って、聖書のドイツ語訳を大量に世間に配布したのです。

 それまで庶民は、自分自身で聖書を読むことが出来ませんでした。なぜなら、聖書はラテン語の難解な正字法で書かれていたからです。ですから庶民は、教会の腐敗を目の当たりにしても、有効な抗議(プロテスト)を行えなかったのです。

 ルターとその支持者が、ドイツ語版聖書を大量に印刷した結果、多くの貴族や庶民たちは、教会が自分たちの利権確保に都合が良いように聖書を曲解していたことを知り、たちまちルターを支持するようになったというわけです。

 ここに、カトリックとプロテスタントの抗争が幕を開けました。

 

 さて、ここで視点を、プロテスタントの元祖というべき「急進フス派」に移してみましょう。彼らは消滅したわけではなく、長くその余命を保っていました。「急進フス派」の本拠地であったターボルは、1452年にイジー王の攻撃にあって陥落しました。しかし、無血開城だったため、その構成員の多くが生き残ったのです。

 かつてヤン・ジシュカに鍛えられた精鋭軍は、傭兵として東欧を転々。ついには、ハンガリー軍の尖兵としてオスマントルコ軍を苦しめるのです。その戦闘力は、やはり「向かうところ敵なし」だったようです。彼らは、その強さから味方にも恐れられ、最後は敵地に置き捨てられて全滅したと言われています。

 さて、ターボルの聖職者たちはどうなったでしょうか?独自の路線を歩むのです。すなわち、「チェコ兄弟団(同胞団とも)」の結成です。リーダーとなったのは、ペトル・ヘルチツキーという人物でした。急進フス派の修道士として活躍した彼は、様々な苦難を経て、「戦争=絶対悪」という真理に到達しました。彼は、暴力を用いずに宗教革命を成就する方法を模索し、少数の同志たちとともに寒村に篭ります。そこで、自給自足の「原始共産社会」を営んだのです。

 ヘルチツキーの著作と活動は、最も理想的で高邁な民主主義について謳っています。彼の思想は、後に紹介するヤン・コメンツキーやT.G.マサリクに大きな影響を与え、彼らを通して世界の民主主義の発展に貢献したのです。

 ロシアの文豪トルストイは、ヘルチツキーのことを「中世最大の偉人」と呼んで絶賛しています。ヤン・フスの正統な後継者は、この孤高の信仰者だったのかもしれません。

 ただ、時は中世ですから、ほとんどの人が「チェコ兄弟団」の素晴らしさを理解出来ず、兄弟団は、時の権力者から数度に渡って弾圧を受けました。それでも長い年月を生き延び、今ではチェコ国民の10%弱が兄弟団の信者です。

 当時のチェコは、ヨーロッパの社会思想の最先端を走っていたのです。

 

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