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歴史論説集

概説 チェコ史

第二十三話 フランツ・カフカの光と影

 出鱈目男のハシェクは、1911年に、政治家に立候補しようとして、プラハの居酒屋で滑稽な政治演説をぶった事があります。そのあまりのおかしさに満場は大爆笑だったのですが、陽気に騒ぐ聴衆の中に、地味で柔和な風貌の青年がいました。プラハで生まれ育ったユダヤ人作家、フランツ・カフカ(1883~1924)です。

 カフカは、恐らくチェコが生んだ文学者の中で、最も著名な人物でしょう。実存主義の創始者として知られる彼は、しかし生前はまったく評価されませんでした。

 彼の作品は、有名な『変身』に代表されるように、人間のアイデンティティーの根本をテーマにしています。一家の働き手であるグレゴリー・ザムザは、ある朝、一匹の毒虫に変身してしまいます。すると、これまで優しかった家族の目は冷たくなり、社会からも締め出されてしまいます。最後は、家族に果物を投げつけられて重傷を負い、周囲の嘲りの中で息絶えます。家族は、かつては自分の息子や兄であった毒虫の死骸を見て安堵するのです。ザムザは、一家の働き手としてのアイデンティティーしか許されていませんでした。そのため、そのアイデンティティーが消失した瞬間、社会的な存在を抹殺され、家族からも見放されたというわけです。

 こうした救いの無さは、カフカの作品の大きな特徴です。カフカの作品世界は、人間を無個性な機械へと変えていく現代社会への深い警鐘に満ちているのです。『審判』は、残酷な官僚機構によって、主人公が無実の罪で虫けらのように処刑される物語。未完の長編『城』は、謎と矛盾だらけの「城」の行政機構によって、次第に自己のアイデンティティーを見失っていく測量技師の悲劇がテーマです。カフカの作品に登場する官僚機構の愚かさは、しばしば滑稽でユーモラスです。しかし、その滑稽さによって破滅していく主人公の姿は、だからこそ、より一層悲劇的なのです。

 カフカは、自分自身のアイデンティティーに悩み苦しむ生涯を送った人です。彼が生まれ育ったプラハは、当時、ハプスブルク家のドイツ人に支配され、支配にあえぐチェコ人たちは独立運動を展開していました。カフカたちユダヤ人は、そのような環境下で、「チェコに生まれ育ちながらドイツ語を話し、しかしドイツ人でもチェコ人でもない異教徒」という異常な状況に置かれていたのです。カフカのあの文学は、こうした背景の考察を抜きにしては語れません。

 それでも、カフカは優秀な成績で役人になり、刻苦精勤に励みました。彼の作品で重要な役割を果たす「愚かな官僚機構」は、実体験に基づくものだったのです。

 なお、『審判』や『城』に登場する行政機構は、いずれも大きな城の中にあるのですが、これは明らかにプラハ城がモデルになっています。チェコの大統領になったマサリクは、プラハ城を大修築し、全ての行政機構をここに遷したのです。

 カフカは、しかし、ドイツ人やチェコ人(つまりキリスト教徒)と対立していたわけではないようです。彼は、ニェムツオヴァーの著作に大きな影響を受けたと語っているし、チェコ人女性と熱烈な恋愛関係にあった時期は、彼女とチェコ語で手紙をやり取りしています。そんな彼が、終生、誰とも結婚しなかったのは、昼間は役所で働き、夜は執筆に勤しむという彼の生活姿勢が、結婚生活に不向きだと考えていたからです。

 1924年、結核に悩むカフカは、オーストリアのサナトリウムで息を引き取ります。彼の実存主義文学が世間の喝采を浴びたのは、その数年後のことでした。

 優れた作家は、しばしば優れた予言者になります。彼が描き出した非人間的な官僚機構は、やがてチェコ全土を覆い潰すナチズムや社会主義の予知だったのかもしれません。彼がこの世に置いて行った妹たちや、チェコ人の恋人は、やがて、ナチスドイツによって、理不尽に惨殺されてしまうのです。『審判』の主人公ヨゼフ・Kのように。

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