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歴史論説集

「三国志」の終焉

呉の滅亡


 (1)孫権、暗君と化す

(2)呉の落日

(3)孫皓大暴れ

(4)劉禅と孫皓

 


 

(1)   孫権、暗君と化す

 いよいよ、呉の滅亡の話です。

 まずは、孫権の晩年の様相から。

 「三国志」の世界では、3つの国が互いに攻伐を繰り返しながら、なかなか決着をつけられずに時を重ねて行きました。そうなった理由については、いくつもの説がありますが、一つだけ間違いなく言えることは、曹操、劉備、孫権の3人が、それぞれ非常に優れた英雄的人物だったことでしょう。彼らは、たまたま同じ時代に生まれてしまいましたが、生まれる時代が異なっていたとしたなら、それぞれが天下統一できるだけの器量の持ち主だったと思うのです。

 三英雄の中で、最も若く、そして最も長生きしたのが孫権でした。この人は三代目ではありますが、卓越したバランス感覚と人材掌握術を駆使して曹操や劉備を手玉に取り、中国史上初めて、江南地方の自立を成し遂げたのです。

 しかし、名君であったはずのこの人は、晩年(240年以降)になって急に暴君になってしまいます。まるで人が変わってしまうのです。

 呂壱という文官がいました。この男は私利私欲のために法を捻じ曲げたり賄賂を取ったり、ライバルに冤罪を着せたりする小人物でした。しかし、晩年の孫権は、この人物を重用し、その言うことを全部真に受けてしまうのです。呂壱は、おべんちゃらが得意な茶坊主でした。孫権ともあろうものが、耳ざわりの良いお世辞によって騙されてしまったのです。そのため多くの忠臣が無実の罪を着せられ、あるいは民衆が無益な重税や労役に苦しんだのでした。しかし孫権は、顧雍や諸葛瑾といった忠臣たちの必死の諫言によってようやく真実に気づき、呂壱を処刑します。このころは、まだマトモだったのですね。

 最悪なのは、この後に勃発した「後継者問題」です。

 孫権は、長男の孫登を後継者に決めて、早くから英才教育を施していました。その甲斐あって、孫登は優秀で立派な人物に育ったのです。ところが、この愛児が33歳で病死してしまった!こうして、跡目争いの幕が切って落とされたのでした。

 日本史でも、織田信長のところがこんな感じでしたね。信長は、長男の信忠を溺愛して彼に英才教育を施したのですが、他の子供はほったらかしでした。そのため、信長と信忠が共に本能寺の変で倒れた後、愚かな次男と三男(信雄と信孝)が後継者争いを始め、それに付け込んだ豊臣秀吉が天下をさらってしまったというわけ。

 話を戻すと、孫権の三男の孫和と四男の孫覇は(次男の孫慮はもう死んでいたので除外)、それぞれ利権を狙う豪族たちに取り込まれ、どろどろの暗闘を繰り広げます。まずいのは、孫権が優柔不断な態度を取ったことです。彼は、最初は三男を後継者にしようと思っていたのに、四男派についた娘(全公主)に誑かされて、ころっと四男支持に回ってしまいました。孫権は、この娘を溺愛し、その言うことを何でも聞いてしまうバカ父に成り下がっていたのです!

 気骨のある群臣たちは、みんな三男支持に回りました。「長幼のケジメ」もさりながら、客観的に見て三男の方が優秀だったんでしょう。しかし、孫権は激怒します。事もあろうに、この忠臣たちを片端から殺したり島流しにしてしまうのです。張昭や顧雍の子孫たちは、みんな「ヴェトナム送り」になりました。あの名将・陸遜は、毎日のように孫権の使者にネチネチと詰問されて、心労のあまり憤死してしまいます。それ以外にも、粛清された忠臣の数は、数百人にも及びました。『正史』を読んでいると、この事件で惨めな最期を遂げた人の多さに本当に驚かされます。呉が誇る人材層は、この詰まらない争いによって壊滅状態になったのです。ああ、孫権、いったいどうしちゃったんだ?

 結局、孫権は、どんなに殺しても忠臣が沸いてくるのに業を煮やし、「喧嘩両成敗」にします。すなわち、三男と四男とその取り巻きをみんな左遷させるか殺すかし、代わりに末っ子の孫亮(まだ赤ん坊だったのに)を新たな後継者に指名し、そしてそれから数年後に71歳で病没したのです(252年)・・。

 『正史』の作者・陳寿は、この孫権の暴挙をもとに、「こいつは結局、暗君だったのだ!」と決め付けています。まあ、陳寿はもともと蜀の家臣で「劉備びいき&孫権嫌い」の人なので、論評にバイアスがかかっているんでしょうけどね。

 それにしても、どうして孫権は豹変しちゃったのでしょうか?

 私は、もともと孫権は感情の濃度が異常に濃い人物で、暴君になりうる素質を持った人物だったと思っています。虎狩りに嵌ったり、部下たちに無理やり酒を飲ませたりと、かなり暴君の素質が垣間見られるのです。

 でも、江南はもともと大豪族の寄り合い所帯ですし、若き日の孫権は、彼らに「擁立してもらった」という負い目があったので、周囲に気を遣っていろいろと「我慢」していたのだと思います。こうして溜まったストレスを、深酒や虎狩りで晴らしていたのでしょう。また、頑固ジジイの老臣・張昭がお目付け役として君臨していたので、あまりワガママなことも出来なかったのです。

 ところが、孫権は皇帝になってしまいました。皇帝は人臣の最高位ですから、「周囲に気を遣うなんてバカらしい」という気持ちに陥っても仕方ない。その上、ストッパーの張昭も亡くなった!孫権は、もはや糸の切れた風船になっちゃったのです!若いころにさんざん我慢した反動が噴出してしまったのです!

 それに加えて、やはり「老害」というのもあるでしょう。人間は、歳を取ると精神の弾力が失われ、自制心が衰え、思考が硬直化する傾向があります。特に孫権くらい若いころに優秀だった人物になると、己の過去の成功体験を絶対視してしまい、「俺に逆らう若い奴らは、みんなアホウなのだ!」という思い込みに容易に捉われてしまいます。だから、彼に逆らった人々を平気で殺すような暴挙をしたのでしょう。

 日本でも、似たような話はいくらでもあります。例えば昭和戦前、日本海軍は旧態依然とした「大艦巨砲主義」から抜け出すことが出来ませんでした。その理由は、実は東郷平八郎にあったのです。日本海海戦の英雄・東郷は、昭和まで生きて、ひたすら自説(大艦巨砲主義)を吹聴し続けました。そして、若い人たちは誰も偉大なる東郷には逆らえませんでした。でも、20世紀初頭というのは軍事技術が異常に進歩した時代でして、10年前のスタンダートがあっというまに陳腐化してしまう状況でした。それなのに、元勲が40年前のスタンダートを周囲に押し付けていたらどうなるでしょう?これぞ、「老害」の典型ですな。

 現代日本の政財官界でも、こういう状況が非常に目立ちます。老人が必ずしも悪いわけではないでしょうが、「老害」には留意する必要があるでしょう。

 孫権も、あと10年早く死んでいれば、汚名を残すことも無かっただろうになあ・・。

 

(2)呉の落日

 孫権が暗君と化して死んだ後、跡を継いだのは8歳の幼君・孫亮でした。後継者争いのときに「喧嘩両成敗」になったものだから、成人していた孫権の息子たちはみんな地方に飛ばされてしまい、唯一残ったのが末っ子のガキんちょだったというわけです。

 前述のとおり、この時代の国家は「豪族の集合体」ですから、君主がバカだったりガキだったりすると、すぐに有力豪族がのさばり始めてしまいます。

 呉では、諸葛格→孫峻→孫綝と実力者が入れ替わりましたが、いずれも皇帝をないがしろにしてやりたい放題でした。

 皇帝・孫亮は、成人してからこの様子に激怒して孫綝を暗殺しようとするのですが、見抜かれて帝位から引き摺り下ろされてしまいました。魏の曹芳とまったく同じ運命ですな。

 でも、孫亮の跡を継いだ孫休は、魏の曹髦と違って無謀な特攻作戦をして自滅したりしませんでした。彼は「良い子ちゃん」の演技をして孫綝を油断させ、そして密かに丁奉ら忠臣たち集めて慎重に計画を練り、ついに孫綝の暗殺に成功するのです(258年)!

 しかし、それから間もなく同盟国の蜀は滅亡。呉は、長江の上流を超大国・魏に押さえられてしまったのです。そんな中、名君だった孫休は病死してしまいます(264年)。

 後を継いだのは孫皓でした。この暴君は、呉の最後の皇帝となります。

 

(3)孫皓大暴れ

 蜀の滅亡は、呉にとって戦略的な死活問題でした。

 皇帝・孫休の死後、群臣はこの危機を乗り切るため、「優秀な人物」を新たな君主に据えようとします。孫権の孫の中で最も賢いといわれた皇族・孫皓が、こうして皇帝となるのでした。

 しかし、この選択は大間違いでした。

 孫皓は、暴君だったのです。

 この人は、確かに頭の良い人だったのですが、2つの大きな欠点を持っていました。

      簡単に人を殺す。

 誰かが陰口を言っただけで、激怒して殺しました。猜疑心と恐怖心が人一倍強かったのです。彼を帝位に推薦した群臣たちが「失敗だったかも・・」と口にしたところ、彼らは皆殺しになりました。

 孫皓は、おそらく孫亮や孫休が権臣の台頭に苦しめられたのを見て、「権臣の芽」を未然に摘もうと考えたのでしょう。豪族連合の中で優位性を保つには、自分が暴君系の独裁者になるしかないと考えたのかもしれません。

 しかし、この政策(?)によって優秀な人材は激減し、国威と士気は大いに落ちました。

 なお、孫皓の残虐行為について、『正史』にはいろいろな惨いことを書いていますが、これはちょっと割り引いた方が良いと思います。なぜなら、中国の「天命史観」では、国家が滅亡する理由を「天命が去ったから」という因果律で説明します。そのため、最後の君主を実際以上にバカか暴君に描く傾向が強いからです。

      占いに嵌った。

 孫皓は、占いマニアでした。お抱えの占い師の言うことを片端から真に受けるのです。たとえば、首都を建業(南京)から武昌(武漢)に移せとの神託が出ると、それを本当に実行しました。このために、無駄な土木作業で国力は大きく衰退したのです。現在の日本みたいね。また、占いで「呉を滅ぼすのは公孫だ」という神託が出たときは、領内の公孫姓の人を一人残らずヴェトナム送りにしてしまいました。

 ・・・この人は結局、「知能指数が高いバカ」だったのですかね?

 まあ、どう頑張っても呉の滅亡は免れないと思って、神頼みをしているうちにのめり込んでしまったのかもしれません。

 この様子を見た晋の羊祜将軍は、「今攻め込めば必ず勝てますぞ!」と司馬炎に進言しました。しかし群臣の間に安逸な気分(戦争なんて、面倒くさいよ!)が広がっていたので先送りになってしまいました。まあ、呉なんか、その気になればいつでも潰せると思ったからでしょう。その羊祜将軍が病没するとき、遺言状でしきりに呉征伐のことを書いたものだから、「じゃあ、やるか」という話になったのです。

 呉は、戦略的キーパーソンであった陸抗(陸遜の子)が死んでから、暴君の顔色だけを伺う小者しかいない国に堕していました。279年になると、長江の上流から連日のように木屑が流れてきました。誰がどう見ても、晋が巨大艦隊を上流で建設中であることは明白です。ところが、孫皓は、「占いでは今年はラッキー年なんだ!」とか訳の分からないことを言って情報を無視します。

 やがて攻め寄せた晋の水陸両軍によって、長江の呉の防衛線は次々に破られていきました。その有様が、竹の節を割っていくようだったので、「破竹の勢い」という言葉はここから生まれたのです。

 孫皓は、なすすべもなく降伏しました。

 西暦280年、三国はついに晋に統一されたのでした。

 

(4)劉禅と孫皓

 さて、蜀と呉の亡主たちは、降伏したあと洛陽に連行されて軟禁状態に置かれました。

 そして劉禅の態度と孫皓の態度はまったく対照的でした。

 劉禅は、「バカ殿全開」でした。侮辱されても何をされても、いつも楽しそうにニコニコしていたのです。

 これに対して孫皓は、「ツッパリモード」でした。司馬炎に侮辱されると当意即妙なトンチで切り返して、かえって相手に恥をかかせたりしたのです。

 通説では、「劉禅はもともとバカだったのだから、洛陽でもバカ丸出しだった。だけど孫皓は頭が元々良いのだから、洛陽でもトンチバリバリだった」ということになっています。でも、本当にそうなのでしょうか?

 前にも書きましたが、劉禅って、そんなに無能な君主では無かったと思います。なぜなら、この時代の国家は「豪族連合」なので、君主がバカだったりガキだった場合、必ず部下が政権を壟断して国家を疲弊させるのが通例だからです。実際、魏と呉ではそうなりました。けれど、蜀は姜維の暴走はあったものの、最後まで劉禅の下でガッチリと纏まっていました。つまり、劉禅にはそれなりの実力があったのです。

 「でも、それは孔明や蒋琬に仕事を丸投げしたからだ!」という反論もあるかもしれません。しかし、それを言うなら孫権だって、天下分け目の赤壁の戦いを周瑜に丸投げしたじゃないですか。部下を信じて丸投げするのも、君主たるものの「器量」です。もっとも、丸投げした以上、責任はすべて引き受けないといけません。劉禅は、ちゃんと孔明や蒋琬のフォローをしていました。だから、彼らは安心して頑張れたのです。

 また、劉禅はなかなかの人徳者だったようです。だって姜維が、文字通り命を捨てて彼のために尽くして死んだんですぜ。彼ほどの豪傑に、そこまでさせる何かを、劉禅は持っていたのです。

  以上を前提に劉禅の洛陽生活を見ると、彼は「バカの演技」をしていたのだと思います。そうして司馬一族を安心させて、自分はもとより部下の命と出世の道を守ったのです。

 『正史』によれば、劉禅の子孫で貴族になれたのは50人もいるそうです。また、一緒に洛陽にやって来た張飛や趙雲や孔明の子孫は、全員が貴族になれました(関羽の子孫は、蜀滅亡時に全滅したが・・)。さらに言えば、劉禅の臣下だった陳寿が、晋に重用されて『正史』を書けたのも、実は劉禅の密かなバックアップのお陰かもしれませんね。

  では、孫皓はどうか?トンチパワーで司馬一族を怒らせた彼は、洛陽生活わずか4年で死んでいます。死因は不明です。彼の子孫や元部下の運命も、『正史』に記述がないので良く分かりません。私は、孫皓は毒を盛られるなどして暗殺されたのではないかと考えています。晋にとって、「昔の強大国の亡主が賢くて気が強い」状況は大問題だからです。そして、彼の元部下も、警戒されてあまり重用されなかったのではないでしょうか?

 そういう意味でも、バカ殿の名が高い劉禅は、とても上手に立ち回って70歳近くまで生きました。そして、彼の子孫は幸せになりました。

 もしかして、「三国志」の最後の勝者は劉禅だったのかも。

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