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歴史論説集

概説 チェコ史

第十四話 造られた聖人ヤン・ネポムツキー

 さて、チェコを占領したハプスブルク家は、チェコ人の洗脳教育に苦慮していました。

   征服者たちは、チェコ人の心の底にヤン・フスやヤン・ジシュカの栄光が根付いていることに気づき、これを除去するのが重要だと考えました。そのための手段として、「フスは単なる向こう見ずな坊主」「ジシュカは単なる野盗の頭目」といったプロパガンダを行うのと同時に、全く別の偉人をでっちあげたのです。それが、ヤン・ネポムツキーです。

  ヤン・ネポムツキーは、14世紀末の実在の人物です。

   ハプスブルク家の解釈では、この「偉人」は次のような人物です。

   「国王ヴァーツラフ4世が王妃の不貞を疑ったとき、王妃の聴聞師だった僧侶ネポムツキーは、どんなに脅されても王妃の告解の内容を明かそうとしなかった。そこで怒った暴君は、この善良な僧侶をカレル橋から突き落として殺したのだ。何という悪い王だろうか。この志操高き立派な僧侶は、聖人と呼ばれるにふさわしい・・・」

   実際には、ネポムツキーは僧籍に無い一介の市会議員だったようです。ヴァーツラフ4世に殺されたのは事実ですが、それは職務を怠ったという、ちゃんとした理由に基づく処刑だったようです。

   ハプスブルク家は、フスの名声に対抗するために、フスと同じヤンという名の「僧侶」を英雄に仕立て上げなければならなかったのです。歴史というものが、権力者のエゴによって、いかに捻じ曲げられるかが良く分かりますね。

   プラハに行くと、いたるところに聖ネポムツキーの銅像が建っています。肖像画もたくさん残っています。肖像画は、ほとんどがカレル橋での受難シーンです。ハプスブルク家は、被支配者であるチェコ人を洗脳するために、たいへんな努力を払ったのでした。

 

   余談ですが、チェコ人の名前について簡単な解説をしましょう。

   これまでの叙述で、やたらに「ヤン」という名前が出てきてヤンなっちゃった!という人はいませんか?ヤンというのは、今日でも、チェコ人のポピュラーネームです。チェコ人のみならず、ヨーロッパ人全体のポピュラーネームといっても良いかもしれません。

   チェコ語のヤン(女性はヤナ)は、英米ではジョン(ジョアン)、ドイツではヨハンないしハンス(ヨアンナ、ハンナ)、スペインとポルトガルではジョアン(ジョアンナ)、フランスではジャン(ジャンヌ)、ロシアではイワン(イワナ)です。みんな、キリスト十二使徒の「聖ヨハネ」にあやかった名前です。教会の聖職者が、その名を好んで赤ん坊に付けたので、こんなにブームになったのです。ヨーロッパ人の名前は、だいたいキリスト教の聖人の名前が付けられるので、日本人に比べるとバリエーションが少ないのです。

   ちなみに、ペトル・ヘルチツキーのペトルは、ピーター(英語)、ペーター(ドイツ語)、ピョートル(ロシア語)という具合に国によって変化しますが、その大元はキリスト十二使徒の「聖ペテロ」です。

 

   さてさて、話を元に戻しましょう。

   洗脳教育の成果は着々とあがり、多くのチェコ人はチェコ語を忘れ、チェコ史を忘れ、チェコ文化を忘れてしまいました。チェコは、オーストリア帝国の植民地に成り下がり、厳しい経済的搾取の下に喘ぐのです。

   当時のヨーロッパは、いわゆる大航海時代でした。西欧の国々は、次々にアジア、アフリカ、アメリカに出帆したため、もはや東欧の経済圏は「穀倉」としての役割しか期待されていませんでした。そこで、東欧の農民は、大地主の厳しい監督下に置かれ、いわゆる「再販農奴制」のくびきに縛られたのです。

   伝統文化や伝統技術が失われたチェコは、こうした情勢下で、もはや遅れた農業国に成り下がってしまいました。このまま推移したら、きっとロシアみたいな国になっていたでしょう。

   情勢の転機となったのは、18世紀半ばの「オーストリア継承戦争」及び「七年戦争」です。北方の新興国プロイセンは、フリードリヒ大王の指導のもと、女帝マリア・テレジアのオーストリア軍を連破し、オーストリア(正確にはボヘミア王国領)最大の工業地帯シレジア(英語ではシレジェン、チェコ語ではシレスコ)を奪い取るのです。

   重要地帯を失ったオーストリアは、代わりの工業地帯を探さなければなりません。白羽の矢が立ったのは、ボヘミア地方、すなわちチェコでした。チェコにはもともと工業国としての伝統があるし、地勢的にも近代工業の育成に向いていたからです。

   こうして、チェコの工業が息を吹き返しました。オーストリアは、いつしか近代工業国としての命運をこの植民地に託すようになるのです。

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