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歴史論説集

概説 チェコ史

第十五話 高まる民族復興運動

hapusuburuku

ハプスブルク帝国とチェコ

 オーストリアは、地中海とバルカン半島の覇権を巡って、オスマントルコと激しい鍔迫り合いを繰り広げました。再びウイーンが包囲される局面があったものの、17世紀末にはハンガリーを奪還し、18世紀にはユーゴスラビアにまでその領土を広げたのです。

       その過程で、帝国内に多数の異民族が組み込まれ、その統治は著しく困難になってしまいました。そんなとき、フランスで市民革命が起こります。

   1789年のフランス革命は、従来のヨーロッパの枠組みを引っくり返す、たいへんな大事件でした。

       従来の欧州の社会秩序は、いわゆる「王権神授説」に拠っていました。すなわち、王が教会によって王位を授けられ君臨するのは、神が定めた摂理だというのです。これは、教会が、神の代弁者であることを前提として成り立つ議論です。しかし、プロテスタントの活動によって、「神のもとに、人間は皆、平等である」という認識が広がると、この「王権神授説」は根底から揺さぶられます。

       この認識の元に成立した最初の近代国家こそ、アメリカ合衆国でした(1776年)。

      さて、もともとは飢えた暴徒の反乱に過ぎなかったフランス革命は、こうした社会思想によって理論的正当性を与えられ、ついに王権を打倒し、民衆による民衆のための政治、すなわち「共和制」を生み出すに至ったのです。

      かなり牽強付会な見方ですが、ヤン・フスとその後継者たちの思想が、時代を超えて、アメリカ合衆国やフランス共和国を生んだという考え方も可能かもしれません。

      さて、フランス革命は、当時のヨーロッパ社会に甚大な衝撃を与えました。既得権益を守りたい諸侯は、何が何でもこの革命を潰そうとします。これに対抗して、フランスに強大な軍事指導者が現れます。すなわち、ナポレオン・ボナパルトです。

      フランス皇帝に即位したナポレオンは、オーストリアとロシアの連合軍と対決するため、チェコへと軍を進めます。いわゆる「アウステルリッツの三帝会戦」です。この戦いに大勝を収めた結果、フランス帝国は絶頂を迎えます。しかし、その後、スペインやロシアへの無理な遠征に失敗した結果、この巨大な帝国は一転して凋落するのでした。

  1815年のウイーン会議の結果、フランスでは王政復古が起こり、反動的なヨーロッパの絶対王制は、ますます強化される事になりました。

      その結果、チェコはますます強固にハプスブルク帝国に組み込まれます。しかし、時代の流れに反したこの締め付けは、一時凌ぎにしかならなかったのです。

      フランスで2月革命が起こり、市民革命の嵐が西ヨーロッパに吹き荒れると(1848年)、東欧でも絶対王制に対する反動が火を噴きました。

      ハプスブルク帝国の内部では、ハンガリーが数度に渡って武装蜂起します。この国は、トルコの支配から解放された後、ハプスブルク帝国に強制的に組み込まれたのですが、オーストリア人たちからトルコ以上の残酷な搾取を受けて苦しんでいたのです。しかし、軍事力に勝る帝国は、この反乱を残虐に弾圧したのでした。

     チェコ人たちは、弱体化したハプスブルクの締め付けの隙をついて、「民族復興運動」を開始します。その担い手となったのは、農村から都市部に流入してきた下層市民たちでした。

 チェコを支配するハプスブルク家は、チェコ人からチェコ語を奪い、チェコ史を奪い、チェコ文化を否定しました。しかし、これらの諸要素は、決して風化することなく、農村部で生き残ったのです。ここで大活躍したのが、「人形劇(マリオネット)」です。

 ハプスブルク家は、チェコの文化活動を様々な形で制限したのですが、その弾圧の魔手は「人形劇」まで及びませんでした。そこで、都市の文化人たちは、人形使いに身を落とし、農村部で活発に公演することで、チェコ文化の維持存続に尽力したのです。チェコでは、今日でも「人形劇」がたいへんに盛んなのですが、その理由には、こうした歴史的背景があったのです。

 18世紀末、ハプスブルク皇帝のヨゼフ2世(1741~90)は、帝国全土で高まる絶対王制への反動を憂慮し、市民に対する宥和政策を展開しました。彼は、自らを「国民の下僕」と呼び、いわゆる啓蒙専制君主として振舞ったのです。

 プラハの街をこよなく愛したヨゼフ2世は、この街の大改造に着手します。城壁を撤去し、ユダヤ人街を整備し、公道を大きく広げました。プラハ旧市街の北部は、「ヨゼホフ」と呼ばれていますが、これは、この皇帝にちなんだ呼称なのです。また、この皇帝は、プラハの街を大きくするために、従来禁止されていた農村部から都市部への移住を許可し、奨励しました。この政策が、農村に埋もれていたチェコ文化が、都市で復興する上で大いに役立ったのです。

 ヨゼフ2世は、優柔不断で弱気な政治家だったとして、オーストリア人には良く思われませんでした。しかし、チェコ人は、今でもこの皇帝を尊敬しているようです。

 私は、チェコの民族復興運動を、世界史上で最高の偉業の一つだと考えています。その理由は、暴力や流血をほとんど伴うことなく、あくまでも「文化」の力で植民地支配を脱却し、そして滅亡寸前だった自分たちのアイデンティティを取り戻したからです。こんなこと、他には例がありません。

 さあ、いよいよチェコ人の復活の日が来ます。次に、チェコの民族復興運動の旗手たちを見てみましょう。

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