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歴史論説集

諸葛孔明伝

第十二話 第二次北伐


 1、後・出師の表

2、第二次北伐

 


 

 

1、後・出師の表

 さて、今回は「後・出師の表」の話です。

 これは、孔明が第二次北伐に出陣する直前に、皇帝・劉禅に提出した決意表明文です。

 しかし、この文については、「後世の偽作」という説もあります。その根拠は、この文が『正史』(超一級史料)ではなく、呉の重臣・張厳が著した『黙記』(二級史料)に出ているからです。

 でも、私は、「後・出師の表」は本物だと考えています。

 だって、呉の重臣が、わざわざ偽作を捏造する動機はないでしょう?孔明は、文章の力で同盟軍の呉を奮起させようとして、出師の表をことごとく呉に送りつけています。ですから、『黙記』の作者張厳が、この文を読んで感動し、後世に伝え遺そうと考えた可能性は極めて大きいのです。

 そういえば、「前・出師の表」を読んで「これを読んで泣かない者は忠義の臣ではない」と言ったのは、呉の重臣・諸葛格ですぜ。

 私は、『黙記』に出ていることこそ、かえって「後・出師表」が本物である証拠だと考えています。

 それでは、『正史』に記載がないのはどうしてか?それは、陳寿が時の権力者におもねったからでしょう。陳寿は亡国である蜀漢の臣下なので、劉備や孔明のことを良く書きたい気持ちで一杯なのに、彼が仕える晋王朝が魏の後継国家であるため、あまり露骨なことが出来ないのでした。彼としては、「前・出師の表」を全文掲載するのが精一杯だったのではないでしょうか?

  それでは、陳寿が『正史』に書けなかった「後・出師の表」を紹介します。こっちも、かなり泣けますぜ。

 『先帝は、漢王朝と逆賊が並び立たず、我々の王業には地方政権としての安定が許されないことをご考慮され、そのために私に逆賊討伐を託されました。先帝のご明察をもってすれば、私が無能であることはご存知だったはずです。しかし、賊を討たなければこの王業も滅びます。ただじっとしたまま滅亡を待つのと賊を討伐するのとでは、どちらが優れた政策でしょうか。それゆえに先帝は、私に逆賊討伐を託されて躊躇わなかったのです。

 そのとき以来、私は横になっても布団に落ち着かず、食事を摂っても美味しいと感じないほどでした。

 北伐について考えた場合、先に南を平定した方が良いと考えて、深く荒地に侵入して苦労を重ねたのです。

 私は、自分の身を労わらないわけではありません。地方政権として僻地に安定するわけにはいかない王業を思えばこそ、危難をおかして先帝のご遺志を奉ずるのです。

 ところが、昨今の論者は無謀だと申しています。しかし、現在、賊軍は東方で無理を強いられて(魏は、呉との戦いで大敗を喫した)西方でも疲弊しています。兵法では敵の疲労に乗ずるべきだとありますから、今こそ進撃の好機なのです。

 攻勢を止めるべきではない論拠を箇条書きにすれば、次の通りになります。

 ①前漢の高祖(劉邦)は、たいへんな名君で、臣下もみな優秀だったのに、それでも天下統一までたいへんな苦労を重ねました。陛下(劉禅)は、まだまだ高祖に及ばず、人材も低レベルなのに、座ったままで天下を平定できると思っているのでしょうか?私は納得できません。

 ②劉繇と王朗は、おのおの州郡を支配していましたが、理屈ばかり言って安全策ばかりとっていたために、あっというまに孫策に攻め潰されてしまいました。このことを良くお考えください。

 ③曹操は智略群を抜き、その用兵は孫子、呉子を彷彿とさせるほどでした。しかし、南陽で苦しみ、官渡で滅亡寸前となるなどの苦難を経て、ようやく偽の平定を見たのです。ましてや私は劣った才能なのに、危難に遭わずに平定事業など出きるわけがありません。

 ④先帝は、曹操のことをいつも優秀だと褒めていました。その曹操ですら、部下に裏切られたり孫権に苦戦したり、夏侯淵を戦死させたりといった大失敗を行なっています。ましてや私は無能なのに、常に大勝利できるわけがありましょうか?

 ⑤私が(第一次北伐で)漢中に行ってから一年も経たぬのに、趙雲など七十余人の大将を失い、もはや先頭に立つ突撃隊長すら見当たりません。蛮族から集めた兵も、一州(蜀は、実質的に一州しか領有していない)が養うには過重でして、いずれ維持できなくなるでしょう。このままではジリ貧になってしまいます。

 ⑥今、民衆は窮乏し、兵士は疲労しています。しかし、戦争を止めることは出来ません(全体主義イデオロギーのせい)。戦争を止めることが出来ないなら、じっとしているのも外に出るのも、労力と出費はまったく同じです。しかるに、敵の油断に付け込もうとせず、なおも一州をもって全中国と持久戦をしようなんて、そのほうが無謀ではないでしょうか?

 ⑦昔、曹操は先帝を当陽で破ったとき、「これで天下は俺のものだ」と勝ち誇りました。しかし、先帝は呉と同盟を結び、西方の蜀を平定し、総勢をあげて夏侯淵の首を取りました。これは曹操の大失策であり、こうして漢室復興の大事業が完成寸前になったのです。ところが、呉が同盟を破って背後から攻めたために関羽は敗死し、先帝は夷陵で挫折し、かくして曹丕が帝位につく事態になりました。およそ、物事とは、このように予測しがたいものなのです。

 そして私は、謹んで全力を尽くし、死してのちやむ覚悟であります。事の成功失敗遅速については、私の予見を超えています』

 

  なかなか面白い文章でしょう?

 蜀漢が陥ったジリ貧の状況と、国内での厭戦気分の蔓延に孔明が苦慮している様子が良く分かるのです。

  

2、第二次北伐

 では、第二次北伐の話を。

 孔明が第二次北伐を発する決意をした背景には、江南の戦場における呉の優勢がありました。孫権は、周魴という部下に「投降しますから迎えに来てね!」という偽手紙を書かせて魏の方面軍司令曹休を領内に誘き出し、これを包囲殲滅したのです。命からがら逃げ延びた曹休は、この敗戦を恥じて病死してしました。このエピソードは、『演義』にも史実どおりに出てきます。

 この同盟軍の勝利は、孔明を大いに勇気付けました。もしかすると、魏は呉の国境を堅くするため、陝西省の兵力を引き抜いて手薄にするかもしれないぞ!そこで、再び遠征に出発する気になったというわけ。

 今回の孔明は、前回の失敗を反省し、戦闘序列を大幅に改善しました。つまらない派閥人事やエリート志向を止めにして、叩き上げの魏延と王平を軍の中心にしたのです。

 しかしながら、今回は、魏も孔明の侵入を警戒して十分な防衛体制を整えていました。そのため孔明は、戦略的奇襲をするどころか、待ち伏せを受けたのです。

 魏の大将軍・曹真は、孔明が正攻法で陳倉道を通るだろうと予測して、その出口に当たる陳倉城を拡張強化し、そこに名将の郝昭を入れました。

 孔明の遠征軍は、いきなりこの堅城に引っかかってしまったのです。孔明は、どうやらこのような成り行きを予想していなかったらしく、この城を攻めあぐんでしまいました。

 しかし、洛陽では魏帝・曹叡が戦況を心配して、大規模な救援軍を派遣しようかと考えます。そのとき張郃将軍が言いました。「孔明は、おそらく、ほとんど食料を持っていないから、10日もすれば諦めて撤退するでしょう。援軍を送るまでもありません」。

 10日というのは言い過ぎですが、孔明は20日分の食料しか持っていませんでした。彼の遠征軍は、結局、陳倉城を落とすことができずに、すごすごと総退却したのです。洛陽の魏帝は、救援軍を派遣する必要は無かったのです。蜀軍の唯一の戦果は、追撃してきた王双将軍を伏兵で討ち取ったことだけでした。

 こうして、第二次北伐は大失敗に終わったのです。

 以上から分かるとおり、孔明は、その作戦を一から十まで魏軍に読まれていました。なんか、日露戦争のときの乃木第三軍みたいですな。なんでこんなに作戦を読まれちゃうかというと、孔明の作戦が常識的で堅実過ぎるからです。まさに、乃木将軍と同じね。真面目で誠実な性格の人は、あまり軍人向きではないのかもしれません。

 劉備は、その生前、孔明に管理の仕事しかやらせなかったのですが、彼はさすがに孔明の能力の本質を見抜いていたんでしょうね。孫子いわく、「兵は詭道なり」です。嘘をついたり騙したりするのが兵法の基本なのです。しかし、真面目で誠実な孔明は、死ぬまで詭道を用いることが出来ず、常に「最も堅実な正攻法」を取り続けました。要するに、軍人向きの性格ではなかったのです。

 『演義』は、このあまりにも惨めな状況を必死に脚色しています。まず、孔明の戦略を見破った人物を、曹真ではなくて司馬懿(唯一最強のライバル!)にしました。また、孔明の退却を、名将・王双の有力な救援軍のせいにし、その王双を謀略で討ち取る様子を克明に描いて読者の溜飲を下げています。さらに、郝昭の病死後、電撃的に軍を発した孔明が、結局、陳倉城を占領できたことにしてしまっています。

 史実では、王双は単なる部隊長だったみたいだし、陳倉城は最後まで陥落しなかったようですぜ。ただ、蜀漢の国内で、王双を倒したことを誇大広告して失敗を糊塗し、国民を納得させた事実はあったでしょうけどね。

 いずれにせよ、度重なる失敗を前に、孔明の威信は地に落ちました。なんとか挽回しなければなりません。こうして、第三次北伐が始まります。

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