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歴史論説集

諸葛孔明伝

第五話 劉備の大躍進

 


 1、赤壁の戦い

 2、荊州の領有

 3、蜀の占領

 


 

、赤壁の戦い

  208年、北方を完全に平定した曹操の大軍が南下の形勢を見せると、老齢の劉表は心労のためか病没してしまいました。跡を継いだ次男の劉琮は、戦っても勝ち目は無いと判断して降伏してしまいます。

 急を知った劉備は、慌てて南方に逃げ出すのですが、曹操の快速騎馬軍団に当陽の地で追いつかれて大打撃を受けます。劉備は多くの妻子を失い、徐庶も曹操に降伏してしまいました。張飛や趙雲といった勇将の活躍がなければ、劉備の命も危なかったのです。

 曹操の天下統一は、まさに目前でした。

 敗残の劉備は、長江に面した江夏郡にまで逃げ延びますが、もはやその命運は風前の灯火です。彼の東方に広大な領土を有する孫呉政権では、曹操への降伏論が多数を占めていました。

 しかし、この情勢を変えたのが魯粛と孔明です。

 まずは、魯粛が劉備陣営を訪れて提携を模索します。魯粛は、孫呉政権内での数少ない主戦派でした。劉備は、彼に励まされて勇気を取り戻します。そして、こちらからは孔明が使節として孫呉に向かいました。

 魯粛と孔明は、やはり主戦派であった周瑜と心を合わせて孫権をくどきます。孫権は当時26歳。その若さもさりながら、覇気あふれる優秀な人物であった彼は、無血降伏を良しとしませんでした。しかし、勝算を計れずに悩んでいます。

 このときの孔明のディベート術は秀逸です。彼はまず、「戦っても勝ち目はないと判断されるなら、早めに降伏するのが賢いですぞ」と、孫権に提案しました。意外な言葉に驚いた孫権は、「なぜ先生は劉備にそれを勧めないのか?」と反論します。すると孔明は、「劉将軍は、漢の帝室の血をひき、その英明は天下に鳴り響き、多くの人々に慕われています。どうして曹操の下につけるでしょうか?」と答えました。この言葉にプライドを刺激された孫権は、「俺だって戦いたいと思っている。だけど、勝算が読めないのだ。劉備だって当陽で敗れたばかりじゃないか」。そこで孔明は、説得力あふれる弁舌で状況を分析します。いわく、劉備は敗れたとはいえ、まだ1万の兵力を確保している。また、曹操軍は公称100万といっても実態は寄せ集めの12万人で、その多くを占める荊州兵は降伏したばかりで士気が低い上、北方の兵士は疲労困憊に加えて慣れない環境で体調を崩すものが多いだろうから、勝算は十分にある。

 この言葉に励まされ、ついに孫権は開戦を決意しました。

 こうして、周瑜率いる孫呉の水軍3万は、長江を遡って劉備と合流。さらに西進して曹操軍の水軍基地・江陵を目指します。

 曹操は、孫呉の無血降伏を信じきっていたらしく、その対応は常に後手後手に回りました。あわてて水軍を繰り出して長江を下るのですが、兵の多くが風土病にかかって士気が奮わないこと著しい。しかも、もともと水上戦を苦手としていました。

 両水軍は、江夏と江陵の中間地点で遭遇します。緒戦は孫呉水軍の勝利となり、敗れた曹軍は長江北岸の烏林に逃れて防御陣地を築きました。孫軍は南岸の赤壁に布陣し、戦局は長期戦となります。

 やがて周瑜は、部将の黄蓋の献策を容れて、敵水軍に「火攻め」を敢行しました。黄蓋率いる偽降伏船団は、曹軍の内懐に入り込み、そこで一斉に猛火を放って突撃したのです。おりしもの南風によって炎はますます激しさを増し、主力艦隊を焼失した曹操は戦意を喪失して北方に逃げ出しました。

 これが、世に言う「赤壁の戦い」です。

 この戦いの立役者は、あくまでも孫呉水軍と周瑜提督でした。劉備と孔明は、後ろのほうで戦局を望見し、最終局面になって追撃戦に参加してはみたものの、曹操の逃げ足が速すぎて追いつけなかったのです。

 『演義』は、「これではマズい」と考えて、劉備陣営の見せ場を多く用意しています。孔明は、天才的な智謀で曹操や周瑜を翻弄し、火攻めに際しては魔法の力で風向きまで変えてしまいます。また、劉備や関羽は、逃げる曹操を追撃戦で大いに苦しめます。しかし、いずれも虚構の物語なのです。

 

2、荊州の領有

  曹操を北方に追い払った周瑜の軍勢は、勢いに乗って荊州に攻め込みました。しかし、江陵を守る曹仁(曹操の従兄弟)に阻まれて1年も攻囲戦に時日を費やしてしまいます。その間、荊州南部(湖南省)に渡った劉備は、相対的に手薄となったこの地域を電撃的に征服してしまいました。

 「天下二分の計」を目指す周瑜は、劉備の勢力強化を苦々しく思い、ようやく占領した江陵に居座って劉備を牽制します。そんな彼は、軍勢を磨いて西方益州(四川省)への侵攻を模索していました。

 このままでは、「天下三分の計」が危うくなる。焦った劉備と孔明は、魯粛を通じて孫権に働きかけ、政治力の強化に努めました。まずは、孫権の妹を劉備の正妻に迎え入れ、同盟関係を補強します。さらには、劉備自ら孫呉の本拠地に乗り込んで、荊州全土の租借を申し入れました。

 このとき、劉備が自ら孫呉に乗り込むことについては、重臣たちの多くが反対しました。危険すぎるからです。中でも、最も強硬に反対したのは孔明でした。彼は、管理畑の人材だけに、「リスクの軽減」を最重視する性向が強かったのです。

 しかし、劉備は彼らの反対を押し切って孫呉に乗り込みます。彼はもちろん、魯粛の助力を当てにしていたのでしょう。そして会見は成功し、孫権は周瑜が占領した南郡(江陵周辺)を劉備に貸与する決定をしました。このころ孫権は、曹操の雪辱戦を恐れていたので、荊州方面に裂いた精鋭を手元に戻しておきたかったのです。

 こうして、「赤壁の戦い」の成果は、全て劉備の掌中に入りました。荊州北部は未だに曹操の勢力下とはいえ、今や劉備は、長江流域から湖南省全土に及ぶ領土の支配者となったのです。そして、これらの内政を総覧したのは孔明でした。彼は、その才能を大いに開花させ、劉備軍の財政力と軍事力の強化に大貢献を果たしたのです。それだけではありません。彼はその人脈を用いて、在野の有能な人材を劉備陣営に招請しました。馬良、蒋琬、廖立らが傘下に入ったのはこのときです。孔明は、まさにスーパーマンのような管理本部長だったのでした。

 これに激怒したのが周瑜です。彼は、劉備の勢力が固まる前に益州を侵攻しようと考えたのですが、その企画半ばにして病没します。享年38歳でした。これは、まさに劉備にとっての大幸運です。そして周瑜の没後、孫呉のイニシアチブを握ったのは親劉備派の魯粛でした。こうして、劉備は「天下三分の計」実現への完全なフリーハンドを手に入れたのです。

 『演義』では、この間の情勢を「孔明と周瑜の智謀合戦」というテーマで説明しきっています。周瑜は、数度にわたって劉備を罠にはめて殺そうとします。例えば、孫権の妹を劉備に娶わせようというのは、周瑜が劉備を呉に誘致して抹殺するための謀略だったことになっているのです。しかし、それらの謀略をことごとく見破った孔明によって企図を挫かれてしまった周瑜は、「どうして天は、この世に俺と同時に孔明を生まれさせたのだあ!」と悲痛なセリフと血を吐いて悶絶死するのでした。もちろん、これらは全て創作でして、孫呉の軍事部門の要職であった周瑜と劉備の管理本部長だった孔明が、互いに拮抗したり争ったりした局面は、史実には存在しないのです。

 

3、蜀の占領

 やがて北方の曹操は、大軍を磨いて合肥方面(安徽省)で孫権に雪辱戦を挑みました。またもや、劉備は漁夫の利を得られる情勢に直面したのです。

 彼は、益州牧(長官)・劉璋に招かれて四川盆地に入りました。劉璋は、北方の漢中に位置する張魯の勢力と敵対関係にあったので、劉備にここを攻めてもらいたかったのです。彼は、劉備のことを昔ながらの「傭兵隊長」だと考えていたようです。

 しかし、歳月は人を変えるのです。牙を剥き出した劉備は、いきなり劉璋に攻撃を仕掛けました。荊州からは、張飛、趙雲、孔明の援軍が駆けつける。さらに、北方の涼州からは、錦将軍と謳われた群雄・馬超が、曹操に追われて逃げ回った挙句、劉備軍に加わったのです。

 そして、3年に及ぶ攻防戦の結果、ついに成都は降伏開城。こうして劉備は、荊州に加えて益州も領有することに成功しました。ここに、「天下三分の計」の第一段階が完成したのです。

 『演義』では、この蜀獲りでも孔明の軍略と智謀が炸裂しまくったことになっています。しかし史実では、参謀的な仕事をしたのは法正や龐統であって、孔明の仕事は荊州の軍勢を成都前面に持って来ただけなのです。頼みの龐統は、最終局面で戦死してしまうのですが・・・。

 ともあれ、周瑜の病没や曹と孫の対峙といった、微妙な情勢や偶然を頼りにしたとはいえ、一瞬のチャンスを逃さずに活用した劉備主従の行動力は驚嘆すべきものです。人生の中にはこのようなチャンスが必ず一度はあるのだから、そういうチャンスを逃すべきではないという好例でしょうか。

 しかし、こういったあざとい行動は、周囲の疑惑と怒りと嫉妬を招きます。

 孫権は、もともと劉備と力を合わせて益州を乗っ取る計画を練っていました。周瑜の死後、劉備の方からそれを提案して来たからです。しかし、孫権が曹操に拘束されている間に、劉備は義兄に何の相談もなく、単独で勝手に益州を乗っ取ってしまったのです。孫権は、「悪賢い夷めが!」と激怒し、荊州に残っていた妹(劉備夫人)に密使を放ち、彼女を故国に引き取ってしまいました。こうして、孫権と劉備の蜜月は崩れ去ったのです。

 しかし劉備は、孫権の怒りを宥めるための積極的な行動を取ろうとしませんでした。望外の成功に有頂天になり、孫呉を軽視してしまったのでしょうか?このことが、やがて致命的な破局に繋がるのです。

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