歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

歴史論説集

諸葛孔明伝

第九話 第一次北伐


 1、出師の表

2、第一次北伐

3、魏延の話

4、馬謖の話

5、どうして、馬謖を抜擢したのか?

 


 

1、出師の表

 でもって、今回は「出師の表」を全文掲載ぞなもし。

 これは、孔明が北伐にさいして劉禅に出した決意表明文です。

 「この文章を読んで泣かない者は、忠義の臣ではない」と言われる名文でして、ヒネクレ大魔王といわれるオイラでさえ、感動せざるを得ないものなのです・・・。

 

  『臣(私)、諸葛亮は申し上げます。

 先帝(劉備)は、事業半ばにしてお隠れになりました。今、天下は三つに分裂し、益州(蜀漢)は疲弊しきっております。これはまさに、危急存亡のときであります。

 しかし、近侍の文官は宮中で励み、忠実な臣下は外で身命を忘れて努めております。彼らは、先帝の格別の恩顧を追慕し、これを陛下(劉禅)にお報いしたいと願っているのです。

 陛下は、まさにお耳をひらき、先帝のお残しになった徳を輝かし、勇士の気持ちをお広げになるべきであって、誤った比喩を引用して道義を失い、忠言や諫言の道を閉ざしてはなりません。宮廷と政府は、ともに一体となって善悪の賞罰をはっきりさせ、食い違いがあってはなりません。もしも悪事をなし法律を犯すもの、また忠義や善事をなすものがあれば、当該官庁に下げ渡してその刑罰、恩賞を判定させ、陛下の公正な政治を明らかにさせるべきであって、私情にひかれて内外で法律に相違を生じさせてはなりません。

 侍中、侍郎の郭攸之、費禕、董允らは、みな忠良で志は忠実、純粋であります。それゆえにこそ、先帝は抜擢なさって陛下のもとにお残しになったのです。私が思いまするに、宮中の事柄は、大小の区別なく、ことごとくこれらの人々にご相談なさってからのち施行なさるなら、必ずや手落ちを補い広い利益が得られるでありましょう。

 将軍の向寵は、性行が善良公平で軍事に通暁しており、かつて試みに用いて見ましたところ、先帝は有能だと言われました。それゆえに、人々の意見によって彼は司令官に推挙されたのです。私が思いまするに、軍中の事柄は、ことごとく彼に相談なされば、必ずや軍隊を睦まじくさせ、優劣おのおの所を得るでありましょう。

 優れた臣下に親しみ小人物を遠ざけたのが前漢の興隆した原因であり、小人物に親しみ優れた臣下を遠ざけたのが後漢の衰微した理由であります。先帝ご在世のころ、つねに私とこのことを議論なさり、桓帝や霊帝(後漢の暗君)に対して嘆息なさり痛恨なさったものです。

 侍中、尚書、長史、参軍はみな誠実善良で、死しても節を曲げない者たちばかりであります。どうか、陛下にはこれらの者たちを親愛なさり、信頼なさってください。そうすれば、漢室の興隆は日を数えて待つことができるでしょう。

 私はもともと無官の身で、南陽で農耕に従事しておりました。乱世において命をまっとうするのがせいぜいで、諸侯に名声が届くことなど願っていなかったのです。しかし、先帝は私を身分卑しき者とはなさらず、自ら身を屈して三度、私を草庵のうちにご訪問くださり、私に当代の情勢をお尋ねになりました。私は感激しまして、先帝のもとで奔走することを承知いたしました。その後、(当陽の)戦いで敗北し、そのさいに任務(孫権との同盟折衝)を受けて尽力し、それから21年が経過しました。

 先帝は、私の慎み深いところを認められた結果、崩御なされるに当たって私に国家の大事をお任せになられました。それからというもの、日夜煩悶し、委託されたことについて何の功績を挙げることなく先帝のご明哲を傷つけることになるのではないかと恐れ、5月に濾水を渡り荒地深く侵入いたしました(南蛮征伐のこと)。

 現在、南方はすでに平定され、軍の装備も充足しておりますから、まさに三軍を励まし率いて、北方中原の地を平定すべきです。願わくば愚鈍の才を尽くし、凶悪なものどもを打ち払い、漢室を復興し、旧都洛陽を取り戻したいと存じます。これこそ、私が先帝の恩にお報いし、陛下に忠義を尽くすために果たさねばならない職責なのです。

 利害を斟酌し進み出て忠言を尽くすのは、郭攸之、費禕、董允の任務であります。どうか陛下には、私に賊を討伐し、漢室を復興する功績をお任せください。もしも功績をあげられぬようなら、私の罪を処断して先帝のご霊にご報告ください。また、郭攸之、 費禕、董允に怠慢あれば、これをお責めになってその咎を明らかになさってください。

 陛下もまた、よろしく自らお考えになり、臣下に善道をお訊ねになり、正しい言葉を判断なさってください。

 今、深く先帝のご遺言を思い起こしまして、私は大恩を受け感激に堪えないのです。そして遠くに去らんとするにあたり、この表を前にして涙が流れ、申し上げる言葉を知りません』

 

  出師の表を読んで感じるのは、出陣の表明文にしては悲壮感が漂う点です。

 「蜀は国力が低いけど、みんなで心を合わせれば勝てるのだ!」と主張するところなど、太平洋戦争のときの日本軍みたいですな。また、留守中の内政のことをしきりに気にしていますが、もともと孔明は管理部門の人なので、仕事を放り捨てて戦場に行くのが不安で仕方なかったのでしょう。

 そもそも、どうして管理部門の人が総司令官にならなきゃなんないかと言えば、他に適当な人材がいなくなっていたからです。内政担当官が戦場で指揮を取らなきゃなんない蜀漢は、まさに自転車操業の国なのでした。

 この遠征自体、勝算があるからというよりは、むしろ孔明が「劉備の恩顧に応えたいため・・」という精神論が強いみたいな感じですね。

 なんか、戦艦大和の沖縄特攻みたいだ・・・。

 孔明自身、そのことを良く知っていて、だからこそ出師の表が妙に悲愴なのでしょう。

 

  ただ、世界史を俯瞰すれば、「寡兵が大敵を打ち破る例」はいくらでもあります。歴史上の英雄は、しばしば自軍よりも優勢な敵を負かしているのです。ただし、そのためにはいくつもの条件があります。

 恒常的に大敵を負かし続けた英雄といえば、例えばアレクサンダー大王、ハンニバル、源義経、チンギスハーン、楠木正成が有名ですよね。どうしてこの人たちが強かったかといえば、それは「従来の常識を覆す抜本的な軍制改革や戦法を用いていた」からです。

アレクサンダー大王・・歩兵部隊の斜兵戦術

ハンニバル・・・・・・騎兵部隊による両翼包囲

源義経・・・・・・・・背後からの奇襲など、武士道に反する卑怯な戦術

チンギスハーン・・・・全部隊が騎兵で構成される機動部隊の活用

楠木正成・・・・・・・山岳ゲリラで、鎌倉武士の一騎打ち戦術を翻弄

 

 といった具合です。

 つまり、孔明も、常識破りの新軍制を敷けば勝てたかもしれません。でも、この人はもともと管理畑の人なので、そんな天才的なことは出来なかったのです・・・。結局、従来ベースの軍制や戦術を高度に研ぎ澄ませて敵に挑むしかありませんでした。

 なお、歴史上、画期的な新兵器を用いて大敵を負かした例もあります。例えば、ヒトラーの「電撃戦」など。でも、孔明の時代は、そのような革命的な兵器は生まれなかったし、孔明自身、そこまでの創造力は持ち合わせていなかったのです・・・。

  軍人としては凡人だった孔明ですが、政治家としては卓越していました。彼は、政治力を駆使して軍事上のハンデを埋めようとします。

 出師の表を提出して北上した孔明の軍勢は、漢中に入って1年近く動きを止めます。兵士たちを軍事教練で鍛えるためでもありますが、政治的な裏工作を執拗に仕掛けるためでもありました。

 実はこのころ、魏では二世皇帝・曹丕が病死し、その子・曹叡が跡を継いだばかりでした。孔明は、後継者争いなどの混乱が起きることを期待していたのでしょう。しかし、魏では何事も起こりませんでした。

 また、蜀の掲げるスローガンである「漢帝国の復興」は、今や中原では死語となっていました。魏の皇帝も三代目となり、すっかり安定しちゃっていたのです。これも、孔明にとっては期待はずれだったことでしょう。

 孔明は、同盟国の呉が魏を攻撃することを期待していたのですが、呉は蜀の行動を窺うばかりで、積極的に攻撃をしかける気配がありません。このころの呉と蜀の関係は、第二次大戦当時のドイツと日本の関係に似ているように思えます。弱いもの同士が何となく群れているだけで、共通の目的のために団結していたわけではないのです。

 孔明の謀略は、唯一、荊州西北部の上庸で実りました。この地を守っていた魏将・孟達が寝返ったのです。この孟達は、もともと劉備の部下だったのですが、関羽の敗死を見て魏に寝返った男です。曹丕が死んで居心地が悪くなったものだから、またもや蜀に復帰しようと考えたわけです。しかし、孔明にとって不運なことに、上庸に隣接する宛を守っていた魏の重鎮・司馬懿は、かねてより孟達を疑い、スパイ網を張り巡らせていたのです。孟達の帰り忠はたちまち発覚し、攻め寄せた司馬懿の軍によってたちまち攻め殺されてしまいました・・・。

 『演義』では、このとき司馬懿軍の先鋒だった徐晃が孟達に射殺されることになっていますが、これは作り話です。実際の徐晃は、ちゃんと畳の上で死んでいます。『演義』は、魏の名将を、なるべく畳の上で死なせないように創作する癖があるので要注意です。

 いずれにせよ、こうして孔明が仕掛けた謀略工作は、ことごとく失敗に終わったのです。

 そして、いよいよガチンコ対決の幕が斬って落とされました!

 

2、第一次北伐

  さて、漢中から魏に攻め込むのには、大きく分けて2つのルートがありました。第1は、漢中盆地から漢水沿いに東進して荊州西北部に出るルートです。第2は、漢中盆地からまっすぐ北上して雍州(陝西省)のある関中盆地に出るルートです。

 孔明は、最初は第1のルートを考えていたようです。そのために、上庸(荊州西北部)の孟達を寝返らせたのでしょう。しかし、この地は司馬懿の大軍によって押さえられてしまったので、結局、第2のルートで行かざるを得なくなったのです。

 この第2のルートは、あの「蜀の桟道」越えをしなければなりません。この桟道は、大きく分けて3本ありました。

 

     東側=子午道・・・狭くて険しいが、長安に直結している。

     真中=陳倉道・・・普通の広さ。武功郡に出る。

     西側=斜谷道・・・比較的広くて通りやすい。陝西省西部の過疎地帯に出る。

 

  蜀の軍営では、この中で、どの道を使うかについて議論が起きました。

 将軍の魏延が主張したのは①です。

 この人は、5年以上も漢中太守を勤め上げ、魏の国境情勢に精通していました。彼の説によれば、「現在、陝西省の魏軍は油断しているので、戦略的奇襲を仕掛けるには持って来いの情勢である。また、長安城を守る夏候楙は縁故人事で成り上がったバカ殿であるから、わが軍の奇襲に的確に対応する才能がない。そもそも敵は、わが軍が険阻な子午道を進んでくるとは思っていないはずだ。以上のことから、一気に奇襲すれば長安を落とすことも簡単である。長安さえ落とせば、陝西省全域は蜀の掌中に落ち、敵の首都洛陽の攻略すら夢ではなくなるだろう!」

 ところが、孔明は、この作戦を「危険すぎる」という理由で却下しました。そんな彼が選んだルートは③だったのです。彼は、老将・趙雲の軍勢を囮として陳倉道(②)の箕谷に置いて敵軍の目を引き付け、その隙に残りの全軍で斜谷(③)を突破しました。魏軍は、この地域に兵を置いていなかったので、陝西省西部の三郡(南安、安定、天水)は、あっという間に孔明に降伏したのです。

 驚いた魏軍は、皇帝・曹叡自ら出陣する構えを見せ、先鋒として歴戦の名将・張郃を派遣しました。これに対して孔明は、迎撃軍の先鋒に愛弟子の馬謖を任命します。この馬謖は、実戦経験皆無の管理部門要員でした。そのため、蜀陣営の者たちは、みんなこの人事に反対だったのですが、孔明は強引に押し切ったのです。

 案の定、馬謖は無能でした。常識はずれの戦法を取って、あっという間に大敗したのです。彼は、山の上に陣取って逆落としに攻め下ろうとしたのですが、作戦を読んだ張郃が先に水源を断ち切ってしまったので、水の湧かない山上に占位する蜀軍は、渇きに苦しんで戦闘不能になってしまったのです。そこを攻撃されたのだから、鍛え抜かれた蜀の精鋭もどうしようもない。・・・実に間抜けな話ですな。これほど間抜けな負け方は、全世界の戦史上でも珍しいです。あえて似た例をあげるなら、太平洋戦争のインパール作戦くらいですかね。

 驚いた孔明は、占領地域の住民を強制的に拉致(!)して全軍を撤退させます。ちなみに、このとき拉致された住民の中にいたのが姜維です。『演義』では美化されていますが、実際の姜維は、孔明に拉致された上で洗脳された 可哀想な青年なのでした!

 その間、老将・趙雲は、弱小の囮部隊を率いて箕谷にいたのですが、勢いに乗る魏軍の猛追撃を見事に防ぎ、損害を最小限に抑えてその勇名を天下に轟かせました。さすがですね。

 

 こうして第一次北伐は、蜀の大敗で幕を閉じました。

 『演義』は、敗北の責任を全て馬謖に押し付けていますが、事態を客観的に眺めると、孔明の拙劣な軍事指導が根本的原因であることが明白です。最も重要な局面で、実戦経験皆無の馬謖を抜擢したことはもちろん、そもそも魏延の奇襲作戦を却下した段階から問題を感じます。

 この状況を、太平洋戦争勃発当時の日本軍に比定してみましょう。孔明の無能ぶり(言い過ぎ?)が良く分かります。

 

  大本営の会議室で、魏延大将は発言した。「わが日本の国力は、アメリカの1/20である!この逆境を跳ね返すためには、開戦直後に主力空母6隻でハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、米太平洋艦隊を全滅させるしかない!」

 しかし、孔明元帥は「見破られて待ち伏せされたら全滅しちゃうじゃないか。そんな危険な作戦は承認できない。それよりも、ハワイの敵は戦艦長門で牽制し、その隙に空母6隻でグアム島を襲うべきだ。グアム島には、アメリカ兵が100人しかいないから楽勝だぜ」と言った。

 こうして日本の主力部隊はグアム島に突進した。空母6隻と航空機350機に襲われたアメリカ兵100人は、戦わずして降伏したのである。

 しかし、無傷のハワイ・アメリカ艦隊は、総力をあげてグアム島の奪還に乗り出した。これを迎え撃つ日本機動部隊の指揮官は、異例の抜擢を受けた世間知らずのキャリア官僚・馬謖であった。幕僚はみんな反対したのに、孔明元帥が無理やりねじ込んだのだ。しかし馬謖は、空母に燃料を積むことを忘れて出撃したため(だって、教科書に書いてなかったんだもん!(笑))、洋上で動けなくなった日本艦隊は航空機を発進させることも出来ず、アメリカ軍の嬲り者となって一瞬にして全滅したのであった!

 孔明は、「そんなバナナー」と叫びつつ、グアム島のチャモロ人たちを拉致し、残存艦艇を率いて東京湾に撤退したのである。

 その間、ハワイを牽制していた戦艦長門は、戦略的には何の役にも立たなかったけど、趙雲艦長の活躍で、なんとか無傷で帰ってきた。

 こうしてグアム島はアメリカに奪還された。この結果、日本は南方進出が出来ず、ついに資源が枯渇してしまったのだった・・・。

 

 と、まあ、「第一次北伐」を太平洋戦争に比定すると、こんな感じかな。

 要するに、軍人としての孔明は、山本五十六のみならず、旧日本軍のキャリア官僚たちよりも無能だったのです。彼は、「真珠湾攻撃」を行う勇気が持てなかったのです。

 軍制と兵器の質が同じ同士の場合、弱小勢力が強敵を倒す手段は「戦略的奇襲」しかありません。織田信長の「桶狭間の戦い」とか毛利元就の「厳島の戦い」が好例です。そして、蜀が魏に戦略的奇襲を仕掛けられる機会は、第一次北伐のときが最初で最後だったのです。なぜなら、第二次北伐以降は、魏も十分な戦備を整えて厳重な警戒態勢を固めてしまったからです。

 すなわち、蜀が魏を滅ぼす唯一のチャンスは、この戦役の最初の段階で、魏延の策を採用することでした。そして、孔明が魏延の策を却下した時点で、蜀の敗北と滅亡は決定されたと言っても過言ではないと思うのです。

 駄目押しのため、このときの魏の状況を見ましょうか。

 前述のとおり、魏の首脳陣は、「蜀で恐ろしいのは劉備と関羽のみだ」と考えていたので、劉備が死んだ後は、もはや蜀漢は滅んだのも同然だと考えて、国境の防備を著しく手薄にしていたのです。

 陝西省に駐屯していたのは、征西将軍・曹真(曹操の養子)でしたが、彼の主要任務は西方の異民族を鎮撫することでした。

 また、陝西省の心臓部・長安を守備していたのは夏候楙(夏候惇の息子)でしたが、彼は酒と女にしか興味のない本当のバカ殿でした。彼の正妻は曹操の娘だったのですが、夫のあまりのバカさに嫌気が差して、何度も離婚騒動を起こしています。

 こういった人事を見ても、魏がいかに蜀漢を舐めていたのかが分かります。彼らは、蜀が攻撃を仕掛けてくるなんて夢にも思っていなかったのです。

 『正史』には、孔明の襲撃によって「中国は震撼した」と書かれていますが、これは、東京のど真ん中に、いきなりゴジラが現れたみたいなものだったのでしょう。

 そういう意味で、魏延が提案した「戦略的奇襲策」は、非常に成功の確率が高かったのです。この策を採用していれば、まず間違いなく長安までは占領できていたと思います。

 ただ、その後はどうなっていたか分かりませんけどね。魏が本腰をあげて逆襲を図れば、国力に劣る蜀漢が不利になったことは間違いありません。日本だって、真珠湾攻撃に成功したけど、結局は敗北しましたものね。

 それでも、「長安占領」の政治的効果を考えれば、捨てるには惜しい策でした。もしかすると、魏の内部で「漢朝復興」の機運が再び盛り上がったかもしれないし、同盟国の呉も、本腰を入れて支援してくれるようになったかもしれないのです。少なくとも、「過疎地帯の住民を拉致して逃げ出す」以上の成果を得られていたでしょう・・・。残念です。

 『演義』は、こういった事実を糊塗するために様々な脚色を凝らしています。特に、魏延については史実を大幅に捻じ曲げて貶めています。

 次回は、その辺りを見ようかな。

  

3、魏延の話

 魏延は、北伐軍で最強の武将でした。蜀軍は、第二次北伐以降、戦術的な敗北をほとんどしていないのですが、それは名将・魏延のお陰だったのです。

 第一次北伐のときも、馬謖ではなくて魏延を先鋒に任命していたなら、あんな惨敗にはならなかったでしょう。それどころか、大勝利だったかも!ああ、本当に残念だ。そこで今回は、隠れたヒーロー魏延をクローズアップしちゃうぞ!

  『演義』という小説は、孔明を美化するために、かなりえげつない手法を採ります。天才的な戦略家だった魯粛をボンクラに書いたり、劉備をバカ殿に貶めたり。

 これから紹介する魏延も、その被害者の一人です。

 『演義』での魏延は、「DNAレベルからの本質的な悪人」として描かれます。孔明に言わせれば、頭蓋骨の形状に「叛骨の相」があるのだそうです。つまり、先天的な裏切り者だというのです。なんだ、そりゃ?「生物学的な絶対悪」を規定するなんて、ほとんどヒトラーみたいな発想ですね。私は、『演義』の孔明が大嫌いなのですが、この差別的発言がその重要な一因となっています。

 さて、『演義』では、魏延はもともと荊州の劉表の武将だったことにされています。彼は、主君が病死したあと、後継者の劉琮を見限って劉備のところに行こうとするのですが、はぐれてしまったので、仕方なく長江を南に渡って長沙郡の韓玄の部下になります。その後、赤壁で曹操を破った劉備が長砂を攻撃すると、魏延は主君の首を斬って劉備に投降するのです。この時点で、魏延は既に2度も裏切り行為をしていますよね。孔明に、「こいつには叛骨の相があるから殺してしまうべきだ」と言われたのは、このときです。もちろん、人徳者の劉備はこの意見を却下するのですが、素直な(単純な?)読者から見れば、「天才軍師孔明が、生物学的な絶対悪魏延の本質を見破った」この一幕は印象的です。これ以降、魏延と孔明が対立するたびに、多くの読者は先入観から魏延を悪人扱いするので、その発言が全て不当であるように思い込んじゃうというわけ。なかなか巧みな作劇術ですなあ。

 しかしながら、以上の『演義』の説明は、全て「大嘘」なのです。

 『正史』によれば、魏延は荊州の平民出身で、下級兵士として「最初から」劉備の部下になったのです。その後、戦場で抜群の働きを見せ続けたので、劉備は彼をどんどんと昇進させます。そして、劉備が漢中で曹操を打ち破ったあと、漢中太守に任命されたのは魏延でした。漢中は、魏との最前線に当たる要地でして、その重要性は関羽が守る荊州に匹敵していました。そのため、大多数の者たちが、張飛が漢中太守に任命されるだろうと思っていたのです。しかし劉備は、あえて魏延を抜擢しました。劉備が人材の能力を見抜く力は曹操以上ですから、魏延はおそらく張飛よりも優秀だったんでしょう。そして、異例の抜擢を受けて感激した魏延は、この重責を全うし続けたのでした・・・。

 以上から分かるように、史実の魏延は「ただの一度も裏切り行為をしていない」のです。したがって、「叛骨の相」うんぬんという『演義』の主張は、完全な濡れ衣なのです。

 また、『演義』では、孔明と魏延が、戦場でしょっちゅう喧嘩していたように書かれています。魏延が、孔明の悪口を言いふらしたり、戦場で孔明の立てた作戦に逆らったりといった描写が目立ちますが、これも『演義』の作り話です。

 『正史』では、軍議の席で口論することはあっても、一度決定された事項については、魏延は素直に従っています。孔明の陰口くらいは言ったみたいですけどね。そんな魏延のことを孔明も頼りにしていて、重要な仕事を全て彼に委ねているのです。二人は、必ずしも不仲ではありませんでした。

 要するに『演義』は、「天才軍師孔明が天下統一できなかったのは、生物学的な大悪党の魏延が足を引っ張ったからだ」ということにして、孔明の能力不足を巧みに隠蔽したのです。

 魏延の最期についても、『演義』は「裏切りの結果」ということにしています。

 戦場で孔明が病死したとき、臨時に跡を継いだ文官の楊儀は、徹底抗戦を主張する魏延の部隊を置き去りにして全軍を退却させました。怒った魏延はその後を追い、交戦状態となります。『演義』は、この状況を「孔明の予言どおり魏延が謀反を起こしたのだ」と説明します。そして、孔明が生前に立てておいた策略によって、希代の大悪党魏延は暗殺されてしまうのでした。

 しかし、『正史』を素直に読む限り、「魏延は、楊儀との派閥抗争に敗れて殺された」のであって、「裏切り」の結果ではありませんでした。じゃあ、彼が楊儀と対立したのは何故かといえば、それは楊儀がたいへんに権勢欲の強い「人格破綻者」だったためです。こいつが、政敵である魏延を罠に嵌めて殺したというのが歴史の真相なのです。

 以上から分かるとおり、実際の魏延は、たいへん有能で誠実な将軍でした。『演義』は、孔明の無能さを誤魔化すために、わざと魏延を貶めたのです!まあ、いつものことですけどね。

 

4、馬謖の話

 今回は、馬謖がテーマです。

 三国志は本当に勉強になる本でして、私にとっても人生の座右の銘なのです。その中でも、最も印象的だったのが馬謖のエピソードです。

 

 第一次北伐で先鋒を勤めて大敗を喫した馬謖は、荊州の襄陽学派に属するエリート一家の末弟です。彼を含む五人兄弟は、みな秀才士大夫だったので、「馬氏の五常」と呼ばれていました。といっても、史書に名声が記されているのは長兄の馬良だけでして、彼と馬謖以外の兄弟については、名前も事跡も不明なのです。他の兄弟は、「勉強が出来るだけで仕事は出来ない」連中だったのかもしれません。

 ここで注意すべきなのは、当時の中国のエリートというのは、「儒教の秀才」に限定されていた点です。しかも、「儒教の秀才」というのは試験の成績で決まるわけではないので、基準が物凄くあやふやでした。後漢末期では、名門の子弟とか、容姿が優れた人が、自動的にエリート扱いされることが少なくなかったのです。馬謖という人は、たまたま名門に生まれて、長兄が本当に優秀だったものだから、そういった「権威」だけでエリートと呼ばれていた可能性があります。もちろん、たくさん本を読んで勉強はしたんでしょうけどね。

 劉備は、死の床で孔明に言い残しています。

 「馬謖は、言葉ばかりで実質が伴わない人物であるから、決して重要な任務に就けてはならぬぞ」。

 さすがに劉備は、本質を良く見ていますね。馬謖の実態が、「世間知らずの頭でっかちの自惚れ野郎」であることを見切っていたのです。しかし、孔明はこの亡主の金言に逆らってしまいました。彼は、馬謖のことを本当のエリートだと思い込んでいたようです。やはり、劉備の方が人間の格が上だったんですね。

 さて、第一次北伐のとき、孔明の軍は奇襲効果で陝西省西部の三郡を無血占領しました。

 しかし、態勢を立て直した魏が、名将・張郃を先陣にして逆襲を開始したために、いよいよ決戦の火蓋が切られます。ここで蜀軍の諸将は、当然、魏延か呉懿が迎撃軍の先鋒に任命されるものと考えていました。しかし、孔明は彼らの反対を押し切って馬謖に大任を委ねたのです。ただ、実戦経験豊富な王平を副官につけて補佐させました。孔明は、劉備の言葉を思い出して、ちょっぴり不安だったんでしょうな。

 でも、馬謖は王平のことをバカにして、その助言をまったく聞こうとしませんでした。それじゃあ、意味がない。

 この王平は、魏延と同様、平民から身を起こした人で、まったく無教養でした。何しろ、文字を、自分の名前も含めて10個しか知らなかったといいます。えせエリートの馬謖にしてみれば、この副官がバカに見えて仕方なかったでしょうな。

 ともあれ、司令官になった馬謖は、さっそく独りよがりな仕事を始めます。まずは、陣営内の軍規や軍令を全面改訂し、煩雑で難しいものに変えたのです。世間知らずの官僚というのは、現代の日本の状況を見れば良く分かるとおり、「量が多くて難しいものほど優れている」と勘違いする傾向があります。でも、こういったものは、往々にして実務では使い物になりません。王平は、それを良く知っていたので、止めるように助言したのですが、馬謖は聞き入れようとしませんでした。案の定、兵士たちは煩雑で訳の分からない規定の前に自信を喪失し、士気を落としてしまったのです。

 いよいよ、街亭の戦場に到着した馬謖軍1万(推定)ですが、独りよがりの司令官が、またもやとんでもない命令を出しました。すなわち、全軍を小高い山上に布陣させようというのです。驚いた王平は、「そんなことをして、包囲されて補給を絶たれたらどうするのですか?せめて、支援部隊を分派して補給路を守るべきです」と反対したのですが、馬謖は、「お前は教養がないからそんなアホウなことを言うのだ。俺が読んだ兵法書によれば、山上から下界の敵を逆落としに攻めるのがベストだと書いてあったぞ。お前も、少しは本を読め。ああ、お前はそもそも字が読めないんだったなあ、悪い、悪い、あははのはー」ってな調子で完全に無視したのです。

 案の定、魏軍はこの山を遠巻きに包囲して水源を絶ってしまいました。人間は、水と塩があれば一週間は生きられるそうですが、水なしでは3日も持たない生き物です。馬謖くんは、恵まれた環境で苦労を知らずに育ったものだから、そんな初歩的なことを知らなかったのです。

 飢えと渇きに苦しんだ蜀軍が戦闘不能に陥るのは、3日もあれば十分だったでしょう。そして、魏軍の総攻撃が開始されました。

 馬謖は、もうどうしたら良いか分かりません。これが平時であれば、現代の日本で恒常的に行われているように「問題先送り」とか「無かったこと」とか「他人のせい」に出来るのですが、あいにくここは戦場です。馬謖は、パニック状態になってしまいました。司令官がパニックになると、部下たちはその何倍も不安になるものです。蜀の兵士たちは、飢えと渇きとパニックに襲われ、屠殺に近い形で殺されていきました。

 しかし、王平の部隊だけは違いました。彼は、この悲惨な逆境の中でも泰然自若とし、こう言いました。「俺を信じろ。俺についてくれば助かる!」。内心の恐怖を押し殺し、部下に勇気を与えるのが指揮官の最大の任務です。こうした仕事が出来ない者は、人の上に立つべきではありません。王平の1千名の部下たちは、自信満々の指揮官の姿に勇気付けられ、彼の周りに固く集まり隊伍を整えました。そして、渇きを我慢しつつ太鼓を鳴らし、喚声を絶やしませんでした。この様子を見た魏軍は、「何か策略があるのでは?」と疑い、王平の部隊には敢えて攻撃を仕掛けようとしなかったのです。やがて、彼の部隊は、(実際には戦闘不能だっただろうけど)整然とした隊伍を守って山を降りていきました。魏軍は、薄気味悪くなったためか、それをそのまま見送ったのです。

 街亭の戦いは、蜀軍の壊滅的な大敗でしたが、王平の部隊だけは、こうしてまったくの無傷で生還したのでした。

 この故事は、現在でも通じる本当に深い教訓だと思います。

 我が国は、政財官の中枢を牛耳る馬謖どもを排除し、在野の王平たちを重用することさえ出来れば、再び文化大国にも経済大国にもなれると思うのですがねえ・・・。まあ、当分は無理でしょうな。どこを見ても馬謖だらけだし。

 

 

5、どうして馬謖を抜擢したのか?

  ところで、世間知らずのおバカさんの馬謖を、どうして孔明とあろう者が信頼して抜擢したのでしょうか?尊敬する劉備の遺命に逆らってまでして。

 孔明に「人を見る目が無かった」と決め付けてしまえば早いのですが、事はそう単純ではありません。なぜなら、孔明が抜擢して育てた人材は、そのほとんどが極めて優秀だったからです。馬謖は、ほとんど唯一の失敗例なのです。

 『演義』では・・・。

 羅貫中は、この謎に挑み、そして答えを出すことが出来ませんでした。そこで、いつものように(笑)歴史を歪曲し、もっともらしい説明をつけたのです。

 まず、馬謖の能力を誇張して登場させました。彼は、しばしば天才的な助言をして孔明を唸らせているのです。

      南蛮征伐のとき、馬謖は孔明に「攻めるべきなのは、蛮族の心です」と助言して、孔明に「おおー、君は天才だー」と言わせている。

      北伐を始めるのに際して、孔明は馬謖に悩み事を打ち明けた。「オイラは、世界一の天才軍師でさあ。その気になれば、魏を滅ぼすどころか世界征服さえ出来るんだよなあ。でも、唯一の不安材料は司馬懿の存在なんだ。あいつがこの世にいる限り、スーパー天才のオイラも苦戦しちゃうかもねえ」。それを聞いた馬謖は、「私に任せてちょんまげ!」と言って、魏の領内にスパイを放ち、「司馬懿が謀反を企んでいる」という噂をばら撒いたのです。バカ殿の曹叡と側近たちはこの謀略に引っかかり、司馬懿は失脚したのであった。孔明は感動し、「おおー、やっぱり君は天才だー。オイラの後継者は君しかいないよーん」と大喜びだった。

  ・・・①は、『正史』(一級史料)ではなく『襄陽記』(二級史料)に出ている話なので、少々眉唾です。また、②は『演義』の完全な創作です。こうして、読者たちは馬謖が孔明も舌を巻く天才軍師だと思わされるわけ。

 続いて、馬謖が先鋒に抜擢される経緯についても、『演義』は筆を曲げています。まず、馬謖の任務は、「決戦戦力の先鋒」ではなくて、単なる「足止部隊の部隊長」だったことにされています。すなわち、孔明が占領地帯の内政を整えるまで、山道に防壁を作って司馬懿軍の進撃を食い止めるのが彼の任務でした。これなら、読者も納得ですね。

 孔明は、この任務を与えるに際して、「お前の役目は、山道に防壁を作って守ることなんだから、余計なことをするんじゃないぞ」と何度も何度も口を酸っぱくして言いました。しかし、馬謖は戦場で、「俺みたいな天才軍師候補が、なんでこんなチンケな仕事なんだよー」とか言い出して、孔明の命令に背いて山上に布陣し、司馬懿軍にコテンパンにされたという次第・・・。これなら、読者も孔明に同情してくれるというわけ。

 以上、『演義』の説明は、「馬謖は、本当は優秀だったのに、たまたま魔が差してドジを踏んだのだ」という結論なのです。つまり、孔明が馬謖を抜擢したのは正当な行為だったというわけです。なるほど!

 でも、私が『演義』を読んで不思議に思ったのは、「どうして孔明は、足止め部隊の馬謖が負けたくらいで、決戦を諦めて占領地域を捨てて逃げることにしたのだろう」という点でした。羅貫中の健筆も、私のようなへそ曲がりを納得させることは出来なかったというわけ。

 ・・・実際には、馬謖は「決戦兵力の先鋒」に任命されたのです。それなら、彼の敗北によって蜀の全軍が総崩れになったことも納得できますね。やはり、馬謖に重大任務を委ねた孔明の罪は重いのだ!

 

  次に『正史』をもとにした学者たちの解説を見てみましょう。この方が、遥かに納得できますぜ。

 孔明が馬謖を抜擢した本当の理由は、蜀漢政権内部の「派閥闘争」にあったのです。

 劉備の死後、孔明は政権内部の人材を抜本的にリニューアルしました。出師の表に出てくる郭攸之、費禕、董允、向寵が代表ですが、蒋琬や鄧芝も、このとき孔明に取り立てられた人々です。これらの人々はとても有能だったのですが、それとは別に共通の特徴がありました。それは、彼ら全員が、「荊州出身の士大夫」だったという点です。

 つまり、孔明は、自分と同じ社会階層出身者によって政権を壟断しようとしたのです。彼の理想の国家とは、「荊州人が益州人を植民地支配する帝国」だったのです。

 孔明は、こうして内政の世界では「荊州人絶対優位社会」を築くことに成功したのです!

 しかし彼は、おそらくは不本意ながら軍事の世界でも総司令官になりました。しかし、この世界は、益州の豪族によって要職を占められていたのです。その理由は極めて簡単でして、荊州出身の豪族たちは、「夷陵の戦い」で玉砕していたからです。ほとんど唯一の例外が魏延ですが、この人は荊州出身ではあるけれど平民なので、孔明とは住んでいる世界が違うのでした。

 心細くなった孔明は、やはり「荊州出身のエリート」で軍事界を壟断したくなりました。そのために、馬謖を抜擢したのです。馬謖が大戦果をあげてくれたなら、彼を思い切り昇進させる手はずだったのでしょう。

 つまり孔明は、馬謖の能力を見込んで大任を委ねたわけじゃなかったのです。単なる派閥作りの一環だったのです。

 まあ、人間の社会なんて、どこもこんなものなんでしょうけど、せめて孔明だけは違うと思いたかったけどなあ。

ページ上部へ