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歴史論説集

概説 三十年戦争

第三章 デンマーク戦争

 

①デンマークの参戦

②ヴァレンシュタインの登場

③デンマーク軍壊滅

④軍隊は戦争によって養われる

⑤デンマークの降伏

 


 

①デンマークの参戦

 フェルディナント2世のファルツに対する戦後処理は、やはり過酷なものでした。彼は、ファルツ領の多くを同族が治めるスペインに割譲するとともに、ファルツ候の選帝侯位を奪い取ってこれをバイエルン公マクシミリアンに与えてしまったのです。

 ドイツ諸侯は、大いに動揺します。なぜなら、皇帝が諸侯に相談することなく選帝侯の領土を外国に与えたり、選帝侯位を挿げ替えたりするのは、神聖ローマ帝国の憲法ともいえる『帝国法』に対する重大な違反行為だったからです。

 フェルディナントは、この国の独裁者になろうとしているのではなかろうか?

 新教旧教問わず、ドイツの300諸侯は、皇帝に対して警戒感と不信感を抱きました。

 それ以上に不快感を募らせたのは、フランスそしてイギリスでした。両国とも、これ以上のハプスブルク家の権力伸長を許すわけにはいきません。そこで彼らは、密かに新教連合(ウニオン)に資金援助を始めたのです。そして、甘言を並べて彼らの戦意を煽り立てました。

 これに反応したのが、ドイツ北部に領土的野心を燃やすデンマーク王クリスチャン4世(プロテスタント)でした。1625年早春、彼は6万の軍勢を率いてコペンハーゲンを出陣し、逃亡中の冬王フリードリヒや傭兵隊長マンスフェルト軍と合流して南下を開始したのです。

 ウイーンの皇帝フェルディナントは、この情勢に大いに驚き慌てました。実はオーストリアは、「ボヘミア・ファルツ戦争」で戦費を使い果たしていたのです。何しろ、先の戦争だって、オーストリア領をバイエルンに担保提供して、かろうじて軍費を集めていたくらいですから。また、この年は異常気象で、夏になっても雪が降る有様で、軍糧の調達すら困難なのでした。だったら、戦争を止める手立てを講じれば良いのにそうしないのが、フェルディナントがフェルディナントたるゆえんなのでしょう。

 困った彼は、必死にバイエルンに働きかけてこの国との友情を繋ぎました。

 バイエルン候マクシミリアンは、フランスに唆されて、一時は皇帝を見限ろうかと考えたのです。しかし、もしも新教方が勝利してファルツ冬王が旧領に復帰したら、せっかく手に入れた選帝侯位を失うことになるでしょう。そう考えた彼は、仕方なくオーストリア側に付く決意をします。そして、再び名将ティリーに出陣を命じたのでした。

 ともあれ、皇帝は政治目的を達成したわけです。ところが皇帝は、目的を達成した安堵とともに不安も感じます。このままでは、バイエルンに借りを作りすぎてしまうからです。そんなとき、一人の人物が皇帝の前に現れました。旧教派チェコ貴族のヴァレンシュタインです。彼は言いました。

 「皇帝のために、自費で5万の軍を集めてごらんにいれましょう!」

 史上最強の傭兵隊長が、ついに歴史の表舞台に飛び出したのです。

 

 

ヴァレンシュタインの登場

 

 WALLENSTAIN

 ヴァレンシュタイン

 

 アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインは、チェコのモラビア地方の小貴族に生まれました。両親はプロテスタント(フス派)だったのですが、その死後、息子はカトリックに改宗します。その動機は、良く分かりません。ヴァレンシュタインは占星術に嵌っていた人なので、「星の運行」が彼に改宗を勧めたのかもしれません。

 若いうちから軍略の才能に恵まれた彼は、皇太子時代のフェルディナントを助けて各地を転戦し、ユーゴスラビアでは皇太子の一命を救うという大手柄を立てました。

 また、ボヘミアで戦火があがったとき、先述のように、彼はハンガリーのガボール公を迎え撃ってその動きを押さえ込むことで、皇帝の戦勝に大貢献したのです。大いに喜んだフェルディナントは、この寵臣をフリートラント公に任命し、占領下のチェコ領の多くをあてがってくれたのです。

 ヴァレンシュタインは、若いころに大金持ちの老未亡人と結婚し、その後すぐに亡き別れとなったために、たいへん富裕でした。また、多くの商人と友誼を深め、多額の借財の獲得に成功。そのカネに物を言わせて土地を買いあさり、いつしかチェコ全土の1/4を保有するほどになっていました。

 ヴァレンシュタインは、政治家としての内政手腕も一流でした。彼が手がけた殖産によって、その領土は飛躍的に豊かになったと言われています。

 そして、傲慢で野心的な性格であったヴァレンシュタインは、この資産を元手にさらなる大投機を計画します。

 このヴァレンシュタインから5万の傭兵の提供を申し出られたとき、ウイーンの宮廷は半信半疑でした。この時代の常識では、それほど大規模な傭兵軍を維持するのは不可能だと考えられていたからです。

 ある廷臣が言いました。「2万ならともかく、5万は養えないだろう」

 すると、ヴァレンシュタインはこう応えました。「2万は養えませんが、5万なら養えます」

 この不思議な解答を得て、なおも首をかしげる廷臣たちですが、窮乏状態にあったウイーンの宮廷は背に腹は代えられず、ともあれ彼にやらせてみることにしました。

 天才的な組織者であったヴァレンシュタインは、精力的に仕事を始めます。商人たちから得た借財と領地からの収入を元手に、領内に巨大な軍需工場をいくつも築いて武器弾薬や軍装の生産を開始。続いて、ヨーロッパ全土に向けて、破格の好条件で傭兵を募集したのです。

 この当時、傭兵は武器や装備を自弁しなければならず、給料も成果次第であるのが普通でした。だから彼らは略奪に走って民心を失い、堕落して軍規を守らなくなり、やがてその戦闘力を落として行くのです。

 しかし、ヴァレンシュタインのやり方は違いました。彼は傭兵に武器や装備を支給し、さらに給与面でも厚遇を約束しました。その代わり、占領地域での略奪は厳禁したのです。またヴァレンシュタインは、当時としては珍しいことに、人種的偏見や宗教的偏見をまったく持たない人物でした。こうして、人種宗派を問わず、多くの優秀な傭兵たちがヴァレンシュタインのもとに集まったのです。

  

③デンマーク軍壊滅

 さし当たって2万5千の兵を率いたヴァレンシュタインは、デンマーク軍を迎え撃つべくプラハを出陣して北上します。これに歩調を合わせるかのように、ミュンヘンからはティリー伯が1万5千のバイエルン兵を率いて出陣しました。

 対する新教(プロテスタント)軍は、マンスフェルトの傭兵軍をヴァレンシュタインに当て、デンマーク王クリスチャン4世は自らティリー伯に挑みます。

 マンスフェルトは、この時代を代表する傭兵隊長でした。彼自身はなかなかの軍略家だったようですが、指揮下の傭兵たちは装備も不ぞろいだし、もともと略奪目当てで集まった資質の低い者たちでした。それに対するヴァレンシュタイン軍は、全軍が均一の優良装備に身を固め、士気横溢した新式傭兵軍です。しかも、指揮官たるヴァレンシュタインは、天才的な軍略家でした。

 1626年4月25日、エルベ河を挟んで対峙した両軍。

 河岸に少数の囮部隊を置いたヴァレンシュタインは、エルベ河を横切るデッサウ橋全体に白い布を被せて渡河の状況をカムフラージュした上で、その全軍を渡河させ、そしてマンスフェルト軍の横腹に奇襲攻撃を仕掛けたのです。

 まさか敵の全軍が渡河して来るとは夢にも思わなかったマンスフェルトは、この奇襲によって壊滅的大敗を喫し、ガボール公を頼ってハンガリーにまで落ち延びる始末でした。

 それを追撃したヴァレンシュタインは、同年7月、ハンガリーでガボールとマンスフェルトの連合軍と対戦し、逆境に立たされたマンスフェルトは、トルコに落ち延びる途中で失意の病死を遂げます。一説によれば、部下に暗殺されたとも言われています。トランシルバニア公ガボールも、故国に撤退した数年後に病死する運命にありました。その後、ハンガリーは、三十年戦争に対して長らく中立化します。

 時をほぼ同じくして、デンマーク王の軍勢もバイエルン軍の名将ティリーの前に大敗を喫し(1626年8月27日、ルターの戦い)、北へと逃げて行きました。

 その後、ヴァレンシュタインとティリーの軍勢は、それぞれ東西から轡を並べてドイツを北上し、その圧倒的軍事力で敵対勢力を片端から踏み潰して行ったのです。

 やがて、ティリーがオランダ方面に転戦してしまったので、単独でユトランド半島に突入したヴァレンシュタインの軍勢。その規模は、今や12万5千人にも及ぶ未曾有の大軍に成長していました。

 この非常識なまでの軍事力に直面したデンマーク王は、領内を成すすべもなく逃げ回った挙句、とうとう海を渡って島嶼地帯に逃げ込んで追撃を逃れます。

 傭兵隊長ヴァレンシュタインが、これほどの大軍を維持掌握できたのは実に不思議に思えますが、その秘訣は彼が発明した画期的な軍隊維持システム、すなわち「軍税制度」にあったのです。

 

      軍隊は戦争によって養われる

 ヴァレンシュタインの軍は、先述のように、住民に対する略奪を行いませんでした。そのため、傭兵集団でありながら厳格な軍規の下に高いモラルを維持し、それが戦場での強さに繋がったのでした。

 しかし、それではどうやって軍の給養を確保したのでしょうか?

 ヴァレンシュタイン個人の経済力だけでは、とても12万を超える人間の群れを養うことなど出来ません。そこで彼が発明したのが「軍税制度」です。すなわち、占領地域や進軍先の諸侯に対して「治安維持税」や「略奪免除税」を課税するのです。諸侯は、なにしろ12万の大軍に逆らうわけにはいかないので、仕方なく要求された税金をヴァレンシュタインに納めます。そしてヴァレンシュタインは、この財源を用いて兵士を食わせていたのです。

 それでは、ヴァレンシュタインに脅迫された諸侯は、どうやって税金を納めるのか?もちろん、領民に対する搾取によってです。結局は、ヴァレンシュタインが間接的に民衆から収奪していたというわけ。しかし、搾取を受ける民衆の恨みは、直接の納税主体である領主に向けられるので、ヴァレンシュタイン軍そのものは、民心を失わずに済むのです。なかなか、あざといですなあ。

 ヴァレンシュタインが、ウイーンの宮廷で「2万人なら養えないが、5万人なら養える」と広言したのは、つまりはこういう意味だったのです。なにしろ5万人の威力があれば、どんな封建諸侯からも難なく税金を取り立てられますものね。

 ヴァレンシュタインは、「戦争によって軍隊を養う」戦争企業家だったのです。その投機は大成功し、彼はヨーロッパで最も富裕な人物になりました。彼がプラハに築いた壮大な豪邸(ヴァルドシュテイン宮殿)では、毎日100皿以上が晩餐に供されたといわれています。

 「軍税制度」は、従来の常識を破る画期的な仕組みでした。ヨーロッパは、これによって初めて10万を越える大軍を常時運用できるようになったのです。これの究極の完成者こそ、19世紀のナポレオン1世でした。

 

 ⑤デンマークの降伏

 さて、ヴァレンシュタインによって最も過酷な収奪を受けたのは、選帝侯の一人でもあるブランデンブルク辺境伯でした。この人はプロテスタントでありながら、ずっと日和見の立場を取っていました。それなのに、実質的な「略奪」を受けて苦しみ激怒します。

 彼は、ウイーンの皇帝にヴァレンシュタインの横暴を訴えるのですが、空振りに終わります。ヴァレンシュタインの軍勢は、あくまでも彼個人に忠誠を誓う「私兵」なのだから、皇帝の命令権が及ばなかったからです。窮した辺境伯は、選帝侯の立場にありながら、とうとう一介の傭兵隊長であるヴァレンシュタインに撤退を懇願する惨めさでした。下克上とは、まさにこのことですね。

 しかし、傲慢なヴァレンシュタインは、「財布」の言うことを聞かずに、さらに搾取を強めます。そして、12万5千の威力でバルト海の沿岸都市シュトラルズント(デンマークに加担していた)を攻囲するのでした。喜んだ皇帝フェルディナントは、ヴァレンシュタインをメクレンブルク(ドイツ北辺)大公、さらには「皇帝軍総司令官」兼「バルト海艦隊司令長官」に任命します。能天気な皇帝は、バルト海に海軍を浮かべるつもりだったのですな!

 この情勢に驚いたのは、イギリスとフランスでした。このままでは、ハプスブルク家はバルト海沿岸までも征服してしまう!

 彼ら以上に深刻な危機感を持ったのは、北欧の新興国スウェーデンです。プロテスタントを奉ずるこの国にとって、バルト海の制海権をカトリックのハプスブルク家に奪われることは、国運の衰退を意味しました。

 焦った彼らは、シュトラルズントに有形無形の様々な援助を与えます。そのため、さしものヴァレンシュタインもこの港湾都市を攻め倦みました。結局、6ヶ月の攻防の後、包囲を解きます。

 これを見て、「ヴァレンシュタインは、無敵ではないぞ!」と喜んだデンマーク王は、残存兵力を率いて敵の横腹に急襲を仕掛けました。

 「ばかめ、海から出てくるとはこっちのものだ!」これを予期していたヴァレンシュタインは、待ち伏せ攻撃でデンマーク王を大破します。

 またもや命からがら逃げ出したデンマーク王は、ついに戦意を喪失して皇帝に降伏を申し入れるのでした。この結果、デンマークは賠償金を奪われて、三十年戦争から退場します(1629年、リューベックの和平)。

 こうして、「デンマーク戦争」も、皇帝方の勝利として決着したのでした。

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